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  • from: 庵主さん

    2026/09/02 15:28:36

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    [日本語ジャングル] 聖と俗の境目 ~凡人から学ぶ賢者。

    今回の日本語ジャングルは、聖と俗(賢人と凡人)、とりわけ二者の学びの違いに焦点を当てて、歴史的な逸話の中から学んでいきたいと思います。世阿弥の名言「上

    今回の日本語ジャングルは、聖と俗(賢人と凡人)、とりわけ二者の学びの違いに焦点を当てて、歴史的な逸話の中から学んでいきたいと思います。

    世阿弥の名言「上手は下手の手本、下手は上手の手本」。
    【言の葉庵】名言名句 第五回 http://nobunsha.jp/meigen/post_29.html

    聖徳太子の名言「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず」。
    【言の葉庵】名言名句 第二十二回 http://nobunsha.jp/meigen/post_85.html

    上の二つの名言は、達人、偉人とされる人々が、一見凡人よりもすべてにおいて優れていると考えがちですが、実はそうでもなく、ただ謙虚に頭を下げ、耳を傾けることの大切さを説いたものです。目下の人から積極的に教えを乞おうとする人こそ本当の賢人なのかもしれません。

    今回は、古の名人や帝王が、一般庶民の言葉に耳を傾け、素直に学んだ実例を古典名著からいくつかご紹介したいと思います。

    まずは、名歌人の例を二つ。西行と宗祇がそれぞれ、名もなき庶人と歌で交わり、その巧みな返歌に舌を巻き、教えられたという逸話です。

    1. 西行と遊女

    西行が江口の遊女の家に宿を借りたことは、撰集抄第九に、次のように出ています。
    「過ぎぬる長月二十日あまりの頃、江口といふ所を過ぎ侍りしに、家は南北の川にさしはさみ、心は旅人の往来の船を思ふ。 遊女の有様いとあはれにはかなきものを見立ちし程に、冬を待ち得ぬ村時雨の、さえくらし侍りしかば、賤が伏屋にたち寄り、晴間待つ間をかり侍りしに、あるじの遊女許す気色の見えざりしかば、何となく、

    『世の中を厭ふまでこそかたからめ、かりの宿りを惜しむ君かな』
    とよみて侍りしかば、あるじの遊女うちわらひて、

    『世をいとふ人とし聞けばかりの宿に、心とむなと思ふばかりぞ』
    と返して、急ぎ内に入り侍りき。 ただ村雨のほどの暫しの宿とせんとこそ思ひ侍りしに、この歌の面白さに、一夜のふしどとし侍りき。 この主の遊女、今は四十余りにもやなり侍らん、みめことがらさまもあてにやさしく侍りき」

    この贈答歌は新古今集巻十の覇旅歌にも、西行の歌として出ており、その詞書には、

    「天王寺へ参り侍りけるに、俄かに雨降りければ、江口に宿をかしけるに、かし侍らざりければ、よみ侍りける」

    として、返歌の主を「遊女妙」としているのです。

    2. 宗祇戻り橋

    むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
    「何用にて、何処方(いずかた)まで」
    と問う。右の由、説明すると、女、
    「それは、妾、さきほど付けました」
    と答えて消えた。

    月日の下に独りこそすめ
    付句
    かきおくる文のをくには名をとめて

    と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。
    (『曾良旅日記』能文社2008)

    古来、消息(手紙)の文末には、何月何日と日付を書き、続いて差出人の名をしたためたことから、付句に「文の奥には名をとめて」と件の女が詠んだのでしょう。

    さて次は、中国の名君主が市井の人々から思いもよらぬ教えを受け、襟を正したという逸話です。
    古代中国において"春秋五覇"と称せられる名君主、晋の文公と斉の桓公が、それぞれ庶民から学んだ例を史書からひもといてみましょう。

    3.晋の文公と漁師

    (魏徴は)さらに奏上を続ける。
    「昔、晋の文公 が狩猟に出かけ、碭山(とうざん)で獣を追いかけました。気がつくと大きな沢に迷い込み、出道がわからなくなってしまう。と、そこにひとりの漁師と出会いました。文公はこれにいう。
    『われこそ汝の主君である。この沢を出る道を教えよ。厚く褒美を取らせよう』
    漁師は答える。
    『わが君に申し上げたいことがございます』
    『沢を出てから聞こう』
    それで道案内をし、二人は沢を出ました。文公はこういいます。
    『今あなたが私に教えようとしたのは何か。どうかいってほしい』
    漁師はいう。
    『鴻(こう)や鵠(こく) は大河や大海に巣を作ります。しかしそこに飽き、小さな沢に移り住めば、鉄砲の餌食になる恐れがある。また、大きな鼈(すっぽん)や大鰐(おおわに)は深い水底にひそみます。しかしそこに飽き、浅瀬に浮かび上がれば、網や釣針にかかってしまう恐れがある。今君は、碭山(とうざん)で獣を追いかけ、この沢に迷い込まれました。はなはだ深入りされたものです』」

    「文公は『善きかな』といい、従者に漁師の名前を聞き取らせようとした。
    そこで漁師はいう。
    『君は私の名など知られても仕方ありません。君が天を尊び、地に仕え、社稷を敬い、四海を保って、万民を慈愛し、その負担を薄くし、租税を軽くすれば、君の臣たる自分もその恩恵にあずかることができます。しかし君が、天を尊ばず、地に仕えず、社稷を敬わず、四海の守りをおろそかにし、外は諸侯への礼を失し、内は人心に逆らって、ついに国中の民が流浪することになれば、一漁師である私に手厚いご褒美を賜ったとしても保つことはできませぬ。それで名乗る必要はない、と申し上げました』
    漁師はついに辞退し、文公の褒美を受けませんでした」

    太宗は「卿のいうとおりである」と答えた。

    (『貞観政要』巻第五 論忠義 第十四 第八章 能文社 2012)

    4. 桓公と大工

    桓公が堂上で読書をしていた。車輪作りの扁は堂下で作業していたが、槌と鑿を置いて堂上に登り、桓公に尋ねた。
    「公がお読みになっている本には何が書いてあるのですか。ぜひお教えください」
    公は言った、
    「聖人の言葉である」
    「その聖人はまだ生きているのですか」
    「いや、すでに亡い」
    「それでは君が読んでいるのは、ただの古人の残りかすですね」
    桓公は言った、
    「我が読書をすることに、車大工が意見しようというのか。なぜそのようにいったのか説明できれば許す。さもなくば死を与えん」
    輪扁は言う、
    「臣は職人の経験からそのように申しました。車輪の軸穴をゆるく作れば軸が固く締まらず、逆にきつく作れば今度は軸が穴に入りません。ゆるくもなくきつくもないはまり具合というものは長年の手仕事によってやっと得心できるようになるもの。口では説明できません。理屈も確かにあるとは思いますが、臣は息子にそれを伝えることができません。息子もまた、これを受け継ぐことはできません。ゆえに臣は七〇歳になっても、自ら車輪を削っております。
    古の聖人と、言葉で伝えることができないものは、もはや死にました。それならば公の読んでおられるのは、古人の残りかすだけではありませんか」

    (『荘子』外扁 巻五中 第十三 天道 水野聡訳 2012)

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  • from: 庵主さん

    2011/06/15 19:46:42

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    『千利休由緒書』現代語訳

    千家所蔵の茶道史史料のひとつ、『千利休由緒書』。江戸初期、紀州徳川家による徳川家康年譜作成事業に伴い、千家系譜を作成。同藩儒臣により、表千家四世江岑宗

    千家所蔵の茶道史史料のひとつ、『千利休由緒書』。江戸初期、紀州徳川家による徳川家康年譜作成事業に伴い、千家系譜を作成。同藩儒臣により、表千家四世江岑宗左逢源斎へ直接下問、その内容を記録させたものと伝えます。当時元伯宗旦は高齢にて存命。宗左は不明部分を随時、父宗旦に問い合わせながら答えました。
    利休経歴と系譜について、生前の利休を直接知る人々から聞き合わせた『千利休由緒書』。茶道史史料としての信憑性は、数ある利休関係茶書の中で高く評価されています。

    本書内容は、まず利休の系譜。足利義政の同朋衆であったとされる、利休祖父田中千阿弥から、茶の湯の師、村田珠光、武野紹鴎の足跡にも及びます。筆録者より質問が集中した、利休賜死の真相と経過については当然多くの紙幅が割かれることに。利休と秀吉の確執、大徳寺山門木像事件の経緯、切腹当日の様子、少庵、道安の処置。そして秀吉の死後はじめて明かされた、利休娘の聚楽第奉公のいきさつ。利休をめぐる多くの歴史の真実が、浮き彫りとなる好資料といえましょう。

    言の葉庵では『千利休由緒書』を歴史ファン、一般の方に、もっと身近に触れていただこうと、読みやすい直訳にてお届けしました。今回、「信長・秀吉・家康と利休」「天正十九年、利休賜死にいたる過程」「利休娘の聚楽第奉公」の三つの段落をご紹介しましょう。


    『千利休由緒書』 現代語訳抜粋版 水野聡訳 2011年6月


    紀州徳川藩茶堂、江岑宗左談。同藩臣李一陽、宇佐美彦四郎筆録。承応二年編、寛文六年編


    (質問)
    利休は、いつ頃信長公に召しだされたのか。

     以下、宗左の返答。当時堺では、地元の茶人、今井宗久(菜屋)、津田宗及(天王寺屋)二名の茶名が高かったゆえ、信長公より各々三千石が下されていた。宗久は利休と親友であったため(利休は紹鴎の弟子。宗久は紹鴎の婿であったため親友となった)、利休を信長公に推薦する。利休は安土城に召され、茶を差し上げたが、ことのほかすぐれた点前であったゆえ、即座に三千石をもって召しだされることとなる。その後、安土へ詰め、毎度の茶の湯と茶堂を命ぜられ、並ぶもののない出世を遂げたのである。
     天正六年信長公は上洛。そのまま堺へ赴き、宗久、宗及、道叱宅にて茶会を開かれたが、その折、利休宅へも立ち寄られ茶を召し上がられたという。信長公が亡くなられた後は、秀吉公に召し出され、引き続き天下の茶堂としてご奉公することとなる。

     天正十二年春、秀吉公と家康様の間で合戦となった。秀吉公は不利であったため、自ら家康様の妹婿となって和談をすすめた。にもかかわらず家康様は上洛しようとなされぬゆえ、大政所様を岡崎へ人質として差し出されたのである。
     これにより、ようやく家康様は上洛。新町通三条猪熊の南、中島清延宅に到着された。これを聞いた秀吉公は早馬にて一行の旅宿、茶屋四郎次郎(訳者注 中島清延のこと)屋敷へ駆けつける。ここに家康様との対面がなったのである。この時、利休は棗の茶入を襟にかけ、秀吉公につき従う。家康様へ、茶弁当にて点前し、茶を一服差し上げた。秀吉公が、
    「徳川殿。この坊主を知っておられるか」
     と話しかけられた。家康様は、
    「いずれかで見かけたような」
     とのご返答。秀吉公、
    「この者は千宗易と申して、今の天下の名人です」
     家康様、
    「なるほど。安土城で度々見かけたゆえ見覚えていました」
     と仰られた。秀吉公は、
    「昨年、閏八月より聚楽第工事を始めました。残念ながらいまだ完成しておりませんので、大坂城にて貴殿を歓待いたしたい。私は明日大坂へ参りますので、家康殿もぜひご一緒に」
     と誘い、二人で大坂へ出向いたのである。
     さっそく大坂城天守にて利休を亭主として茶会が開かれた。秀吉公も客となって、家康様、織田常真 (信雄)様同座にて、利休が茶を点てたという。その場で秀吉公は白雲の大壺と不動国行の太刀を引き出物として家康様に献じる。このことがあってより、家康様の御前へ利休は召されるようになり、ねんごろな間柄となったのである。


    (質問)
    利休賜死にいたる過程はいかようなものか

     宗左の返答は以下。大徳寺山門を再興したことに端を発する咎である。大徳寺山門は、応仁の乱以来、破壊されたままこれを立て直す人もなかった。連歌師島田宗長が再興に取り掛かったものの資金不足により門が出来上がったばかり。上の閣を欠いていたため、利休が作事を引き継ぎ、門の上に閣を建てたのである。額を掲げ、己の木像を造らせ閣上に設置させた。像には頭巾を被らせ、尻切雪駄を履かせた。このように天下に傑出し、無双の出世を遂げたため、讒言する輩もある。これらを耳にし秀吉公は機嫌を損ねたのであろう。
    竜宝寺の山門は帝も行幸なされ、院も御幸、摂家・清華家の尊貴な方々、みな通られる門である。その門上にわが木像に草履を履かせ据え置くとは無礼千万、との咎めによって、天正十八年霜月に利休を勘当。翌十九年正月十三日堺へ追い下され、閉門が命ぜられた。

     加賀大納言前田利家卿より内々に、
    「大政所様、北政所様に助力を仰ぎ、詫びをお入れすれば許されるであろう」
     と申し入れがある。利休は、
    「天下に名の知られたわれらが、命惜しさに女性方に泣きつくなど、無念の極み。たとえ命を落とそうともいたしかたございませぬ」
     とお断り申し上げた。

     二月二十六日、秀吉の命により帰京。葭屋町の自邸に入る。そうしたところ、利休弟子の諸大名が身柄を奪回せんとの噂が立つ。秀吉公は上杉景勝に命じ、侍大将三人、足軽大将三人に率いられた六組、総勢三千人の軍勢により利休屋敷をひしひしと取り固めて両日厳しく警固させたと伝える。
     同月二十八日、尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守を検使に迎え、利休は切腹して果てた。辞世の頌(しょう)、和歌を別紙に書き留め宇佐美彦四郎に渡した。


    ・秀頼公の小姓、古田九郎八直談の十市縫殿助(といちぬいどのすけ)物語

     天正十七年二月、秀吉公は東山近辺へ鷹狩に出かけられた。黒谷吉問(田か)近くで、手に鷹を据え徒歩で通る道すがら、畑の中に花見帰りらしい、三十歳ばかりの女房を見かける。乗り物を供にもたせ、幼児を三人連れ、下人男女十人ばかりを従えている。先払いの木下半助が「上様の御成りである。脇へ控えよ」と告げたため、かの花見一行は柳陰にてつくばい控えていた。
     秀吉公が側を通りながら見てみると、主人とおぼしき女房は器量が類稀なほどすぐれ、年も三十、女盛りの様子。そこで供の小姓を使いに遣り、
    「何者の妻女であるか」
    と聞かせると
    「千利休娘、万代屋宗安の後家でございます」
     と答えた。

     聚楽第に戻った秀吉公は、寵愛する尼、幸蔵司(こうぞうす)を呼び、かの女房へと書状を届けさせた。
    「聚楽第へご奉公にお出でなさい」
     との内意。女房は、
    「幼少の子等が大勢おりますので、ご奉公には参れません。どうかお許しください」
     と上意には応じなかった。
     秀吉公は徳善院 (前田玄以)を使いとして、父利休へ「娘を奉公させよ」と命じさせた。利休は、
    「娘をご奉公に差し出したならば、きっと人に、利休めは娘のおかげで出世した、となじられましょう。そのようなことにでもなれば、これまでの佳名もみな水に流れてしまう。思いも寄らぬことでございます」
     と強く要求をはねつけたのである。秀吉公よりその後三度まで命ぜられたにもかかわらず、利休は頑として受け入れなかった。そのため秀吉公は、はなはだ利休を怨むようになったのである。
     しかしこれしきのことで罰しては、世間の目もいかが、としばし目をつむり、
    「利休の罪を待ち、その折誅伐してくれよう」
     と思っていた。まさにこうした時、大徳寺山門の件が耳に入り、ついに利休は誅伐されたのである。

     以上は、古田九郎八の直談を長曽我部盛親方にて十市縫殿助が聞いたものである。大坂城落城後に、十市縫殿助が語ったところによる。九郎八は古田織部の嫡子、秀頼公の小姓組であった。

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    from: 庵主さん

    2026/06/22 19:00:03

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    百首のセレクトです。

    from: もずやさん

    2026/05/05 16:56:20

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    これは全文でしょうか。

  • from: 庵主さん

    2026/06/22 11:39:06

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    2026年6月『現代語訳 梁塵秘抄』発刊

    【言の葉庵】水野聡訳による、古典翻訳シリーズ最新作『現代語訳梁塵秘抄』がPHP研究所より発刊されました。・書名現代語訳梁塵秘抄・編・訳後白河法皇編纂、

    【言の葉庵】水野聡訳による、古典翻訳シリーズ最新作『現代語訳 梁塵秘抄』がPHP研究所より発刊されました。



    ・書名 現代語訳 梁塵秘抄
    ・編・訳 後白河法皇編纂、水野 聡訳
    ・価格 2,145円(税込)/1,950円(本体価格)
    ・出版社 PHP研究所
    ・発売日 ‏ 2026年6月17日
    ・本文ページ 208ページ
    ・判型 四六判並製
    ・ISBN 978-4-569-86121-0

    ●PHP研究所 ホームページ
    https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-86121-0

    ●AMAZON ホームページ
    https://x.gd/m6iog

    梁塵秘抄は、平安時代末頃、後白河法皇自らが編纂した今様の歌謡集である。
    今様は当時の流行歌謡で、上は皇族・貴族から、下は遊女や傀儡、農民、漁師にいたるまで、あらゆる階層の人にもてはやされた。その歌の内容も、神仏鑽仰をはじめとして、恋歌、親子の情、出世願望、博奕、労働歌、衣装の流行、わらべ歌、虫の歌、名所めぐりなど、実にさまざまである。どの歌にも作者の等身大の思いが込められ、千年経っても人の心は変わらない、と実感させらる。むしろ現代の流行歌よりも、感受性、想像力、創造力では、より豊かなのでは......とさえ思う。知恵や共感力、ユーモアは決して古くはならないからだ。

    本書は、梁塵秘抄より百首を選び、それぞれに〔原文〕〔現代語訳〕〔鑑賞ポイント〕を付した。原文の良さが失われぬよう、かつ自然な現代語としてスラスラと読めるよう、工夫を凝らした現代語・新訳として提供する。

    梁塵秘抄 巻第一  長歌/古柳/今様/ 梁塵秘抄 巻第二 法門歌仏歌/法門歌雑法文歌/四句神歌 神分/四句神歌 仏歌/四句神歌 僧歌/四句神歌 霊験所歌/梁塵秘抄口伝集 巻第一 梁塵秘抄口伝集 巻第二 までを収録。
    口伝集では、後白河法皇がどのように今様に傾倒し、どのように習い、集めたのか、ひとりの人間としての情熱が生き生きと立ち上がる。

    遊びをせんとや生まれけむ――『現代語訳 梁塵秘抄』は、今様を通して中世の人々の深遠な「人生観」に迫る一冊である。

    (AMAZON商品ページのPHP研究所 書籍案内文より)

    「今様」とは直訳すれば「現代風」、すなわち流行歌謡のことです。

    千年前に貴賤問わず大流行した今様は、鎌倉以降衰退し、ほとんどどのよう歌われたのか現代では不明となってしまいました。しかし法皇の高貴な身分でありながら、この今様を熱烈に愛したのが、後白河法皇です。
    今様の担い手である傀儡女や遊女等と交わり、自ら歌唱を習得し、秘伝を相伝されます。そして当時民間に愛唱されていた多くの今様を収集し、自ら編纂したのが『梁塵秘抄』です。現在、残されたのはそのごく一部のみですが、全二十巻5000首以上収録されていたとも考えられており、もしも全巻現存すれば、万葉集にならぶ堂々たる歌謡集となっていたはずです。
    今も折々に口ずさまれる「遊びをせんとや生まれけむ」、「我が子は二十に成りぬらん」、「舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)舞はぬものならば」、「仏は常にいませども」などの高名な今様歌が、どのような節と囃子で実際に奏され、白拍子がどのように美しく舞ったのか、と想像すると、平安時代の流行への興味は尽きません。

    「詩を作り、和歌を詠み、書をものする人々は、それを書き留めれば、後の世までも朽ちはしない。歌唱の悲しさは、自分が死んだ後、残らないということである。それゆえ、われ亡き跡に後の人々に見てもらうため、これまでなかった今様の口伝を作り遺した」
    と、後白河法皇は別伝である梁塵秘抄口伝集で述懐しています。

    帝王がなにゆえ、庶民の流行歌にかほど耽溺したか、その秘密を探り当てるため、梁塵秘抄より珠玉の今様歌を百首よりすぐり、それぞれに意味はもちろん拍や調子も考慮した現代語訳と、時代や文化的背景を案内した鑑賞ポイントもセットで収録しました。
    平安時代の人々の息遣いを間近で感じていただけたら、と思います。

    (訳者 水野聡)

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