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from: 庵主さん
2010年12月10日 19時33分03秒
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茶人列伝 第六回「わび茶人 善法と丿貫」
茶人列伝最終回は、利休とはまったく違うわび茶の道を歩んだ、伝説の茶人二人をご紹介しましょう。
■粟田口の善法
「京、粟田口の善法。燗鍋(かんなべ)ひとつにて、一生の間、食事をも茶をもまかなった。この善法の楽しみ、胸中きれいなるものとして珠光は称讃した。」
『山上宗二記』
■山科の丿貫(へちかん)
「山科のほとりに、丿貫といえる侘びありしが、常に手取りの釜ひとつにて、朝毎みそうず(雑炊)という物をしたため食し、終わりて砂にてみがき、清水の流れを汲みいれ、茶を楽しむこと久し。一首の狂歌をよみける
手どりめよ おのれは口がさし出たぞ 増水たくと人にかたるな
ある時、利休、
「日比聞きおよびたる侘び也。たずねてみん」
とて、これかれ伴いまいられたれば、丿貫が家の外面に石井あり。休、人馬の軽塵(けいじん)いぶせかりけるを見て、
「比の水にて、茶は飲まれず。各いざ帰らん」
といいて、やや過ぐるを、丿貫聞きつけ、表に出てよびかけ、
「茶の水は筧(かけい)て取るが、それでもお帰りあるか」
という。休、その外の人々、
「それならば」
とて立ちかえり、茶事こころよく時をうつされけるとなん。」
『茶話指月集』
「利休は幼き時は心いとあつき人なりしに、今は志薄くなりて昔とは人変われり。人も二十年づつにして志の変ずるものにや。われも四十才にして自ら棄つるの志気とはなれり。
利休は人の盛んなことまで知りて、惜しいかなその衰うるところを知らざるものなり。世の移り変われるを飛鳥川の淵瀬にたとえぬれども、人は変われることそれより疾し。かかれば心あるものは身を実土の堅きにおかず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなかようにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。
蓮胤(鴨長明)は蝸牛にひとしく家を洛中に曳く。われは蟹に似て他の掘れる穴に宿れり。暫しの生涯を名利のためにくるしむべきやと、いとおしくおもう。」
柳沢淇園『雲萍雑誌』より。丿貫が利休を評した文。
〔粟田口の善法〕
粟田口善法とは、みやこ粟田口に、囲炉裏ひとつという草庵に住み、客をもてなすにあたっては囲炉裏に懸かった釜で飯を炊き、そのごその釜を清めて茶を点ててもてなしたという、侘びた風情の極致ともいえる伝説の茶人である。
「粟田神社の前の細い東海道をなおも日ノ岡峠に向かうと良恩寺があります。
このお寺の宝として、少し変わった釜が残されています。この釜にまつわることとして次のようなお話が残されています。
昔、粟田口に住む善法さんと言う人が珍しい釜を持っていました。
釜の形は茄子型で口がツンと突き出し、善法さんは余程、この釜が気に入っていたとみえ、片時も離さず、何をするのもこの釜で済ませていました。飯を炊いて食事をしたり、道行く人に一服の茶を与えたり、・・・このことを聞いた秀吉はこの釜で茶会をするよう利休に命じました。
善法さんはこのことを知って、この釜があるからこのようなつまらないことを言われるのだ・・・と言って大事にしてきた釜を石で打ち砕いてしまいました。
これを聞いた秀吉は、「善法は本当の茶人」と感心し、似せた釜を二つ造り、一つは秀吉、一つは善法さんに与えました。
現在、これが良恩寺の寺宝となって大切に保管されています。」
(東山三十六峰の内、第二十峰 粟田山より)
http://www.geocities.co.jp/Athlete/4001/yama20.htm
〔山科の丿貫〕
戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人。名の表記は、丿恒、丿観、別貫などとも。なお「丿(ヘツ、ヘチ)」は、カタカナの「ノ」ではなく、漢字である。
京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも言われる。一説に拠れば医師曲直瀬道三の姪婿だといい、武野紹鴎の門で茶を修めたという。山科の地に庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって知られた。久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)によれば、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が主催して行われた北野大茶湯の野点において、丿貫は直径一間半(約2.7メートル)の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜ったという。
江戸時代中期に成立した藪内竹心の『源流茶話』によれば「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」と書かれており、当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追求していたようである。同じく久須見疎安の『茶話指月集』には、丿貫が手取釜1つで雑炊も煮、茶の湯も沸かしたなど、清貧ぶりを伝えている。いっぽうで、当時の茶人・数寄者との交流もあり、特に千利休とは親交していたという。ただし江戸後期の柳沢淇園『雲萍雑誌』には、利休と茶道を争い、世間に媚びることの多い友・利休の茶風を嘆いたとも書かれている。巷間では、千利休を自庵へ招待した際、庵の前に落とし穴を設けて利休を陥れ、沐浴させて新しい着物を供したなどとの逸話も伝えられているが、伝説の域を出ない。
晩年は薩摩へ下ったという。薩南学派の南浦文之の詩文に丿貫との交流を伺わせる詩句がある。同地で没したと思われ、『三国名勝図会』鹿児島郡西田村に「丿恒石」なる塚が記されている。
表千家の良休宗左(随流斎)の記述によれば、露地で履く雪駄は、元は丿貫の意匠から出たものだという。
(Wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BF%E8%B2%AB-
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