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  • from: 庵主さん

    2010年07月17日 22時46分54秒

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    奥の細道行脚。第十四回「一振」

     六月、象潟を発ち日本海沿いを下向する芭蕉一行の足取りはにわかに速度を増 します。序破急の位でいえば、旅も終わりに近づき、「急」の位を予感させる。
    今回の行路は、いままでのような名所・旧跡にとぼしいためか、人と人との関 わりが大きくクローズアップされます。二人の俳友との再会。ひとりはすでに 黄泉の国の住人ですが。また、越後から伊勢詣へと下る遊女との相宿。悲しくも、胸騒ぐ旅の風情がそこかしこと翁の発句に立ち上ります。
     終着点大垣では、門人たちが大集合し旅人を迎え無事を喜び合う。しかし伊勢遷宮を拝まんと、これら門人たちとも袖を分かち、長島にてふたたび舟に棹差し、『おくのほそ道』は幕を閉じるのです。



    ●一振

    【おくのほそ道】

    一振(いちぶり)

     今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返し などという北国一の難所を越 えた。疲れ果て、枕を引き寄せ寝ていると、一間隔てた表の方から、若い女の 声二人ばかりが聞こえてくる。年老いた男の声もまじり、その話を聞くと、越後の国新潟というところの遊女 らしい。伊勢参宮 に行くという。この関まで男が送り、明日戻るというのでふるさとに届ける文をしたためて、はかない言伝をしているようだ。白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世を わびしく落ち下るように、定めなき契りを結ぶこと。日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう、と物語るのを聞くともなく眠りに落ちた。翌朝、旅立つわれわれに、
    「行方も知れぬ旅路の辛さ、あまりに心細く悲しく思われます。見えつ隠れつ、お坊さま方のお跡をおしたいさせていただけませんでしょうか。仏のお情けに、大慈悲の恵をたまわり、仏道へ結縁させていただきとうございます」
     と涙を流す。不憫には思ったが、
    「私どもは、所々立ち寄る先が多いのです。ただ、伊勢詣での人々の流れにまかせ、ついていきなされ。神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう 」
     と言い捨てて発ったものの、不憫な心はしばらく止むものではなかった。


     一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月


    鑑賞(ひとつ屋根の下奇しくも遊女と泊まり合わせる。庭の萩の花もおりから の十五夜の月に冴え冴えと照らされている。仏縁に導かれ全く境涯の違う二人が出遭い、また別れゆく運命の不思議さよ)

    【曾良旅日記】

    ○十二日。天気快晴。能生を発つ。早川 で翁がつまずき、衣服が濡れてしまった。河原でしばし干す。午の刻、糸魚川 に着く。新屋町、左五左衛門方で休む。大聖寺のソセツ師より伝言あり。母親は無事に到着。当地は安全だとのこと。申の中刻、市振(いちぶり)に着。泊まる。

    ○十三日。市振発。虹が立つ。玉木村 まで市振から十四、五丁ある。


    【奥細道菅菰抄】

    今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えた

     親知らず・子知らずは、越後の国、歌という宿より一振までの街道で、山の下という。一方は険山であり、その下の波打ち際を行き来する。そのため、波が来る時は岩陰に隠れ、引く時に出て走る。つまり波の引く間、わずかの内に走るため、「親をも顧みず、子をも思わず」という心でこの名がついた。
     犬戻りは中屋敷というところより、長浜の宿までの間にあり、岩石の間を渡る。
     駒返しは、遠海と歌との間、いずれも越中への街道にある海辺である。

    越後の国新潟というところの遊女らしい。伊勢参宮に行くという

     新潟は、越後の国、蒲原郡、海辺の町であり、信濃川(信州では筑摩川と呼ぶ)、奥州会津の大河が合流し、運送の便よく、当国第一の大湊、繁華の地である。

     遊女を中国では、妓という。(日本で、清盛の時、妓王、妓女といった。白拍子の名は、これによる通称である)『書言故事』に、「いにしえ未だ妓有らず。
    漢武はじめて官妓を置き、軍士のこれ妻無き者に侍らす」という。遊女の名は、『詩経』に、「漢に遊女あり」の詞より出たのであろうか。しかし、詩経の意は、ただ漢水の辺を遊行する女である。芸妓のことではない。日本では、播州室津の遊女を初めとする、と聞く。あるいは、周防(すおう)の国、室積の妓が起こりとも。また、『朝野群載』には、「江口ではすなわち観音を祖と為し、蜑島ではすなわち宮城を宗と為し、神埼ではすなわち河菰姫を長者と為す」とある。しかしこれらは、どの時代のことか不明。また、ある書では「わが朝の妓は、いつの時代起こったものか知られていない。おおよそ鳥羽の院の御宇に始まった」というが、『後拾遺和歌集』に、遊女宮城の歌を載せ、『源氏物語』、関屋の巻では、光源氏が住吉へ詣でる装いを、江口・神埼の遊女が船を浮かべ見物したと記す。ということは、後一条院の頃、すでに遊女がいたものか。
     また『万葉集』に、遊行の婦女というものがあり、遊女のようにも思えるので、孝謙の御宇にもあったのであろうか。また、「鳥羽院の御宇、永久三年、洛陽に島の千歳・和歌の前という二人の女、盛んに教坊舞をなし、遊女の舞はこれより始まる」と『年代広記』に記す。『前太平記』には、藤原正澄の妓女、松世というものを、兄澄友が奪ったことを記す。また一説では、鳥羽院の御宇、通憲入道が、妾の磯禅師に、烏帽子水干を着せ、太刀を帯させ舞わせた。これを男舞と称する。すなわち遊女の舞のはじめである、と『源平盛衰記』にあるという。案ずるに、『新古今集』には、遊女、奥州という者の歌を載せていたと覚える。いずれにしろ、その始まりは、ずいぶん古いことであろう。

     また、傾城の号は、『前漢書』、外戚伝にいう。「李延年の妹は絶世の美女。延年はこれを皇帝に侍らす。酒宴たけなわなる時、歌っていわく。北方に佳人有り、絶世にして独り立す。ひとたびかえり見れば、人の城を傾け、ふたたびかえりみれば、人の国を傾く。城と国とを惜しまざらん。佳人はふたたび得難し、と。この歌より、美人を傾城・傾国といい、後ついに妓の通称となる」。

     伊勢参宮は、太神へ参詣することをいう。内宮は、天照皇太神にて、宇治の郡御裳濯川の上にまします。外宮は、豊受皇太神にて、度会の郡、山田原にまします。いずれも鎮座は、垂仁天皇二十六年冬十月という。

    白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世をわびしく落ち下るように(中略) 日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう

     白浪の寄せる汀とは、『新古今集』、「白なみのよする汀に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず」、読み人知らず。この歌を取って、うかれ女の名に寄せて書いたものであろう。
     海人がこの世は、すなわち「あまが子」との掛詞である。業因は、前世でなした業を、今の世へ持ち来ることをいう。

    神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう

     加護は、「まもりをくわえる」と訓ずる。『法苑珠林』に、「この加護方便を為すことを得る」とある。つつがなく、の解説は前述。

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