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from: 21世紀さん

2009年05月31日 10時00分28秒

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小林正博の「法主絶対論の形成とその批判」を破折す

大日蓮・第584号(平成6年10月・63頁)小林正博の「法主絶対論の形成とその批判」に対する破折論文の掲載について昨平成五年十月に発刊された『東洋学術

大日蓮・第584号(平成6年10月・63頁)
 
 小林正博の「法主絶対論の形成とその批判」
      に対する破折論文の掲載について
 
 昨平成五年十月に発刊された『東洋学術研究』第三十二巻二号に、小林正博なる者が「法主絶対論の形成とその批判」という論文を発表した。その内容は、学術研究論文とは名ばかりで、史料文献を曲解・悪用し、無理に唯授一人の血脈を破らんとする、いわば初めから結論が定まっているという、極めて恣意的(しいてき)なろんである。もとより、このような稚拙な論が通用するはずはなく、当初、反駁(はんばく)するに足らざるものとして捨て置いてきた。
 しかし、その後、池田/大作がこれをベースに「『法主絶対論』は絶対に邪義」(平成六年二月十八日)などと放言し、また小林自身、各地の創価学会会館で「法主絶対論批判」と題する講演を行っている。要するに、「法主絶対論の形成とその批判」とは、邪教池田創価学会そのものが主体となって行なっている誹謗なのであり、けっして小林個人だけの説でないことは明白である。
 このたび、法義研鑚委員会として、この邪論を破折したので、以後、数回にわたって、委員諸師より提出された破折論文を掲載していくものである。
大日蓮・第584号(平成6年10月・64頁)

小林正博の論述姿勢について
                         法義研鑽委員 古 藤 志 道
大日蓮・第585号(平成6年11月・84頁)

小林正博の意図的な文献検証
                         法義研鑽委員 国 井 位 道
大日蓮・第586号(平成6年12月・76頁)

「一覧表」について
                         法義研鑽委員 森 岡 雄 樹
大日蓮・第587号(平成7年1月・79頁)

「法主は白蓮阿闍梨に限り奉る也」の文について
                         法義研鑽委員 近 藤 恒 道
大日蓮・第589号(平成7年3月・79頁)

「師弟子の法門」に関する小林の邪論を破す(上)
                         法義研鑽委員 岡 崎 道 清
大日蓮・第590号(平成7年4月・82頁)

「師弟子の法門」に関する小林の邪論を破す(下)
                         法義研鑽委員 岡 崎 道 清
大日蓮・第592号(平成7年6月・68頁)

日有上人文書に対する小林の疑難を破す
                         法義研鑽委員 影 山 広 道
大日蓮・第594号(平成7年8月・72頁)

『五人所破抄見聞』の著者についての小林の邪論を破す
                         法義研鑽委員 高 橋 粛 道

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from: 21世紀さん

2009年05月31日 20時15分50秒

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「Re:小林正博の「法主絶対論の形成とその批判」を破折す 」

『五人所破抄見聞』の著者についての小林の邪論を破す                          法義研鑽委員 高 橋 粛 道
 
 
 小林は『五人所破抄見聞』の著者について、
「『五人所破抄見聞』は、妙蓮寺三世(ママ)日眼説に立てば、宗祖滅後約百年ごろ、大石寺では六世日時上人存命中の著作ということになる。しかし、『五人所破抄見聞』には明らかに文明二(一四七〇)年以降でなければ書けない記述があり、妙蓮寺日眼説に大きな疑問が投げかけられている。むしろ同名の西山八世日眼(十五世紀後半)の著作とした方が落ちつきがよい」(東学研一一五頁)
と述べている。小林の邪論は小林自身が記するように、身延派である宮崎英修氏の『棲神』四一号を依拠としている。
 まず、宮崎氏の説を紹介すると、
「本論の五人所破抄見聞の真偽についてのべよう。本書は日蓮宗宗学全書興尊集、富士宗学要集等に載せられているが、本書の著者日眼は南条時光の子と伝え、下条妙蓮寺三世(ママ)となって住し至徳元年(一三八四)二月二十二日入寂という。世寿は不詳、著書はこの見聞のみである。この見聞には冒頭の題号の下に『釈日眼述』とあり、奥書に『伝写本云康暦二庚申年六月四日書畢。本化末弟日眼判』と記している。一般にこのような年記の書き方は直ちに時代的通格の批判対照になる。このように年号、年数、干支、年月日という書方は戦国時代の末ごろから稀に見られ始め、江戸期に入って間もなく一般的になるものであって鎌倉時代、室町時代の通格は康暦二年庚申六月四日と記し決して康暦二庚申年六月四日とは書かない(中略)武家伝奏は正長元年(一四二八)にはじめて設けられている(中略)さて、五人所破抄見聞には、前述の如く『総ジテ公家ノ伝奏卜云テ当御代ハ勧修寺殿、広橋ナド伝奏衆ヲイフ也』とある。武家伝奏が設けられたのは正長元年(一四二八)で所破抄見聞が著わされたと伝える康暦二年(一三八〇)より四十八年ものちのことであり、而もそれは日野(号裏松)、万里小路、勧修寺の三家で、これは短期間であったようである。勧修寺、広橋二家が任ぜられるのはこの時より四十二年も後、文明二年(一四七〇)以降で、それも九年間その後は二家が共に任ぜられるのは、まだまだ後のことである。所破抄見聞の記事によれば、勧修寺、広橋の両伝奏はあたかも世間一般周知の役柄のように記されている。このような表現をするのは室町末期の永正年間(一五〇〇ごろ)以降のことでこうした伝奏衆が百四、五十年前に存するはずはない。当然、本書は勧修寺、広橋両伝奏の存在が周知のこととなった時代の産物といわねばならぬ。そしてもしかりに、所破抄見聞が勧修寺、広橋両家が始めてつとめた時代・文明初年に著わされたとしても、康暦二年より九十年ものちの事でなければならない。以上、年記の識語、伝奏の設置時期及び人名の点から考えると、本書を妙蓮寺日眼の著とすることはできない(中略)本書は如何に早くとも文明二年以降でなければ作られないものである」(棲神四一号一五九頁)
 このように宮崎氏は、一、年号の識語。二、伝奏の設置時期。三、人名の三点から偽書としている。
 以下、順次破折して『五人所破抄見聞』が妙蓮寺日眼の著作であることを論証する。
 
  一、 年号の識語
 
1、「康暦二庚申年」のように年数と年月日の間に干支が入るのは戦国時代の末ごろから稀に見られ始め、江戸期に入って間もなく一般的になる。
2、「康暦二年庚申」のように干支が年数のあとにくるのは鎌倉・室町時代の通格である。
 これが宮崎氏の主張である。これに当てはまらなければ偽書の疑いがあるというのである。
 1、に関して、戦国時代の通格が鎌倉時代に見られるもの。
 『富士宗学要集』八巻に秋山家の書状がある。それには、
「ぶんはみづのとみのとし二年正月廿二日」
(文 和 癸    巳  歳 二年正月廿二日)(同書一二三頁)
とあり、もう一つは、
「文和みづのとのみのとし二年三月五日」
(文和 癸     巳  歳 二年三月五日)(同一二六頁)
とある。前者は泰継の孫の状、後者は泰忠の状で、二本とも秋山家に所蔵されている正本である。
 また、同じ年月日に秋山泰忠が認(したた)めた書状には、
「文和二年みづのとのみのとし三月五日」
(文和二年 癸     巳  歳 三月五日)(同一二七頁)
と書かれたものがあるが、同一人が同じ日に書いたものにもこのような差異が見られるのであり、宮崎氏の如く年号の書式が通格と相違するから直ちに偽書と断ずるのは早計であろう。年号の書式が通格と異なる場合、一往確かめる必要はあろうが、その確認作業はどこまでも謙虚にして慎重でなければならない。宮崎氏のように思い込みと独断で真偽を決定づける方法は学問的とは言えない。
 このほか他門流にも『五人所破抄見聞』の奥書と同形式のものがある。それは『日成譲状』と呼ばれるもので、
「徳治二丁末未年三月二十八日 法印日昭在判」(日蓮宗宗学全書一巻一一頁)
とある。これについては古来、特に偽書説はないようである。徳治二年(一三〇七)は鎌倉時代である。このように数こそ少ないが年号と干支の書き方は一様ではなく、宮崎氏のようにすべてを通格で押し切ってしまう論議は乱暴と言うほかはない。
 2、に関して、
「天文十五年丙午正月廿三日之を述ぶ日我敬白」(富要一巻三二五頁)
「永禄十年丁卯十月十三日 六十才 日我在り判」(同八巻八九頁)
「于時天正六年戊寅二月時正書写之畢 本乗寺善行坊日膳阿闍梨」(同四巻一三五頁)
「天正四年丙子八月十三日 勝資在り判」(同八巻一一五頁)
等があるが、前三書は保田文書、最後は公文書である。保田では書式の通格にとらわれていないようであり、一通は公の文書でありながら、これも規格どおりでない。宮崎氏からすればあってはならない書式であるが、実際には存在するのであり、学問は現実の証拠を重視するところから始まるのであるから、宮崎氏には大きい視野に立って公平に判断することを強く望みたい。
 
  二、伝奏の設置時期
 
 宮崎氏が『棲神』四一号に投稿したのは昭和四十三年で、今から二十七年も前のことであり、今日では日本の歴史、ことに伝奏に関しても研究が進んでいる。宮崎氏は武家伝奏は正長元年に始めて設置されたと言うが、今はこの説は通らない。公武関係は関東申次から武家執奏(文和二年〔一三五三〕の実俊に始まる)を経て武家伝奏(江戸期には単に伝奏とも言うようになった)に変わるが、武家伝奏は康暦から永徳年間(一三七九〜八三)ころには始まっている。『見聞』は康暦二年の成立なので同時代ころである。
 ところで、宮崎氏は勧修寺、広橋両家の伝奏が周知の役柄のように『見聞』に記されているから、『見聞』はどう見ても康暦二年より九十年後の成立であると、武家伝奏の始まりから逆算して述べている。だが、ここに誤りがある。一には両家の伝奏は康暦二年以前からであったこと。二には『見聞』には公家伝奏とは言っても武家伝奏は述べていないことである。述べていないことを述べてあるように考えても意味をなさない。
 まず、『見聞』には、
「総じて公家伝奏と云って当御代は勧修寺殿広橋殿など伝奏衆と云ふ也、武家へは訴訟と云ふ」(同一巻一一頁)
とある。ここに「武家へは訴訟と云ふ」とあり、けっして武家伝奏と記していない。周知の役柄なら武家伝奏と記していいはずなのに、日眼が「訴訟」と述べたのは、いまだ周知の役柄でなかったのではなかろうか。武家伝奏は義満時代からは重要な柱となったことは事実であるが、それが世間に広く知られる前であったので、日眼は「訴訟」と記したと考えるのである。
 また、日眼は「公家伝奏」と記しているが、「公家への伝奏」、あるいは「公家による伝奏」という意味に解される。『見聞』にはこのあと、「当御代は勧修寺殿広橋殿など」と続くので、両家の公家による伝奏と解したほうがよいかも知れない。いずれにしても、かつて日目上人が国家諫暁され、天皇から『園城寺申状』の御下文を戴いたことに関連しての記述であることを知っておく必要がある。
 次に、宮崎氏は武家伝奏の始源を求めて、そこから『見聞』にあるべきはずのないものが記述されているから後人の仮託だと主張したが、勧修寺、広橋両家は康暦二年以前に伝奏に任じられている。
 勧修寺経顕(一二九八〜一三七三)は『大日本史料』の応安六年(一三七三)正月六日の項を見ると伝奏であったことが判る。また、『小槻匡遠記』建武二年(一三三五)六月十三日条に「伝奏大弐」(大弐とは経顕のこと)とある。
 広橋兼綱(一三〇二〜一三六六)は貞治六年(一三六七)の時点で伝奏であったことが確認されている。『見聞』より十三年も前である。
 兼綱の子である広橋仲光(一三四一〜一四〇五)は『東寺文書』(永和二年〈一三七六〉)三月八日に「伝奏広橋仲光奉書」とある。さらに『迎陽記』康暦二年五月二十六日・八月六日条からも伝奏であったことが知られる。
 このように『見聞』以前から勧修寺、広橋両家は伝奏の任を奉じていたからこそ日眼が記述できたのである。国諫に情熱を込めていたから伝奏衆には敏感で、いち早い情報が入ったのであろう。なお、広橋家の系図は左の如くである。
 
 
  三、著 者 名
 
 『見聞』の奥書には、
「伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判」(同二六頁)
とある。宮崎氏は『富士戒壇論について』のなかで、
「このころ存命の富士門家の日眼といえば西山本門寺八世日眼のみで、百余年前に没した妙蓮寺日眼は年代不相応、別人である」(仏教の歴史と文化六五二頁)
と言い、『見聞』の著者を西山日眼と推定している。『見聞』には二箇相承が記されているので氏としては時代を下げたいようであるが、『見聞』の記述内容から妙蓮寺日眼なのか、西山日眼なのか、その作者を検討してみたい。
 西山本門寺八世日眼は文明十八年(一四八六)、祖滅二〇〇年ごろに寂している。この日眼は日有上人と同時代で左京日教より少し前の人である。既に祖滅二〇〇年ともなれば富士五山はそれぞれ門流意識が形成されており、日代の流れを汲む日眼としても少しはその主張が見られるはずであるが、それがない。『見聞』には仙代問答の記述があるが、そこには河合の義、日仙の義、上野の義、重須の義、日代の義を列挙し、
「何(いずれ)も大事也」(富要一巻二五頁)
と中立を保って日代びいきをしていない。これは、宗門上古のことでなければならず、祖滅二〇〇年まで下がらない。
 また、西山門流は宗祖―日興上人―日代―日任と次第して日目上人を除外する教団であるが、日目上人の四十二度の天奏や御下文を挙げ、
「広宣流布は必ず当門徒に在る可き也」(同四巻一一頁)
と言うのも変である。当門徒とは石山を含む妙蓮寺を指すと考えるのが妥当であろう。それは、妙蓮寺日眼が大石寺開基檀那南条時光の子息・乙次丸だからである。如上のことから西山日眼は、「広宣流布は必ず当門徒に在る可き也」とは、表現できないはずである。
 また、『見聞』に、
「日朗は大聖御入滅已後二十九年目に日興上人へ御同心有」(同一巻一〇頁)
と、日朗の富士帰伏を具体的な数字をもって記せるのは妙蓮寺日眼がふさわしい。それは、日興門流の正統意識が裏打ちされているからである。『見聞』に、
「一瓶の法水を日興に御付属あり、日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集る処の法花経なれば法頭にて在す也」(同九頁)
と、宗祖からの付嘱、そして歴代上人への相譲(相承)が記されている。相承はあまり他派では言われず、これは大石寺の血脈相承のことと思われる。石山と姻戚関係とも言える妙蓮寺の住侶にして言える表現であると考えるのである。
 このほかに本仏論、本因妙思想、文底などが記されているが、上代での成立であることを窺(うかが)わせ、西山日眼まで下がらない。故に『見聞』の奥書に示す如く、康暦二年に妙蓮寺日眼によって著されたと信じるのである。
 
広橋家

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