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  • from: 庵主さん

    2009年12月06日 08時57分20秒

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    寺子屋Dクラス「南方録」講読会のご案内


    寺子屋素読ノ会では、Dクラスにて千利休秘伝書「南方録」(毎月第四月曜 19:30-21:00)を講読しています。
    今回はその講座内容を過去のテキストよりご案内いたします。


    ■千利休

     千利休 大永二年(1522)- 天正十九年二月二十八日(1591年4月21日)は中世末期、安土桃山時代の茶人。侘び茶(草庵の茶)の完成者として知られる。  父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹。父の「千」は氏であり、利休の名字は田中である、名は与四郎(與四郎)。のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎と号した。
     広く知られた利休の名は堺の南宗寺の大林宗套から与えられた居士号で正親町天皇の勅許による。この名は『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだものとの説がある。茶聖とも称せられる。
     和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、京都郊外紫野の大徳寺に参禅。 織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として召され、のち豊臣秀吉に仕えた。1585年の北野茶会を主催し、一時は秀吉の篤い信任を受けた。この時期、秀吉の正親町天皇への宮中献茶に奉仕し、居士号を許される。また北野大茶会の設営、黄金の茶室の設計などを行う一方、楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、侘び茶の完成へと向かっていく。いわば茶人としての名声の絶頂にあった利休だが、突然関白秀吉の勘気に触れ、切腹を命じられる。享年七十歳。
     結婚は二回。先妻の子と後妻・宗恩の連れ子がそれぞれ堺千家・京千家を起こしたが、利休死去とともに千家は一時衰亡した。堺千家は再興せず、京千家の系譜のみが現在に伝わる。三千家は利休の養子となった宗恩の息子と利休の娘の間の子、利休の孫 千宗旦が還俗して家を再興し、その次男・三男・四男がそれぞれ初代として茶道を継承したもので、表千家・裏千家・武者小路千家(別称は官休庵流)の総称である。
     利休忌は陽暦(現在の日本の暦)の3月27日および3月28日に大徳寺で行われる。

    ■南坊宗啓
     桃山時代の禅僧。『南方録』筆者で利休茶の湯の弟子、堺の集雲庵の二世住持を称した。文禄二年(1593)二月、利休二周忌に香華を手向け立ち去ったという。百年後、立花実山により、博多南坊流の祖として立てられた。
    『山上宗二記』中、茶杓造りの名人、慶首座と同一人物ともされるが定かではない。

    ■立花実山
     1655-1708。明暦〜宝永年間の黒田藩士。『南方録』編者。父、立花平左衛門は黒田藩家老で、その次男として生まれる。通称、五郎座衛門、号、宗有・而生斎。八歳で藩主黒田光之に仕える。元禄元年、隠居付頭取。宝永四年隠居出家し、宗有と改め松月庵に入った。翌年六月、藩主綱政の忌諱に触れ、鯰田へ配流。十一月十一日、同所にて暗殺される。
     茶の湯は、金森候茶堂道可より土屋宗俊に伝わる流れを学び、歌道・書・画をよくした。『南方録』の他、『岐路弁疑』『壺中炉談』など多くの茶書を残した。

    ■南方録

     千利休の茶法を伝える秘伝書。古来数多い茶書の中でも、最も重要視されてきた茶道の聖典とよばれる名著である。
    利休の高弟、南坊宗啓の聞書で、利休が奥書・印可を加えたという。「覚書」「会」「棚」「書院」「台子」「墨引」「滅後」の七巻より成る。このうち「墨引」までは、利休在世中に成立。「滅後」は利休没後の成立(当然利休の奥書・印可はない)と伝える。
     利休没後、著者南坊宗啓自身とともに、その所在は長らく不明となっていた。しかし、元禄三年(1690)筑前福岡侯黒田綱政の家臣、立花実山がこれらを偶然発見、書写・編集した。この全七巻の成立は、まず貞享三年(1686)に実山が京都のなにがしの所持する利休秘伝茶の湯書五巻を、人を介して書写、入手。さらに不足分を元禄三年に南坊宗啓の一族と伝える納屋宗節から借用して大坂にて書写。これが「墨引」「滅後」の二巻であり、ここに全七巻が揃ったという。この年が、たまたま利休百回忌に当たったということも注目される。
     これら七巻を三部に分けると、第一部は「覚書」「会」、第二部「棚」「書院」「台子」、第三部が「墨引」「滅後」となる。第一部「覚書」は、利休の茶の伝統的な展開と、利休が創造した新しい茶の哲学、その根本理論を体系立てたものであり、「会」は、利休と著者宗啓が、豊臣秀吉を中心として営まれた茶会を記録したものということになっている。しかしこの会の記録は客観的な史料と整合性に乏しく、「利休百会記」をもとに他の茶会記録を付き合わせ、創作したものと推定されている。
     第二部の「棚」「書院」「台子」は、利休の茶の詳細な技法の記録である。とりわけ「台子」は、一枚一枚の切紙五十余ものいわゆる切紙伝授を受けたものをまとめて一巻の巻物に仕立て、その全体をさらに利休が印可証明した、ということになっている。
     第三部の「墨引」は、第二部の実技に対応して、曲尺割(かねわり)の法則という、「南方録」独特の厳密な茶法実演の美学を詳述したものである。この「墨引」は秘伝についてあまりに詳細に書きすぎるということで師、利休が墨を引いて消した、ということでこの名がある。よって奥書はあるが印可はない。「滅後」も曲尺割について論じ、その他利休の説いた茶技・茶論を多方面に及んで取り上げている。

    ■南方録の名言

    「家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事なり」
    「世塵のけがれをすすぐ為の手水ばちなり」
    「叶うはよし、叶いたがるはあしし」
    「茶の湯の肝要、ただこの三炭三露にあり」
    「夏はいかにも涼しきやうに、冬はいかにもあたたかなるやうに」
    「小座敷の道具は、よろづたらぬがよし」
    「あけ暮外にもとめて、花紅葉が我心にある事をしらず」

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