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from: 庵主さん
2010年07月20日 18時44分33秒
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奥の細道行脚。第十五回「金沢」
【おくのほそ道】
卯の花山 ・くりからが谷 をこえて、金沢に七月十五日につく。ここに大坂より通う商人、何処というものがいる。これと旅宿をともにする。一笑というもの、この道に打ち込み名が折々に聞こえ、世に知られた人であったが、去年の冬早世してしまったゆえ、その兄が追善句会を催した。
塚も動け我泣声は秋の風
鑑賞(早世を悼み私の慟哭する声が秋風となり粛々と吹きすさぶ。亡者の魂へと届いて、塚をもゆり動かすことであろう)
ある草庵に招かれて
秋涼し手毎にむけや瓜茄子
鑑賞(秋風の涼しい季節となった。句を詠む口をしばしとめて、秋茄子・秋瓜をめいめいの手でむいていただこうではないか。一笑に「手向け」の意もあり)
途中吟
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
鑑賞(残暑の陽は容赦なく照りつけるが、長い夏にあきあきしたものか、夕風はそ知らぬ風に涼しくふいてくるものだ)
【曾良旅日記】
一 十五日。快晴。高岡を発つ。埴生八幡を拝す。源氏山 ・卯の花山がある。
倶利伽羅峠を見て、未の中刻、金沢に着。
京屋吉兵衛に宿を借りて、竹雀・一笑に連絡をとる。即座に竹雀・牧童 が連れ立って参り事情を話す。一笑が去る十二月六日死去したという。
一 十六日。快晴。巳の刻。竹雀より籠にて迎えを寄越す。川原町、宮竹屋喜左衛門方へ移る。徐々に門弟が集まり、一堂に会す。
一 十七日。快晴。翁ひとり源意庵へ遊ぶ。私は病気ゆえしたがわず。今夜、丑のころより雨が強く降り、暁には止む。
一 十八日。快晴。
一 十九日。快晴。みなが来る。
一 二十日。快晴。松幻庵にて一泉がもてなす。俳諧、一折あって、夕方野端山に遊ぶ。帰って夜食をしたため散会。子の刻となった。
一 二十一日。快晴。医師の高徹 に会い、薬をもらった。翁は北枝・一水と同道し寺に遊ぶ。十徳二枚、十六四 。
一 二十二日。快晴。高徹が見舞う。また薬をもらう。この日は、一笑の追善句会。□□寺 にて興行する。参加者は朝飯の後より集まった。私は病気のため、未の刻より参会。暮れ過ぎ、みなに先立って帰る。亭主は丿松。
一 二十三日。快晴。翁は雲口 に連れられ宮の越 に遊ぶ。私は病気のため参らず。江戸へ便りをしたためていた。鯉市・田平・川源 などへ出す。高徹より薬が届く。以上六枚である。今宵、牧童・紅爾等が引き止めに来た。
一 二十四日。快晴。金沢を発った。
【奥細道菅菰抄】
卯の花山・くりからが谷をこえて
卯の花山は、くりから山と続いており、越中礪波郡、となみ山の東にある。源氏が峰という人もいる。木曾義仲の陣所があったところ。義仲の妾、巴と葵(山吹女)、二人の塚もこのあたりにある。(由緒は長くなるので略す)卯の花山は名所である。『夫木抄』、「日かげさすうのはな山の小忌衣たれぬぎかけて神まつりてん」、小侍従。(この他古歌が多い)
くりからが谷は、くりから山の谷である。くりから山は、越中今石動の駅と加賀竹の橋の宿との境にあって、峰に倶利伽羅不動の堂あり。これによって山の名とした。現在は、またの名、栗柄山とも書いている。平家・義仲の合戦の地。「一騎打ち」と呼ぶ、岩間のいたって狭い道がある。この山の麓、越中に羽生村の八幡宮がある。木曾義仲が大夫房覚明に平家追討の願書を書かせ奉納した神社で、これは現存している。
『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳 』 松尾芭蕉他著 水野聡訳 能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW
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