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2009年12月28日 22時47分21秒
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12/28寺子屋
本年最後のクラス、年末多忙の時期にも関わらずご参加くださった皆様、まことにありがとうございました。
ご熱心な質問についつい熱くなり、あちこちに議論が飛んでしまい大変申し訳ありませんでした。
それでは来年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。-
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from: 庵主さん
2009年12月27日 21時39分06秒
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明日は本年最後の寺子屋です。
途中受講も歓迎です。
17:30より「五輪書」
19:30より「南方録」
の各クラスです。-
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2009年12月06日 08時57分20秒
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寺子屋Dクラス「南方録」講読会のご案内
寺子屋素読ノ会では、Dクラスにて千利休秘伝書「南方録」(毎月第四月曜 19:30-21:00)を講読しています。
今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。
■千利休
千利休 大永二年(1522)- 天正十九年二月二十八日(1591年4月21日)は中世末期、安土桃山時代の茶人。侘び茶(草庵の茶)の完成者として知られる。 父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹。父の「千」は氏であり、利休の名字は田中である、名は与四郎(與四郎)。のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎と号した。
広く知られた利休の名は堺の南宗寺の大林宗套から与えられた居士号で正親町天皇の勅許による。この名は『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだものとの説がある。茶聖とも称せられる。
和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、京都郊外紫野の大徳寺に参禅。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として召され、のち豊臣秀吉に仕えた。1585年の北野茶会を主催し、一時は秀吉の篤い信任を受けた。この時期、秀吉の正親町天皇への宮中献茶に奉仕し、居士号を許される。また北野大茶会の設営、黄金の茶室の設計などを行う一方、楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、侘び茶の完成へと向かっていく。いわば茶人としての名声の絶頂にあった利休だが、突然関白秀吉の勘気に触れ、切腹を命じられる。享年七十歳。
結婚は二回。先妻の子と後妻・宗恩の連れ子がそれぞれ堺千家・京千家を起こしたが、利休死去とともに千家は一時衰亡した。堺千家は再興せず、京千家の系譜のみが現在に伝わる。三千家は利休の養子となった宗恩の息子と利休の娘の間の子、利休の孫 千宗旦が還俗して家を再興し、その次男・三男・四男がそれぞれ初代として茶道を継承したもので、表千家・裏千家・武者小路千家(別称は官休庵流)の総称である。
利休忌は陽暦(現在の日本の暦)の3月27日および3月28日に大徳寺で行われる。
■南坊宗啓
桃山時代の禅僧。『南方録』筆者で利休茶の湯の弟子、堺の集雲庵の二世住持を称した。文禄二年(1593)二月、利休二周忌に香華を手向け立ち去ったという。百年後、立花実山により、博多南坊流の祖として立てられた。
『山上宗二記』中、茶杓造りの名人、慶首座と同一人物ともされるが定かではない。
■立花実山
1655-1708。明暦〜宝永年間の黒田藩士。『南方録』編者。父、立花平左衛門は黒田藩家老で、その次男として生まれる。通称、五郎座衛門、号、宗有・而生斎。八歳で藩主黒田光之に仕える。元禄元年、隠居付頭取。宝永四年隠居出家し、宗有と改め松月庵に入った。翌年六月、藩主綱政の忌諱に触れ、鯰田へ配流。十一月十一日、同所にて暗殺される。
茶の湯は、金森候茶堂道可より土屋宗俊に伝わる流れを学び、歌道・書・画をよくした。『南方録』の他、『岐路弁疑』『壺中炉談』など多くの茶書を残した。
■南方録
千利休の茶法を伝える秘伝書。古来数多い茶書の中でも、最も重要視されてきた茶道の聖典とよばれる名著である。
利休の高弟、南坊宗啓の聞書で、利休が奥書・印可を加えたという。「覚書」「会」「棚」「書院」「台子」「墨引」「滅後」の七巻より成る。このうち「墨引」までは、利休在世中に成立。「滅後」は利休没後の成立(当然利休の奥書・印可はない)と伝える。
利休没後、著者南坊宗啓自身とともに、その所在は長らく不明となっていた。しかし、元禄三年(1690)筑前福岡侯黒田綱政の家臣、立花実山がこれらを偶然発見、書写・編集した。この全七巻の成立は、まず貞享三年(1686)に実山が京都のなにがしの所持する利休秘伝茶の湯書五巻を、人を介して書写、入手。さらに不足分を元禄三年に南坊宗啓の一族と伝える納屋宗節から借用して大坂にて書写。これが「墨引」「滅後」の二巻であり、ここに全七巻が揃ったという。この年が、たまたま利休百回忌に当たったということも注目される。
これら七巻を三部に分けると、第一部は「覚書」「会」、第二部「棚」「書院」「台子」、第三部が「墨引」「滅後」となる。第一部「覚書」は、利休の茶の伝統的な展開と、利休が創造した新しい茶の哲学、その根本理論を体系立てたものであり、「会」は、利休と著者宗啓が、豊臣秀吉を中心として営まれた茶会を記録したものということになっている。しかしこの会の記録は客観的な史料と整合性に乏しく、「利休百会記」をもとに他の茶会記録を付き合わせ、創作したものと推定されている。
第二部の「棚」「書院」「台子」は、利休の茶の詳細な技法の記録である。とりわけ「台子」は、一枚一枚の切紙五十余ものいわゆる切紙伝授を受けたものをまとめて一巻の巻物に仕立て、その全体をさらに利休が印可証明した、ということになっている。
第三部の「墨引」は、第二部の実技に対応して、曲尺割(かねわり)の法則という、「南方録」独特の厳密な茶法実演の美学を詳述したものである。この「墨引」は秘伝についてあまりに詳細に書きすぎるということで師、利休が墨を引いて消した、ということでこの名がある。よって奥書はあるが印可はない。「滅後」も曲尺割について論じ、その他利休の説いた茶技・茶論を多方面に及んで取り上げている。
■南方録の名言
「家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事なり」
「世塵のけがれをすすぐ為の手水ばちなり」
「叶うはよし、叶いたがるはあしし」
「茶の湯の肝要、ただこの三炭三露にあり」
「夏はいかにも涼しきやうに、冬はいかにもあたたかなるやうに」
「小座敷の道具は、よろづたらぬがよし」
「あけ暮外にもとめて、花紅葉が我心にある事をしらず」-
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2009年12月05日 22時36分32秒
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寺子屋Cクラス「五輪書」講読会のご案内
寺子屋素読ノ会では、Cクラスにて宮本武蔵「五輪書」(毎月第四月曜 17:30-19:00)を講読しています。
今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。
●宮本武蔵
みやもと むさし 天正12年(1584年)? - 正保2年(1645年)5月19日。江戸時代初期の剣豪。兵法者であり、また書画工芸等でも優れた作品を残す。
二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。水墨画家・工芸家としても知られる。実父は不明だが、義父である十手の兵法者・新免無二〔しんめん・むに〕の家を継いだ。すなわち名字は新免または宮本、通称は武蔵、本姓は藤原、諱は玄信である。号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守 藤原玄信を名乗っている。幼名の辨助(べんのすけ)は史料では確認されていない。
自筆とみなされている有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記し、長岡佐渡守宛書状には「二天」の号も書いている。熊本市弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子伊織が武蔵死後9年目に建てた『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で「政名」なる名が紹介された。これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説、紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料に、この「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられていることから「政名」なる諱を否定する意見もある。
京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島(山口県下関市)での試合が、小説、時代劇映画、テレビドラマ(時代劇ドラマ)等の題材になり有名。著書である『五輪書』は、現代も人生哲学書として、あるいは経営、スポーツなどの指導書としても読まれ、日本のみならず翻訳されて世界各地で愛読され影響を与え続けている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』他にも『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など優れた水墨画・鞍・木刀などの工芸品が現在に伝わっている。
■武蔵関係史料
【小倉碑文】(新免武蔵玄信二天居士碑)承応3年(1654) 宮本伊織貞次立石
【江海風帆草】 宝永元年(1704)序 吉田重昌・勝野清中・宮本重利編
【播磨鑑稿本】 享保4年(1719)〜宝暦12年(1762)平野庸脩養甫編著
【兵法大祖武州玄信公伝来】(丹治峯均筆記所収) 享保12年(1727) 立花専太夫峯均著
【吉田家伝録】 享保18年(1733) 吉田式部治年編著
【兵法二天一流相傳記】 寛保2年(1742) 志方半兵衛之経著
【武公伝】 18世紀後期 橋津彦兵衛正脩著 豊田景英改訂増補
【二天記】 安永5年(1776)宇野惟貞序 豊田専右衛門景英著
【宮本武蔵】 明治42年(1909) 宮本武蔵遺蹟顕彰会編 池邊義象著 等
●五輪書
『五輪書』(ごりんのしょ)は、宮本武蔵の著した唯一の兵法書であり、日本兵法史上代表的な著作である。晩年の武蔵が細川忠利の求めに応じて、己の兵法の真髄をまとめたもので、寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆したとされる。
自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本(右画像)を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録本などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。
書名の由来は密教の五輪(五大)より。これになぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分ける。
●各巻の概要
・地の巻
自らの流を二天一流と名付けたこと、己の生涯、兵法の概略などが書かれている。「まっすぐな道を地に固める」ということになぞらえて、「地の巻」としている。
・水の巻
二天一流での心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、剣と兵法の実技・実践が書かれている。二天一流の「水」を手本とする剣さばき、体さばきを例えて「水の巻」とする。
・火の巻
戦いについて書かれている。個人対個人も、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いの心構えなどが書かれる。戦いを火の勢いに見立て「火の巻」としている。
・風の巻
他の流派について書いている。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととしている。
・空の巻
兵法の本質、万里一空の境地、「空」について書く。-
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2009年12月04日 09時01分32秒
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寺子屋Bクラス「風姿花伝」講読会のご案内
寺子屋素読ノ会では、Bクラスにて世阿弥「風姿花伝」(毎月第一月曜 19:30-21:00)を講読しています。
今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。
■世阿弥とは
室町時代の能楽の大成者。実名、観世三郎元清(一三六三〜一四四三)。幼名、鬼夜叉、または藤若。中年以降の芸名を世阿弥陀仏と称した。
申楽に音曲・作曲面で改革を行い、今日の能の基礎を確立した観阿弥の一子で、二代目観世太夫を継承する。
父観阿弥より能役者としての英才教育を、パトロンである将軍足利義満、北朝公家二条良基等により庇護、寵愛を受け高度な上流教育を享受する。稀代の美童にして歌舞の逸材でもあった世阿弥は、天賦の才に加えこれら宮廷文化を存分に吸収。民衆芸能申楽を美と幽玄を主とする総合舞台芸術、能へと昇華・大成させることとなる。
自身、太夫として一座を率いる看板役者であったが、今日なお盛んに演能される数々の名作『高砂』『井筒』『西行桜』等の作者でもあり、本作『風姿花伝』をはじめとする二十一にも及ぶ能芸論書の著作者、理論家でもあった。演者・作者・理論家を一身に兼ね備え、世界芸術史的にも稀な天才と評され、六百年を経た今日においても代表作『風姿花伝』は、その普遍的価値により海外でも訳出され、多くの読者に親しまれている。
世阿弥、観世家の系譜は、まず父、世阿弥をしのぐとまでいわれた天賦の歌舞の才に恵まれた長男の十郎元雅。そして次男の元能がいる。しかし、元雅は早世、元能は出家。世阿弥の芸と理論は、甥の三郎元重(音阿弥、三世観世太夫)と女婿、金春禅竹に受け継がれていった。特に禅竹は、世阿弥の歌舞と仏教的世界に一段の美的深化と理論をもたらし、「芭蕉」「定家」「小塩」「雨月」など、幽玄な能の名作を創作している。その孫の金春禅鳳も名手であり、今日の金春流の基礎を確立した。
今日の宝生流(元大和猿楽外山座)の流祖、宝生太夫は、観阿弥の長兄。
■世阿弥(観世座)の系譜
※観世大夫系統図
■能の歴史
※奈良→平安→鎌倉→室町時代の芸能チャート
■能の各役・流儀一覧表
※シテ方・ワキ方・囃子方・狂言方の各流儀と人数
■風姿花伝とは
能の大成者、世阿弥が亡父観阿弥の遺訓を基に著した、日本最古の能楽理論書である。『花伝書』の名称でも知られる本書は、「花」と「幽玄」をキーワードに、日本人にとっての美を深く探求。体系立った理論、美しく含蓄のある言葉、彫琢された名文で構成される、世界にも稀な芸術家自身による汎芸術論として位置づけられよう。
本書は一子相伝の秘伝書ゆえ、日本において明治を迎えるまで観世家・金春家に深く秘蔵され、一般の目に触れることはなかった。明治末年、吉田東伍博士『世阿弥十六部集』として発刊。ついで昭和二年岩波文庫版『花伝書』が上梓されるに及んで、広く一般読者の知るところとなった。
全体は七編から成立する。第三編までが一四〇〇年(応永七年、著者三十八歳)、四・五編が一四〇二年、六・七編が一四一二年に、それぞれ成立。完成までに約二十年の歳月を要している。この間、増補・改訂がなされた可能性も高く、本書成立には複雑な過程が想定される。第一から第五までが本編、第六・第七は外伝とでもいうべき内容だ。各編の要約は下記。
●各篇の要約
序
申楽の歴史を簡潔に述べ、この道を行こうとする
者へ守るべき芸の本流を示す。本編ヘの巻頭言として好色・大酒・博打への戒めを掲げる。
第一 年来稽古條々
申楽者の生涯を各年代別に分け、修行と工夫の方法を説く。たとえば幼、少年期の「時分の花」、青年期の「初心の花」。いずれもまことの花とはいえない。一時の名声に惑わされることなくまことの花を会得することこそこの道の奥義であるとする。まことの花を得た、ただひとりの例として観阿弥の老い木に残る花の舞台を引く。今日、教育論・コーチングの視点から見ても示唆に富む一編。
第二 物学條々
申楽芸の根本である物真似の技術を女、老人、直面、物狂など九つの題材別に俯瞰する。鬼の物真似は「上手く真似るほど面白くなくなる」という秘事。また無上の大事「老人の舞い姿」など、深い人間観察と舞台経験に基づき物学(ものまねび)の本質に触れる。
第三 問答條々
演能に際しての具体的、実践的演出方法および、能に花を咲かせるための工夫と秘訣を間答体で説く。
「開演前の客席を見るだけで、その日の能の出来・不出来を占う方法」「序破急とは」「立会い勝負を制するには」「なぜ下手は、下手なのか」「能の位とは」「花とは何か」。問答のひとつひとつに知ることと会得することの根本的な違いが鮮やかに描き出されている。
第四 神儀に云わく
元来、別書であった申楽起源伝承が後に『風姿花伝』第四として位置づけられた。申楽者に芸の正統性に対する誇りと家芸を重んじる精神の自覚を促すために書かれた一編。
第五 奥儀に讃歎して云わく
「その風(伝統)を得て、心より心に伝えていく花」として『風姿花伝』書名の由来を述べる。大和申楽と近江申楽、申楽と田楽の芸風の違いを説きながら、芸の築き方や舞台に立つ心構えを示す。また芸能は「諸人の心を和ませ、感動を与える幸福の根本」であると明確に定義づけ、欲得を萌しこの道を廃れさせることのないよう強く戒める。
第六 花修に云わく
花を究め、能の本道を知る手立てを表す。具体的には、まず作能の手引きとして名作の条件を示す。「音曲・働き一心の口伝」「強い・幽玄、弱い・荒いの違い」「釣合うということ」などの例を引きつつ、次第に「能を知る」ということへ導いていく。
第七別紙口伝
九項にわたる口伝を世阿弥独自の名文句で綴る。「年々去来の花(初心忘るべからず)」、「秘すれば花」「老い木に花の咲くごとく」。
能の永遠のテーマである「花」のイメージをあらゆる角度から見つめ、本質に迫ろうとしたものである。一子相伝とし、「継ぐもの、守るものを知る」者にのみこの書が伝えられることを記して『風姿花伝』は結ばれる。
■風姿花伝の名言
●音曲においての曲、
舞においての品・風情は上手だけのもの。
●物真似には似せないという位がある。
●年々去来の花。
●初心忘るべからず。
●秘すれば花なり。
―『風姿花伝』第七別紙口伝より
■[クイズ]
『風姿花伝』の中でもっとも有名な、以下二つの名言。この言葉の正しい意味を下の二つから選んでみてください。
「秘すれば花なり」の正しい意味は…
①本当に重要なものは、他人から隠しておかなければならない。
②他人に隠しているものは、本当は大したものではない。
答え〔 〕
「初心忘るべからず」の正しい意味は…
①初志貫徹すべきである。
②初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない。
答え〔 〕-
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2009年12月02日 12時35分57秒
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寺子屋Aクラス「葉隠」講読会のご案内
現在寺子屋素読ノ会では、Aクラスにて「葉隠」(毎月第一月曜 17:30-19:00)を講読しています。
今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。
■テーマ:葉隠の"死"とは何か
●葉隠にみる「死」のキーワード
・死ぬことと見つけたり
・只今の一念
・死に狂い
・死兵
・生死截断
・生死を離れる
・追腹
●古来の死の表現
「天子の死を崩と曰ひ、諸侯は薨と曰ひ、大夫は卒と曰ひ、士は不禄と曰ひ、庶人は死と曰ふ」『礼記』曲礼篇より
●死の名言
・死とは、モーツァルトを聴けなくなることだ。(アルフレート・アインシュタイン。アインシュタインの従弟で音楽学者)
・武士道というは、死ぬことと見付けたり(葉隠)
・死に至る病とは、絶望のことである。
(キエルケゴール)
・人は死ぬ。だが死は敗北ではない。
(ヘミングウェイ)
・死は人生の終末ではない 生涯の完成である
(マルティン・ルター)
・未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん (論語)
●辞世の句
・山崎宗鑑(一五五三没 享年八十九)
「宗鑑はいづこへと人の問うならば
ちとようありてあの世へといえ」
・千利休(一五九一没 享年六十九)
「人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ)吾這宝剣 祖仏と共に殺す 堤ぐる我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ天に抛」
・松尾芭蕉(一六九四没 享年五十)
「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」
・安藤広重(一八五八没 享年六十一)
「東路に筆を残して旅の空
西のみくにの名所を見む」
・乞食女(一六七二没 享年不明)
「ながらえばありつる程の浮世ぞと
思えば残る言の葉もなし」
「言の葉は長し短し身のほどを
思えば濡るる袖の白妙」
(返歌 新著聞集)
・庶民の娘(年代不明 享年二十八)
(題:湯灌いや)「おのづから心の水の清ければ いづれの水に身をや清めん」
(題:経かたびらいや)「生まれ来て身には一重も着ざりけり 浮世の垢をぬぎて帰れば」
(題:引導いや)「死ぬる身の教えなきとも
迷うまじ 元来し道をすぐに帰れば」
・一休(一四八一没 享年八十八)
「須弥南畔(この世界)誰か我禅に会う。
虚堂来る也。半銭に値せず」
・関山国師(一三六〇没)
「断じて仏祖を截る 吹毛常に磨す
機輪転ずる処 虚空牙を噛む」
・柴田勝家(一五八三没 享年六十一)
「夏の夜の夢路はかなき跡の名を
雲居にあげよ山郭公」
・お市の方(享年三十七)
「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の
夢路をさそう郭公かな」
●辞世の句
・豊臣秀吉(一五九八没 享年六十三)
「露と落ち露と消えにし我身かな
難波の事も夢のまた夢」
・徳川家康(一六一六没 享年七十五)
「嬉しやと二度さめて一眠り
うき世の夢は暁の空」
・浅野内匠守(長矩) (一七〇一没 享年三十五)
「風さそう花よりも猶我はまた
春の名残りをいかにとかせん
・大石内蔵助(良雄) (一七〇三没 享年四十四)
「あら楽し思いは晴るる身は捨る
浮世の外にかかる雲なし」
●葉隠 聞書一 二 武士道というは、死ぬことと見つけたり。
武士道とは、死ぬことと見つけたり。生死分かれ目の場に臨んで、さっさと死ぬ方につくばかりのこと。特に仔細などない。胸すわって進むのだ。うまく行かねば犬死、などとは上方風の打ち上がった武道のこと。生か死かの場面で、うまく行くかどうかなどわかるわけもない。人皆生きる方が好きである。されば、好きな方に理屈をつける。もしうまくいかずに生き残ってしまえば腰抜けだ。この境目が危うい。うまく行かずに死んでしまえば犬死で気違いである。しかれども、恥にはならぬ。これを武道の大丈夫という。毎朝毎夕くり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。
聞書一 一一四 武士道に於ては死狂ひなり。
一一四 「武士道とは死に狂いすることである。たとえ数十人でかかっても一人の死に狂いする者は殺せないものだ」
と直茂公はいった。正気にて大業はならず。気違いとなって、死に狂いするまでだ。また武道を嗜み分別ができれば、すなわち遅れを取ることとなる。忠も孝もいらぬ。武士道においては死に狂いなり。この内に、忠孝はおのずから籠もるものである。
聞書二 一七 只今の一念より外はこれなく候。
一七 ただ今、この一瞬の一念というもの以外には何もない。この一念一念を積み重ねて行くことが、一生だ。この境地に達すれば、人に振り回されることもなく、求めることもなくなる。ただ、この一念を守って暮らしてゆくだけのこと。人皆、ここを取り失っている。外に何かあるはずと思い込み、捜し求めている。しかし、そこに何かが見つかる人はない。この念を守り固めて、抜け落ちないようにするには、功を積まねばならぬ。しかし、いったん辿り着けば、普段意識しなくとも、もはや別物になることはない。究極はこの一念にあり、ということをよくよく得心できれば、煩雑なことはほとんどなくなる。この一念に忠節は備わる。
※次回はBクラス「風姿花伝」講座概要をお知らせいたします。-
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