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  • from: 庵主さん

    2017年03月24日 18時46分49秒

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    大江匡房『遊女記』現代語訳 公開

    大江匡房の『遊女記』は、『傀儡子記』の姉妹編として、中世の遊女を知る根本史料と位置付けられています。

    匡房晩年の著と見られ、江口・神崎・蟹島の遊女の実態を生き生きと伝える、中世芸能・風俗の必須文献です。

    本著の特徴は、匡房が属した当時の中流貴族の嗜好や価値観を明確に示す点。叙述が具体的かつ詳細である点。また、同時代の他の著書(『栄花物語』『扶桑略記』など)とも事実関係が正確に合致する点にあります。

    奈良時代の遊行女婦(うかれめ)、平安時代の遊女・傀儡女から、近世の芸妓・花魁・太夫などへとつながっていく、遊女文化の系譜がまさにここから紡がれていくのです。

    今回は、岩波書店『日本思想体系8 古代政治思想』所収の「遊女記」読み下し文を底本としながら、華頂博物館学研究『遊女記について』田中嗣人の地史学的見地による新たな解釈の読み下し文も参照し、【言の葉庵】現代語訳を作成しました。

    以下、〈原文・読み下し文〉〈現代語訳〉の順にご紹介しましょう。

    〈原文・読み下し文〉

    山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽・西海・南海の三道を往返する者、この路に遵はざるなし。江河の南北、邑々処々にあり。流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。

    摂津国に至れば、神崎・蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成し、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れざるなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なり、殆(ホトンド)水なきがごとし。蓋し天下第一の楽しき地なり。

    江口は則ち観音を祖と為し、中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は則ち宮城を宗と為し、如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為し、孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及ぶまで、牀笫(ユカムシロ)に接し慈愛を施さざるなし。また人の妻妾と為りて、身を歿するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は則ち住吉、西は則ち広田、これをもて徴嬖(チョウヘイ)を祈る処と為す。殊に百大夫に事(ツカ)ふ。道祖神の一名なり。人別に□之数を剜し、百千に及ぶ。能く人心を蕩す。また古風のみ。

    長保年中(999~1003)、東三条院は住吉社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せらる。長元年中(1028~36)、上東門また御行あり。この時宇治大相国は中君を賞(メ)でらる。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき。狛犬・犢(コウシ)等の類、舟を並べて来れり。人神仙と謂へり。近代の勝事なり。

    相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞でんがため、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入るの輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに見ゆるをもて事と為すが故になり。得るところの物、これを団手と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿厲の色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平分肉之法あり。その豪家の侍女の上下の船に宿る者、これを湍繕と謂ひ、また出遊と称す。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに髺俵(キッピョウ)・絧絹(トウケン)の名あり。舳に登指を取りて、皆丸分之物を出すは習俗の法なり。

    江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記すのみ。

    『遊女記について』田中嗣人(華頂博物館学研究 5, 1-11, 1998-12)

    〈現代語訳〉

    山城国与渡津※1より、巨川※2を西に舟で一日行ったところに河陽がある。山陽・西海・南海の三道を行き来する者なら、必ず通る道である。

    巨川の南岸と北岸には村々が点在している。南岸河内国より、川が支流となったあたりが江口である。ここに、典薬寮味原の牧、掃部寮大庭の庄がある。

    摂津に至れば、神崎・蟹島などの地がある。ここには(娼家が)門を並べ、(遊女の宅が)戸を連ねて、人家は絶えることもない。

    娼女どもは群れをなし、小舟に棹さして、客船に取りつき枕席をすすめているのだ。

    女が客を呼ぶ声は川霧をせき止め、音曲の音は川風に漂う。これには旅人もつい家庭を忘れてしまうのである。洲には蘆が生い茂り、白浪は花のごとし。翁の釣り船や酒食を商う舟、遊女の舟などの舳と艪が接し、水面も見えぬほどのにぎわいである。まさに天下一の楽園だ。

    江口では観音という遊女を祖として、以下、中君・□□・小馬・白女・主殿という名の遊女がある。蟹島では宮城という遊女を宗として、以下、如意・香炉・孔雀・立牧などがいる。神崎では河菰姫を長者として、孤蘇・宮子・力命・小児などがいる。これら名妓どもはみな、倶戸羅※3の再誕のような美声と衣通姫の生まれ変わりのような美貌をもっている。

    上は公卿・貴族から、下は庶民にいたるまで、これら遊女の寝屋に導かれたなら、身も心もとろけさせられてしまう。中には身分の高い人の妻や妾となって、生涯愛される遊女もいるほどである。聖人君子といえどもこの誘惑からどのように免れえようか。

    さて遊女どもは、南の住吉大社、西の広田神社を信奉し、千客万来を祈願した。

    とりわけ百大夫※4、別名道祖神を厚く信仰した。願掛けのため、遊女どもはめいめいで百大夫の神像を作り、神社へ奉納したが、その数は百・千にも及んだ。効験あって、客の心を虜にしたが、こうした古い習俗をもっていた。

    長保年間、東三條院は住吉大社・四天王寺に参詣されたが、この時藤原道長公は小観音という遊女を寵愛した。長元年間、上東門院が再び同地へ御幸された。この時、藤原頼通公は中君という遊女を愛でられたのだ。延久年間には後三條院が同じくこれら寺社へ御幸された。この時には、狛犬や犢という遊女が船を並べて華やかに群集したが、人々は神仙境であるとし、近年の慶事であると称したものだ。

    また、このようにも伝えている。

    殿上人や風流子が、遊女を愛でるために京より河陽へ行く時は、江口の遊女を愛した。地方の役人や庶民が、西国より川に入った時には神崎の遊女を愛したという。これは、最初に訪れた(遊女の)里がそこであったためである。

    遊女の収入を「団手」と称した。団手配分の場になると、女の身ながら羞恥の心を捨て、闘争心をむき出しにし、取り分の多寡をめぐる争いは、さながら戦のようである。生絹の反物は一尺一寸まで切り取り合い、米粳の配分は一斗一升を厳密に計って行う。遊女の社会には、古代中国の陳平が公平に肉を分かつ法が今も生きているのだ。

    権門の家の侍女の中には、遊女の舟に乗る者※5があり、これを「湍繕※6」または「出遊」と呼んだ。少額の報酬を得て、一日の助けとしたのである。よってまたの名を「髺俵※7」、「絧絹※8」などともいう。この女どもが乗る船には、舳先に高い柱が立てられ、丸い印が掲げられていた。こうしたことも遊女の世界の決まり事である。

    遊女のことは、大江以言の『見遊女詩序』にあるが、このたびはその他の見聞をしたためた。

    ※1山城国与渡津 京都市伏見区淀

    ※2巨川 淀川

    ※3倶戸羅 インドの黒ホトトギス。好声鳥

    ※4百大夫 陰陽道の神。匡房の時代には神仏混交により、道祖神と同一視しているが本来別の神。『傀儡子記』の百神と同じ神であろう

    ※5遊女の舟に乗る者 江口の観音など専門の遊女に対して、素人の日銭稼ぎの遊女

    ※6湍繕 「早く繕う」。すなわち短期の稼ぎ手。「出遊」は出張の稼ぎ手

    ※7髺俵 俵、すなわち米を入手するために仮に鬘をつけた女=遊女の意か

    ※8絧絹 絹を入手するために仮の装束をつけた女=遊女の意か

    (能文社 水野聡訳 2017年3月26日)

    ◆参照ページ

    【言の葉庵】大江匡房『傀儡子記』現代語訳

    http://nobunsha.jp/blog/post_202.html

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