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from: 21世紀さん
2009年07月19日 11時33分18秒
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【昭和正論座】東工大教授・江藤淳 昭和51年4月5日掲載
2009.7.19 08:24
■憲政上の叡知を求む
≪国民が求める政局の転換≫
情勢がきわめて流動的なので、今後の政局の推移については軽々しく予断できない。そのなかでただ一つはっきりしてきたのは、現在の三木内閣がきわめて不人気だという事実である。
去る三月二十九日に実施された「サンケイ1000人調査」の結果では、三木内閣の支持者はわずかに二五%であり、逆に支持せずとするものが四五%にのぼっている。その上ロッキード問題の処理については八四%、不況対策・物価対策についてはそれぞれ八二%と七八%、対米対策に関しては六七%、福祉対策に関しては六二%が不満を表明しているという。
一方、暫定予算は辛うじて成立したものの国会は機能停止状態にあり、本予算成立の見通しも文字通り五里霧中である。そのことを思えば、三木内閣の不人気はひとり三木首相の不人気にとどまらず、政界全体の対応能力に対する不信の表明でもある。この政局混迷の速やかな収拾を、国民はしびれを切らせて待っている。その期待が一向に充足されぬことに対する不満と焦燥感が、右の調査の結果にあらわれているのだろうと思われる。
現在、政府も与野党も、表面にあらわれたところではマスコミすら気づいていないように思われるひとつの事実がある。それはすでに国民の大半が、ロッキード事件に倦(う)みはじめている、という事実である。いま国民が求めているのは、政局の転換である。より具体的には、早期政変が求められているのである。
≪「ロ事件」での認識のズレ≫
このような人心の動向を、政府自民党が察知できず、マスコミすら正確に把握できずにいるのはなぜだろうか。その一つの理由は、三木首相と自民党執行部が、これまでロッキード事件を、もっぱら刑事事件として処理しようとしてきたところにあると思われる。
そのために、マスコミもまたいわゆる「政府高官」名の追及にのみ急で、この事件が実は憲政上の叡知(えいち)を必要とする事件だということを看過している。ロッキード事件とは、刑事上の事件である以上にすぐれて政治上、徳義上の事件である。この側面が、現在、充分に認識されていないのである。
刑事上の観点からすれば、おそらくここ数カ月のうちに、捜査当局の努力によって、事件の輪郭はほぼ国民の前に明らかにされるにちがいない。その過程で、いわゆる「政府高官」名の一部または全部が、公表されるのかもしれず公表されないのかもしれないが、その如何(いかん)にかかわらず、政治上あるいは徳義上の観点からすれば、今日までにとうに材料が出尽くしていることに、賢明にも国民の多くは気づいている。
それなのに政情は沈滞し、水の動きはじめる気配がない。いいかげんになんとかしてくれと、国民は政治家に、なかんずく、政府自民党の領袖たちに要求しているのである。
シーメンス事件は、しばしばロッキード事件と比較されている。その発端になったのは大正三年(一九一四)一月二十三日午後一時十五分から再開された、衆議院予算委員総会における立憲同志会の島田三郎代議士の爆弾質問である。
≪対照的なシ事件での対処≫
翌二十四日付の「東京朝日新聞」に載っている岡本一平の政治漫画を見ると、
《島田三郎氏ニヤニヤ殊更丁寧な言葉で財政と国防との均衡に就き首相の答弁を促した後、憤然として卓上の新聞を鷲掴みにし之をたたくこと丁々二三、声を励まして「本日各新聞紙に掲載せられましたる海外電報によりますればわが名誉ある海軍は……」と茲(ここ)に愈々(いよいよ)海軍武官収賄事件の火蓋を切る》
というぐあいに、生々とした描写がおこなわれている。
当時の内閣は、第一次山本権兵衛内閣であったが、この内閣が予算不成立の責任を表向きの理由として総辞職したのは、三月二十四日のことであった。この間わずかに二カ月。
そのあいだに、海軍はいちはやく査問委員会を設置し、捜査当局は海軍軍法会議と協力して三人の高級軍人の収賄をつきとめ、告発した。この機敏な対処ぶりは、その名誉に賭けて部内の腐敗を剔抉(てっけつ)しようとした海軍当局の意気込みのあらわれであると同時に、当時の当局者が、この種の疑獄事件に際して人心を倦ましめぬための時間的限界が最大限二カ月であるという点を、よく承知していたことを示している。
後継内閣首班の選定についても、このときには憲政上の叡知というべきものが発揮された。当時の元老は、山県有朋、松方正義、大山巌、井上馨の四人であったが、山本内閣の隠然たる批判者であった山県には後継首班についての確たる成案がなく、貴族院議長徳川家達を推して固辞され、次いで子爵清浦奎吾を推した。
≪自民党の長老たちに期待≫
清浦は早速組閣に着手したものの、たちまち山本内閣の与党であった政友会の反対に直面し、また海相に擬した加藤友三郎の就任固辞によって行き詰り、大命を拝辞せざるを得なくなった。
このとき、伯爵大隈重信を推して事態の収拾に乗り出したのは、興津で病臥中だった元老の一人井上馨である。井上は、山県自身に組閣の意志がない以上大隈を推すほかないとして、病を力(つと)めて上京し、しぶる山県を説得して、ついに大隈に第二次内閣を組織せしめるにいたったのである。大隈に大命降下したのは四月十三日、山本内閣の総辞職から三週間目であった。
いうまでもなく山県と大隈とは、明治十四年の政変以来片や薩長藩閥、片や民党の中心人物として、文字通り不倶戴天の間柄であった。そのことを想えば、人望のある大隈を首班に推して、国民の政治不信を防ごうとした井上の努力もさることながら、大局的判断に立って大隈の後継首班に同意した山県も、やはり只のねずみではなかった。彼もまた非凡な憲政上の叡知を発揮していたのである。
四月四日で、ロッキード事件に火がついてから二カ月が経過する。シーメンス事件の故知にならうとすれば、ここはどうしても元老ならぬ自民党の長老たち、椎名、保利、河野、前尾、灘尾らの諸氏の叡知が発揮されなければならぬところであろう。
一言つけ加えておくが、井上・山県らの当時の元老たちは、みずからキングになろうとはせず、一致してキング・メーカーの役割に徹することによって、政局の打開に成功したのである。(えとう じゅん)
◇
【視点】1976年2月、米ロッキード社の航空機対日売り込みで、多額のわいろが日本政界に流れた疑獄事件が発覚した。疑惑の中心にいたのは前首相、田中角栄である。三木武夫首相は真相の徹底究明を約束するものの、国内には焦燥感と閉塞(へいそく)感がオリのように沈殿していた。
江藤淳氏はこの論稿で、司法当局による捜査は当然として、同時に「憲政上の叡智(えいち)」による政局の転換を求めた。過去の事例として、シーメンス事件に揺れた第一次山本権兵衛内閣後の元老による素早い政局転換を評価した。江藤氏は「人心を倦(う)まぬための時間的限界がある」と述べ、国会の機能停止を憂えた。いまのねじれ国会はそれよりずっと長い。(湯)-
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