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  • from: 庵主さん

    2010年08月20日 18時58分19秒

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    西行と芭蕉をつなぐ“能”。第三回

    日本文芸の双璧、西行と芭蕉については、現代の大作家司馬遼太郎も強い憧れをもって、その足跡をたどっています。かの地の歌枕を里程標として、司馬はエッセイ「街道をゆく」で、偉大な歌魂と句魂の交わりを再現する。しばし本文を鑑賞してみます。


    平安末期、西行(1118〜90)がはじめて陸奥へ旅をしたのは、出家して数年後のことで、当然ながら歌枕の聖地をたずねるのが目的だった。
    はるか五百数十年後に江戸中期の芭蕉(1644〜94)が一代の事業として白河の関を越え『奥の細道』の旅をした。西行の跡を慕い、歌枕の地を見たいためであった。

    芭蕉が唐詩(とくに李白、杜甫、白楽天)の影響をふかくうけていたことはみずからも書いている。かさねて、王朝以来の文化的遺産ともいうべき歌枕の地をたずねることによって、自己の文学を完成させようとした。
    ただ、西行も芭蕉もいまの宮城県が太平洋岸における足跡の北限だった。
    (「街道をゆく―北のまほろば」全集65 文芸春秋)


    江戸期の芭蕉は能因を古人として好ましくおもっていたが、それ以上に好きだったのは、源平争乱の世を見た西行法師(1118=90)だった。
    若いころ北面の武士(佐藤義清)だった西行も、能因と同様、恋によってこの世の苦さを知った。そのすえに出家したというより、能因と同様、自由の境涯をのぞんだのであろう。能因が漢籍に通じていたのに対し、西行は仏典に通じていた。かつは武芸の達者でもあった。

    西行はたしかに漂白した。といって無銭飲食というようなものではなく、この人には田地があった。
    だから能因のように国司として下向する公家にくっついて旅をするというみみっちいことをせずにすんだ。また文覚がおそれたといわれるほどの武芸者でもあったから、安全のためにおおぜいに立ちまじって旅をせねばならぬということもなかった。おそかく供ひとりぐらいをつれた豪胆な旅であったのにちがいない。

    西行はその生涯で二度奥州の地を旅した。晩年の旅は『吾妻鏡』に出ているから、年代がはっきりしている。最初の奥州紀行が何歳のときだったか、よくわからないが、諸説を見ると、26から30歳ごろだったにちがいない。

    西行は能因を先行の人として尊敬していた。能因が杖をとどめた以上、象潟へも行ったにちがいない。確実とはいえないらしい。・・・ただ私は研究者ではないから、西行が象潟にきたということを、一義もなく信じている。
    江戸期の芭蕉もむろんそのように信じていた。かれは能因や西行の跡をたどるべく奥州・羽州の山河を歩いたわけで、白川の関をこえるときも、ふたりの古人をおもって感動した。

      風流の初めや奥の田植歌

    という句に、芭蕉の胸のときめきを感じねばならない。「風流の初めや」というのは、なだらかに解すれば、単に「田植歌をきいて奥羽の風流の最初のものに接したよ」という意味になるが、その底に能因や西行をかさね、奥羽こそ詩歌の基礎(はじめ)なのだ、という心がこめられていつかと思える。
    (「街道をゆく―秋田散歩」全集60 文芸春秋)

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