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from: 庵主さん
2010年08月13日 20時18分53秒
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「漢字」は誰が発明したのか?
四方を海でかこまれながらも、建国以来多くの海外の文物が日本に伝来され
ました。学問、宗教、法律、芸術、医療、料理から茶法にいたるまで…。ぼく
たちの日本文化は実に多くの恩恵を隣国あるいは、遠国から受けている。数あ
る伝来物から「文化」という視点で見た場合、その貢献度、影響力からみて
ダントツ ナンバー・ワンなのは、お隣中国から渡った「漢字」ではないでし
ょうか。
今回は「漢字」の誕生秘話や古代文字の美しい実画像も交えながら、4000年
にもおよぶ「漢字」のプロフィールを駆け足でスクロールしてみたいと思いま
す。
漢字は世界最古にして、現存する人類唯一の「オリジナル文字」
さて、世界史的にみて「文字」を自ら発明したのは人類はじまって以来、
たった四民族のみです。
1.エジプト人 → ヒエログリフ(象形文字)
2.シュメール人 → 楔形文字(刻画文字)
3.インディアン古族 → マヤ文字(象形文字)
4.中国人 → 漢字(象形文字/表意文字)
1.ヒエログリフ、2.楔形文字、3.マヤ文字はすでに絶滅しており、世界で現
存する文字は、自国およびアジア各地域で連綿と生命をつなぐ「漢字」だけな
のです。ぼくたちが今日も使い続けている「漢字」。片仮名、平仮名も漢字か
ら生まれた。国字・和字すら漢字の部品を流用、アレンジして作られている。
いうまでもなく日本人の文字の祖先は、この「漢字」なのです。
言語は文明。人を動物の階層からジャンプさせる。文字は文化。人をより高
次の精神的存在へと、天高く羽ばたかせる。漢字はいつ、どこで、誰により発
明され、長い年月を経てどのように変化・発展してきたのか。まずは、その誕
生の瞬間に立ち会いましょう。
漢字の起源伝説
漢字は周知の通り、中国で生まれた中国人のオリジナル文字。現物で今確認
できる最古の文字は、紀元前十四世紀、殷(商)の時代のものです。少なくとも
3400年以前に、文字は存在していた。かの国には、その誕生を伝える興味深い
伝説、言い伝えがあります。三つの代表的な「漢字起源伝説」を以下にご紹介
しましょう。
【伝説1】
有史以前、中国太古の時代の皇帝、伏犠氏がはじめて「文字」というものをつ
くった。これは、天地自然現象を観察し、シンボル化した「八卦」から起こる。
たとえば、坎の卦(上が短い横棒二本、真中が長い横棒一本、下が短い横棒二本
でできた記号)から水、離の卦(上が長い横棒一本、真中が短い横棒二本、下が
長い横棒一本)から火、というように作られたものが文字の祖先。これを書契と
呼んだ。
【伝説2】
上の伝説で、文字を作ったのは伏犠氏ではなく、竜馬が八卦の図を背負って、
黄河から出現した、という説。
【伝説3】
伏犠より後の時代に文字は生まれた。黄帝の時代、史官の蒼頡が鳥や獣の足
跡にヒントを得て書契を考案し、それまでの結縄に代えたのが、文字のはじま
りである、とする。
これらは有史以前の遠い遠い昔の物語。伏犠が蛇身人首、黄帝が人身牛頭で
あったといわれる頃。むろんそのまま鵜呑みにできる話ではありません。史実
に基づき、それが特定の個人または集団の手になるもの、とはできませんが、
おそらく絵文字のようなものから自然発生し、長い年月をかけて徐々に整えら
れていったもの、とみるべきでしょう。三つの伝説は、とてもロマンティック
ではありますが。
なぜ、「漢字」と呼ばれるのか
中国、漢民族により作られ、使用されてきたので「漢字」と呼ばれます。
しかし、古く周の時代には単に「名」といいました。日本の文字「真名(漢字
)」と「仮名(片仮名、平仮名)」も、この呼び名にちなむもの。
時代が下り、春秋・戦国時代には「文」または「字」と呼ばれるようになる。
「文」とは単一の絵文字のこと。「字」とは、この文を二つ以上組み合わせた文
字のこと。偏と旁からなる現在の漢字の形を想像してください。
秦時代以降は、この「文」と「字」を合わせて「文字」と呼ぶ。あるいは、単
に「文」もしくは「字」とも呼び、今日に至っています。
この文字を「漢字」と呼ぶのは日本だけ。日本で作られた「国字」や「和字」
に対して、中国伝来の文字を「漢字」と呼びならわしてきました。
欧米の文字が表音文字であることに対し、漢字は一字のみで意味をもつ表意
文字。かつ、一文字だけで固有の音と意味をもつ、世界的にも特殊な文字なの
です。その総数はおよそ五万文字。中国より、朝鮮半島や日本へと伝播され、
それぞれの国で正字として採用されました。この特殊な文字である「漢字」。
発生以来、3400年をかけどのように変遷してきたのか、主に形態(書体)の面か
ら見ていきましょう。
最初の文字は、亀の甲羅に刻まれた「おまじない」
現存する最古の文字は「甲骨文字」<a href="http://nobunsha.jp/img/koukotsu.jpg ">(画像はこちら)</a>と呼ばれます。正式には、「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅、または牛の骨
に刀で刻みつけられたものでした。これは紀元前十四世紀頃、殷王朝中期のも
の。十九世紀も末となって、河南省安陽郡小屯村から多数の亀の甲、牛の骨が
発掘され、それらに刻まれていたのが最古の文字であることがわかりました。
殷の時代には、天意、神意がはなはだ重視され、王室の行事、祭礼、政治、
軍事、天候、作物等を占うために、亀の甲羅に占うべき事項を刻み、これを焼
きました。そこに現れたひび割れの形状により、吉凶を占ったのです。甲骨文
字はこのト問のための辞であり、その結果を記録するもの。主に刀により刻み
付けられました。はるかに時代が下る、とされる筆による、朱や墨で下書きさ
れたものも少数ながら見つかっています。
甲骨文字の総数は、およそ3500。その内、今日解読できているものが1800。
同一文字でも、字体部分の要素が違っていたり、偏と旁が逆転していたり、要
素の大小が確定していないなど、その書法にはいまだ統一性、整合性が認めら
れません。文字成立のごく初期的な段階にあるものと推察され、これが最古の
文字であることの傍証ともなっています。
骨の次は、金属に文字は刻まれた
殷の時代、文字は甲骨に刻まれた「おまじない」の言葉でした。時代は下り、
周(西周/BC11〜7、東周/BC7〜2頃)の世では、盛んに青銅器が鋳造されるよ
うになる。そしてこれらに銘文として文字が鋳込まれます。金属に記された文
字、という意味でこれらは「金文文字」と称されました<a href="http://nobunsha.jp/img/kinbun.jpg ">(画像はこちら)。</a>
鼎や鬲などの青銅器が宗室の祭器であったため、記された銘文は、
1.祖先の名
2.氏族名・作者名
3.年月日
などの数文字から、3〜40文字程度の短いものでした。しかし西周以降、王
の詔勅や官位叙任などの公式記録が刻印されだし、全500文字にもおよぶ長文
のものが見られるようになる。前代の殷が鬼神を尊び、盛んに亀トを行ったの
に対し、周は礼を優先し、封建制を打ち立てたため、甲骨文は廃れ、官制記録
としての銅器金文のみが継承されていったのです。
この時代まで、文字は画像のような象形文字で、地方や時期により書法にも
バラつきがありました。さてでは、いったい誰が今日のように、万民共通で使
える文字を作ったのでしょうか。
中国全土も、文字も統一した皇帝の名は?
万里の長城造築で有名な秦の始皇帝。天下を平定したのは、紀元前221年のこ
とでした。度量衡や各種器具・器物の規格統一とともに、全国共通の文字を制
定したのも、始皇帝の功績です。臣下の学者等に命じ、「蒼頡篇」、「爰歴篇」
、
「博学篇」などの字典・字書が相次いで編まれ、秦の統一文字普及が大いに推
進される。文字の書体については、許慎の「説文解字」序文によれば、秦時代に
は書の「八体」と呼ばれるものがありました。
1.大篆(タイテン) 籀文のこと。小篆に先行する文字
2.小篆(ショウテン) 大篆を改良。公文書など、広く一般に普及した
3.刻符(コクフ) 勅命を符契に書く専用文字
4.虫書(チュウショ) 字画の最初を虫の頭にかたどり、末尾を曲げた書体
5.暮印(ボイン) 印章用の書体
6.署書(ショショ) 扁額用の書体
7.殳書(シュショ) 殳などの兵具に刻まれた書体
8.隷書(レイショ) 官獄に使われた簡素な文字
これらの内、均整がとれ荘重美麗な字形の小篆と、筆記に容易で簡略な隷書
が広く一般に流通し、今日にも印鑑や石碑などに用いられています。
<a href="http://nobunsha.jp/img/shouten.jpg ">小篆の画像はこちら</a><a href="http://nobunsha.jp/img/reisho.jpg ">隷書の画像はこちら</a>
今使われている漢字の祖先は、監獄で生まれた。
始皇帝の中央集権体制では、徹底した厳罰制度、法治主義がしかれました。
当然、牢屋は罪人で満杯。獄吏はかつてないほどの大忙し。当時の正字体であ
る、小篆は古代文字の名残をとどめる、絵画的で曲線の多い書体。殺人的に膨
大な事務処理に追われていた獄吏にとって、書写におそろしく手間のかかる厄
介な代物だったのです。
そこで、監獄の役人、程邈(テイバク)は、小篆の筆画をできるだけ直線
化し、
簡素で能率のよい事務処理用の文字をつくります。これを官獄の隷人(下級役
人)に使用させたため、「隷書」と呼ばれるようになりました。
<a href="http://nobunsha.jp/img/reisho.jpg ">画像はこちら</a> 複雑よりも簡素、難解よりも平易に流れるのが世の常。隷書はやがて、小篆
を駆逐し、前漢から後漢にかけて、広く中国全土で普及することとなる。ちな
みに秦から漢にかけて、文字は石刻、竹簡、木牘、つまり石や竹や木片に書か
れるようになっていきます。
楷書→行書→草書と文字はくずれていった、…これはウソ!
一般にきちっとした正体文字である楷書から、徐々に字体がくずれ、行書、
草書という順で変化していった、と思っている人が多いようです。しかし、
その発生順にいえば、
1.草書 → 秦末〜前漢
2.行書 → 後漢
3.楷書 → 後漢末
とされ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたわけではありま
せん。
【楷書】
後漢末、隷書から次第に変化して独立していきます。創始者は王次仲ともいわ
れますが、彼は羽化登仙した道人という説もあり、定かではない。
楷書の名のいわれは、字画厳正で一点一画すべて規矩にかなう、ということか
らきています。唐の太宗皇帝の頃、異体が整理され、字体が統一。隋・唐には
じまる中国の印刷術の興隆にともなって、楷書がその正体として採用され、全
土に普及、流通していきました。
【草書】
秦代末頃、小篆・隷書より、変化、発生しました。その名は、草稿(下書き)、
草創より生まれ、筆画を省略し、早く筆を続けたことからきています。当初は
一文字のみ崩す筆法でしたが、晋以降、数文字をつなげて書く連綿体として、
現代のような草書に発展していきました。
【行書】
草書より遅れ、後漢頃に成立。創始者は、劉徳升ともいわれています。当初は
隷書の筆画を少し省略した程度。楷書ほどかっちりせず、かといって草書ほど
連綿とはならない、中間的な書体です。
この楷書・行書・草書が、書の三体として今日にいたっているのです。
「民」の字源は、「目を突き刺され、盲目とされた奴隷」。
最後に今日、ぼくたちが普通に使っている漢字について、古代文字の字型から
、
その書体の(隠された)意味を読み取ってみましょう。
【仁 ジン】<a href="http://nobunsha.jp/img/jin.jpg ">画像はこちら</a>「仁」は「人」と声・義ともに同じ、とされています。本来、字型からは、二人
の人間がいっしょにいるカタチ、とされていますが、画像にある古文・金文の文
字は、人の下に二つの小さな点が加えられている。この「ニ」は敷物をあらわす
。
二枚の敷物の上で、人が温かく心地よく過ごすことが「仁」の原義である、とす
る説があります。
【民 ミン】<a href="http://nobunsha.jp/img/tami.jpg ">画像はこちら</a>金文の字型をみると、目を針で刺しているカタチとなっている。古代中国では異
民族の捕虜が奴隷化され、神に捧げられていました。神に仕える者、楽人などは
目を突かれ、盲目とされる。後に、その語義が拡大解釈され、新しく帰属した異
民族すべてが「民」と呼ばれるように。「民」も「人」も本来は本族以外の者を
さす言葉だったのです。
【税 ゼイ】画<a href="http://nobunsha.jp/img/zei.jpg ">像はこちら</a>
「税」という文字は、「禾=稲」+「兌=八+兄(大きな頭の人の意)」で、成り
立ちます。兌の上にある「八」は、左と右に引き離す、人から着物を脱がせるこ
とを意味しています。つまり「兌」は「脱」の原字。もう、いうまでもありませ
んが、「税」とは、人民からその豊かな蓄えを、ごっそり奪い去ることが語源で
す。
〔参考資料〕
新訂 字統 白川静 著 2004.12.15 平凡社
漢字の起源 藤堂明保 著 1983.4.5 現代出版
亀が語る歴史 甲骨文字と漢字の起源 孟世凱 著 S.59.11.26 狼烟社
漢字の話 上・下 藤堂明保 著 1986.7.20 朝日新聞社
漢字文化の源流を探る 水上静夫 著 1997.12.20 大修館書店
新漢和辞典 携帯版 諸橋轍次 他編 S.46.3.1 大修館書店-
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