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from: 庵主さん
2010年02月15日 08時21分47秒
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世阿弥「秘すれば花なり」の正しい意味は?
その1秘すれば花なり。その2初心忘るべからず。〜世阿弥「風姿花伝」第七別紙口伝より。[クイズ]創刊第一回目は、誰でも知っている有名な、この二つの名言か
その1
秘すれば花なり。
その2
初心忘るべからず。
〜世阿弥「風姿花伝」第七 別紙口伝より。
[クイズ]
創刊第一回目は、誰でも知っている有名な、この二つの名言から。まずは、クイズです。この言葉の正しい意味を下の二つから選んでみてください。
「秘すれば花なり」の正しい意味は…
①本当に重要なものは、他人から隠しておかなければならない。
②他人に隠しているものは、本当は大したものではない。
「初心忘るべからず」の正しい意味は…
①初志貫徹すべきである。
②初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない。
[正解と解説]
世阿弥は、室町時代申楽観世座の二代目太夫。代表的な能役者であるとともに、能作家、能楽理論家として今日の能の基礎を確立した大芸術家です。すべてで二十一作ある世阿弥の能楽理論書の内、代表作がこの風姿花伝。「秘すれば花なり」、「初心忘るべからず」をはじめとする数々の名言・名文を含む、世界でも類を見ない芸術家自身による偉大な芸術理論書です。
さて、「秘すれば花なり」の正解は、②の「他人に隠しているものは、本当は大したものではない」です。
各家に相伝・継承される芸道の秘伝というものは、秘して他人に知られないことにより、最大の効果を発揮するものである、と世阿弥は述べています。秘伝されたものそれ自体は、種明かしをしてしまうと必ずしも深遠なものではない。しかし、誰も気付いていないという、珍しさ、意外性により、感動を生む芸となったり、相手に勝つ秘策ともなる。秘することそのものが芸に最大の花を生む秘伝である、というのがこの言葉の正しい意味となります。
「初心忘るべからず」の正解は、②の「初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない」です。
役者の年齢による、その時々のもっとも旬の演技を常に忘れず、芸の種類、幅として保持し、いつでも披露できるようにすること。初心、若年のみずみずしい舞台姿、青年期のはつらつとした芸、中年期の円熟、壮年期の老成した芸。世の能役者、これらすべてを、年齢と芸位の進歩に従って、以前の芸を恥じては捨て、捨てては忘れしてしまうことを世阿弥は戒めます。
「花はこころ、種はわざ」ともいっていますが、初心の芸を捨て去ることは、芸に何百種類もの花を咲かせるための大切な種を捨ててしまうこと。これらの芸は年々に来たっては去る花、すなわち「年々去来の花」であり、これをくれぐれも忘れるべからず、ということがこの句の真意です。
[本文抜粋]
一. 秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。この違いを知ることが、花を知る重要点である。そもそも一切、諸道、諸芸において、その家々で秘事とされるものは、秘することによって大きな効用があるゆえである。つまり秘事は露見すれば、秘密にしておく程のものではないのだ。これをそれほどのものではないという 者もいるが、それは未だ秘事の大きな効果を悟らぬゆえである。まずこの花の口伝、「ただ珍しさが花なのだ」ということをすべての人が知ってしまえば、さあ、珍しいものが見られるはずだと思い期待する観客の前では、いくら珍しい芸を披露してみたところで見ている人の心に珍しいという感覚が生まれるはずもない。見ている人にとってそれが花だということがわからないからこそ、シテの花ともなるものなのだ。されば見る人が思いのほか面白く演じる上手だ、とのみ感じ、これが花だとわかっていないことがシテにとって花となる。つまりは人の心に思いも寄らない感動を呼び起こす手立て。これこそが花なのである。
たとえれば弓矢の道の手立てにも、名将の案と計らいにて思いも寄らぬやり方で、強敵にも打ち勝つ例がある。これは負けた側から見れば、珍しさの理に惑わされて、敗れてしまったのではなかろうか。これが一切、諸道諸芸において勝負に勝つ理である。こうした手立ても事決して、こういう謀だったと知れてしまえば、後で批判することはたやすい。が、前もって知らなかったからこそ負けてしまったのである。
さて、これを秘事のひとつとして当家に伝承する。これにてわきまえよ。たとえ秘事を明かさないにしろ、かような秘事を持つらしいと人に感づかれることさえあってはならない。人に感づかれる時、敵であれば油断せずに用心し始めるので、かえって注意をひきつけることになってしまう。敵方に用心させなければ、勝つのはいともたやすい。人に油断させ勝利を得ることは、珍しさの理の大きな効果ではないか。すなわち当家の秘事として、人に悟られぬことにより生涯咲き続ける花を持つ主となることを授ける。秘すれば花、秘せずば花なるべからず。
さらに、十体より大事なことは、年々去来の花を忘れぬことだ。たとえば十体とは物真似の品々のことだが、年々去来とは幼ない頃の容姿、初心の時の技、油の乗った時分の演技、壮年期のたたずまいなど、その時代時代に自然と身についた芸をすべて今、一度に持つことである。ある時は少年や若者の能に見え、ある時は全盛のシテかと思い、またある時には、いかにも〓たけて年季の入ったように、同じ役者とは思えないような能をすべきである。これすなわち幼少時より老後までの芸を一度にもつ理である。それで毎年毎年、去ってはまた来る花とはいったのだ。
ただし、この位に至ったシテは、今にも昔にも見聞きしたことがない。亡父観阿弥、若い盛りの能では、〓たけた芸がことのほか得意であったなどと聞いているのだが。四十過ぎの能は見慣れているので間違いない。自然居士の物真似に、舞台の演技をご覧になった時の将軍より十六、七の役者に見えたとお褒めいただいたものだ。これはまさしく人もいっていたし、自身の目でも見たことなので、この位に相応している達人だと思ったことである。
このように若い時分には行く末の年々去来の芸を得、年とってからは過ぎしかたの芸を身に残すシテ。これまで二人と見たことも聞いたこともないものだ。
されば初心よりこのかた芸能の品々を忘れず、その時々、用々に従って取り出だすべし。若くして年寄りの風情、年とってなお盛りの芸を残すこと。珍しくないはずがあろうか。されば芸の位が上がったといって、過ぎし芸風をやり捨てやり捨てしては忘れてしまうこと。ひたすら花の種を失い続けることとなる。その時々に咲く花ばかりで種がなければ、手折られた枝の花のようなもの。種があり、毎年毎年季節が廻りさえすれば、なぜまたその花に逢えないことなどあろうか。ただかえすがえすも、初心忘るべからず。されば常の批評にも、若いシテに「はや完成した」「年季が入っている」などと褒め、老シテには「若やいでいた」などというのである。これぞ珍しさの理ではあるまいか。十体をそれぞれ彩れば百色にも及ぶ。さらにその上、年々去来の品々を今一身に持てたとしたら、どれほどの花になることであろうか。
→風姿花伝はこちら
http://nobunsha.jp/book/post_9.html
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from: chirinnさん
2019年03月12日 23時13分45秒
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こう言うお話が聞ける機会を切望していたので、参加できて嬉しいです。
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