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寺子屋 素読ノ会

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  • from: 庵主さん

    2010年09月29日 21時20分50秒

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    能の伝説と物語「西行」第四回

    ■西行物語

    西行物語は、西行(1118〜1190)の一生を彼が残した歌に合わせて作った虚構、言い伝えられた逸話などを、説話的にまとめた物語である。


    往生

    かくて、五十有余年をはせ過ぐし、もし人、一日一夜を経るに、八億四千万の思ひあり。しかれども、懺悔六根浄のためには、三十一字のことのはをくちずさむ。これ悪心をやめて、佛道をじやうずるなかだちなりと觀じて、東山のほとり双林寺のかたわらに、いほりを結びて、觀念の窓の前には、三明の月の光を友とし、称名の床のほとりには、聖衆の御迎へを侍ちて、あかし暮しけり。

     御堂のみぎりに櫻を植ゑられたりけるに、同じくこの花盛り、釈迦入涅槃の日、二月十五日の朝往生を思ひてかくなむ。

    ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎのもちづきの頃

     すでにこの歌のごとく建久九年二月十五日、正念ただしくして、西方に向ひて、にやくにんさんらんしん ないしいゝつけ くやうおゑざう ぜんけんむすうぶつ
    (若人散亂心 乃至以一華 供養於画像 漸見無數佛)おしみやふしゆうそく わうあんらくせかい あみだぶつ だいぼさつ しゆゐねうちゆうしょ(於此命終即 往安樂世界 阿彌陀佛 大菩薩 衆囲饒住處)
    と唱へて

    佛には櫻の花をたてまつれわがのちの世を人とぶらはば

     とながめて、千返念佛やむ事なく、空に伎楽の音ほのかに、異香遠くゝんじ、紫雲はるかにたなびきて、三尊来迎のよそほひ、聖衆歓喜の儀式、萬民耳目を驚かし、往生の素懐を遂げにけり。

    ・ねがはくは/新古今和歌集1845b 第十八 雜歌下 切出歌

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  • from: 庵主さん

    2010年09月28日 19時19分16秒

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    【至急!】10/5第十四回友枝昭世厳島観月能チケット

    ツアーチケットのキャンセルが数枚出てしまいました。
    ご希望者に単品チケットを定価(S席15000)にてご提供します。
    最前列から2番目、とてもよい席です。
    お申込は、直接ツアーチラシの中日旅行会までお電話にて。
    http://nobunsha.jp/blog/post_106.html

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  • from: 庵主さん

    2010年09月28日 09時20分07秒

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    能の伝説と物語「西行」第三回

    『西行物語』や能の原話となった、多くの逸話があります。いくつかを以下にご紹介しましょう。


    ■愛娘を蹴落とす

    出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(四歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。


    ■西行戻し伝説

    各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。

    ・松島「西行戻しの松」

    西行が松島にて

     月にそふ桂男のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん

    と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて

    雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん

    と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業をしているのか聞くと「冬萌きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味が分からなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くから語り継がれている。(*桂男=美男。在原業平のこと *業=仕事 *冬萌きて夏枯れ草=麦)

    ・秩父「西行戻り橋」
    ・日光「西行戻り石」

    ちなみに後世の連歌師宗祇にも同様に「宗祇戻り橋」の伝説がある。

    むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
    「何用にて、何処方(いずかた)まで」
     と問う。右の由、説明すると、女、
    「それは、妾、さきほど付けました」
     と答えて消えた。
    月日の下に独りこそすめ
     付句
      かきおくる文のをくには名をとめて

     と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。
    『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄』能文社2008

    ■源頼朝を鼻であしらう

    百芸に通じていた西行は、鎌倉で源頼朝に弓馬の道のことを尋ねられた。が、一切忘れはてたととそっけなく返答するばかり。 この時頼朝から拝領した純銀の猫を通りすがりの子供に与えたとされている。

    ■満開の桜の下の大往生

    西行は、以下の歌を生前に詠んだ。まさにその歌のとおり、陰暦二月十六日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73歳。

    ねかはくは花のしたにて春しなん そのきさらきのもちつきのころ (山家集)

    ねかはくははなのもとにて春しなん そのきさらきの望月の比 (続古今和歌集)

    花の下を"した"と読むか"もと"と読むかは出典により異なるのだ。

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  • from: 庵主さん

    2010年09月26日 18時55分27秒

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    能の伝説と物語「西行」第二回

    ■和歌の"不可説の上手なり"

     『後鳥羽院御口伝』に
    「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」

    とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

    歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。

    ■アウトローではなく主流派

     和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、俊成とともに千載集の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。


    ■歌と仏と旅。西行が残したもの

    後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

    ちなみに、芭蕉『おくのほそ道』では、以下のように西行の跡を慕っている。

    先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。(「象潟」の章段)

    「花の上こぐ」は、西行の次の歌から引用したもの。
     象潟の桜は波に埋れて
       花の上漕ぐ海士の釣り舟

    清水ながるゝの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。(「遊行柳」の章段)

    「清水ながるゝの柳」は西行の次の歌を踏まえたもの。
     道のべに清水流るゝ柳かげ
       しばしとてこそ立ちどまりつれ


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  • from: 庵主さん

    2010年09月24日 21時22分49秒

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    能の伝説と物語「西行」第一回


    名作能とその出典である、古来の伝説・物語の関連を歴史的にたどるシリーズ。

    能の題材として歴史上の有名人物をとりあげたのは、室町時代の世阿弥からはじまったと言われています。
    以降、能がテーマとして好んで採り上げたのは、源氏、平家、今昔、伊勢物語などに登場する、著名な貴族や武将たち。なかでもたびたび登場するのが、小野小町、業平、行平などの平安歌人でした。
    今回は平安期を代表する歌人、西行法師にフォーカスをあて、西行物語・山家集などの古典と、能「遊行柳」「江口」をそれぞれ比較してみていきたいと思います。


    ■西行

    西行(さいぎょう、1118年(元永元年)〜1190年3月23日(文治6年2月16日))は、院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人。父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。俗名佐藤義清(さとう のりきよ)、法号は円位ともする。

    勅撰集では詞花集に初出(一首)。千載集に十八首、新古今集に九十四首(入撰数第一位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。

    ■生涯

    保延元年(1135年)18歳で兵衛尉に任ぜられ、同3年(1137年)鳥羽院の北面の武士として奉仕していたことが記録に残る。同6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。その動機には、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もあり、これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家した、とある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。

    西行出家の「失恋」をテーマに扱った現代作品に以下がある。

    1988年『西行』白洲正子(待賢門院)
    1990年『白道』瀬戸内寂聴(待賢門院)(?美福門院)
    1991年『西行花伝』辻邦生(待賢門院)
    2008年 三田誠広(待賢門院)
    1984年『院政期社会の研究』五味文彦(上西門院)

    他にも、西行の生涯を知る上で重要な書物の1つである「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵。)では親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

    出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみしばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残した。讃岐国に旧主崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えらえ、これは後代上田秋成によって『雨月物語』の「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。また特に晩年東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

    出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。久安4年(1149年)前後に高野に入り、仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき善通寺でしばらく庵を結んだらしい。後高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。建久元年(1190年)にこの地で入寂した。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び当時名声を博した。

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    2010年09月24日 08時40分43秒

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    この水の洩り候が命なり。千利休の名言


    この水の洩り候が命なり。
      〜『茶話指月集』千利休

    千利休の孫、千宗旦の茶道逸話をまとめた江戸初期の茶書「茶話指月集」。利休をはじめ、安土桃山時代の茶人の言行を活きいきと今に伝える名著です。とりわけ主となる利休の逸話は、多くの名言・名句に富み、わび茶大成期の生きた姿をうかがい知ることができる好史料。まずは、表題の句、「この水の洩り候が命なり」を含む原文をご紹介しましょう。


    〔原文〕

    「宗易、園城寺の筒に花を入れて床にかけたるを、ある人、筒のわれめより水したたりて畳のぬれけるをみて、いかがと申されたれば、易、この水のもり候が命なりという。
    附り
    この筒、韮山竹、小田原帰陣の時、千の少庵へ土産なり。筒の裏に、園城寺少庵と書付け有り。名判無し。又この同じ竹にて、まず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」
    『山上宗二記 付茶話指月集』熊倉功夫 校注 岩波文庫2006/6


    ■死地で三本の不思議な竹を見出す利休

    「園城寺の筒」とは、世上に名高い利休作の竹の花入のこと。ある茶会で、利休がこの花入に花を生け床にかけた。ところがこの花入、竹の表面に大きな割れ目があるため、水がしたたり落ち畳を濡らしてしまいました。見かねた客が、「これはどうしたものでしょうか」とたずねると、利休は、「水が洩れるところこそ、この花入の命なのです」と答えたという。

    続きはこちら
    http://bit.ly/dh4NGQ

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    2010年09月22日 19時50分50秒

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    戦国武将と茶の湯「信長」最終回

    「信長篇」今回最終回を迎え、さしあたり現存する、信長ゆかりの名物をご紹介しましょう。
    http://bit.ly/b6r2tO

    天正十年六月一日早暁、戦国一の栄華を誇った武将織田信長は本能寺にてあえなく散ります。またこの日、主とともにこれまた天下一、希代の名物道具の多くが灰燼と帰しました。

    本能寺の変の真相については諸説入り乱れ、時代小説家の格好の歴史ネタとなっています。しかし信長が本能寺に出向いた本当の理由は、茶会を催すためでした。安土城から運ばせた三十八種もの名物茶道具を披露する会。招かれたのは、関白藤原内基、太政大臣近衛前久以下、帝を除く堂上公卿数十人。まさに宮廷がこの日そっくりそのまま、本能寺に引っ越したかの様相です。
    果たしてその場で信長は何を企んでいたのか。それは、今となっては永遠に歴史の闇の中。


    ■本能寺の変と大茶会

    天正十年五月晦日、信長は近臣七十余名とともに上洛し、四条西洞院の本能寺に止宿する。
    『楠長諳覚書(仙茶集)』によると、この時安土城に秘蔵していた三十八種の茶道具を本能寺まで運ばせ、六月一日から本能寺で、名物拓きの大茶会を催す予定であったという。

    ◎本能寺茶会披露予定の茶道具
    作物茄子・珠光小茄子・円座肩衝・勢高肩衝・万歳大海・紹鴎白天目・犬山灰被天目・松本茶碗・宗無茶碗・珠光茶碗・高麗茶碗・数の台二つ・堆朱竜の台・趙昌筆菓子の絵・古木の絵・小玉澗の絵・牧渓筆くわいの絵・牧渓筆ぬれ烏・千鳥の香炉・二銘の茶杓・珠徳の浅茅茶杓・相良高麗火箸・同鉄火箸・開山五徳の蓋置・火屋香炉・宗及炭斗・貨狄の花入・蕪なしの花入・玉泉所蔵筒

    瓶青磁の花入・切桶水指・同かへり花・締切水指・柑子口柄杓立・天下一合子水翻・藍香合・立布袋香合・宮王釜・田口釜

     明けて一日、茶会が催されたことは山科家『言経(ときつね)卿記』にあるが、その詳細は伝わっていない。
     ともあれ翌早暁、明智光秀による本能寺の変が起こる。『宗湛由緒書』によると博多の富商神谷宗湛は島井宗室と同道し本能寺にて信長に謁見したが、変が勃発するや本能寺書院床の間の軸物をとっさに外して持ち出した、とある。宗湛は「遠浦帰帆の図」あるいは「古木の絵」、宗室は『島井家由緒書』によると弘法大師真蹟千字文の軸をそれぞれ抱え、命からがら脱出したという。
    また、前述『言経卿記』には、この日の本能寺への来客を以下のように記録している。

    関白    藤原内基
    太政大臣   近衛前久
    左大臣    藤原内基(兼)
    右大臣    近衛信基
    内大臣    近衛信基(兼)
    前関白    九条兼孝
    前内大臣   二条昭実

    鷹司信房、聖護院道澄、今出川晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅教、庭田重保、四辻公遠、甘露寺経元、西園寺実益、三条西公国、久我季通、高倉永相、水無瀬兼成、持明院基孝、予(言経)、庭田黄門、勧修寺晴豊、正親町季秀、中山親綱、烏丸光宣、広橋兼勝、東坊城盛長、五辻為仲、竹内長治、花山院家雅、万里小路充房、冷泉為満、西洞院時通、四条隆昌、中山慶親、土御門久脩、六条有親、飛鳥井雅継、中御門宣光、唐橋在通

     上に加えて、博多の商人で茶人でもある島井宗室。
     すなわち、宮廷における皇族を除いた関白以下、前職まで一人残らず揃っている。その他にも五摂家(ごせっけ:摂政(せっしょう)・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司(たかつかさ)の五つの家)を筆頭にほぼ全員の堂上公卿(昇殿を許された四位以上の公卿)が訪ねているのだ。宮廷がそっくり本能寺に移動したようなものであり、これだけのメンバーが、ただ単に茶を喫して帰ったとはとうてい信じられるものではない。
     この日、信長と朝廷の間でのっぴきならない重大事由の討議がなされた、と考えるほうが自然である。『日々記』の作者、勧修寺晴豊も当然このメンバーに入っている。
     島井宗室が招かれているのは、信長の目がすでに九州進出に向いており、九州大名の大友宗麟と親しい関係であった宗室を味方にひきいれる下工作であったと推測される。
    ちなみにこの時、信長の茶頭役であった堺衆の津田宗及や千利休は、堺で徳川家康接待の茶席を催しており、この茶会には出ていない。

     信長と公家達との間に関係の変化が見られてくるのは、天正九年頃からのようである。誠仁(さねひと)親王への譲位問題と暦の制定が本能寺の変当時の信長と朝廷との懸案事項であった。
    朝廷を利用しながら武力を持って権力を誇示する信長に対して、公家達はかなりの危機感を抱いていたのは事実だ。信長を亡き者にしたいとの思いは公卿側には十分にあったであろう。しかし歴史の真実は本能寺、信長その人、幾多の名物道具とともに灰燼と帰した。本能寺の変後、七年目に成立した『山上宗二記』では、以下の道具が焼失したとある。

    ◎本能寺の変で焼失したとされる茶道具
    松嶋の壺・松本茶碗・引拙茶碗・菱実盆香合・趙昌筆菓子の絵双幅・古木の絵・岸の絵(玉澗筆)・小玉澗の絵・蕪なしの花入・貨狄の花入・勢高肩衝・万歳大海・作物茄子・珠光小茄子・平釜・柑子口柄杓立・相良高麗火箸



    ※日を改めて、「戦国武将と茶の湯」シリーズを秀吉他の武将にて引き続きご紹介していく予定です。

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    2010年09月20日 19時49分13秒

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    戦国武将と茶の湯「信長」第六回

    茶数奇をめぐる悲喜こもごも、二話を。

    茶興行の許認可を信長から、まんまとせしめた秀吉。今回は、柴田勝家・滝川一益、名物道具をめぐる二人の確執、明暗を見てみましょう。勝家は朝倉を、滝川は武田を、それぞれ征伐した織田軍最大の功労者。しかし、信長の二人に対する処遇は全く異なるものでした。しかしまた、二人の行く末を見るとはたしてどちらが幸運だったのか、と首をかしげざるを得ない。一益は引退後茶数奇三昧、勝家は秀吉に攻められ北ノ庄の露と消える。まさに「茶服はあざなえる縄の如し」でしょうか。


    2.一益と珠光小茄子

     天正十年三月、信長の武田討伐で、先陣をつとめた滝川一益は一番の武功をあげた。これまでの戦功を賞せられ、すでに北伊勢五郡の大名、長島城の城主となっていた一益の願いは領地の加増にはなく、ただ信長所有の大名物「珠光小茄子」を与えられることにのみあったのだ。
    京の茶人太郎五郎につき、茶の湯に入れ込んでいた一益は、すでに茶の湯許可を得ていた明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉等諸将の後塵を拝することが無念でならぬ。このたびこそ戦功として珠光小茄子を掌中とし、数奇の道に心置きなく打ち込めようと勇み立ったのである。
     武田侵攻の恩賞沙汰がうわさに上ったとき、一益は信忠を通じ、その思いを上申してみた。しかし、これは一笑に付される。信長からは恩賞として、上野国と信濃小県・佐久二郡が与えられ、「関東八州の御警固」および「東国の儀御取次」を申し付けられた。これに対し滝川一益は、太郎五郎への書簡でこう嘆いている。
    「今度 武田討果し候。自然希もこれ有るかと御尋も候はゞ、小なすびをと申し上ぐべき覚悟に候ところ、さはなく、遠国にをかせられ候条(ゆえ)、茶の湯の冥加はつき候」
     今回 武田氏を討った。信長公が望は何かとお尋ねになったならば、小茄子の茶入れをいただきたいと申し上げるつもりだった。ところがそれはなく、このような遠国に置かれてしまい、もはや茶の湯の冥加も尽き果てた、というのである。落胆する一益の様子が目に浮かぶ手紙の内容といえよう。しかもこの二ヵ月後に本能寺の変が起こる。一益の夢は生涯かなえられぬものとなってしまった。やがて秀吉の天下となって隠居し、滝川入道入庵と称し、数奇三昧の道に入ることとなる。

    ※参照 信長より茶の湯興行の認可を受けた家臣
    柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、織田信忠


    3.柴田勝家と姥口の釜

     俗に瓶割り柴田、鬼柴田の異名により、猛将とされる柴田勝家も数奇にのめりこんだ武将の一人。勝家が想いを掛けた名物は、釜の口が歯の抜けた老女の口元を思わせることから命名された「姥口の釜」であった。勝家は念願かなってこの名物を拝領するが、その授受の場面には信長らしからぬユーモラスな空気がただよっている。
     勝家、ある時、上様(信長公)え申し上げられる様子は、 ..
    「はやばや老後に及び申し候間、あはれ御秘蔵のうは口の釜を御預け成され候へかし」 ..
    と、申され候処に、(信長公)御意には、
    「釜おしむにては更になし。心持ちこれ有る間、今少し待ち申し候へ」 ..
     との御意にて、其の時は遣わされず候。
     それより二三年過ぎ候て、朝倉を御追罰成され、其の跡職一圓に、勝家拝領仕られ候なり。 ..
     越前より次目の御禮として安土へ参られ候。色々大きなる進上を上らせられ候。其の時御釜を御召し寄せ、
    「其の方、内々望み申され候此の釜、今までおしみたるにてはなし。其の方、百萬石に成られ、此の釜遣るべし」
     と思し召され候。
    「最早(もはや)此の釜持ち候ても苦ならず身上に候間、遣わされ候」
     とて、御自筆に狂歌を遊ばされ、御釜御添え成され遣わされ候釜よ。其の時勝家頂戴仕られたる御釜なり。 其の狂歌に、

        なれなれて そひあかぬ中の うは口を
                 人にすはせん 事おしそおもふ

     美濃殿逗留の内に、朝数寄に三度の数寄、二度以上五度まで数寄に相申し候事。此の頃、各々の大名小名、秀吉殿も勝家殿も、かくの如く「互に負けじ」と茶数寄を競うなり。

    『川角(かわすみ)太閤記(たいこうき)』

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  • from: 庵主さん

    2010年09月19日 21時28分58秒

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    戦国武将と茶の湯「信長」第五回

    ■信長の茶会

     『今井宗久茶湯抜書』によれば、元亀元年(1570)四月、宗久が信長の御前で利休の点前により薄茶を賜ったことがわかる。また『津田宗及茶湯日記』『信長公記』によると、天正元年以降信長は狩り集めた名物を用いてたびたび茶会を催している。
    以下に、天正元年11月妙覚寺にて開かれた信長茶会の様子を紹介する。
     朝会である。客に松井友閑、今井宗久、山上宗二が招かれた。千宗易が濃茶を点てる。席は、三日月葉茶壷の口切の茶事。飾りはその三日月を床に、牧渓遠浦帰帆図を掛け、蕪なしの花入には信長が生けた白梅が匂う。囲炉裏に鎖で鶴首の茶釜を吊り、大覚寺天目、作物茄子茶入などの名物がそろう。

    会席料理
    ●本膳
    雉焼鳥 鯛青なます 塩煮の鯛大汁 飯 蛸
    ●二膳
    ニシ壺焼き 鮭焼き物 鮒(またはウド) 鱈汁 桶に鮨(または冷汁?)
    ●三膳
    かまぼこ 雁汁 かわらけ(土器)に入った温めた酒 うけいり(魚のすり身を入れた澄まし汁。鯛のすり身味噌煮とも) 白鳥の汁 (酒肴として)うずら十羽を刻み一人前五十ほどで盛る
    ●菓子
    きんとん ざくろ キンカン くるみ 美濃串柿(干し柿) 昆布 むき栗 椎茸 揚げ物(カヤの実の油煎り)
    今井宗久の点前で薄茶を喫した信長は上々の機嫌であったという。


    ■茶道具の下賜

     信長は武功をあげた家臣に対して、茶の湯興行の許可と、そのしるしとして名物を下賜した。
    信長騎下で粉骨砕身の働きをした家臣にその名誉が与えられる。しかし終生願いのかなわぬ生え抜きの将もいた。


    1.秀吉の書状

     天正九年(1681)。中国地方の経絡に一区切りをつけて、安土城に戦況報告のため伺候した秀吉に、信長は褒美として茶の湯許可とともに八種の名物道具を与えた。すなわち、雀の絵、砧の花入、朝倉肩衝、大覚寺天目、尼崎の台、珠徳の竹の茶杓、鉄羽の火筋、高麗茶碗の品々である。
     本能寺の変の後、信長の三男信孝の家老へ宛てた書状の中で、秀吉はこの時の感激を素直に表白している。

    「上様、重々預御褒美御感状、其上、但州金山御茶湯道具以下迄取揃被下、御茶湯、雖御政道、我等は被免置、茶湯を可仕と被仰出候事、今生後世難忘存候。たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へは、夜昼泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事」『豊臣秀吉書状』

     上様からは、たびたびご褒美、ご感状をいただき、その上但馬金山の支配とお茶道具までをも取り揃え、下された。茶の湯はご政道により並みのものには許されぬが、われらへは特別に許可され、茶の湯つかまつれ、と仰せ下されたのである。今生後生とも忘れることが出来ようか。上様を置いて、誰がこのような恩恵を下されようか、と昼夜思い出しては涙にくれ、御一類のことをかりそめにもあだに思うことはない。

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  • from: 庵主さん

    2010年09月17日 20時57分16秒

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    戦国武将と茶の湯「信長」第四回

    信長名物狩りの中でも、もっとも目を引くのが正倉院御物「蘭奢待」の切り取りです。公式記録では帝以外に、信長の前には足利義政、後には明治天皇の3名のみが、切り取ったとされる門外不出の日本の名宝。歴史的なその日の様子をご紹介します。


    ■蘭奢待の切り取り

     天正二 (1574)年3月12日、信長は京へと発向した。奈良・東大寺の正倉院に収蔵されている香木・蘭奢待(らんじゃたい)を天皇家より賜るためであった。
     蘭奢待は、天皇家の宝物。信長以前に切り取りを許されたのは、室町幕府三代将軍義満、六代・義教、八代・足利義政のみとみられ、いかに将軍であっても簡単に許されるものではなく、天皇の勅許が得られず、なかば強圧的に切り取りの許可を迫ったものといわれている。
     信長以後、確認されているのは明治天皇のみで、徳川家康も切り取ったのではないかという。
    3月26日、朝廷より日野輝資、飛鳥井雅教が勅使として派遣され、蘭奢待切り取りを許す綸旨を伝達。翌27日信長は奈良の多門山城(多聞山城)へ入る。そして東大寺へ特使として塙九郎左衛門・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井爾伝・松井友閑・津田坊(信澄?)など錚々たる家臣団を派遣するのであった。
     28日、長さ六尺(約1.8m)の長持に入れられた蘭奢待(自体は長さ160cm、重さ11.6kg)は、信長の待つ多門山城の御成りの間に運ばれた。信長は、先例に習い一寸八分(約5.5cm)切り取り、同席した家臣らにも「後の話の種によく見ておくが良い」と語ったそうである。
     信長が切り取ったとされる部分は、蘭奢待につけられた付箋によると写真の真中あたり。その右が八代将軍足利義政、左の端が明治天皇である。

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