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  • from: 庵主さん

    2010年06月13日 08時31分05秒

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    奥の細道行脚。第五回「日光」

    四月一日、みずみずしい青葉、まぶしい陽光に迎えられ、芭蕉一行は日光山を参詣します。道に迷った那須黒羽の野で、たまたま愛らしい姫二人と邂逅。芭蕉の乗る馬のあとを無邪気に慕う小さな姫の名は、「かさね」。八重なでしこにもらった名であろう、と曾良が句を即興に詠みました。殺生石・遊行柳の旧跡を経、当初の目的地「白川の関」へ。古人の歌に思いをはせ、古い俳友と旧交を温めながら旅を続けます。しかし、しのぶの里、飯坂(飯塚)の宿では旅の感興をそぐ小さな「とげ」に悩まされる。芭蕉はめげずに気力をふるいおこし、力強い足取りで、ついに奥羽への入り口、伊達の大木戸を踏み越えるのです。


    ●日光

    【奥の細道】

     卯月一日、お山に参詣した。その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた 。千年の未来を悟られたものか、今この御光は一天に輝き、恩沢八荒にあふれ、四民安堵にして住みか穏やかである。これよりは多言憚りあって、筆を置くとしよう。

     あらたうと青葉若葉の日の光

    鑑賞(青葉、若葉にこぼれる日の光。み仏の恵みが聖山にあまねくあふれ行き渡り、自ずと手を合わせられるありがたさ、尊さである)

     黒髪山には霞がかかり、雪がいまだ白く見える。

     剃捨てて黒髪山に衣更え 曾良

    鑑賞(髪を剃り出家の体で旅立ったものだが、この黒髪山にて奇しくも四月の衣替えとなった。装いも新たに長旅への誓いもいっそう強められるようだ)

     曾良は、氏は河合、名を惣五郎という。芭蕉の葉の下に軒を並べ、私の薪をとり、水を汲む労を助けてくれる。このたび松島・象潟の眺めをともにすることを悦び、かつ羈旅の難をいたわろうとするもの。旅立ちの暁に髪を剃り、墨染め衣に姿を変え、惣五改め宗悟とする。これにより、黒髪山の句がなった。「衣更」のふた文字、力がこもって聞こえる。

     二十余丁山を登って滝あり。岩洞のいただきより飛流すること百尺。千岩の碧潭にどうと落ちる。岩窟に身をひそめて入り、滝の裏よりみるゆえ、これを「うらみ」の滝と申し伝えるとか。

     暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初

    鑑賞(初夏、清冽な滝の裏ふところに観じ入れば、その轟音と涼気でもって世俗妄念を吹き払い、しばし夏安居の修行僧となったようだ)

    【曾良旅日記】

    一 同二日、天気快晴。辰の中刻、宿を出る。裏見の滝(一里ほど西北に位置する)、含満が淵をめぐり、ようやく昼となる。鉢石を発ち、那須、太田原へ向かう。通常は今市へ戻って大渡というところから行くのだが、五左衛門が近道を教えてくれた。日光から二十丁ほど下り、左へ曲がる。川を越え、瀬の尾、川室 という村へかかり、大渡という馬次に着いた。三里にやや届かないほどの距離。


    【奥細道菅菰抄】

    その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた

    空海は、弘法大師のこと。『元享釈書』に、
    「釈の空海は、俗姓佐伯氏、讃州多度郡の人。父は田公、母は阿刀氏。母は、梵僧が懐に入る夢を見た。そうして身ごもり、胎内にあること十二ヶ月、宝亀五年に生まれ出る。母はその夢のお告げにちなんで、幼名を貴物と名付けた。成人後、沙門勒操につき、法を受け、落髪。最初の名は教海。後に自ら改め、如空と称した。延暦十四年、東大寺の壇に昇り、具足戒を受け、さらに空海と改めた。二十三年、遣唐使に従って入唐。元和元年秋八月に帰る。大同太上皇、空海を壇に入れて灌頂。帝者の密灌が、これより始まる。弘仁七年、紀州の相勝の地に遊説し、高野山に上り、金剛寺を創建。承和二年三月二十一日、空海はこの地で、結跏趺坐し入定する。延喜二十五年冬十月、弘法大師の謚を賜った(大師・国師の号は、みな帝王の師たる称号である。よってほとんど死後の謚として賜るのだ)」
    とある。
    空海を日光山の開基とし、さらに山名を改めたということは、日光山の記および、他の書にもいまだ見えない。

    恩沢八荒にあふれ

    恩沢は俗に、「おかげ」ということで、慈恩のうるおいをいう。八荒の文字は、『山海経』・『神異経』・『准南子』等にあり、荒は遠方をさす。八荒は四方四隅の(俗に八方という)遠い場所である。

    四民安堵にして住みか穏やかである

    四民は、「士農工商」をいう。『前漢書 食貨志』に見える。安堵は、通常「案堵」と書き、歴史書中に散在している。安居と同じ。落ち着いて居ること。

    黒髪山には霞がかかり

    黒髪山は、上野国の名所で、上野・下野の境となる。
    『続古今集』、「むば玉のくろかみ山を朝こえて木の下露にぬれにける哉(かな)」、人丸。
    『方角抄』、「旅びとの真(ま)菅(すが)の笠やくちぬらむ黒髪やまのさみだれの比(ころ)」。

    薪をとり、水を汲む労を助け

    『晋書』陶淵明の伝記にいう。「陶潜が彭沢の令となった。一人の力を息子に送っていう。このものを従え、自ら雑用をするな。この力を遺(のこ)し、汝の薪水の労を助く」と。
    力とは、下僕のこと。薪水とは、朝夕の炊事のことである。また、釈尊が、檀特山にて、阿羅羅仙人に師事した時、採果汲水の業をなしたことなどとの取り合わせであろう。

    かつ羈旅の難をいたわろうと

    羈は、本字は「覉」であり、よる、と訓じる。羈は仮音である。覉旅は、旅に居ることをいう。『左伝』に見える。

    岩洞のいただきより飛流する

    洞は、「峒」と通じる。岩峒は、岩屋のことである。

    碧潭にどうと落ちる

    碧は、みどりと和訓する。瑠璃色をいう。潭は、淵である。水の深いところは、瑠璃色に見えるため、このように名付ける。

    岩窟に身をひそめて

    岩窟も岩屋をさす。

     暫時は滝に籠るや夏の初

     夏(げ)は、もと結夏(ゆげ)といい、略して夏とした。僧が家にこもって修行する時の名である。
    『五雑組』にいう。「四月十五日、国中の僧と尼が禅刹に行き塔に滞留する。これを結夏、または結制(ゆせい)という。また、安居(あんご)と名付けた」と。
    『釈氏要覧』にいう。「心身が静謐なことを安、と申す。一定時期住むことを居、という」と。安居は、寂然(じゃくねん)として過ごすことをいう。

    ○友人の僧、懶庵の説である。
    「天竺の一年は、春夏冬の三季のみにて、秋がない。ゆえに一季は中国の四个月に相当する。中国の当月十五日より、翌月十四日までを一月として、上旬の十五日間を黒月と呼ぶ。下旬の十五日を白月とする。中夏に、上弦下弦とするようなものである。一夏九十日とは、夏一季の内、結制する日をいう。九十日が一季のすべてではない」。

    『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
    http://bit.ly/cnNRhW

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