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from: 21世紀さん
2009年02月27日 11時42分48秒
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御法主上人猊下御講義 立正安国論
於夏季講習会第1・2期<立正安国論講義の開講に当たって>皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗
於夏季講習会第1・2期
<立正安国論講義の開講に当たって>
皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗門僧俗一致しての正法護持興隆・行学増進に励む次第であります。そういうことから、本年度よりまた、この夏期講習会を始めることになり、今回は第2期に当たります。昨日から、それぞれ担当講師によりまして、折伏その他のいろいろな重要な行学に関する話があったことと思うのであります。
本年度は『立正安国論』正義顕揚750年を6年後に控えた、その最初の年といたしまして、『立正安国論』を拝読して、皆様と共に大聖人様の深い御仏智を拝したいと思うのであります。それで、講義の内容を考えましたが、『安国論』の始めから終いまでの御指南の量は、たとえば『開目抄』とか『報恩抄』『撰時抄』というような御書はとても長い御書でありますが、それに対してもっと短い御書も御消息等においてはあるわけで、この『安国論』は、ちょうどその中間くらいの長さになります。
そこで、全10期にわたっての講義の内容をどのようにしたらいいかということを考えた挙げ句が、『安国論』全体を5つに分けさせていただき、第1期と第2期を最初の部分、次のところを第3期と第4期というような形で行うことにいたしました。したがって本日は、先般の第1期のときに拝読いたしました『安国論』の最初の部分を、もう1回拝読する次第であります。
<安国論建白の背景と意義>
最初に、この『安国論』は、どのような縁由によって示されたかと申しますと、その当時、数年にわたって大風・大雨・洪水・飢饉・疫病・大地震等の災害がずっと重なったのであります。これは日本国中が正に背き、邪を行っておるところの謗法に因るということを大聖人様が御覧になりまして、しかも王臣共にこれを覚らず、したがって仏の弟子としてその謗法を戒め、不義・邪悪を諌めるということが、この『立正安国論』を作り、最明寺入道時頼に献じられたその意義であります。
しかし、これは一往、文に付しての形の上からの縁由でありますが、再往の深い元意におきましては、久遠元初自受用報身という根本の仏様が末法において再誕をせられ、そして法華本門の下種の大法を、その大行者たる日蓮大聖人によって末法万年の正法広宣流布のため、一切の民衆、一国乃至全世界への折伏諌暁の書であると拝して、しかるべきと思うのであります。
その時は、人皇(にんのう)90代・亀山天皇の御宇(ぎょう)でありました。いわゆる文応元(1260)年7月16日に奏呈をされました。そのときの将軍は、鎌倉9代の中の第6代・宗尊(むねたか)親王であり、執権は北条長時という人でありましたが、政治の実権はその前に執権を務めた最明寺入道時頼の手にあったのであります。時頼は4年前の康元元(1256)年に落髪をして入道となりましたが、なお政務に携わっており、したがってその政治の権力を持つ実力者として存在しておりましたから、宿屋入道光則(みつのり)に託して、この『立正安国論』を時頼に献ぜられた次第であります。
その主意は、第一に未来の大災難、これは経文等に明らかに示されるところの自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難と他国侵逼(たこくしんぴつ)の難、この2つは、それ以外のたくさんの災難が現れておるこの時点においても、まだ現れていなかったのであり、かかる大災難の起こるべき所以を、予言書として示されたのであります。第二に、その災難の原因としての謗法の誤りを指摘して、これを強く諌められておる。すなわち仏法上の謗法に対する諌めであります。それから第三には、衆生の現当二世にわたる救済のために、その謗法の罪を糾されるという意義があります。
しかるに、文永9(1272)年の2月にこの予言の一つである自界叛逆の難が起こりました。さらに文永11(1274)年10月と弘安4(1281)年5月の2回にわたって蒙古の国が攻め寄せてきて、他国侵逼の災難の大予言が、まさに寸分も違わず的中したわけであります。これまさに、このことを通じてさらに下種の御本仏が未来末法万年にわたるところの日本乃至世界における真の正法護持、立正安国により真の平和に至る道を示された大予言であり、その大指針であります。
<安国論の題号について>
次に、「立正安国」の題号ということについて申し上げます。
「立正安国」というのは「正を立てて国を安んずる」ということです。この依拠は経文にたくさんありますけれども、法華経の『方便品』に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(法華経124ページ)という文があります。すなわち、従来の爾前経、大乗・小乗等の四十余年の経々はすべて方便教であるということを、釈尊自らがはっきりと決定した上で「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということを説かれたのであります。この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道を説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる「破邪顕正」が、この「立正」であります。
次に、「正」の内容は非常に深く、また広いのであり、すなわち五重相対が考えられます。これは第一に内外相対、次が大小相対、第三番目が権実相対、第四番目が本迹相対、第五番目が種脱相対で、この5つの相対の上からはっきりと浅深勝劣をつける。そこに本当の「正」の意義と衆生を開導する徳が現れるのであります。
・内外相対
第一の「内外相対」ということは、内道すなわち仏教は法界の一切と過去・現在・未来の三世にわたるところの正しい原因・結果、さらに因縁・果報ということをはっきり正しく述べておるのであります。しかるに、外道たる他の哲学・宗教等においては、このところがまことにはっきりしておりません。イスラム教やキリスト教など、その他世界中にはたくさんの宗教がありますけれども、それぞれの神様が出来た原因は、全く説いておりません。神は元々存在するというのです。しかし、これは一切万物の、原因があって結果があるという理法に反するのです。仏教においては、仏も仏としての原に成る原因がある。また、それによって一切衆生がその筋道の上から本当の仏の修行と悟りに基づいて、真の幸せを得ることができるという次第であります。
また、因縁因果は、そのまま善因善果、悪因悪果という大原則に通じています。この善因は必ず善果を生じ、悪因は悪果を生じるという因果の理法が徹底していないために、今、世の中において「目前の結果さえ良ければ、悪いことをしても平気である」というような誤った思想が現れておるのであります。その悪見が、今日の世界の様々な不幸と大動乱を起こしておるということが言えるのです。
したがって、内外相対した場合に、「内道」の仏教と、仏教以外の教えの「外道」との相対において、仏教が因縁因果の道理を説く故に本当に正しい教えであるということ。その筋目から見ないと、この『立正安国論』のこれから拝読していくところの本当の意義が判りません。やはり仏の教えをきちんと正しい意義と筋道において見ることにより、はじめて「正」が立つわけであります。それが第一の内外相対であります。
・大小相対
次は「大小相対」です。この「小」というのは小乗のことで、同じ仏教の中でも小乗と大乗の区別があり、仏教は外道に対すれば正しいけれども、大乗と小乗を内容の上から相対すれば、小乗は非常に視野が狭いのであります。教えの内容が、単に六道の迷いから抜け出して、より安穏な灰身滅智(けしんめっち)のところに行こうということにすぎません。ですから法界全体の存在とその因果の姿、またその大きな法界観、世界観によるところの修行の道が欠けているのであります。したがって、小乗は自分だけが迷いを去って悟りを開けばいいということだけで、他の苦悩の相を見ることができないのです。
しかし実際には、世の中は決して自分一人だけの存在ではありません。必ず他との関連において善悪、正邪、幸不幸等、あらゆることが存在するのです。したがって、自分が善い行いによって幸せになっていくと共に、他をも導いていくということがなければならない。故に、小乗は「空」の真理を示すのみであるのに対し、大乗は「空」と「仮」と「中」の真理観が説かれます。それらをはっきりと示して、全体観の上から教えを説くのが大乗の教えであります。
したがって、小乗と大乗を相対するならば、小乗に対して大乗こそ真実の正法であるにもかかわらず、小乗が大乗に背くならば邪の意義が生じます。故に「正を立てる」とは、小乗を廃して大乗を立てることが大小相対の意味であります。
・権実相対
次が「権実相対」。「権(ごん)」とは「かりのもの」方便の意で、「実」とは真実の意です。仏教五千七千の経巻を大きく分ければ、方便と真実に分かれます。この方便教として華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の四十余年の諸経が説かれておりますが、それに対して「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」と、釈尊が法華経においてはっきりと宣言され、法華経こそ一切の衆生を真に導き幸せにするところの教えであると示されました。
そうすると、この権教によって宗旨を立てておるところの、いわゆる念仏・禅・真言・律等、様々な仏教における権大乗の宗旨は、すべて正法を無視し、正法の意義と価値に背いておるところに邪の意味があるのです。その邪を打ち破って、真実を立てるところに権実相対における「立正」の意義があります。特にこの『立正安国論』においては、大聖人様の御一期(いちご)のうち最初の御化導の形として、まず第一に法然(ほうねん)の念仏宗の邪義を中心として破折されており、これがこの権実相対の内容からの破折に当たるのであります。
・本迹相対
その次が「本迹相対」です。これは法門の上から言うならば、本門の大法をもって根本とし「正」といたしますから、爾前迹門にとらわれた考え方は邪法となります。その法華迹門を中心とする宗旨として天台宗があります。これは一往、法華経の教えをもって正しく仏法を立てたものであるけれども、まだ権実相対までがその教義の主意になっておりまして、きちんとした形で本門と迹門とのけじめがついていないのであります。これは迹門付嘱の天台や伝教の法義としては当然のことなのです。
しかし、すでに時の過ぎた、像法の時代の衆生を導く法華迹門にいつまでもとらわれることは邪法となり、末法においては法華本門の教えをもって爾前迹門との区別を立てていくところに「立正」の「正」という意義が存するのであります。
・種脱相対
[本尊] 最後は「種脱相対」です。これは下種の法華本門の教えこそが本門の宗旨の実体であり、大聖人の御出現の目的でありますから、その種脱に迷乱するところの日蓮他門家はことごとく、「立正」と口では言っても真実の「立正」ではありません。それは何かと言えば、下種の本尊とその三大秘法こそが真の「立正」の「正」という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての「立正」とは、三大秘法の妙法大漫茶羅、本門戒壇の本尊であります。その意義はすでに大聖人の『立正安国論』の中に深く篭(こ)められておるわけですけれども、ただ化導の具体的な形としては、文永、建治、弘安等、御一生の御化導の上から、それが次第に現れてくるのであります。
さて、「立正」とは「三大秘法」であるということよりして、この「正」とは何かと言うと、第一には「妙」ということなのです。「妙」が「正」、「正」がまた「妙」です。ですから「妙」ということを離れて真実の「正」はないのです。
故に「妙」についてさらに本仏の悟りを拝するならば、それは「妙法蓮華経」の五字であります。この妙法蓮華経の法体のもとについて、大聖人様が『観心本尊抄』に仰せであります。すなわち、末法万年を救う法華経の根本的な付嘱の要旨として、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊・薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏…」(御書654ページ)と示されております。右の文の「本尊の為体」というところに、特に注目すべきです。
すなわち妙法蓮華経とは、地涌の菩薩に付嘱された法華経本門の根本の法体としての本門の本尊なのです。ですから「立正」の「正を立てる」ということは、三大秘法を立てるということであり、その第一は「本門の本尊」を立てることであります。本門の本尊を正しく立てることが「立正」の「正」なのであります。
[題目]さらに、この御本尊を顕す目的は、一切衆生に正しい修行をさせるためである。ですから、この正境の本尊に縁するということは、正しい本尊に縁して初めて信心が正しくなるわけです。信心が正しくなるから、また「行」というものが正しくなるのです。もし間違った「行」をしていたら大変です。いつの間にか不幸になっていき、未来は地獄に堕ちるような結果となります。
すなわち正しい「行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これがいわゆる「行」についての「立正」であります。ですからこれは「本門の題目」です。
[戒壇]また、次に「正」とは「一」に「止」まると書きまして、この「一」とは、三に非ず、五に非ず、七に非ず、九に非ず、三乗、五乗、七方便、九法界を超絶し、かつこの一切を含む久遠元初の実相たる人法体一の法体です。これについて、「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」(同1569ページ)という『南条殿御返事』の中の大事な御文があります。その御本尊を所持されて末法に出現し給う大聖人様のおわしますところ、またその御魂を墨に染め流して御顕示あそばされた本門の本尊のところに妙法の法体が止(とど)まるわけであります。
「止まる」とは、すなわち住する、そこに存在するということです。したがって、止まり住するということは、本尊の住するところの意義であり、すなわち「本門の戒壇」であります。ですから、先般、皆様方の尊い御供養によりまして立派な奉安堂が出来ました。この奉安堂に本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げておるところが、すなわち本門の戒壇であります。
さらに、戒壇に関する根本的な大聖人様の御指南の上から拝するならば、『一期弘法抄』『三大秘法抄』のごとく、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)と示された戒壇は、また広宣流布の時の戒壇です。そのような意味において、日本国乃至世界の衆生の妙法受持の功徳をもって立てる事の戒法の顕現たるところの戒壇。それがまた「立正」の「正を立てる」という意味に当たります。故に「立正」とは、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、すなわち三大秘法であるということ、これをまず申し上げておく次第であります。
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icon拍手者リスト
from: 21世紀さん
2009年02月27日 16時50分03秒
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「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
・乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし。
この大集経の文は、前に一度挙げてあります。そこでは右の文の中の「乃至」の部分に「其の国当に三つの不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。・・・内外の親戚其れ共に謀叛せん」の文が入っており、これは現世における災難についての文です。しかるに、ここでは死後未来について示されることから、現世の部分の文は省かれておるのです。そして「乃至」の次に、その王は久しからずして重い病に遇ってその寿命を終え、死んだ後は大地獄に生ずるであろう。
・王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならんと。
また王のみならず、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官等、つまり同一国土に王と一緒にその因縁果報を受けておるところの者たちが、すべて共に地獄に堕ちるであろうという仏の教説です。国土因縁を同じくする衆生には、やはり一蓮托生(いちれんたくしょう)という意味があるのです。
仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。
法華経第二に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。
・仁王経に云く
次は、仁王経の『嘱累品』であります。ここでは、仏教に背き、それを壊ることの悪果報について述べられております。
・「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、
まず親に孝を行う子供がなくなって、不孝者が充満する。次に六親が和せず、争う姿が出る。この「六親」というのは、親しい者という意味で、内容にはいろいろな説がありますが、一往、妙楽大師の『法華玄義釈籤(しゃくせん)』には、父と母、兄と弟、妻と子の6つを挙げております。つまり自分の親戚縁者中の一番主な人々になります。それらが非常に仲が悪くなり、その生活において天神つまり神様も助けることがない。
・疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、
また様々な病気が流行し、災いを起こすところの悪鬼が来たって国民生活心理を侵害する故、様々な怪しい災いが重なり来たって、縦の時間、横の空間に遍満するに至るというのであります。
・死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。
そして死んだ後は、地獄・餓鬼・畜生に入るであろうし、さらにもし出でてまた人となったならば、兵奴の果報のごとき者となるであろうとあります。この「兵奴」というのは、怒りをもって正法を壊る衆生を言うのであります。その報いを受けて、人間に生まれたとしても、刃の中に身をさらすようなことになり、あるいは様々な刃をもって身を苦しめられる形になってくるというような果報があるのです。
・響きの如く影の如く、
過去から現在、現在から将来にわたって、善悪の因縁による三界の果報は、絶対に消えることがないことを譬えによって説かれております。
まず「響きの如く影の如く」の「響き」というのは、音に対しての響きです。それから「影」とは、体に対しての影であります。音があれば必ず響きがあり、体があれば影がある。この譬えをもって人間が生きておる間を体とし音として、死んだ後の形が響きとなり、また影となる意味から死後の業の存続を示しております。そこでその果報がどういう形かと言うと、必ず地獄・餓鬼・畜生乃至六道の生を受けるということであります。
・人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、
次が、これについての譬えです。つまり人が夜に灯火の下で字を書き、書き終わった後に火を消す。すると真っ暗になって書いた字が見えなくなります。けれどもその字は残っておるわけで、これは目には見えないけれども果報は厳然として存在するという譬えであります。要するに、人間が生きている間に行ったいろいろな行為というものは、死んでしまえば、それらはなくなってしまうように見えるけれども、結局、その果報というものは、次の生においてはっきりと出てくるのであり、その業はなくならないと言われておるのです。
・三界の果報も亦復是くの如し」と。
この「三界」とは、欲界・色界・無色界のことで、つまり六道を言います。この色界と無色界は天界を指し、欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天までがあるのです。ですから天界とは、欲界天と色界天と無色界天の3つがあるわけです。要するにこの文は、六道の迷いの果報が永く未来に続いていくことを述べておるのです。
・法華経第二に云はく
大聖人様が『安国論』において、この法華経『譬喩品』の文を引かれるのは、これで三度目です。
・「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。
一切衆生を救う仏種によって仏に成ることを示す経典が法華経でありますから、その法華経を謗るということは、一切衆生の仏種を壊(やぶ)ることになる。したがって、それは必ず無間地獄に堕ちるということがこの経文であり、当来の大悪果報を示す総結の文であります。
・又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。
これは不軽菩薩を謗った衆生が、その後に改心したけれども、前に謗った罪によって千劫の間、阿鼻地獄において苦しまなければならなかったという死後の罪報の文であります。
・涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、
この「善友」というのは善知識のことであります。これには3つあり、いろいろなことを正しく教えてくれる教授の善知識、それから一緒に善いことを行っていくところの同行の善知識、さらには仏法を外から正しく守るところの外護の善知識であります。
・是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。
要するにこのところでは、そのような善知識たる人々を嫌い正法に背き、そして悪い人間の教えを受け、その悪法によって生活する。このような因縁を作れば、阿鼻地獄に沈んで苦しみ、その受けるところの身形は縦横8万4千由延であると言うのです。
この「八万四千由延」の「由延」というのは長さを言います。一由延は帝王一日の行程と言い、中国の里程においては30里です。これは日本の里程では約5里に当たります。一里は4kmですから、一由延は約20kmということになります。その20kmの8万4千倍ですから168万kmで、大変な長さになりますが、これは横の線だけではないのです。「身形縦横」とあるように、我々が無間地獄に堕ちると、身体が縦横にそれだけの広さに拡張し、その全身に充満する苦しみを受けるということです。
無間地獄に堕ちる人間は1人だけではないとして、1人で地獄がいっぱいになったら他の人は入れなくならないかと思うけれども、そうではないのです。やはりこれは業によって、各々の身体が等しく8万4千由延の広さになって苦しみを受けるるように感ずるのであります。
広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつ)はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。
・広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。
このところより主人の言となります。以上挙げたところのすべての経文を拝してみると、謗法が非常に恐ろしいことを述べられておる。すなわち仏の説かれた正しい法に背くことにおいて大きな罪を得るということです。
・悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。
そこでまず「悲しいかな」と言われるのは、釈尊が一代仏教を説きながら方便の教えと真実の教えということのけじめをつけられ、また中国に現れた天台大師や日本に比叡山を建立した伝教大師という方々が、仏法の筋道をきちっと立て分けられておる。その中で小乗に対する大乗、大乗の中においては権経に対する実経としての法華経が「正法の門」として最も勝れた教えであり、他の経々はその門から出でたところの方便の小乗であり、権大乗であるにもかかわらず、その中の一分にとらわれて、自ら邪法の地獄の中に入ってしまっておることについてであります。
・愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつ)はる。
また「愚かなるかな」と嘆かれるのは、法然の『選択集』という悪教の綱に懸かり、永く法華経の教えを謗るという邪な網に纏われておることを言われるのです。
・此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。
次に「此の朦霧の迷ひ」という「朦(もう)」は、月篇に「蒙」という字です。これは月の光がまさに失われんとするところの薄暗い状態を指すものです。次の「霧」とは、それが太陽や月の光を覆っているという形容で、法然の悪教によるところの迷いが真実の仏性の日月を隠しておるということに譬えるのであります。また「盛焔の底」というのは無間地獄の異名であり、つまり無間地獄の中に堕ちて苦しむということです。
・豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。
したがって、このような来世の惨状について、今生のみならず来生において耐え難い無間地獄に堕ちることを愁えないでよかろうか、また苦しまないことがあろうか。それにつけても謗法にとらわれるということを注意し、誡めなければならないとの仰せであります。
この次が、いよいよ『立正安国論』の肝要の御文であります。皆さん方も寺院の御会式に出て聞かれておるでしょうが、ここのところが一番大事だと思ってください。
・汝早く信仰の寸心を改めて
この「信仰」とは、まことに大事なことであります。我々の生活自体が全部「信」と「仰」によって存在しているのです。「私は無宗教者だ」と言う人であっても、何らかのものに対する「信」と、何らかの「仰」、つまり仰ぎ尊ぶことによって、過去から現在、そして未来にわたるその人の生活が存在するのです。
どのような人でも、生活の中における何らかの信じ方があり、その意味において広く考えれば、信仰はあらゆる人が持っておるのです。例えば、「私はお金が最高で、お金を貯めることが一番大事だと思う」と言う人は、そういう“信仰”なのです。故に、正しい信仰と誤った信仰の見分けが人生観において大切であり、この場合は、法然の間違った念仏の信仰を言われるのです。
さて、その「寸心」の「寸」とは小さいということ、つまり小さな信仰という意味で、偏った狭い信じ方を言います。それを改めて「速やかに実乗の一善に帰せよ」と言われるのは、そこに大きな広い信仰、すなわち正しい信仰に帰すべしと示されるのです。
・速やかに実乗の一善に帰せよ。
「実」の字は、真実で偽りのない「まこと」ということ、「乗」は乗り物、すなわち人を乗せて幸せなところへ運んでいく乗り物で、教えのことです。したがって、真実の教えというものを「実乗」と言うのです。
この実乗に対して、一時的な権(かり)の教えとしての方便があります。故に釈尊自らが無量義経において、「諸の衆生の性欲不なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす」(法華経23ページ)と、華厳・阿含・方等・般若等の40余年の諸経はすべて方便経であるとはっきりと述べられておるのです。
そしてこれは、今まさに法華経に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(同124ページ)と示されるごとく、衆生を正しく導くためには正直ということが非常に大事であり、これによって方便を捨てて無上道を説かれるのです。要するに、正しいことを素直に説き、また信じるところに本当の幸せの道が存する。これが法華経の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということであり、「実乗」であります。
さらに言うならば、その法華経の中で真実の教えは、迹門をすべて包含した本門の教えに存するのであります。この本門の教えの中で、さらに釈尊が『神力品』において地涌上行等の菩薩に結要付嘱されたところの妙法蓮華経が『寿量品』の根本法体であります。
これを大聖人様が御出現あそばされて、久遠元初の仏法本源の法体を明らかに示されたのが、『当体義抄』『総勘文抄』等の御文に明らかでありますが、その実体はすなわち本門三大秘法であります。本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法は、そのまま久遠元初の仏法の法体たる南無妙法蓮華経に存するのであります。
「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(御書1684ページ)という有名な『本因妙抄』の御文があります。この文からも、南無妙法蓮華経の法体がそのまま本門三大秘法であることが明らかであります。これが末法における一切衆生を真に正しく導くところの「実乗の一善」なのです。この『安国論』の御文は、ここに帰するということを元意として拝さなければなりません。
・然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
この文のところは、少し判りにくいかもしれません。まず「三界は皆仏国」とあります。三界とは何かと言えば、先ほども出てきましたが、欲界・色界・無色界の3つで、これは六道のことです。六道輪廻という言葉があるように、これは迷いと苦しみの世界です。その世界が実乗の一善に帰することによって、そのまま直ちに仏国になると言うのです。
これは普通の常識では判りにくいかも知れませんが、ここに法界の不思議な当体・当相として法華経の大きな功徳を信ずべきであります。これは大聖人様の教えの中で、一人ひとりが仏の境界を得るための無限の功徳とその道が、正法正義を持つ上に存在しておることを述べられると同時に、そこから広宣流布の道がはっきり現れると述べられておるのであります。
したがって、これは『当体義抄』に、「正直に方便を捨て但法華経を信じ」(同694ページ)と示されるように、法華経以外の教えは全部方便であり、その方便をきれいに捨てよということを仏様がおっしゃっておられるのです。
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