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from: 21世紀さん
2009年02月27日 11時42分48秒
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御法主上人猊下御講義 立正安国論
於夏季講習会第1・2期<立正安国論講義の開講に当たって>皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗
於夏季講習会第1・2期
<立正安国論講義の開講に当たって>
皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗門僧俗一致しての正法護持興隆・行学増進に励む次第であります。そういうことから、本年度よりまた、この夏期講習会を始めることになり、今回は第2期に当たります。昨日から、それぞれ担当講師によりまして、折伏その他のいろいろな重要な行学に関する話があったことと思うのであります。
本年度は『立正安国論』正義顕揚750年を6年後に控えた、その最初の年といたしまして、『立正安国論』を拝読して、皆様と共に大聖人様の深い御仏智を拝したいと思うのであります。それで、講義の内容を考えましたが、『安国論』の始めから終いまでの御指南の量は、たとえば『開目抄』とか『報恩抄』『撰時抄』というような御書はとても長い御書でありますが、それに対してもっと短い御書も御消息等においてはあるわけで、この『安国論』は、ちょうどその中間くらいの長さになります。
そこで、全10期にわたっての講義の内容をどのようにしたらいいかということを考えた挙げ句が、『安国論』全体を5つに分けさせていただき、第1期と第2期を最初の部分、次のところを第3期と第4期というような形で行うことにいたしました。したがって本日は、先般の第1期のときに拝読いたしました『安国論』の最初の部分を、もう1回拝読する次第であります。
<安国論建白の背景と意義>
最初に、この『安国論』は、どのような縁由によって示されたかと申しますと、その当時、数年にわたって大風・大雨・洪水・飢饉・疫病・大地震等の災害がずっと重なったのであります。これは日本国中が正に背き、邪を行っておるところの謗法に因るということを大聖人様が御覧になりまして、しかも王臣共にこれを覚らず、したがって仏の弟子としてその謗法を戒め、不義・邪悪を諌めるということが、この『立正安国論』を作り、最明寺入道時頼に献じられたその意義であります。
しかし、これは一往、文に付しての形の上からの縁由でありますが、再往の深い元意におきましては、久遠元初自受用報身という根本の仏様が末法において再誕をせられ、そして法華本門の下種の大法を、その大行者たる日蓮大聖人によって末法万年の正法広宣流布のため、一切の民衆、一国乃至全世界への折伏諌暁の書であると拝して、しかるべきと思うのであります。
その時は、人皇(にんのう)90代・亀山天皇の御宇(ぎょう)でありました。いわゆる文応元(1260)年7月16日に奏呈をされました。そのときの将軍は、鎌倉9代の中の第6代・宗尊(むねたか)親王であり、執権は北条長時という人でありましたが、政治の実権はその前に執権を務めた最明寺入道時頼の手にあったのであります。時頼は4年前の康元元(1256)年に落髪をして入道となりましたが、なお政務に携わっており、したがってその政治の権力を持つ実力者として存在しておりましたから、宿屋入道光則(みつのり)に託して、この『立正安国論』を時頼に献ぜられた次第であります。
その主意は、第一に未来の大災難、これは経文等に明らかに示されるところの自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難と他国侵逼(たこくしんぴつ)の難、この2つは、それ以外のたくさんの災難が現れておるこの時点においても、まだ現れていなかったのであり、かかる大災難の起こるべき所以を、予言書として示されたのであります。第二に、その災難の原因としての謗法の誤りを指摘して、これを強く諌められておる。すなわち仏法上の謗法に対する諌めであります。それから第三には、衆生の現当二世にわたる救済のために、その謗法の罪を糾されるという意義があります。
しかるに、文永9(1272)年の2月にこの予言の一つである自界叛逆の難が起こりました。さらに文永11(1274)年10月と弘安4(1281)年5月の2回にわたって蒙古の国が攻め寄せてきて、他国侵逼の災難の大予言が、まさに寸分も違わず的中したわけであります。これまさに、このことを通じてさらに下種の御本仏が未来末法万年にわたるところの日本乃至世界における真の正法護持、立正安国により真の平和に至る道を示された大予言であり、その大指針であります。
<安国論の題号について>
次に、「立正安国」の題号ということについて申し上げます。
「立正安国」というのは「正を立てて国を安んずる」ということです。この依拠は経文にたくさんありますけれども、法華経の『方便品』に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(法華経124ページ)という文があります。すなわち、従来の爾前経、大乗・小乗等の四十余年の経々はすべて方便教であるということを、釈尊自らがはっきりと決定した上で「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということを説かれたのであります。この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道を説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる「破邪顕正」が、この「立正」であります。
次に、「正」の内容は非常に深く、また広いのであり、すなわち五重相対が考えられます。これは第一に内外相対、次が大小相対、第三番目が権実相対、第四番目が本迹相対、第五番目が種脱相対で、この5つの相対の上からはっきりと浅深勝劣をつける。そこに本当の「正」の意義と衆生を開導する徳が現れるのであります。
・内外相対
第一の「内外相対」ということは、内道すなわち仏教は法界の一切と過去・現在・未来の三世にわたるところの正しい原因・結果、さらに因縁・果報ということをはっきり正しく述べておるのであります。しかるに、外道たる他の哲学・宗教等においては、このところがまことにはっきりしておりません。イスラム教やキリスト教など、その他世界中にはたくさんの宗教がありますけれども、それぞれの神様が出来た原因は、全く説いておりません。神は元々存在するというのです。しかし、これは一切万物の、原因があって結果があるという理法に反するのです。仏教においては、仏も仏としての原に成る原因がある。また、それによって一切衆生がその筋道の上から本当の仏の修行と悟りに基づいて、真の幸せを得ることができるという次第であります。
また、因縁因果は、そのまま善因善果、悪因悪果という大原則に通じています。この善因は必ず善果を生じ、悪因は悪果を生じるという因果の理法が徹底していないために、今、世の中において「目前の結果さえ良ければ、悪いことをしても平気である」というような誤った思想が現れておるのであります。その悪見が、今日の世界の様々な不幸と大動乱を起こしておるということが言えるのです。
したがって、内外相対した場合に、「内道」の仏教と、仏教以外の教えの「外道」との相対において、仏教が因縁因果の道理を説く故に本当に正しい教えであるということ。その筋目から見ないと、この『立正安国論』のこれから拝読していくところの本当の意義が判りません。やはり仏の教えをきちんと正しい意義と筋道において見ることにより、はじめて「正」が立つわけであります。それが第一の内外相対であります。
・大小相対
次は「大小相対」です。この「小」というのは小乗のことで、同じ仏教の中でも小乗と大乗の区別があり、仏教は外道に対すれば正しいけれども、大乗と小乗を内容の上から相対すれば、小乗は非常に視野が狭いのであります。教えの内容が、単に六道の迷いから抜け出して、より安穏な灰身滅智(けしんめっち)のところに行こうということにすぎません。ですから法界全体の存在とその因果の姿、またその大きな法界観、世界観によるところの修行の道が欠けているのであります。したがって、小乗は自分だけが迷いを去って悟りを開けばいいということだけで、他の苦悩の相を見ることができないのです。
しかし実際には、世の中は決して自分一人だけの存在ではありません。必ず他との関連において善悪、正邪、幸不幸等、あらゆることが存在するのです。したがって、自分が善い行いによって幸せになっていくと共に、他をも導いていくということがなければならない。故に、小乗は「空」の真理を示すのみであるのに対し、大乗は「空」と「仮」と「中」の真理観が説かれます。それらをはっきりと示して、全体観の上から教えを説くのが大乗の教えであります。
したがって、小乗と大乗を相対するならば、小乗に対して大乗こそ真実の正法であるにもかかわらず、小乗が大乗に背くならば邪の意義が生じます。故に「正を立てる」とは、小乗を廃して大乗を立てることが大小相対の意味であります。
・権実相対
次が「権実相対」。「権(ごん)」とは「かりのもの」方便の意で、「実」とは真実の意です。仏教五千七千の経巻を大きく分ければ、方便と真実に分かれます。この方便教として華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の四十余年の諸経が説かれておりますが、それに対して「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」と、釈尊が法華経においてはっきりと宣言され、法華経こそ一切の衆生を真に導き幸せにするところの教えであると示されました。
そうすると、この権教によって宗旨を立てておるところの、いわゆる念仏・禅・真言・律等、様々な仏教における権大乗の宗旨は、すべて正法を無視し、正法の意義と価値に背いておるところに邪の意味があるのです。その邪を打ち破って、真実を立てるところに権実相対における「立正」の意義があります。特にこの『立正安国論』においては、大聖人様の御一期(いちご)のうち最初の御化導の形として、まず第一に法然(ほうねん)の念仏宗の邪義を中心として破折されており、これがこの権実相対の内容からの破折に当たるのであります。
・本迹相対
その次が「本迹相対」です。これは法門の上から言うならば、本門の大法をもって根本とし「正」といたしますから、爾前迹門にとらわれた考え方は邪法となります。その法華迹門を中心とする宗旨として天台宗があります。これは一往、法華経の教えをもって正しく仏法を立てたものであるけれども、まだ権実相対までがその教義の主意になっておりまして、きちんとした形で本門と迹門とのけじめがついていないのであります。これは迹門付嘱の天台や伝教の法義としては当然のことなのです。
しかし、すでに時の過ぎた、像法の時代の衆生を導く法華迹門にいつまでもとらわれることは邪法となり、末法においては法華本門の教えをもって爾前迹門との区別を立てていくところに「立正」の「正」という意義が存するのであります。
・種脱相対
[本尊] 最後は「種脱相対」です。これは下種の法華本門の教えこそが本門の宗旨の実体であり、大聖人の御出現の目的でありますから、その種脱に迷乱するところの日蓮他門家はことごとく、「立正」と口では言っても真実の「立正」ではありません。それは何かと言えば、下種の本尊とその三大秘法こそが真の「立正」の「正」という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての「立正」とは、三大秘法の妙法大漫茶羅、本門戒壇の本尊であります。その意義はすでに大聖人の『立正安国論』の中に深く篭(こ)められておるわけですけれども、ただ化導の具体的な形としては、文永、建治、弘安等、御一生の御化導の上から、それが次第に現れてくるのであります。
さて、「立正」とは「三大秘法」であるということよりして、この「正」とは何かと言うと、第一には「妙」ということなのです。「妙」が「正」、「正」がまた「妙」です。ですから「妙」ということを離れて真実の「正」はないのです。
故に「妙」についてさらに本仏の悟りを拝するならば、それは「妙法蓮華経」の五字であります。この妙法蓮華経の法体のもとについて、大聖人様が『観心本尊抄』に仰せであります。すなわち、末法万年を救う法華経の根本的な付嘱の要旨として、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊・薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏…」(御書654ページ)と示されております。右の文の「本尊の為体」というところに、特に注目すべきです。
すなわち妙法蓮華経とは、地涌の菩薩に付嘱された法華経本門の根本の法体としての本門の本尊なのです。ですから「立正」の「正を立てる」ということは、三大秘法を立てるということであり、その第一は「本門の本尊」を立てることであります。本門の本尊を正しく立てることが「立正」の「正」なのであります。
[題目]さらに、この御本尊を顕す目的は、一切衆生に正しい修行をさせるためである。ですから、この正境の本尊に縁するということは、正しい本尊に縁して初めて信心が正しくなるわけです。信心が正しくなるから、また「行」というものが正しくなるのです。もし間違った「行」をしていたら大変です。いつの間にか不幸になっていき、未来は地獄に堕ちるような結果となります。
すなわち正しい「行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これがいわゆる「行」についての「立正」であります。ですからこれは「本門の題目」です。
[戒壇]また、次に「正」とは「一」に「止」まると書きまして、この「一」とは、三に非ず、五に非ず、七に非ず、九に非ず、三乗、五乗、七方便、九法界を超絶し、かつこの一切を含む久遠元初の実相たる人法体一の法体です。これについて、「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」(同1569ページ)という『南条殿御返事』の中の大事な御文があります。その御本尊を所持されて末法に出現し給う大聖人様のおわしますところ、またその御魂を墨に染め流して御顕示あそばされた本門の本尊のところに妙法の法体が止(とど)まるわけであります。
「止まる」とは、すなわち住する、そこに存在するということです。したがって、止まり住するということは、本尊の住するところの意義であり、すなわち「本門の戒壇」であります。ですから、先般、皆様方の尊い御供養によりまして立派な奉安堂が出来ました。この奉安堂に本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げておるところが、すなわち本門の戒壇であります。
さらに、戒壇に関する根本的な大聖人様の御指南の上から拝するならば、『一期弘法抄』『三大秘法抄』のごとく、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)と示された戒壇は、また広宣流布の時の戒壇です。そのような意味において、日本国乃至世界の衆生の妙法受持の功徳をもって立てる事の戒法の顕現たるところの戒壇。それがまた「立正」の「正を立てる」という意味に当たります。故に「立正」とは、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、すなわち三大秘法であるということ、これをまず申し上げておく次第であります。
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from: 21世紀さん
2009年02月27日 16時13分48秒
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「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
法華経に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。
・法華経に云はく、
さて、これまで涅槃経と仁王経をもって、国難を退治する謗法破折の経文を挙げられてきましたが、次にいよいよ法華経を挙げられて、最後のけじめとされるのであります。以下は法華経の『譬喩品』の文です。
・「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。
この法華経を信じないでこの経を毀謗する人は、一切衆生の仏の種を断ずるところの大きな罪になるとの仏説であります。つまり法華経にのみ、あらゆる人々が仏に成る根本の種があることを説いておるのです。その法華経を誹謗するということは、あらゆる人々が正しい意味で救われるところの仏の種を断ずることになりますから、これは法界全体の事物と真理に背く罪になるわけです。
・乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。
その意義から、必ず法華経を謗る者は地獄に堕ちると、仏様自らの仰せです。
「阿鼻獄」について言えば、地獄は大きく分けて8つあります。その八大地獄の一番下にあって最も苦しみの大きいのが阿鼻地獄で、これには五無間と言って5つの無間があるのです。これは省きますが、要はあらゆる面で間断なく苦しみを受けるということから無間地獄と言うのであり、その地獄に堕ちるということです。ですから、すべての人は正しく勝れた法華経を信じ護らなければならないと同時に、これを誹謗する者が必ず地獄に堕ちるという文をもって、最後の結文とされておるのであります。
次からが主人、すなわち大聖人様の御言葉であります。
夫経文顕然なり。私の詞何ぞ加へん。凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。故に阿鼻大城に堕して永く出づる期無けん。涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。謗法を禁むる者は定めて不退の位に登る。所謂覚徳とは是迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文なり。
・夫経文顕然なり。私の詞何ぞ加へん。
このように明らかな経文を挙げた以上は、私が今さら言葉を加える必要がないではないかとまずおっしゃった上で、法華・涅槃の誡文の主意をまとめて次に示されるのであります。
・凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。
まず、法華経についてその誡めの要点は大乗経典、特に法華経を謗ずることであり、その罪は無量の五逆に勝れていると言われます。このことは今の『譬喩品』の文の前後をずっと読んでみますと、本当に五逆罪よりもなお法華経を誹謗する罪が重いということが長く丁寧に説かれてあります。そういうことから明らかなように、法華経の趣意として、このような無量の五逆を犯した罪よりも、法華経誹謗の罪が重いということが述べられてあります。
・故に阿鼻大城に堕して永く出づる期無けん。
したがって大乗、特に法華誹謗の罪により阿鼻地獄に堕し、永くその地獄より出る時がこないとの警告です。
・涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。
次に、涅槃経の趣意については、経に五逆を犯した悪人に供養することはまだ許すけれども、正法を誹謗する者については絶対に供養をしてはいけないとの誡めがあると示されます。すなわち前に挙げた純陀の問いに対する一闡提ヘの布施の禁止が、これに当たるわけです。
・蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。
以下は、「殺」についての目的観の上から対照的に述べられております。蟻を殺すことですら、無用に悪心を持って殺す場合は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちると再びここに仰せあります。
・謗法を禁むる者は定めて不退の位に登る。
しかるにそれとは逆に、謗法を誡め為に戦う者は勝れた菩薩の境界、不退の位という悟りのところへ登ることができるという涅槃経の趣意を示されております。
・所謂覚徳とは是迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文なり。
その例として、覚徳は迦葉仏に、有徳王は釈迦文となる。つまり仏の大果報を得たことを再示されました。ここに「釈迦文」とありますが、普通は釈迦牟尼と言うのです。この牟尼という梵音を音写で漢字に表す「文」となるので同じことなのです。
そこで、これから先の文が大聖人様の謗法に対するはっきりとした批判の御文であります。
法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。其の禁め実に重し、誰か帰仰せざらんや。而るに謗法の族、正道の人を忘れ、剰へ法然の選択に依って弥愚癡の盲瞽(もうこ)を増す。是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露はし、或は其の妄説を信じて莠言を模(かたぎ)に彫り、之を海内に弘め之を廓外(かくがい)に翫ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或は釈迦の手の指を切りて弥陀の印相に結び、或は東方如来の鴈宇(がんう)を改めて西土教主の鵞王を居(す)へ、或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、或は天台大師の講を停めて善導の講と為す。此くの如きの群類其れ誠に尽くし難し。是破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。此の邪義は則ち選択に依るなり。嗟呼悲しいかな如来誠諦の禁言に背くこと。哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと。早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。
・法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。
まずここで、今までずっと述べてこられた趣意として、一代五時の五千七千の経教について、法華経と涅槃経がその全体の中心であると決せられます。
すなわち釈尊一代の化導の中で、最初の華厳経は擬宜(ぎぎ)のため、次の阿含経は誘引のため、次に説かれた方等部の多くの経は弾呵(だんか)のため、次の般若経は淘汰のためという目的をもって説かれており、しかもそれらは全部仏様の本懐ではないのです。法華経に来たって初めて真実の仏の目的が顕れて、一切の衆生を導くところの慈悲において、十界をことごとく開いて仏道を成ぜしめるところの法の内容を説かれるのであります。
次の涅槃経は、法華経の意を受けて最後に説かれた経です。これは法華経においてまだ悟りを得ることができなかった人たちに対して、一往、法華以前の華厳・阿含・方等・般若等の方便の内容を入れながら述べているのですが、最後にはやはり法華経の意をもって括っているのであります。ですから「拾遺嘱(くんじゆういぞく)」と言い、これは落ち穂拾いの意味であります。全体の化導の中心主眼は法華経にあるのです。したがって法華と涅槃を相対すれば、当然、法華経が勝れておる。しかし、一代全体の50年間の化導の意からすれば、法華経と涅槃経がやはり中心になるという意味です。
・其の禁め実に重し、誰か帰仰せざらんや。
法華・涅槃に説くところは、かかる真実の大乗を誹謗する者の罪は非常に深く、同時にまたそれを護ることの功徳は大変大きいことの誡めであり、一切の人が帰依し、渇仰しなければならないと言われるのであります。
・而るに謗法の族・・・法然の選択に依って弥愚癡の盲瞽(もうこ)を増す。
このところからは、法然の『選択集』という悪書によって法華・涅槃の正しい道を忘れ、正邪・善悪の判らないような愚かな見解を増しておるということと、その悪い実例を挙げられるのです。
・是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露はし、或は其の妄説を信じて莠言を模(かたぎ)に彫り、之を海内に弘め之を廓外(かくがい)に翫ぶ。
その一つとして「彼の遺体」すなわち法然の遺体について、その遺徳を偲び崇めて、その形をあるいは木像に刻み、あるいは画像に描いて安置し、2つには法然の『選択集』の妄説を信じ、その「はぐさ」のごとき有害な言葉を版木に彫り印刷して、「海内」すなわち日本中に弘め、「廓外」すなわち都の外のあらゆる地方に賞玩しているとして、その謗法を難じ給うのであります。
・仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。
故に、多くの人々が信じ仰ぐところは浄土宗の、法華経と釈尊に背く間違った家風であり、人々が誤って供養を施しておるところが、邪義を説く法然の門弟らに対してであると言われるのです。つまり邪法・邪師の邪義に対して供養をしておることが、大変誤りであるのです。
・然る間、或は釈迦の手の指を切りて弥陀の印相に結び、
これはどういうことかと言うと、京都や奈良などの寺院に行くと、仏・菩薩等の様々な像がありますが、これらの像の手は「印相」を結んでいるのです。これらの仏像は、長い歴史の中で多くの僧や仏師により、いろいろな形で造りましたから、結局その印相は、ある程度一定しているものもあれば、そうでないものもあるのです。しかし、要はこの印相によって仏様の悟りや行儀を顕すわけであります。そういう形がインド・中国・日本の仏教の上からあるのです。
さて、お釈迦様の印相の場合は古来、親指の先と中指の先をつける円を画く形になっているのです。それから阿弥陀仏は、人差し指と親指をつけるのです。ですから、お釈迦様の像を阿弥陀仏にするには、その指のところをちょっと直せばよい。親指と中指だったのを親指と人差し指に直してしまうと阿弥陀の印相となり、釈尊が阿弥陀仏ということに形が変わってしまうのです。ですからここでは、お釈迦様より阿弥陀仏のほうが有り難いということで、お釈迦様の像の印相を変えて阿弥陀仏の像に造り替えてしまったということを言っておられるのであります。
・或は東方如来の鴈宇(がんう)を改めて西土教主の鵞王を居(す)へ、
次に「東方如来」というのは、薬師如来のことです。釈尊がこの仏の本願功徳経を説かれ、この如来は12の大願を起こし、特に衆生の心身の病を治すとされています。薬師如来は、権経の仏で真実の三身常住の仏ではないが、伝教大師が法華経の義によって開顕し、『寿量品』の大良医を心とする薬師という意味で、薬師如来を比叡山の根本中堂に安置しました。それに倣って天台宗の各堂に薬師如来が安置されたと思われます。「鴈宇」とは、堂塔の別名です。
また「鷲王」とは、仏に三十二相の一つとして手足指縵網相という、手足の指の間に鵞鳥(ガチョウ)の水かきのようなものがあるということから、仏のことを言うわけです。ですからこの文は、薬師如来の堂を改めて阿弥陀仏を安置し、その堂としておるという事例を挙げられているのです。
・或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、
法華経の書写行のことです。すなわち比叡山第三代座主の慈覚大師は、天台の宗旨からの比叡山の法統においては一往、偉い人と言われておるわけですが、天長10(833)年の40歳のときに法華経を如法に書写し、そしてその経を納めたところを如法堂と言ったのであります。
「如法」ということは、法華経『法師品』の最初のところに、「妙法華経の、乃至一偈を受持・読・誦・解脱・書写し、此の経巻に於て、敬い視(み)ること仏の如くにして、種種に華香・瓔珞(ようらく)・抹香・塗香(ずこう)・焼香・〓蓋(ぞうがい)・幢幡(どうばん)・衣服・伎楽を供養し、乃至合掌恭敬せん」(法華経319ページ)と、十種供養によって法華経を行ずるという説示があります。このような供養をきちんと行って法華経を書写することが、十種供養によるところの法華経の書写という形であります。したがって、『法師品』に説かれる法のごとくに、その方式によって書写をするから「如法経」と称しました。それが天長10年から後白河法皇の13回忌、元久元(1204)年までの間、これは正確に言えば371年になりますが、この間ずっと行われてきたのです。
ところが、後白河法皇の13回忌の時から、その法要において法華経の書写を止めて、浄土の三部経を書写することになったのです。その謗法をここで挙げられておるのであり、「四百余回」というのは、その如法経初めよりの概数を言われるのです。
・或は天台大師の講を停めて善導の講と為す。
この「天台大師」という方は、ご承知のとおり中国に出現されて、釈尊一代の仏教の一切を悉く正しく整理・決判されて、そしてあらゆる経典の内容が、どういう目的で説かれたかということを、きちんと示された方であります。大変な偉業だったわけです。
今の他宗他門の僧侶たちは、未だにそれが判りません。竜樹菩薩が仏教の始祖で偉い人だったとか、空海が仏教の権威者であるなどと思い込んでいます。ですから般若経などの権経が、あくまで仏教の中心であると思い誤っておるのです。本当は、般若経などは、法華経を説くための方便に過ぎません。ですから「空」という真理からさらにもう一歩、仏法の真髄たる諦理が出てこないのです。いかに最高の第一義空と言っても結局「空」に尽きます。法華経の真実の即空即仮即中の上からの真実の即身成仏ヘの道ヘ出て来られないのが、今の仏教界の人々であります。ですから皆さん方は、日蓮正宗の御信徒になられて、最高の仏法を勉強し、修行しているのだと確信してください。
さて、そういうことにおいて天台大師という方は偉い方で、その教えによって伝教大師が日本に比叡山を開いたのだけれども、その天台大師の御命日の11月24日に行っていた天台大師報恩講を止めて、その代わりに中国の念仏の第三祖の善導の報恩講としての行事を行うようにしてしまったという誤りがあると指摘され、このような謗法の行為の類は実に多く、言い尽くし難いと仰せられるのです。
・此くの如きの群類其れ誠に尽くし難し。是破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。
以上、述べられた4つの事例について、これは仏法僧の三宝を破る行為が歴然ではないかと破責されるのです。すなわち釈尊の印相の指を切って弥陀の印相に改めたということや、東方如来の鴈宇を西土教主に改めたということがありましたが、これが「破仏」に当たります。それから4百余回の如法経、すなわち法華経の書写を止めたというのがありましたが、これが「破法」になります。また天台大師講を止めて善導の講にしたのが「破僧」に当たるわけであります。
・此の邪義は則ち選択に依るなり。
そして、このような嘆かわしい事態になった原因は何かと言えば、まさに法然の『選択集』という邪法・邪義の悪書によるのであると論断されます。
・嗟呼悲しいかな如来誠諦の禁言に背くこと。
このような悪書が出て教主釈尊の真実の禁言、すなわち先ほど挙げられた法華経の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」という誡めに背いておることは、まことに悲しいことである。
・哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと。
また、この悪書を弘める法然のごとき仏法の帰趨に迷惑する愚かな者の粗悪乱暴な語に、多くの世の人々がしたがっており、それが無間地獄へ堕ちる業因とも知らないのは、本当に哀れなことだとの慨嘆です。
・早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。
これが、この第七問答の項における最後の結論であります。この「謗法を断つ」とは、どういうことかと言いますと、具体的には謗法への供養・布施を断つことであります。それはさらに次の第八問答にはっきり示されるところですが、これが『立正安国論』の正義顕揚の意義を持っておるのです。したがって、謗法に布施をしないように、謗法への供養をすることが誤りであるということを、一人でも多くの人に自覚せしめるために行うべきことは何かと言えば、それは「一人が一人の折伏」にあります。
今、宗門は「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進んでおるのであります。ですから、縁のあるところから謗法の供養を止めさせる、その宗教が邪義であることを知らせることが必要であります。その折伏をお互いに行じていくことが、我々一人ひとりの幸せとなり、また多くの人々を救っていくことになるということをここに申し上げ、皆様方のいよいよの御精進をお祈りし、私の本日の講義に代える次第であります。
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