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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 21世紀さん

    2009年02月28日 23時37分33秒

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    黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録

    黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録

    著者: 矢野絢也

    発行年月日:2009/02/28
    サイズ:四六判
    ページ数:302
    ISBN:978-4-06-215272-3

    定価(税込):1,785円
    内容紹介
    --------------------------------------------------------------------------------
    強奪された100冊近い手帖……そこに記された創価学会の日本を地獄に変える陰謀!

    あなたの隣で進行中の「クーデター」
    「本書のタイトルである『黒い手帖』、すなわち、私の30年にも及ぶ政治家としての記録を公明党の議員OBに『強奪』され、創価学会とも裁判所で争うようになり、そうして今、距離を置いて振り返ってみると、当時の私はマインドコントロールにかかっており、創価学会によって操られていたと思わずにはいられない。池田xx名誉会長の野望――学会の『日本占領計画』を成就させるため、その計画のど真ん中で働いていたのではないか、との思いが日増しに強くなっているのだ。」――<「まえがき」より>


    目次
    --------------------------------------------------------------------------------
    序章 私はなぜ創価学会に反旗を翻したか
    第1章 黒い手帖の極秘メモ
    第2章 手帖強奪
    第3章 創価学会の卑劣な違法行為
    第4章 カルト化する「池田教」
    第5章 創価学会に完全支配される公明党
    第6章 宗教政党の罪
    第7章 池田名誉会長の野望
    第8章 日本占領計画


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  • from: 21世紀さん

    2009年02月27日 16時54分51秒

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    「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    創価学会なども、今、世間の宗教に迎合して大聖人の教えの本筋を捨て、世の中をうまくごまかすため、あらゆることを言っておりますが、あれはすべて大聖人様の真実の教えではないのです。真実の教えではないから、その言っていることはみんな方便以下のまやかしに過ぎないわけで、そのようなものを一切捨てよということです。

    そしてさらに、「南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じてへ三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(同)と。

    このところに「能居・所居、身土・色心」とありますが、御題目を唱える人の命が下種本仏の悟りと同じく、無作の法身・報身・応身という、三身の上の功徳を成就していくことを説かれてあります。したがって、その功徳を成就することによって、直ちにその人の所住のところが仏国土となると示されるのであります。

    南無妙法蓮華経と唱えるところ、その身がそのまま法の姿を表す。これが、「身土一念の三千なり」(同106ページ)と言われるところの「身」と「土」、つまり衆生の身体と国土が融妙(ゆうみょう)な関係において常楽我浄という四徳の功徳を成ずるという意味であります。依報(えほうし)と正報(しょうほう)という言葉がありますが、その正報は我々衆生であり、依報は国土であります。国土が存在しなければ、我々の生活、我々の身は存在しないわけです。故に、身と土ということは非常に大事な相関関係にあることを、ここでおっしゃっておるのであります。

    南無妙法蓮華経と唱えるところが、そのまま三観・三諦即一心に顕れる。と同時に、「能居・所居」、これは能(よ)く居し、居される所、すなわち衆生の身とその身が存する国土を言うわけです。この場合は、我々の体がその妙法の功徳を成就する形において、無作応身を成就するということになります。それから「身土」とは、本有の四徳と修徳の四徳を能所とする身と、その身の所依となる土との融妙な法の体を言われるので無作法身であります。また「色心」とは色法と心法ですが、これはそのまま我々衆生の色法を依拠として心法が存するという上から、その深い悟りを生ずるところが無作報身を意味します。その無作報身の功徳が十法界を遍く照らすのであります。要するに、我々のこの信心の姿が御本尊に冥合し、そのまま無作三身として顕れるということを仰せになっておるのであります。

    この『立正安国論』の御文も、強固な信心の上において仏国も衰えることがなく、十方もまた宝土となり、その宝土も壊れることがないと示されます。ここは法華経における三変土田(さんぺんどでん)の変革の上からの宝土の意義も含まれておると思います。

     ・国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。

    身と国土の上に変化災難がなければ、我々の身心は安らかにして幸福の境地が定まるのである。

     ・此の詞此の言信ずべく崇むべし。

    しかし、このためには邪を破して正を立てるということが大切であり、それが「此の詞」に当たるわけであります。それによって必ず仏国土が成就されるということが、その次の「此の言」に当たっております。要するに立正安国は、信仰の寸心を改め、速やかに実乗の一善に帰するというこの文に明らかに示されておるのであります。


    <正に帰して領納す>

    次が、最後の客の領解であります。


    客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。此の経文を被きて具に仏語を承るに、誹謗の科至って重く毀謗の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

     ・客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。

    この「今生」とは現世のこと、それから「後生」とは来世のことです。客は従来の主人の懇(ねんご)ろな教示によって今までの執着を離れ、この現当二世の意味から謗法を深く恐れ、かつ誡めて、主人の一言われるところの立正安国の趣旨にしたがわなければならないということをここに述べるのであります。

     ・此の経文を被きて具に仏語を承るに、誹謗の科至って重く毀謗の罪誠に深し。

    すなわち「あなたの言葉を承ったことにより、正法を誹謗するところの科が重いこと、また法を謗るところの罪が深いということが判りました」と、まず申します。

     ・我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。

    つまり私は法然の捨閉閣抛の教えを信仰し、阿弥陀仏を信じて他の仏を抛(なげう)ってしまい、また浄土の三部経のみを仰いで他の諸経を手に取ろうともしなかったのは、私が自ら曲げて考えたことではありません。すなわち念仏のみを正しい教えとして勧めたところの法然等の人々の詞にしたがったのであります。

     ・十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。

    しかし私のみならず、他の多くの人たちも、すべてこのような誤りを犯していることでしょう。

     ・今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。

    それによって、心の表面のみならず、本性を煩(わずら)わすことによって様々な悩みを生じ、また来生には阿鼻地獄に堕ちることが経文に明らかであると共に、その道理が詳らかであることから、それは疑うべからざることでありますと、このように客が自らの領解を述べるのであります。

    次が、最後の客の誓いの言葉となります。

     ・弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。

    これは一番最後の大事な御文であります。つまりあなたの慈悲の諭(さと)しをいよいよ仰ぎ、私の誤った心、無智な心を開いて、速やかに災いのもとであるところの謗法を対治し、早くこの世の泰平を見るために努力をいたします。そして生前、つまり現世における身心や国家社会が安らかとなるよう、また没後、つまり死後が幸せとなるよう、この現当二世の意味から願い行じてまいります、ということが客の最後の誓いであります。

     ・唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

    そして、次の最後の一文がまことに大事なのです。これは自分だけが信じるということではなく、他の人々の誤りをも誡めてまいりますという決意です。

    このことを大聖人様は、また自行化他の南無妙法蓮華経とおっしゃっております。自らが正法を行ずると共に他にもこれを勧めていく。他に勧めるためには、他の人々が持っておるところの誤った人生観・世界観、乃至宗教観を折伏することが大切であります。折伏をすることによって正法への眼を開かせ、化他の道が成就していくということになるのです。したがって「又他の誤りをも誡めんのみ」というのは、自行の上の化他の折伏であり、それがこの『立正安国論』の趣旨になっております。したがって、我々も縁のあるところから折伏を行っていくことが大事なのです。

    しかしながら、大聖人様があの当時においていろいろな謗法がある中で、その中心としてまず法然の『選択集』における邪法邪義を『立正安国論』において指摘あそばされたということは、当時としての衆生の機根や罰の現証の上から大事な意味を持っておったのです。けれども今日では、いろいろな意味において謗法の姿が大きくなり、また変わってきております。

    そこで第四問答の最後に、主人の答えとして、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)という有名な御文がありますが、この「一凶」ということにおいて、当時、大聖人様は法然の『選択集』を謗法対治の基準とされてお示しになっておるのであります。当時は念仏の教えによって、様々な人が臨終の際に、地獄に堕ちて行くような悪相を現じていたということが、当時の文献において明らかであります。

    今日においては、多くの人々がありとあらゆる信仰をしておる姿がありますが、それらはやはり本当の意味で成仏するところの教えではありませんから、これを折伏していくべきであります。しかしながら、今日における「一凶」ということの意味からいけば、これはいわゆる正法の門を出でて邪法の獄に走ったところの創価学会が、最もその邪悪な姿として顕れていることを知るべきであります。その元凶は言うまでもなく、あの池田xxであり、その池田xxの体質をすベてそのまま受けたような形で、偏狭で自己中心の我意識をもって世間に誹謗と邪義の思想をまき散らしておるのが、創価学会の今日の姿であります。

    彼らは日蓮大聖人の教えなどと言いますが、彼らの主張するところは全く大聖人様の仏法ではありません。先ほども申し上げましたように、大聖人様は常に正しい修行と振る舞いをもって、真の仏法、南無妙法蓮華経の法体とされておるのであります。ですから妙法を弘める上において、誹謗や邪義をもって世の中を誑(たぶら)かしていこうという考え方は、まことに大聖人様の仏法ではないのです。口先だけ「大聖人、大聖人」と言いながらも、実は大聖人様の仏法に徹底して背いておる。このような矛盾した考え方は、大変な誤りであると言うべきであります。

    大聖人様は、「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(同1066ページ)とおっしゃっております。つまり日蓮大聖人、日興上人に背いて、仏法を惑乱しておるところの創価学会の者どもは、特に池田xxを中心とする大幹部の者どもは、堕地獄必定であると、ここにはっきりと『安国論』の教えに基づいて申し上げるものであります。

    したがって、この一凶を禁じ、また救うべき意味において、一人でも多くの創価学会員、またそれ以外の人々にも慈悲の折伏を行じ、日蓮正宗の正しい仏法へ導くことが大切であります。なお今日、創価学会の誤りをいろいろに指摘しておる本がたくさん出ておりますが、それらもお読みになれば、参考になる点も多いかと思います。


    今、宗門は「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進んでおります。是非、皆様方には、この最後の御文「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」という、このところを心肝に入れられまして、縁のあるところから一人でも多くの人の迷妄を開き、正しい信仰の道に導かんという気持ちをもって精進していただきたいと存じます。

    たとえそれが一人であったとしても、それだけこの世の中が明るくなっていくのであるということを確信されて、あらゆる面から折伏の意義を常に実践していかれること、それが『立正安国論』の正義顕揚に当たるのであります。

    皆様の御精進を心よりお祈り申し上げまして、私の『立正安国論』の拙講を終わる次第であります。(題目三唱)



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  • from: 21世紀さん

    2009年02月27日 16時50分03秒

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    「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    ・乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし。

    この大集経の文は、前に一度挙げてあります。そこでは右の文の中の「乃至」の部分に「其の国当に三つの不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。・・・内外の親戚其れ共に謀叛せん」の文が入っており、これは現世における災難についての文です。しかるに、ここでは死後未来について示されることから、現世の部分の文は省かれておるのです。そして「乃至」の次に、その王は久しからずして重い病に遇ってその寿命を終え、死んだ後は大地獄に生ずるであろう。

     ・王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならんと。

    また王のみならず、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官等、つまり同一国土に王と一緒にその因縁果報を受けておるところの者たちが、すべて共に地獄に堕ちるであろうという仏の教説です。国土因縁を同じくする衆生には、やはり一蓮托生(いちれんたくしょう)という意味があるのです。


    仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。
    法華経第二に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。


     ・仁王経に云く

    次は、仁王経の『嘱累品』であります。ここでは、仏教に背き、それを壊ることの悪果報について述べられております。

     ・「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、

    まず親に孝を行う子供がなくなって、不孝者が充満する。次に六親が和せず、争う姿が出る。この「六親」というのは、親しい者という意味で、内容にはいろいろな説がありますが、一往、妙楽大師の『法華玄義釈籤(しゃくせん)』には、父と母、兄と弟、妻と子の6つを挙げております。つまり自分の親戚縁者中の一番主な人々になります。それらが非常に仲が悪くなり、その生活において天神つまり神様も助けることがない。

     ・疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、

    また様々な病気が流行し、災いを起こすところの悪鬼が来たって国民生活心理を侵害する故、様々な怪しい災いが重なり来たって、縦の時間、横の空間に遍満するに至るというのであります。

     ・死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。

    そして死んだ後は、地獄・餓鬼・畜生に入るであろうし、さらにもし出でてまた人となったならば、兵奴の果報のごとき者となるであろうとあります。この「兵奴」というのは、怒りをもって正法を壊る衆生を言うのであります。その報いを受けて、人間に生まれたとしても、刃の中に身をさらすようなことになり、あるいは様々な刃をもって身を苦しめられる形になってくるというような果報があるのです。

     ・響きの如く影の如く、

    過去から現在、現在から将来にわたって、善悪の因縁による三界の果報は、絶対に消えることがないことを譬えによって説かれております。

    まず「響きの如く影の如く」の「響き」というのは、音に対しての響きです。それから「影」とは、体に対しての影であります。音があれば必ず響きがあり、体があれば影がある。この譬えをもって人間が生きておる間を体とし音として、死んだ後の形が響きとなり、また影となる意味から死後の業の存続を示しております。そこでその果報がどういう形かと言うと、必ず地獄・餓鬼・畜生乃至六道の生を受けるということであります。

     ・人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、

    次が、これについての譬えです。つまり人が夜に灯火の下で字を書き、書き終わった後に火を消す。すると真っ暗になって書いた字が見えなくなります。けれどもその字は残っておるわけで、これは目には見えないけれども果報は厳然として存在するという譬えであります。要するに、人間が生きている間に行ったいろいろな行為というものは、死んでしまえば、それらはなくなってしまうように見えるけれども、結局、その果報というものは、次の生においてはっきりと出てくるのであり、その業はなくならないと言われておるのです。

     ・三界の果報も亦復是くの如し」と。

    この「三界」とは、欲界・色界・無色界のことで、つまり六道を言います。この色界と無色界は天界を指し、欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天までがあるのです。ですから天界とは、欲界天と色界天と無色界天の3つがあるわけです。要するにこの文は、六道の迷いの果報が永く未来に続いていくことを述べておるのです。

     ・法華経第二に云はく

    大聖人様が『安国論』において、この法華経『譬喩品』の文を引かれるのは、これで三度目です。

     ・「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。

    一切衆生を救う仏種によって仏に成ることを示す経典が法華経でありますから、その法華経を謗るということは、一切衆生の仏種を壊(やぶ)ることになる。したがって、それは必ず無間地獄に堕ちるということがこの経文であり、当来の大悪果報を示す総結の文であります。

     ・又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。

    これは不軽菩薩を謗った衆生が、その後に改心したけれども、前に謗った罪によって千劫の間、阿鼻地獄において苦しまなければならなかったという死後の罪報の文であります。

     ・涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、

    この「善友」というのは善知識のことであります。これには3つあり、いろいろなことを正しく教えてくれる教授の善知識、それから一緒に善いことを行っていくところの同行の善知識、さらには仏法を外から正しく守るところの外護の善知識であります。

     ・是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。 

    要するにこのところでは、そのような善知識たる人々を嫌い正法に背き、そして悪い人間の教えを受け、その悪法によって生活する。このような因縁を作れば、阿鼻地獄に沈んで苦しみ、その受けるところの身形は縦横8万4千由延であると言うのです。

    この「八万四千由延」の「由延」というのは長さを言います。一由延は帝王一日の行程と言い、中国の里程においては30里です。これは日本の里程では約5里に当たります。一里は4kmですから、一由延は約20kmということになります。その20kmの8万4千倍ですから168万kmで、大変な長さになりますが、これは横の線だけではないのです。「身形縦横」とあるように、我々が無間地獄に堕ちると、身体が縦横にそれだけの広さに拡張し、その全身に充満する苦しみを受けるということです。

    無間地獄に堕ちる人間は1人だけではないとして、1人で地獄がいっぱいになったら他の人は入れなくならないかと思うけれども、そうではないのです。やはりこれは業によって、各々の身体が等しく8万4千由延の広さになって苦しみを受けるるように感ずるのであります。


    広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつ)はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。

     ・広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。

    このところより主人の言となります。以上挙げたところのすべての経文を拝してみると、謗法が非常に恐ろしいことを述べられておる。すなわち仏の説かれた正しい法に背くことにおいて大きな罪を得るということです。

     ・悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。

    そこでまず「悲しいかな」と言われるのは、釈尊が一代仏教を説きながら方便の教えと真実の教えということのけじめをつけられ、また中国に現れた天台大師や日本に比叡山を建立した伝教大師という方々が、仏法の筋道をきちっと立て分けられておる。その中で小乗に対する大乗、大乗の中においては権経に対する実経としての法華経が「正法の門」として最も勝れた教えであり、他の経々はその門から出でたところの方便の小乗であり、権大乗であるにもかかわらず、その中の一分にとらわれて、自ら邪法の地獄の中に入ってしまっておることについてであります。

     ・愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつ)はる。

    また「愚かなるかな」と嘆かれるのは、法然の『選択集』という悪教の綱に懸かり、永く法華経の教えを謗るという邪な網に纏われておることを言われるのです。

     ・此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。

    次に「此の朦霧の迷ひ」という「朦(もう)」は、月篇に「蒙」という字です。これは月の光がまさに失われんとするところの薄暗い状態を指すものです。次の「霧」とは、それが太陽や月の光を覆っているという形容で、法然の悪教によるところの迷いが真実の仏性の日月を隠しておるということに譬えるのであります。また「盛焔の底」というのは無間地獄の異名であり、つまり無間地獄の中に堕ちて苦しむということです。

     ・豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。

    したがって、このような来世の惨状について、今生のみならず来生において耐え難い無間地獄に堕ちることを愁えないでよかろうか、また苦しまないことがあろうか。それにつけても謗法にとらわれるということを注意し、誡めなければならないとの仰せであります。

    この次が、いよいよ『立正安国論』の肝要の御文であります。皆さん方も寺院の御会式に出て聞かれておるでしょうが、ここのところが一番大事だと思ってください。

     ・汝早く信仰の寸心を改めて

    この「信仰」とは、まことに大事なことであります。我々の生活自体が全部「信」と「仰」によって存在しているのです。「私は無宗教者だ」と言う人であっても、何らかのものに対する「信」と、何らかの「仰」、つまり仰ぎ尊ぶことによって、過去から現在、そして未来にわたるその人の生活が存在するのです。

    どのような人でも、生活の中における何らかの信じ方があり、その意味において広く考えれば、信仰はあらゆる人が持っておるのです。例えば、「私はお金が最高で、お金を貯めることが一番大事だと思う」と言う人は、そういう“信仰”なのです。故に、正しい信仰と誤った信仰の見分けが人生観において大切であり、この場合は、法然の間違った念仏の信仰を言われるのです。

    さて、その「寸心」の「寸」とは小さいということ、つまり小さな信仰という意味で、偏った狭い信じ方を言います。それを改めて「速やかに実乗の一善に帰せよ」と言われるのは、そこに大きな広い信仰、すなわち正しい信仰に帰すべしと示されるのです。

     ・速やかに実乗の一善に帰せよ。

    「実」の字は、真実で偽りのない「まこと」ということ、「乗」は乗り物、すなわち人を乗せて幸せなところへ運んでいく乗り物で、教えのことです。したがって、真実の教えというものを「実乗」と言うのです。

    この実乗に対して、一時的な権(かり)の教えとしての方便があります。故に釈尊自らが無量義経において、「諸の衆生の性欲不なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす」(法華経23ページ)と、華厳・阿含・方等・般若等の40余年の諸経はすべて方便経であるとはっきりと述べられておるのです。

    そしてこれは、今まさに法華経に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(同124ページ)と示されるごとく、衆生を正しく導くためには正直ということが非常に大事であり、これによって方便を捨てて無上道を説かれるのです。要するに、正しいことを素直に説き、また信じるところに本当の幸せの道が存する。これが法華経の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということであり、「実乗」であります。

    さらに言うならば、その法華経の中で真実の教えは、迹門をすべて包含した本門の教えに存するのであります。この本門の教えの中で、さらに釈尊が『神力品』において地涌上行等の菩薩に結要付嘱されたところの妙法蓮華経が『寿量品』の根本法体であります。

    これを大聖人様が御出現あそばされて、久遠元初の仏法本源の法体を明らかに示されたのが、『当体義抄』『総勘文抄』等の御文に明らかでありますが、その実体はすなわち本門三大秘法であります。本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法は、そのまま久遠元初の仏法の法体たる南無妙法蓮華経に存するのであります。

    「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(御書1684ページ)という有名な『本因妙抄』の御文があります。この文からも、南無妙法蓮華経の法体がそのまま本門三大秘法であることが明らかであります。これが末法における一切衆生を真に正しく導くところの「実乗の一善」なのです。この『安国論』の御文は、ここに帰するということを元意として拝さなければなりません。

     ・然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。

    この文のところは、少し判りにくいかもしれません。まず「三界は皆仏国」とあります。三界とは何かと言えば、先ほども出てきましたが、欲界・色界・無色界の3つで、これは六道のことです。六道輪廻という言葉があるように、これは迷いと苦しみの世界です。その世界が実乗の一善に帰することによって、そのまま直ちに仏国になると言うのです。

    これは普通の常識では判りにくいかも知れませんが、ここに法界の不思議な当体・当相として法華経の大きな功徳を信ずべきであります。これは大聖人様の教えの中で、一人ひとりが仏の境界を得るための無限の功徳とその道が、正法正義を持つ上に存在しておることを述べられると同時に、そこから広宣流布の道がはっきり現れると述べられておるのであります。

    したがって、これは『当体義抄』に、「正直に方便を捨て但法華経を信じ」(同694ページ)と示されるように、法華経以外の教えは全部方便であり、その方便をきれいに捨てよということを仏様がおっしゃっておられるのです。

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    2009年02月27日 16時41分02秒

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    「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」



    加之(しかのみならず)国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱ると。今此の文に就いて具に事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。

     ・加之(しかのみならず)国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱ると。

    この「加之」というのは、前の仁王経に七難を挙げると共に、さらに「国土乱れん時は先づ鬼神乱る」という文が述ベられておることを強調されるのであります。つまり鬼神が乱れることが国土の乱れる前兆であり、それによって万民が乱れ、国土が混乱するのであるということです。

     ・今此の文に就いて具に事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。

    これは、あらゆる難が諸経に説かれておるように起こっている中で、自界叛逆の難と他国侵逼の難だけがまだ現れていないけれども、その他の難が様々な形において現れてきておるのは、まさしく「百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ」姿であります。

     ・先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。

    そして、これはまだ先の難である。これが明らかに現れておる以上、経文に予証される後の災いが必ず来たることをどうして疑えようか、疑いのないことである。

     ・若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。

    したがって残るところの難が、悪法の科によって並び起こり競い来たらば、その時はどうしてよいであろうか、為す術もないのではないかとの警告です。

     ・帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。

    帝王は国家を基本として政治を行うのであり、人臣は田園を領して、分々にそれぞれ田園を所有するところにおいて世の中における生活を保ち、安楽な生活も送ることができるのである。

     ・而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。

    しかるに、いわゆる他国侵逼の難と自界叛逆の難が起こってきたら、平和な国土や民衆の生活が、なお驚き苦しみ騒ぐことになると言われるのであります。「他方の賊来たりて」ということは、余所のほうからこの国を攻め寄せる他国侵逼の難、「自界叛逆して」というのは、国内においてお互いに背き、逆らい、争いが起こる難です。それによってそれぞれの地を掠(かす)め取るならばこれは大変な大乱であり、したがって国の上下の人々は非常に驚き騒ぐことは必然である。

     ・国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。

    もし、そういうことで国を失い、また家がなくなってしまうならば、どこへ世を逃れたらよいか、身の置き所もなくなるではないかと警醒されます。

     ・汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。

    したがってあなたが自分自身の安堵・安泰を欲するならば、四表すなわち東西南北、国中全体の静詮を祈るべきであると言われます。つまり、仁王経・金光明経・薬師経・大集経等に説かれる七難等の災難の中での残るところの難が必ず現れてくることになるから、四表の静謐を祈るために邪義を誡めるべきことを述べらてきたのであります。


    さて、ここまでは現当二世のうちの現在のこと、つまり現世の災難を防ぎ、幸せを得るための方術と誡めを述べられておりますが、この次からは「当」すなわち各人の当来の世、つまり死後についての教示に移ります。

    つまりこの『安国論』の趣旨は、現世のことだけを論ずるのではないのです。仏法の本質の上からも現当二世、いわゆる現世安穏・後生善処が大切なのです。人々が生きておる間の悩み苦しみを消して、安楽な幸福の生活を得るための方策を図ることも必要であるけれども、さらに死んだ後において地獄へ堕ちたり、餓鬼・畜生に堕ちて苦しみを受けるようなこともあってはならないのです。そのためには、本当に幸せな死後の未来を迎えるべきであり、その上から「当」すなわち未来の大切な意味を示されるのが、これからのところであります。


    就中人の世に在るや各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん。所以は何、大集経に云はく「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護せずんば、是くの如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならんと。

    今の人たちは、死んだ後は何もかもなくなってしまうくらいに思っている人が多いと思いますから、後生を恐れるという考えなどもないと思われます。しかし、日蓮正宗の信徒は、現当二世の道理をきちんと信じ、正しく考えるべきであると思います。

    今の世間の教育者とか哲学者などが、さも人生や真理について判っているようなことを言いますが、万人に見惑・思惑という迷いのあることすら知らないのです。思想上の迷いである見惑に5つあるうちに辺見があります。この辺見には、さらに断見と常見があるわけですが、これらの人々もそのどちらかの迷いに入っているのです。

    簡単に言えば、「断見」というのは、人間が死んだ後その生命は断滅して何も残らないという考えです。それから「常見」というのは、個人の生命が霊魂として滅することなく存在していくという考えです。しかし、これは両方とも間違いなのです。

    生命は「業」として存在します。我々の命は色心の二法なのです。色は「肉体」であり、心は「精神」で、この2つによって我々の命があるのです。現在の我々は、前世からの色心の在り方が因となって今日の命が存在します。ですから死んだ後も、色法すなわち肉体が心ともなり、心法すなわち精神が色法とも合して因縁果報の原理によって種々に変化しつつ、次の生が開かれるのです。

    したがって、法界の無限の広さの中で地獄へ堕ちる生命もあれば、餓鬼に生まれる者もある。さらに畜生もあれば、人天の果報を得る場合もあるというわけであります。ですから死んだときの相が大切で、呼吸は止まっているけれども肉体はまだそこに残っておる。そこでやはり死相が本当に立派な方は、いわゆる仏の心を肉体が表しておるのです。肉体と精神との両方において次の生が決まっていくのであります。

     ・就中人の世に在るや各後生を恐る。

    そういうことからも「人の世に在るや各後生を恐る」とは、仏教の正しい三世の因縁果報を信ずる人は死んだ後の世について、いかなる因果につながるかということに大変関心を持ち、三悪道に堕ちることを恐れておるということです。

     ・是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。

    後生を恐れる故に、深くも考えず忘恩背教の教えである法然の『選択集』の邪義邪教を信じ、貴んでいると言うのです。

     ・各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。

    「是」は正しいこと「非」は誤ったことで、多くの人がこれに迷い、是を捨てて非を取っているのは、まことに悪(にく)むべきことであるけれども、この人々もなお仏法によって来世のことを願おうという志のあることは、まことに哀れで殊勝なことである。

     ・何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。

    したがって、同じ信心を持つならば、正しい信仰を持つべきではないか。どうして誤った言葉に執着して、誤った教えにとらわれることがあろうかと言われるのであります。

     ・若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん。

    右は、要するに邪法によって得るところの悪の結果を明らかに示されるのであります。すなわち法然の『選択集』等に示される「捨閉閣抛」のごとき邪義による念仏への執着が翻(ひるがえ)らず、曲がりねじけた邪教に対する心が存するならば、「早く有為の郷」つまりこの世を辞して必ず無間の獄に堕ちるであろうとの大断です。

    この「有為」とは「無為」に対する語で、あらゆる因縁の行為によって作られ転変していくところの現世を言うのであります。つまり我々の生活は、あらゆる縁にしたがって善くも悪くもなり、いろいろに変わっていくという泡沫のような人生と国土が「有為の郷」です。

    そして堕ちるべき「無間の獄」とは、地獄のうちでも一番下にある最も苦しい地獄のことです。およそ地獄には八大地獄があります。すなわち上から等活地獄・黒蠅(こくじよう)地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄とあり、一番下の最苦のところに無間地獄があるのです。種々の悪業の中でもその軽重によって地獄にも区別がありますが、謗法の罪によっては、このような八大地獄のうちの一番下の無間地獄に堕ちると仰せであります。

     ・所以は何、大集経に云はく

    この件について大聖人様御一人のお考えではなく、経典にはっきりと示されてあるという文証を示されます。

     ・「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護せずんば、是くの如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、

    この経は頻婆舎羅王(びんばしゃらおう)に対するお釈迦様の教訓の言葉です。したがって、国王の心掛けについて頻婆舎羅王に述べておられる意味があります。要するに国王があって、無量世の中において仏教を信じ、布施を行じ、戒律を持ち、乃至仏教の智慧の修行をして功徳を積んでいても、仏法が存亡に瀕(ひん)するとき、全く仏法に対して護る志を捨ててしまっておるならば、過去において植えたところの無量の善根があったとしても、それは直ちになくなってしまうとの趣旨です。

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  • from: 21世紀さん

    2009年02月27日 16時24分07秒

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    「Re:Re:Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    この次が、いよいよ第九問答の主人の答えです。末寺の御会式で捧読されるのが、ここから後のところであります。


    主人悦んで曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。悦ばしいかな、汝欄室の友に交はりて麻畝の性と成る。誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば、風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならんのみ。但し人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬へば猶水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡(なび)くがごとし。汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん。若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱(いそ)いで対治を加へよ。所以は何。薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。大集経の三災の内、二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以兵革の災なり。金光明経の内、種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露はれず、此の難未だ来たらず。仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来りて国を侵すの難なり。

     ・主人悦んで曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。

    この鳩が化して鷹となるなどということは、皆さん方も、一体どういうことなんだと思っていらっしゃるでしょう。これは中国の『礼記集説』という古い書物にあるのです。その中に、「仲春(ちゅうしゅん、2月)に鷹化して鳩となり、仲秋(ちゅうしゅう、8月)に鳩化して鷹となり」と記されておるのです。つまり2月の寒いときには、鷹が化して鳩となるとあり、鷹のような強いものが逆に弱い鳩になる。それが陽気が非常によくなってくる8月には、今度は鳩が化して強い鷹となると言うのです。この8月の「鳩化して鷹となり」という諺を、ここに挙げられておるのであります。 また「季秋(きしゅう、9月)に雀大水に入り蛤となる」という諺もある。これは9月の季節の変わり目には、このようなこともあると言うのです。要するに季節の移り変わりによる物事の変化を表す昔の諺であります。

    これを引かれたのは、正論を聞いて劣ったものが勝れたものに変化するという意味の譬えとして仰せられているのです。

     ・悦ばしいかな、汝欄室の友に交はりて麻畝の性と成る。

    この場合に御自身をまさしく「蘭室の友」とおっしゃっておるわけであります。蘭の香りのする部屋、つまり非常に勝れた清浄な部屋に住んでおるということは、清浄な人間が正しい心を持っておるが故に、その住む部屋が自ずから清浄になるということで、それを御自身に当てはめておっしゃっているのです。つまりあなたは私の話を聞いて「麻畝の性」となったと言われるのです。

    「麻畝の性」の「麻」とは、植物の麻のことです。「畝」の字は2つの意味があり、一つは田地の長さを測る場合に、1畝とか2畝と言うように面積を示す言葉なのです。もう一つは、田圃などでお百姓さんが鍬で土を高くして畝(うね)というものを作るのですが、そのことを言います。ですから「麻畝」とは、麻の畑のことを言うのであります。

    この「麻畝の性と成る」というのは、麻がたくさん植えられている中に、一緒に蓬(よもぎ)を植えた場合、蓬は本来曲がって伸びるものですが、麻の中の蓬は真っ直ぐ伸びるということです。要するに、正しい人と交わり、正しい人の中に入っていれば、曲がった心根の者もまた正しくなっていくという譬えであります。

    ですから、あなたは曲がった気持ちを持っていたけれども、今、蘭室の友であるところの主人すなわち私と交わって話を聞くことにより、まっすぐな心になったと言われるのです。

     ・誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば、風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならんのみ。

    この文は、先ほどからずっと述べてきたように、災禍・国難等が起こっておるのは挙一例諸の上から法然の『選択集』に原因があると言う私の言葉を信じて、あなたがまさしく邪を捨てて正に帰そうと志すならば、緑林の風が和らぎ、また海に立っておる白浪が静かになるという譬えのごとく、謗法をことごとく退治する形が現れることにより、日ならずして豊年、すなわち豊かで安楽な年月を迎えることができるのだと言われるのであります。

     ・但し人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。

    この文は、人心の変動しやすいことを警告されるのです。人の心が常に移り変わるように、あなたは今、判ったと言うけれども、あてにならない意味があり、かつあらゆるものの性質は境遇によって改変するものであると指摘されます。

    中国の諺に、「江南の橘(たちばな)、江北に移れば枳(からたち)となる」というのがあります。枳というのは刺がたくさんある悪い木と言われておるのです。江南においては橘という立派で有益な木であっても、江北に移ればそれが枳になってしまうと言うのです。これは要するに物の性は境遇によって変わっていくということです。ですから、善い境遇にいれば立派な人であっても、悪い境遇の中に入っていくと、悪い人に染まって悪人になってしまうという意味です。

     ・譬へば猶水中の月の波に動き、

    次は、その人心の変化の譬えを示されます。すなわち水に映った月は、風がなければそのまま月の形をもって映っておるけれども、風によって波が起これば、水の上の月は形が崩れて本来の姿を止めない。そのように縁によって物が変わり、間違ってくるのです。

     ・陣前の軍の剣に靡(なび)くがごとし。

    また、戦いの前軍において甲冑(かっちゅう)を着、武器を手にして敵と戦う軍勢が揃ったけれども、しかし敵が非常に鋭い刀槍をもって強く当たってきたときには、せっかく戦いの支度をしておりながらも、敵の勢いに恐れて退く。つまり初めには戦おうと思っていても、その志が萎(な)えていくようなものだと言われるのであります。

     ・汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん。

    この譬えのように、あなたは今は信じたようだけれども、この座を去ってしまえば、この正しい道理を定めし忘れてしまうであろうとの警告です。だから直ちに謗法の退治を実行せよということを示されるのが、この次の文です。

     ・若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱(いそ)いで対治を加へよ。

    つまり国土の安穏、天下の泰平を願い、そして「現当」、すなわち現在と当来の世という二世におけるところの真の安楽を願わんとするならば、心を正道に向かって思い回らせ、急いで謗法を退治すべく実行すべしと言われるのです。

    信心に入って直ちに折伏をせよということは無理という面もあるかも知れませんが、この仏法は正しいのだから、間違ったものにはきちんとけじめをつけるという気持ちを持って入信することが大切であり、その意味からまた御題目をしっかり唱えて功徳を得、確信を持って折伏をすることが大事なのです。それが「忽いで対治を加へよ」という意味であります。つまり折伏という意味において正しいことを実行に移すということが大切であると、はっきり指南されるのであります。

    次には、その理由が何であるかを経文の意をもって教示されるのです。初めにも述べましたが、第二問答において金光明経、大集経、仁王経の二文、薬師経、また仁王経、さらに大集経と、四経のうちの七文を挙げておられるのですが、この4つの経典においては仏法の精神に背くことによって起こる難をずっと挙げられております。それについて、その難が現在どのような状態になっているかを、ここから述べられるのです。

     ・所以は何。薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。

    まず「薬師経の七難」というのは、前にも挙げましたが、人衆疾疫の難・星宿変怪・日月薄蝕の難、非時風雨の難・過時不雨の難があって、その他に他国侵逼の難と自界叛逆の難があります。つまりこの七難のうちの前の5つは、すでにはっきりと起こっておるけれども、自界叛逆の難と他国侵逼の難の2つが、まだ残っておると仰せであります。

     ・大集経の三災の内、二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以兵革の災なり。

    次に挙げられる「大集経の三災」とは、一には穀貴、二には兵革、三には疫病の3つであります。穀貴というのは、いわゆる穀物の値段が高くなる、すなわち物価騰貴を意味するのです。今現在でも経済は混乱しているようだけれども、時代の特異性から経済の動乱にはいろいろな状況があるのです。今は今なりにデフレというような形で、いろいろな人が困っておるようであります。当時は大体がインフレという形で、物が少ないことから次第に物の値段が高くなって、ついには物を得ることができなくなるという状態、つまり穀貴であり、それから疫病等が常に盛んであったのですが、しかしまだ兵革の災いのみが現れていないという指摘であります。

     ・金光明経の内、種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露はれず、此の難未だ来たらず。

    先に挙げられた金光明経に多くの難が述べられ、その中に「他方の怨賊国内を侵掠する」ということが説かれておるけれども、これがまだ起こっていないと言われるのです。

     ・仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来りて国を侵すの難なり。

    「仁王経の七難」というのは、日月失度の難・星宿失度の難・災火の難・雨水の難・悪風の難・亢陽の難・悪賊の難で、これらは前に引かれたように、非常に長く述べられております。このうちの六難は盛んであるけれどもへ最後の賊来の難、つまり賊が来たって国を侵すという一難が未だ現じていないと指摘されるのです。



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    2009年02月27日 16時21分48秒

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    「Re:Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    ・提婆達多の蓮華比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ。

    この「提婆達多」という人は、五逆罪のうちの三逆罪を行った大悪人であります。三逆罪とは、一つは仏身より血を出だすこと。これは釈尊が歩いてくる道の脇の、高い山の上から大きな岩を投げ落として釈尊を殺そうとしたのです。その岩が足の指に当たって血が出たということです。このとき釈尊は殺されなかったけれども、これは出仏身血(すいぶつしんけつ)、すなわち仏身より血を出だすという罪で、五逆罪の一つになっておるのです。つまり殺仏という規定はないのです。父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺すということはあるが、仏は殺すことが、できないからです。

    これは大聖人様も同様であります。文永元(1264)年11月11日、房州の小松原において、東条左衛門の指揮による何百人かの武器を持った者に囲まれて殺されそうな状況にはなったけれども、結局、その者たちは大聖人様を殺すことはできなかったのです。そのときに、やはり大聖人様も眉間に4寸の傷を負われ、血が出たということがありました。これも仏の身から血を出だすということで、五逆罪の一つであります。

    次に、和合僧を破すということです。これは長くなりますので省略しますが、やはり提婆達多が釈尊の弟子を誘惑して自分の弟子にしようとしたということがありました。

    さらに3つ目が阿羅漢を殺すということで、これが今ここに示されておる「提婆達多の蓮華比丘尼を殺せしや」という事例です。蓮華比丘尼という方は、尼さんではあるけれども、釈尊の弟子として深く仏教の修行をした方であり、阿羅漢の悟りを得ていました。かつて提婆達多は、阿闍世王に「私は釈尊を殺して、代わりに仏に成る。だからあなたは父の頻婆舎羅王を殺して国王になりなさい。そしてあなたは国王として、私は仏と成って世を改めていきましょう」というようなことを言って誑かし、その言葉に阿闍世王が乗って、自分の父である頻婆舎羅王を幽閉し、最後に殺してしまったのであります。

    その悪業によって阿闍世王は身体に大変な悪瘡を生じ、苦しみに苦しむような状態が起こりました。そのときに耆婆等の賢明な大臣に教えられて釈尊を訪ねて懺悔をし、その大きな慈悲の功徳をもって悪瘡を治すことができたのであります。そこで阿闍世王は、提婆達多が非常に恐ろしい男で、自分をこのように騙して悪業を行わせた大悪人であることをすでに自覚しておりました。そこへ提婆達多が従前どおり供養を受けるために城へ来たわけであります。

    当然、阿闍世王は、提婆達多を城の中に入れることを拒絶したのです。そこで提婆達多が憤慨しているところへ、城の中から蓮華比丘尼という方が出てまいりまして、提婆達多を見て「お前は釈子でありながら、このような悪業を働き、仏に背いて実に不届きな者である」と、強く叱りました。提婆達多は大変怒って、拳(こぶし)をもって蓮華比丘尼を殴り、ついに打ち殺してしまったのです。

    ところが城の門の外に大きな穴が空いて、提婆達多は直ちにその穴から地獄の底へ堕ちてしまったのであります。それが「蓮華比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ」ということです。玄奘(げんじょう)三蔵が17年間にわたってインドの国々を回ったときには、提婆達多が地獄へ堕ちた穴がまだ存在していたということが、玄装三蔵の『西域記』という本に書いてあります。

     ・先証斯れ明らかなり、後昆最も恐れあり。

    この文が客のこの段における結語です。前にも述べておるごとくに、僧侶を殺すということをすれば、その罪業として阿鼻地獄に堕ちるということが明らかである。ですから「後昆」、すなわち後の子孫、後の人々のためにも、僧侶を殺すということは実に恐るべきことであるというのです。

     ・謗法を誡むるに似て既に禁言を破る。此の事信じ難し、如何が意得んや。

    したがって、このようなことは仏子を哀れみ、仏子に対して供養をしなければならないという仏様の金言を破ることになるではないか。邪教を説くと言っても、その僧を殺すのが正しいということは、まことに信じ難いことであるという反論であります。




    主人の曰く、客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるに非ず、唯偏に謗法を悪(にく)むなり。夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん。

     ・主人の曰く、

    次は、客に対する主人の答えです。

     ・客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。

    あなたは、私が挙げておる経文を明らかにご覧になっておるにもかかわらず、なおこのようなことを言うとは、結局、あなたの心が経文の真意に及ばないのであろうか、それとも経文に示す道理があなたに通じないのであろうかとまず指摘され、次に客の思い違いを矯(ただ)されるのです。

     ・全く仏子を禁むるに非ず、

    すなわち、従来述べてきたことは「仏子を禁むる」のではないということです。つまり客が大集経の文を引いて、持戒や毀戒でも僧侶は共に仏子であるということを論じました。したがって、そういう一般の僧侶については当然、仏子として考えるべきであるから、これを禁めるべきではない。すなわち「仏子を禁むるに非ず」と言われるのです。

     ・唯偏に謗法を悪(にく)むなり。

    この「謗法」ということは、前の第七問答に「一闡提」ということが出ましたが、この一闡提とは、仏法の根本精神を破る者のことであります。この謗法の行為のみを悪むのであると示されます。 ですから、酒を飲んではいけないという戒に対して酒を飲んでしまったとか、あるいはちょっとした嘘を言ったりする。都合が悪いと嘘を言うのが、今の人間の常だけれども、とにかくそういうことは全部戒を破ることになるのです。これらを犯した者は謗法であるとして、その者を殺すべきだというようなことでは絶対にないという意味であります。

    ところが謗法の僧侶の場合は、仏法の根本精神を破っているのです。仏教と仏様の敵になっておるわけです。したがって涅槃経に禁ずるところであり、この禁めは謗法の悪比丘に対するものであって、通常の僧侶の持戒・毀戒に対することではないということが「全く仏子を禁むるに非ず、唯偏に謗法を悪むなり」の文で、謗法の者こそきちんとけじめをつけるべきであるということをまず仰せであります。

    それならば、その謗法の者に対して、いわゆる法然のような悪言を述べて仏法を破壊する者に対しては、どのようにすべきであるかということが、この次に述べられるところです。

     ・夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。

    この「釈迦の以前の仏教」というのは、前に涅槃経等に述べられた過去の事例、これも釈尊の行為として説かれたのでありますが、例えば仙予国王が大乗を謗るところの婆羅門を直ちに殺してしまったこと。あるいは有徳王が覚徳比丘を守るため、武器をもって戦ったことなどがあるけれども、そのような意味で釈尊の出世される以前の仏教の形においては、その謗法者の罪を斬るということがあったという事例を言われるのです。

     ・能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。

    この「能仁」とは釈尊を指すのであり、慈(いつく)しみすなわち慈悲の上から一切を大きく包んで衆生を導くという意味でありますが、その能仁である仏様の化導からいって、釈尊以後の経説においてはすなわちその施を止めるのであると示されるのです。

    この「施を止む」とは、つまり念仏等の悪義を述べる謗法の者に対しても殺すのではなく、その者に対しての布施を止むべきであるということを、釈尊がはっきり示されておるわけです。したがって「施を止む」ということこそ、謗法退治のための要術であり、大切なことであると、ここに言われておるのです。

     ・然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、

    そのようにきちんと仏法の善悪のけじめをつけ、そしてその悪に施さず、正法の善に対してのみ供養をするということが、世の中のあらゆる国や民衆に徹底して実現するならば、あらゆる正義がそこに確立するわけであります。

     ・何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん。

    したがって、このように邪義が根本から止められるならば、その上にどのような難が来たるであろうか、災いが起こるであろうか、全く起こることはないという意味です。すなわち世界万邦に通ずる正法治国・邪法乱国の指導原理による捨悪持善の行為こそ、まさに災いを止めるところの秘術であることを、ここに述べられているのであります。


    <第九問答:疑いを断じて信を生ず>

    ここからが第九問答になります。ここに至って客が始めからの主人の言を理解できたのです。この第九問答の趣意は、破邪顕正によって安国が現ずることを示されるのであります。そこで客が、いわゆる疑いを断じて信を生ずるという意義が篭められております。


    客則ち席を避け襟を刷(つくろ)ひて曰く、仏教斯れ区にして旨趣窮め難く、不審多端にして理非明らかならず。但し法然上人の選択現在なり。諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛と載す。其の文顕然なり。茲に因って聖人国を去り善神所を捨て、天下飢渇し、世上疫病すと。今主人広く経文を引いて明らかに理非を示す。故に妄執既に飜り、耳目数朗らかなり。所詮国土泰平天下安穏は、一人より万民に至るまで好む所なり楽ふ所なり。早く一闡提の施を止め、永く衆僧尼の供を致し、仏海の白浪を収め、法山の緑林を截らば、世は義農の世と成り国は唐虞の国と為らん。然して後法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。

     ・客則ち席を避け襟を刷(つくろ)ひて曰く、

    この「客則ち席を避け」ということは、きちんと座り直すということで、主人の言うことをよく理解し、その人格はまことに尊敬すべき方であると感じたために、改めて座り直したことを表します。そして、自らも身繕いを改めて、さらに主人に対して答えます。

     ・仏教斯れ区にして旨趣窮め難く、

    初めに客は「私は、まだ本当に仏教というものが判っておりません」ということを述べるのです。この「仏教斯区にして」とは、ありとあらゆる意味で仏教の経文や文献、さらに大小乗の宗旨がたくさんあるという意味です。したがって「旨趣窮め難く」とは、すなわちそれぞれの論ずる旨とするところ、趣くところを見極めることが難しいということです。

    たしかに仏教は難しいのです。小乗仏教一つを取っても、小乗仏教の経論をそのまま読んで直ちに理解できる人は、現代においておそらくいないでしょう。大乗仏教がまた実に広く、そしてなお深い意味がありますから、より一層難しいのです。ところが仏教の法理をきちんと教えられた正しい筋道の上から読めば、大体判るのです。いきなり読んだのでは、何が何だか全く判らないはずです。

     ・不審多端にして理非明らかならず。

    訝(いぶか)しく不審不明なところが多く仏教の理が深遠であるため、その道理と非理について明らかに知ることができませんと客が述懐します。

     ・但し法然上人の選択現在なり。

    そこで客は続いて、しかし法然の『選択集』というものが現に存在することは、そのとおりであると肯定します。法然は、世間で非常に尊ばれておりますから、この客もここではまだ「法然聖人」と尊敬の言葉を示しておるわけです。

     ・諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛と載す。其の文顕然なり。

    その『選択集』において、あらゆる「諸仏・諸経」すなわち浄土の三部経というわずかな念仏の経典以外の全部、それらのあらゆる経典に説き示されているところの、釈尊を含めた様々な尊い仏や菩薩とその修行・功徳等の一切、それから「諸天」とは、この仏法を護る天人等ですが、これらについて悉くを「捨閉閣抛せよ」と言っていることは、まことに明らかであると申します。

    「捨閉閣抛」とは、すなわち捨てよ、閉じよ、閣け、抛てということで、『選択集』の文章の中のあちらこちらに、この捨閉閣抛の四字が出てくるのです。つまりあらゆる経文や仏菩薩、諸天に対し、「捨閉閣抛せよ」と言うことは、たしかにあなたの仰せのとおり、その文が明らかであると答えます。

     ・茲に因って聖人国を去り善神所を捨て、天下飢渇し、世上疫病すと。今主人広く経文を引いて明らかに理非を示す。

    この『選択集』によって、聖人が国を去り、善神が所を捨てるが故に、天下には様々な災難が起こり、飢渇し、疫病があるということを、今あなたは広く経の文証を引いて、その上から明らかに道理と非理を示されておる。

     ・故に妄執既に飜り、耳目数朗らかなり。

    したがって「私は今まで法然なる僧も偉いと思っていたし、念仏の教えもまた仏教の中では非常に尊いものであると思っていたけれども、それは私の間違った執着であり、私の耳も目も正しい道理を聞き、正しい道理を見ることにおいて、非常に明らかになってまいりました」と言うのであります。

     ・所詮国土泰平天下安穏は、一人より万民に至るまで好む所なり楽ふ所なり。早く一闡提の施を止め、永く衆僧尼の供を致し、

    客はそこで、国土泰平・天下安穏は上一人より下万民までの皆が願うところであり、早く一闡提の施を止め、仏法護持のため未来に永く正しい僧や尼への供養を励みましょうと言います。「一闡提」というのは、前にも出てきたとおり、謗法の仏敵として仏教の精神を破る者です。その一闡提に対しても、殺すのではなく、布施を止めることが大事であると理解したのです。ですから謗法の者には絶対に布施をしてはならないのであり、このことをきちっと肚に入れることが日蓮正宗の僧俗として大事なことであります。

     ・仏海の白浪を収め、

    一闡提への布施を止めることにより、仏法を正しくする昔の例言であります。

    中国の後漢の最後に霊帝という国王がいましたが、その時期に、黄色い布をもって身体を包むという出で立ちの黄巾(こうきん)の賊というのが起こったのです。その賊は、張角(ちょうかく)という道士が首領でしたが、さらにその余党がいまして、これが西河の白波谷(はくはこく)という所において様々な賊の所業を働いていたのです。そこで、その賊のことを「白波」と称したのであります。ですから、日本でも盗賊のことを白波(しらなみ)と言うのです。芝居でやる「白波五人男」などがその例です。

    「仏海」というのは、仏様の教えが非常に広大であり、海のように広いという意味の譬えであります。しかし、その中において風によって波が立ち、海が非常に荒れて白波が立ちます。要するに、仏教の中においての賊=白波とは、法然の『選択集』であることを、客の言葉として表しておるのです。

     ・法山の緑林を截らば、

    それから「法山の緑林」とは、前漢の末の頃に荊州の緑林山という所において賊が起こったことが元であります。これによって「緑林」が盗賊の異名となったのです。ですから、この偉大な山のごとき仏法の中における緑林の賊とは、すなわち法然の『選択集』であることを表す語であります。

     ・世は義農の世と成り国は唐虞の国と為らん。

    そこで、そういう邪悪の教を収め、その禍根を截ってしまえば、「世は義農の世と成り国は唐虞の国と為らん」と言うのです。

    この「義」は三皇の中の伏羲(ふくぎ)のこと、「農」は同じく神農(しんのう)のことであります。「国は唐虞」というのは、三皇五帝の五帝のほうの4番目と5番目の人と国のことで、「唐」は唐尭(とうぎょう)、「虞」は虞舜(ぐしゅん)のことです。この唐尭という王様は、帝(ていこく)という方の子であり、その唐尭がさらに帝位を譲ったのが虞舜であります。このことについてもいろいろな話がありますけれども省略いたします。

    要するに、こういう昔の伏羲・神農というような方々が世を治めたところの平和な天下太平の時に戻るであろうということを、この客の言葉として言うのであります。

     ・然して後法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。

    ここにおける客の認識は、法然の『選択集』によるところの諸仏・諸経・諸菩薩・諸天をことごとく捨閉閣抛せよという極端な教えが誤りであったということは、よく理解したわけです。故に、この邪教を止めさせた上で法水の浅深を斟酌する。この「法水」とは、仏法の水の流れ、つまり伝承ということで、仏法において衆生を導くための功徳の水に浅いもの、深いものがあるという、譬えの言葉ですけれども、その浅深を正しく計るということであります。

    当時、南都においてすでに倶舎・成実・律・華厳・法相・三論という六宗がありましたが、その後、平安朝になってからは天台・真言の二宗が加わり、さらに鎌倉へ入ってから禅宗と念仏が出てきました。厳密には法然の浄土宗は平安末期からですが、要するにその十宗等がありました。

    そのうちの念仏は邪義として除き、あとのものについては、どれがよいかということをよく計り定めつつ、いわゆる「仏家の棟梁」となるべきところの勝れた教えを中心として尊重いたしましょうと言うのです。けれども、その棟梁たるべき教えが何であるかという認識がまだはっきりしていないのであり、そこにこの段階における客の領解があるわけであります。


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    2009年02月27日 16時17分06秒

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    「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    於夏期講習会第9・10期



    今日は、第八問答から最後までの御文を拝講してまいります。なかでも後半部分は、各末寺の御会式の際に必ず儀式として奉読する部分に当たりますので、難しい内容でもありますが、皆様方もかなり聞き慣れているところもあるかと思います。
    さて、この第八問答は、謗法禁断の方法を説くのであり、斬罪の用否ということがあるのです。つまり、第七問答のところで、大聖人様が過去の2つの事例を挙げておられます。それは涅槃経の中における謗法の者に対する処置ないし誡める方法として、一つは首を斬るということ、つまり悪い者を殺してしまうということであります。びっくりしたような顔をしている方がいますけれども、この例は涅槃経に説かれてあり、『安国論』の第七問答でも引かれてあります。ただし、刀剣や弓箭(きゅうせん)、鉾槊(むさく)というような色々な武器をもって正法を守ることが大切であるということが説かれておるけれども、最後には「刀杖を持つと雖も、命を断ずべからず」(御書246ページ)という言葉があって、やたらに人を殺してよいということではないということが付け加えられております。

    さらには、もう一つの方法として、謗法の布施を止めるということも述べられてあります。これらのことに対する用否がきちんと示されるのが、今日の第八問答からであります。それでは拝読してまいります。


    <第八問答:斬罪の用否>


    客の曰く、若し謗法の輩を断じ、若し仏禁の違を絶たんには、彼の経文の如く斬罪に行なふべきか。若し然らば殺害相加へ罪業何が為んや。
    則ち大集経に云はく「頭を剃り袈裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是我が子なり。若し彼を打(かだ)すること有れば則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり」と。料(はか)り知んぬ、善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く、僧侶為らんに於ては供養を展ぶべし。何ぞ其の子を打辱して忝くも其の父を悲哀せしめん。彼の竹杖の目連尊者を害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多の蓮華比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ。先証斯れ明らかなり、後昆最も恐れあり。謗法を誡むるに似て既に禁言を破る。此の事信じ難し、如何が意得んや。


     ・客の曰く、若し謗法の輩を断じ、若し仏禁の違を絶たんには、彼の経文の如く斬罪に行なふべきか。

    この段の客の質問は「あなたの言われるように、謗法の輩の罪を断ち、仏の誡めに違う教えをなくすためには、経文に説くように謗法者を斬ってその命を奪うべきか」という質問です。この「彼の経文」というのは、先出の文、すなわち涅槃経において仙予国王が大乗の仏教を誹謗する婆羅門の命を直ちに絶ったということであります。そういうことをもし例とするならば、謗法者を殺してしまうべきであるのかと言うのです。

     ・若し然らば殺害相加へ罪業何が為んや。

    法然は謗法の者と前から論じられておりますから、その法然等の類(たぐい)を斬罪に行うとしたならば、殺すということが相加えられて、その罪は実に大きなものになるではないかと、客が詰問するのであります。

    それについて客は言葉を続け、さらに経文を挙げて反論します。

     ・則ち大集経に云はく、

    この文は、大集経の『法滅尽品』の中に述べてある釈尊の言葉であります。

     ・「頭を剃り袈裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是我が子なり。

    これは、どのような僧侶であっても、頭を剃って袈裟を着けておる者は我が子供であると、仏様が自らおっしゃっておる文です。

    その文に「持戒及び毀戒」とある中の「持戒」というのは、僧侶として仏様の教えを守って正しい行いをしておる僧侶のことです。それから、「毀戒」というのは、仏様の教えが守りきれずに色々な仏の誡めに背く行為をする、戒を破るような僧であります。そのように、悪いことをする僧侶もいるけれども、共にこれは仏の子であると、仏様自らがおっしゃっておるわけです。ですから天人、すなわち天も人も共に、仏子としての僧侶へは、持戒に対しても毀戒に対しても供養すべきであるというのです。これは「我が子」、つまり仏の子であるからであります。

     ・若し彼を打(かだ)すること有れば則ち為れ我が子を打つなり。

    もしも、何らかのことを取り上げて、その僧侶を「打する」、つまり殴ったり打ったりするようなことがあれば、それはすなわち私の子供を打つことになる。

     ・若し彼を罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり」と。

    さらに、その僧侶を罵り辱めることは、すなわち私を謗(そし)ることになると、仏が仰せになっておるのです。

     ・料(はか)り知んぬ、善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く、僧侶為らんに於ては供養を展ぶべし。

    客はその経文を挙げ、したがって善いとか悪いとか、そういうことをあえて言わずに、僧侶である以上、基本的には供養をなすべきである。

     ・何ぞ其の子を打辱して忝くも其の父を悲哀せしめん。

    どうしてその子供を打ち辱めて、その父を悲しませることがあろうかと言うのです。つまり謗法の者だからと言って僧を殺すなどということは、とんでもないことだという意見であります。

    次に客は、仏子を殺すにおいては、地獄に堕ちるという現証がある事例を次に挙げるのです。

     ・彼の竹杖の目連尊者を害せしや永く無間の底に沈み、

    この「竹杖」というのは、常に杖を持っていて、自分の気にくわない者がいると殴りかかるというような、非常に横暴・乱暴な外道の集団であります。そのような竹杖外道というのが釈尊在世におりました。

    この者たちは、仏様とその教えを信ずる弟子たちを非常に憎んでいたわけです。そこであるとき、舎利弗と目連という2人の釈尊の弟子が、王舎城へ向かって歩いているときに、その竹杖外道に捕まってしまったのです。そして、竹杖外道が「お前の師匠の瞿曇(釈尊)が正しい教えを説いておるというが、我々はお前たちのその教えを聞きたい」と言い、さらに「もしその答えで我々の気にいらぬことがあったら、お前たちをここで打ち殺す」と宣言したのであります。

    外道は、まず舎利弗に「お前たちの言う道とは何か」と聞きました。舎利弗は非常に智慧のある人ですので、非常に難しい哲理の深い文をもって答えたのです。すると竹杖外道は、何を言っているか判らないために、「これは自分たちを誉めてくれたんだ」と思って、「お前は差し支えない」と言って通したのです。

    次に目連に「お前はどう考えるか」と聞いたところ、目連は「私は神通力をもって過去に地獄へ行ったことがある。すると、そこにお前たちの死んだ師匠が地獄に堕ちており、妄語の罪としてその師匠の舌が無量の広さになっていて、その上で鋤(すき)や鍬(くわ)を持った者が無惨にも縦横にその舌を裂いていた。そのような苦しみを受けておるのである。したがってお前たちの教えは、まことに間違った教えである」と答えたのです。それを聞いた竹杖外道が大変怒って、杖をもって目連をさんざんに殴りました。

    さて、先に行った舎利弗が、どうも目連の来るのが遅いということで引き返してみたら、目連は殴り打たれて、ほとんど死ぬ直前の状態になっていたのです。それを見た舎利弗は、「神通第一と言われたお前が、なぜ得意の神通を使ってその災難から逃げなかったのか」と質問したところ、虫の息の中から目連は答えて「これは私の過去の宿業である」と申しました。ですから、どんなに善い功徳があっても、過去の宿業というものは避けられない場合があるわけです。そして目連は、いよいよ死ぬときに「私は竹杖から打たれたときに、神通の“神”という字も思い出すことができなかったのだ」と言って絶命したということです。

    しかし、その罪の報いによって竹杖外道は無間地獄に永く沈んだということをここに挙げております。

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  • from: 21世紀さん

    2009年02月27日 16時13分48秒

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    「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    法華経に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。

     ・法華経に云はく、

    さて、これまで涅槃経と仁王経をもって、国難を退治する謗法破折の経文を挙げられてきましたが、次にいよいよ法華経を挙げられて、最後のけじめとされるのであります。以下は法華経の『譬喩品』の文です。

     ・「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。

    この法華経を信じないでこの経を毀謗する人は、一切衆生の仏の種を断ずるところの大きな罪になるとの仏説であります。つまり法華経にのみ、あらゆる人々が仏に成る根本の種があることを説いておるのです。その法華経を誹謗するということは、あらゆる人々が正しい意味で救われるところの仏の種を断ずることになりますから、これは法界全体の事物と真理に背く罪になるわけです。

     ・乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。

    その意義から、必ず法華経を謗る者は地獄に堕ちると、仏様自らの仰せです。

    「阿鼻獄」について言えば、地獄は大きく分けて8つあります。その八大地獄の一番下にあって最も苦しみの大きいのが阿鼻地獄で、これには五無間と言って5つの無間があるのです。これは省きますが、要はあらゆる面で間断なく苦しみを受けるということから無間地獄と言うのであり、その地獄に堕ちるということです。ですから、すべての人は正しく勝れた法華経を信じ護らなければならないと同時に、これを誹謗する者が必ず地獄に堕ちるという文をもって、最後の結文とされておるのであります。


    次からが主人、すなわち大聖人様の御言葉であります。


    夫経文顕然なり。私の詞何ぞ加へん。凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。故に阿鼻大城に堕して永く出づる期無けん。涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。謗法を禁むる者は定めて不退の位に登る。所謂覚徳とは是迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文なり。

     ・夫経文顕然なり。私の詞何ぞ加へん。

    このように明らかな経文を挙げた以上は、私が今さら言葉を加える必要がないではないかとまずおっしゃった上で、法華・涅槃の誡文の主意をまとめて次に示されるのであります。

     ・凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。

    まず、法華経についてその誡めの要点は大乗経典、特に法華経を謗ずることであり、その罪は無量の五逆に勝れていると言われます。このことは今の『譬喩品』の文の前後をずっと読んでみますと、本当に五逆罪よりもなお法華経を誹謗する罪が重いということが長く丁寧に説かれてあります。そういうことから明らかなように、法華経の趣意として、このような無量の五逆を犯した罪よりも、法華経誹謗の罪が重いということが述べられてあります。

     ・故に阿鼻大城に堕して永く出づる期無けん。

    したがって大乗、特に法華誹謗の罪により阿鼻地獄に堕し、永くその地獄より出る時がこないとの警告です。

     ・涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。

    次に、涅槃経の趣意については、経に五逆を犯した悪人に供養することはまだ許すけれども、正法を誹謗する者については絶対に供養をしてはいけないとの誡めがあると示されます。すなわち前に挙げた純陀の問いに対する一闡提ヘの布施の禁止が、これに当たるわけです。

     ・蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。

    以下は、「殺」についての目的観の上から対照的に述べられております。蟻を殺すことですら、無用に悪心を持って殺す場合は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちると再びここに仰せあります。

     ・謗法を禁むる者は定めて不退の位に登る。

    しかるにそれとは逆に、謗法を誡め為に戦う者は勝れた菩薩の境界、不退の位という悟りのところへ登ることができるという涅槃経の趣意を示されております。

     ・所謂覚徳とは是迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文なり。

    その例として、覚徳は迦葉仏に、有徳王は釈迦文となる。つまり仏の大果報を得たことを再示されました。ここに「釈迦文」とありますが、普通は釈迦牟尼と言うのです。この牟尼という梵音を音写で漢字に表す「文」となるので同じことなのです。

    そこで、これから先の文が大聖人様の謗法に対するはっきりとした批判の御文であります。


    法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。其の禁め実に重し、誰か帰仰せざらんや。而るに謗法の族、正道の人を忘れ、剰へ法然の選択に依って弥愚癡の盲瞽(もうこ)を増す。是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露はし、或は其の妄説を信じて莠言を模(かたぎ)に彫り、之を海内に弘め之を廓外(かくがい)に翫ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或は釈迦の手の指を切りて弥陀の印相に結び、或は東方如来の鴈宇(がんう)を改めて西土教主の鵞王を居(す)へ、或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、或は天台大師の講を停めて善導の講と為す。此くの如きの群類其れ誠に尽くし難し。是破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。此の邪義は則ち選択に依るなり。嗟呼悲しいかな如来誠諦の禁言に背くこと。哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと。早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。

     ・法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。

    まずここで、今までずっと述べてこられた趣意として、一代五時の五千七千の経教について、法華経と涅槃経がその全体の中心であると決せられます。

    すなわち釈尊一代の化導の中で、最初の華厳経は擬宜(ぎぎ)のため、次の阿含経は誘引のため、次に説かれた方等部の多くの経は弾呵(だんか)のため、次の般若経は淘汰のためという目的をもって説かれており、しかもそれらは全部仏様の本懐ではないのです。法華経に来たって初めて真実の仏の目的が顕れて、一切の衆生を導くところの慈悲において、十界をことごとく開いて仏道を成ぜしめるところの法の内容を説かれるのであります。

    次の涅槃経は、法華経の意を受けて最後に説かれた経です。これは法華経においてまだ悟りを得ることができなかった人たちに対して、一往、法華以前の華厳・阿含・方等・般若等の方便の内容を入れながら述べているのですが、最後にはやはり法華経の意をもって括っているのであります。ですから「拾遺嘱(くんじゆういぞく)」と言い、これは落ち穂拾いの意味であります。全体の化導の中心主眼は法華経にあるのです。したがって法華と涅槃を相対すれば、当然、法華経が勝れておる。しかし、一代全体の50年間の化導の意からすれば、法華経と涅槃経がやはり中心になるという意味です。

     ・其の禁め実に重し、誰か帰仰せざらんや。

    法華・涅槃に説くところは、かかる真実の大乗を誹謗する者の罪は非常に深く、同時にまたそれを護ることの功徳は大変大きいことの誡めであり、一切の人が帰依し、渇仰しなければならないと言われるのであります。

     ・而るに謗法の族・・・法然の選択に依って弥愚癡の盲瞽(もうこ)を増す。

    このところからは、法然の『選択集』という悪書によって法華・涅槃の正しい道を忘れ、正邪・善悪の判らないような愚かな見解を増しておるということと、その悪い実例を挙げられるのです。

     ・是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露はし、或は其の妄説を信じて莠言を模(かたぎ)に彫り、之を海内に弘め之を廓外(かくがい)に翫ぶ。

    その一つとして「彼の遺体」すなわち法然の遺体について、その遺徳を偲び崇めて、その形をあるいは木像に刻み、あるいは画像に描いて安置し、2つには法然の『選択集』の妄説を信じ、その「はぐさ」のごとき有害な言葉を版木に彫り印刷して、「海内」すなわち日本中に弘め、「廓外」すなわち都の外のあらゆる地方に賞玩しているとして、その謗法を難じ給うのであります。

     ・仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。

    故に、多くの人々が信じ仰ぐところは浄土宗の、法華経と釈尊に背く間違った家風であり、人々が誤って供養を施しておるところが、邪義を説く法然の門弟らに対してであると言われるのです。つまり邪法・邪師の邪義に対して供養をしておることが、大変誤りであるのです。

     ・然る間、或は釈迦の手の指を切りて弥陀の印相に結び、

    これはどういうことかと言うと、京都や奈良などの寺院に行くと、仏・菩薩等の様々な像がありますが、これらの像の手は「印相」を結んでいるのです。これらの仏像は、長い歴史の中で多くの僧や仏師により、いろいろな形で造りましたから、結局その印相は、ある程度一定しているものもあれば、そうでないものもあるのです。しかし、要はこの印相によって仏様の悟りや行儀を顕すわけであります。そういう形がインド・中国・日本の仏教の上からあるのです。

    さて、お釈迦様の印相の場合は古来、親指の先と中指の先をつける円を画く形になっているのです。それから阿弥陀仏は、人差し指と親指をつけるのです。ですから、お釈迦様の像を阿弥陀仏にするには、その指のところをちょっと直せばよい。親指と中指だったのを親指と人差し指に直してしまうと阿弥陀の印相となり、釈尊が阿弥陀仏ということに形が変わってしまうのです。ですからここでは、お釈迦様より阿弥陀仏のほうが有り難いということで、お釈迦様の像の印相を変えて阿弥陀仏の像に造り替えてしまったということを言っておられるのであります。

     ・或は東方如来の鴈宇(がんう)を改めて西土教主の鵞王を居(す)へ、

    次に「東方如来」というのは、薬師如来のことです。釈尊がこの仏の本願功徳経を説かれ、この如来は12の大願を起こし、特に衆生の心身の病を治すとされています。薬師如来は、権経の仏で真実の三身常住の仏ではないが、伝教大師が法華経の義によって開顕し、『寿量品』の大良医を心とする薬師という意味で、薬師如来を比叡山の根本中堂に安置しました。それに倣って天台宗の各堂に薬師如来が安置されたと思われます。「鴈宇」とは、堂塔の別名です。

    また「鷲王」とは、仏に三十二相の一つとして手足指縵網相という、手足の指の間に鵞鳥(ガチョウ)の水かきのようなものがあるということから、仏のことを言うわけです。ですからこの文は、薬師如来の堂を改めて阿弥陀仏を安置し、その堂としておるという事例を挙げられているのです。

     ・或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、

    法華経の書写行のことです。すなわち比叡山第三代座主の慈覚大師は、天台の宗旨からの比叡山の法統においては一往、偉い人と言われておるわけですが、天長10(833)年の40歳のときに法華経を如法に書写し、そしてその経を納めたところを如法堂と言ったのであります。

    「如法」ということは、法華経『法師品』の最初のところに、「妙法華経の、乃至一偈を受持・読・誦・解脱・書写し、此の経巻に於て、敬い視(み)ること仏の如くにして、種種に華香・瓔珞(ようらく)・抹香・塗香(ずこう)・焼香・〓蓋(ぞうがい)・幢幡(どうばん)・衣服・伎楽を供養し、乃至合掌恭敬せん」(法華経319ページ)と、十種供養によって法華経を行ずるという説示があります。このような供養をきちんと行って法華経を書写することが、十種供養によるところの法華経の書写という形であります。したがって、『法師品』に説かれる法のごとくに、その方式によって書写をするから「如法経」と称しました。それが天長10年から後白河法皇の13回忌、元久元(1204)年までの間、これは正確に言えば371年になりますが、この間ずっと行われてきたのです。

    ところが、後白河法皇の13回忌の時から、その法要において法華経の書写を止めて、浄土の三部経を書写することになったのです。その謗法をここで挙げられておるのであり、「四百余回」というのは、その如法経初めよりの概数を言われるのです。

     ・或は天台大師の講を停めて善導の講と為す。

    この「天台大師」という方は、ご承知のとおり中国に出現されて、釈尊一代の仏教の一切を悉く正しく整理・決判されて、そしてあらゆる経典の内容が、どういう目的で説かれたかということを、きちんと示された方であります。大変な偉業だったわけです。

    今の他宗他門の僧侶たちは、未だにそれが判りません。竜樹菩薩が仏教の始祖で偉い人だったとか、空海が仏教の権威者であるなどと思い込んでいます。ですから般若経などの権経が、あくまで仏教の中心であると思い誤っておるのです。本当は、般若経などは、法華経を説くための方便に過ぎません。ですから「空」という真理からさらにもう一歩、仏法の真髄たる諦理が出てこないのです。いかに最高の第一義空と言っても結局「空」に尽きます。法華経の真実の即空即仮即中の上からの真実の即身成仏ヘの道ヘ出て来られないのが、今の仏教界の人々であります。ですから皆さん方は、日蓮正宗の御信徒になられて、最高の仏法を勉強し、修行しているのだと確信してください。

    さて、そういうことにおいて天台大師という方は偉い方で、その教えによって伝教大師が日本に比叡山を開いたのだけれども、その天台大師の御命日の11月24日に行っていた天台大師報恩講を止めて、その代わりに中国の念仏の第三祖の善導の報恩講としての行事を行うようにしてしまったという誤りがあると指摘され、このような謗法の行為の類は実に多く、言い尽くし難いと仰せられるのです。

     ・此くの如きの群類其れ誠に尽くし難し。是破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。

    以上、述べられた4つの事例について、これは仏法僧の三宝を破る行為が歴然ではないかと破責されるのです。すなわち釈尊の印相の指を切って弥陀の印相に改めたということや、東方如来の鴈宇を西土教主に改めたということがありましたが、これが「破仏」に当たります。それから4百余回の如法経、すなわち法華経の書写を止めたというのがありましたが、これが「破法」になります。また天台大師講を止めて善導の講にしたのが「破僧」に当たるわけであります。

     ・此の邪義は則ち選択に依るなり。

    そして、このような嘆かわしい事態になった原因は何かと言えば、まさに法然の『選択集』という邪法・邪義の悪書によるのであると論断されます。

     ・嗟呼悲しいかな如来誠諦の禁言に背くこと。

    このような悪書が出て教主釈尊の真実の禁言、すなわち先ほど挙げられた法華経の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」という誡めに背いておることは、まことに悲しいことである。

     ・哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと。

    また、この悪書を弘める法然のごとき仏法の帰趨に迷惑する愚かな者の粗悪乱暴な語に、多くの世の人々がしたがっており、それが無間地獄へ堕ちる業因とも知らないのは、本当に哀れなことだとの慨嘆です。

     ・早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。

    これが、この第七問答の項における最後の結論であります。この「謗法を断つ」とは、どういうことかと言いますと、具体的には謗法への供養・布施を断つことであります。それはさらに次の第八問答にはっきり示されるところですが、これが『立正安国論』の正義顕揚の意義を持っておるのです。したがって、謗法に布施をしないように、謗法への供養をすることが誤りであるということを、一人でも多くの人に自覚せしめるために行うべきことは何かと言えば、それは「一人が一人の折伏」にあります。

    今、宗門は「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進んでおるのであります。ですから、縁のあるところから謗法の供養を止めさせる、その宗教が邪義であることを知らせることが必要であります。その折伏をお互いに行じていくことが、我々一人ひとりの幸せとなり、また多くの人々を救っていくことになるということをここに申し上げ、皆様方のいよいよの御精進をお祈りし、私の本日の講義に代える次第であります。



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  • from: 21世紀さん

    2009年02月27日 16時10分51秒

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    「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    次に、仁王経を引かれます。

    仁王経に云はく「仏波斯匿王に告げたまはく、是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」已上。

     ・仁王経に云はく、

    この「仁王経」というのは、国土を正しく治め守るという内容において、波斯匿王に説かれたのであります。

     ・「仏波斯匿王に告げたまはく、

    この「波斯匿王」は、当時インドに舎衛国(しゃえこく)という国があり、その国の王で、釈尊と同じ日に生まれているのです。また勝軍王という名前が付いており、戦って負けたことがないという、大変武力に勝れた王であったということです。

     ・是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」已上。

    その波斯匿王が深く仏法を信じ、釈尊の教えを受けた因縁から、釈尊は波斯匿王に対して仁王経を説いたのです。これは国王のごとく広く強い勢力の威力を持っておる方が、仏法を受けて正しく護持し、それによって国を治め、多くの人々を幸せにすべきであるという意義から、この経を国王に付嘱されたのです。それに対し、国王のような威力を持たない比丘・比丘尼や、一般の人には付嘱をしないというわけであります。

    結局この国王への付嘱という趣意は、正法を護り弘めるための、王様に対する特別な意味を述べておるのです。


    涅槃経に云はく「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし」と。又云はく「仏の言はく、迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・無槊(むさく)を持すべし」と。又云はく「若し五戒を受持せんの者有らば名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。五戒を受けざれども正法を護るを為て、乃ち大乗と名づく。正法を護る者は、当に刀剣器仗を執持すべし。刀杖を持つと雖も、我是等を説きて、名づけて持戒と曰はん」と。

     ・涅槃経に云はく、

    次は、涅槃経の『長寿品』を引かれます。

     ・「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。

    これは国王にも付嘱するが、国王のみならず、さらに大臣や宰相、四部の衆にも付嘱をするということです。「四部」というのは、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷です。

     ・正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし」と。

    すなわち、国王とさらに多くの方々に付嘱をし、その国民的意義において、もし正法を毀り、背く者があったならば、これをまさに「苦治すべし」、つまり懇(ねんご)ろにその悪心を治むべきであると示されるのです。

     ・又云はく、

    次は、苦治についてより強い意味で述べられており、涅槃経の『金剛身品』の引文であります。

     ・「仏の言はく、迦葉

    これは迦葉菩薩に対する説法で、迦葉が如来の法身の金剛不壊を得られた原因を質問したその答えです。

     ・「能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。

    すなわち仏は「正法を護持する因縁によって、私はこの金剛身を得ることができたのである」と答えます。この金剛の身というのは強く堅固で、どんなことをしても破ることのできない身という意味です。「金剛」というのは金剛石、ダイヤモンドですから、固くて破ることができない。そのように仏の身は破ることができないという意味であります。

     ・善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・無槊(むさく)を持すべし」と。

    続いて、その正法を護持する方法としては、五戒を受けず威儀を修することをしないで、刀剣等の武具を持つべきと言われるのです。けれども、この「五戒」というのは、人間のあらゆる生活の道徳上の基本です。つまり不殺生戒・不偸盗(ちゅうとう)戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒(おんじゅ)戒の5つですが、そのうちの特に不飲酒戒を除く4つは、先ほど言った殺生・偸盗・邪淫・妄語ですから、そういうことを行うのは基本的にはいけないことです。ところがそれをあえて「そういうことにとらわれるよりも、正しい仏法を守ることこそ大切である」という心であります。

    次の「威儀」とは三千の威儀という言葉があり、釈尊教団の正式な比丘は二百五十戒という多くの戒を受けました。その二百五十戒を、行住坐臥と言って、人間生活の基本たる4つの行為の中で持つが故に、これが千になり、その千にさらに過去・現在・未来の三世を合わせますから三千となるのです。つまり一切にわたってこの戒を持っていくのが、威儀を修するということであります。

    けれどもここでは大乗の教え、特に法を護るということからすれば、それらを修する必要がなく、その代わりに、刀や弓・矢・槍などの武器を持てと言うのです。これはつまり邪法邪義をもって正法を破る者があるならば、守護のために刀や槍などの武具を持てと言うのです。しかし、あえて殺せということではありません。正法の人を迫害するような者がもし来た場合には、刀を用いても法を護るために武装を許すという意味であります。

    この例が、ずっと日本国の仏法にも伝わっておりまして、総本山での御大会のときにも、客殿から御影堂へ向かって行列が進みますが、そのときに総代の一人が裃(かみしも)姿で刀を持っております。あれが古式により刀剣を持って法を護るという姿です。その元の教えがここに述べられておるわけであります。

     ・又云はく、

    次も前と同じく『金剛身品』の文です。

     ・「若し五戒を受持せんの者有らば名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。

    つまり「五戒」は、小乗大乗に通ずる戒ですが、小乗からも出てきます。故に五戒のみを受けることは、むしろ小乗の意味になって、本当の大乗の戒を持つことにならないのです。

     ・五戒を受けざれども正法を護るを為て、乃ち大乗と名づく。

    そして、すなわち正法を護ることが本当の大乗の戒であると、ここで言われておるわけです。

     ・正法を護る者は、当に刀剣器仗を執持すべし。

    したがって、正法を護る者は、その必要に応じて刀や剣・兵器・杖、そういう敵を打ち倒すものを持って法を護るべしということであります。

     ・刀杖を持つと雖も、我是等を説きて、名づけて持戒と曰はん」と。

    それで五戒等の個人的な道徳・規範、特に不殺生戒の規定にとらわれるよりも、大乗の法を護るために刀杖を持つことが、真に戒を持つことと示されるのです。


    次も『金剛身品』ですが、これから先は、実際に法を護ることを行った聖者の過去の実例を挙げておられるのです。すなわち有徳王・覚徳比丘の事蹟であります。


    又云はく「善男子、過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまふこと有りき。歓喜増益如来と号したてまつる。仏涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ。爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼む。是の時の国王名を有徳と曰ふ。是の事を聞き已はって、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。爾の時に説法者厄害を免るゝことを得たり。王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言はく、善きかな善きかな、王今真に是正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。王是の時に於て法を聞くことを得已はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生ず。而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿仏の国に生ず。覚徳比丘却って後寿終はりて亦阿仏の国に往生することを得て、而も彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是くの如く受持し擁護すべし。迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是なり。説法の比丘は迦葉仏是なり。迦葉、正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳し、法身不可壊の身を成ず。

     ・又云はく「善男子、過去の世に・・・余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ。

    これは歓喜増益如来の化導において仏の滅後、正法が長く住し、次に「余の四十年仏法の末」とありますから、像法か、あるいは末法の時代に入ったのでしょう。その時に1人の持戒の比丘、戒を正しく持つ僧侶があり、その名を「覚徳」と称しました。

     ・爾の時に多く破戒の比丘有り。

    そのときに、また多くの破戒の比丘があり、この者たちは正法を誹謗する一闡提の破戒に当たっていたと思われます。

     ・是の説を作すを聞き

    「是の説」とは、僧侶たる者は修行と衆生化導を根本とすべきであり、物欲に頼ってはいけないと、覚徳比丘が破戒の者を諌(いさ)めたことを言うのです。

    今の宗教団体の者たちの中には、信者から供養されたお金をもって、いろいろな事業をしたり様々なことを行って、直接金儲けをするような姿もあるようです。そういうことは、宗教者としてはよくないのです。ですから我が日蓮正宗では、そういうことは絶対にいたしません。僧侶が商估(しょうこ)に類する金儲けをするようなことはしてはいけないということが、『宗規』の中にも規定されているのです。ところが当時は、そういうことをしていた破戒の僧侶がおり、それを誡められたのが、この覚徳比丘であります。

     ・皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼む。

    そして、破戒の比丘らはその言を聞き終わって、覚徳を殺そうという悪心を生じたのです。

    欲のある者は、その欲の道を断たれると、非常に怒りを生ずるものです。これは現在の世間でも皆同じで、いろいろな悪いことをして金儲けをしている人間は、そのことを閉じられようとすると怒り狂って、あらゆる悪巧みをします。そのために人を殺したり、様々な迫害を及ぼすのであります。このときの破戒の僧侶もこれと同様、覚徳比丘を非常に憎み恨んで、殺そうとしたのです。

     ・是の時の国王名を有徳と曰ふ・・・是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。

    そのときに有徳という国王がこれを聞いて説法者のところに駆けつけて、破戒の比丘らが覚徳比丘を殺そうとするのを防ぎ、身を挺して戦いました。

     ・爾の時に説法者厄害を免るゝことを得たり。

    その結果、覚徳比丘が悪い僧侶どもから殺される厄害を免れることができたということです。

    大聖人様が文永元(1264)年11月11日、房州小松原において東条左衛門ら数百人に襲われたとき、直檀・工藤左近吉隆殿が身を挺して大聖人を守って戦い、ついに討ち死にされたのも、まさにこの仏法守護の実例であります。

     ・王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。

    その戦いによって有徳王は身体のあらゆるところに、敵の刀による傷を受けて、瀕死の状態であったということです。

     ・爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言はく、

    この王のまさに臨終のときに及んで覚徳比丘は、王に対しその捨身の行為を讃歎します。

     ・善きかな善きかな、王今真に是正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。

    「あなたは本当に正法を護る方である。この功徳によってあなたの身は将来、無量の智徳を持つ法の器となるであろう」、つまり仏と成るであろうと言われたのです。

     ・王是の時に於て法を聞くことを得已はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生ず。

    有徳王はこのことを聞いて心に大いなる歓喜を抱き、そこで命を終わりました。この王様は、その功徳をもって阿仏という仏様の国に生じたということです。この阿仏は、法華経の『化城喩品』に、大通智勝仏の十六王子の成道を示される中の一番目の仏としてその名があります。

     ・而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。

    この王はその仏の国土に生じて、その仏の第一の弟子となったのです。

     ・其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者・・・命終して悉く阿仏の国に生ず。

    また王様の臣下として極めて共に戦闘した人たちが皆、一緒に阿仏の国に生じて、立派な菩提を成ずることができたと言われるのです。

     ・覚徳比丘却って後寿終はりて亦阿仏の国に往生することを得て・・・第二の弟子と作る。

    さらにこの覚徳比丘もまた、死んだ後に阿仏の国に生じて、その仏の第二の弟子となったということです。

    この過去の事例を挙げられた釈尊は、正法がまさに尽きようとするときには、我が命を捨ててもこのように法を受け持ち、護るべきであるとおっしゃるのであります。

    大聖人様は、内・大・実・本・種の五重の深義の上から、三世にわたり一切衆生を救う究極の仏法たる三大秘法を正しく弘めていくためには、まさにこの根本の法を命懸けで護るということをあくまでも根底とされております。これは『三大秘法抄』のあの大事な戒壇の文の中に、「有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」(御書1595ページ)と示され、究極の戒壇建立の大事に関し、有徳王・覚徳比丘の故事を引き給うところに明らかであります。もって深くこのお示しを拝すべきであります。

     ・迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是なり。

    さて釈尊が迦葉に対して呼びかけ、示されたのは、そのときの王すなわち有徳王とは、釈迦仏の前身であるということをおっしゃるのです。

     ・説法の比丘は迦葉仏是なり。

    次の「説法の比丘」すなわち覚徳比丘とは、迦葉仏と成った方と言われます。「迦葉仏」は、釈尊が出現する前に出られた仏様であります。

     ・迦葉、正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳し、

    そして、このように命を懸けて法を護る因縁があったから、結局、無量の果報たる仏の相を得ることができたと言われるのであります。仏の相には、三十二相八十種好というのがありまして、それらはみんな非常に勝れてめでたい相なのです。百福荘厳と言って、無量の善を行って一相を得ると言います。しかし、その元は護法の因縁によると言われるとおり、仏様は根本の正法を護る徳によって、三十二相という種々の相を得られたということです。

     ・法身不可壊の身を成ず。

    「法身」とは、法界を体とし、その大真理と一体の身を言います。それは広大深遠の徳がある故、壊(やぶ)ることができない、それを「不可壊」と言うので、そういう尊い身を成じたと示されるのです。


    仏、迦葉菩薩に告げたまはく、是の故に護法の優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし。善男子、我涅槃の後、濁悪の世に国土荒乱し、互ひに相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん。是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。刀杖を持つと雖も我是等を説きて名づけて持戒と曰はん。刀杖を持つと雖も、命を断ずべからず」と。法華経に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。

     ・仏、迦葉菩薩に告げたまはく、是の故に護法の優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし。

    そこで以上の護法の功徳を受けて、仏は迦葉菩薩に向かって、在家の信者はまさに刀杖を帯して法を護るべきであると説かれます。

     ・善男子、我涅槃の後、濁悪の世に国土荒乱し、互ひに相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人(とくにん)と為す。

    その故は未来においても仏の滅後、濁悪の世に国土が乱れ、お互いに他の物をかすめ取り、人民が飢え苦しむときに、まことの道心もなく、飢えを凌(しの)ぐために出家して、民の供養を受けつつ不善をなす者が出るであろう、これを「禿人と為す」と言われます。

     ・是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん。

    この「禿人」というのは、要するに心が非常に荒(すさ)んでおり、自分の欲のために出家をする人です。今日では、我がまま勝手に宗教を翫(もてあそ)ぶ者たちがこれに当たります。道心の上から正しい法を護り、多くの人々を導こうという僧侶は大切ですが、そうではなく、権力欲・支配欲・独占欲等の自分の欲のため、栄耀栄華を得るために僧侶や宗教者になる。「あれは宗教家だ」ということで御供養してくれることを見込んで指導者の振りをする。要するに、欲のためですから、正しい法を行ずる人を見て、必ず怒りを生ずるわけです。

    今、創価学会が宗門に対して邪悪な怒りを生じ、あらゆる罵詈・誹謗を行っています。けれども、私どもは決して彼らを怒っていません。地獄に堕ちる気の毒な者共だから救わなければならないと思うものです。これが、私どもの常に折伏をしようという心です。しかし彼らは、あらゆる点で嘘が多く、しかも正しい人にありとあらゆる迫害・妨害をする。これは心中に我欲が充満しているから不当な怒りを生じておるのです。つまり、その一番の元に彼らの邪悪な欲望がある。ですから、この「禿人」と同じなのです。つまり欲によって自分たちの宗教を誤魔化して立てながら、その欲をあくまで貫こうとするために、正しい僧団を見て怒りを生ずるわけです。仏説は、このように未来、末法濁悪の謗法者について、きちんと説かれておるのであります。

     ・是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。

    そこで、そういう正法を持つ比丘を護るために在家の方が、場合によっては刀を持ち、杖を持ち、説法者を守り、同伴することを許されているのです。

     ・是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。


    そしてこの行為こそ、戒を持つ善人として讃めるべきであると言われます。

     ・刀杖を持つと雖も、命を断ずべからず」と。

    しかし、そこで最後の言葉として、刀杖を帯びることについて一言きちんと釘を打たれていることに注意すべきです。すなわち刀杖等の武器を持っておるからといって、軽々しく人の命を奪ってはいけないと言われるのです。ここに刀杖の許可を挙げながら

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  • from: 21世紀さん

    2009年02月27日 16時06分53秒

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    「Re:Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
    さて、次は涅槃経『聖行品』を引かれます。今度の経文には、謗法者の命を断つという意味が出てきます。しかし、この殺すということも、実は正法を護るという意義より示されるのであります。


    又云はく「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。又云はく「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。又云はく「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

     ・又云はく、「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。

    すなわち昔、仙予という国王がいたのであり、それは釈尊が自分の前身であるとおっしゃっておるのです。その仙予国王が現れた時には、その国の状態において、仏様がまだ出世しておられなかったのです。それから菩薩もいなかったし、声聞・縁覚というような聖者もいなかったのです。したがって宗教・道徳についても、その道を説くところの婆羅門という指導者の教えを受けて、12年間、様々に国王としての種々の道を勉強してきたのです。

     ・大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。

    けれども本来、仙予国王は、不思議な因縁で以前に大乗経典を聞いておったために、大乗の教えに対して非常に憧憬の念を持ち、またそれを大切と思っておりました。故に心は純真に善事を心掛け、様々の悪心や嫉みや物を惜しむ心がなかったと言われます。

     ・善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。

    そこでで12年を過ぎたとき、仙予国王が婆羅門に対して「私は、どうしても大乗の教えが正しいと思う。我々は、すべからく本当の菩提心を起こして、大乗の教えによって正しい道を学ぶべきである」という信念を述ベたわけです。

     ・婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。

    ところがそのとき、師匠であった婆羅門が「あの大乗の教えなどは、虚空のように掴みどころのない空虚な教えであって、そんなものは考えるに足らないものである」と答えたのです。そのときに仙予国王が、その言葉を聞き終わって、直ちにその人の命を断ってしまったのです。

     ・善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。

    それについて釈尊が「善男子よ、私のこの殺の因縁は善事である故に、この功徳によってこれより以後、地獄に堕ちることがないのだ」と仰せになっている文であります。

     ・又云はく、

    それでこのところでは、一体、謗法者を殺すことにおいては、どのような意味があるのかについて、涅槃経の『梵行品』を引かれて述べられます。

     ・「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。

    この『梵行品』の内容においては、前の部分から釈尊が、菩薩が仏に成るための大きな慈悲についてずっと説いてきておるのです。特にこの場合は、菩薩にも段階があり、下のほうの初心の菩薩から、かなり高く深い境界になったような上位の菩薩がありますが、非常に勝れた境界の菩薩になると、常にあらゆる人を導こうという気持ちになって励むのです。そのような菩薩の境界について、仏様がこの『梵行品』でずっと説いておるのであります。

    特に、自分に仇をする者、またはどんな者に対してでも、根本的にはこの者を救おうという気持ちを持って導くことが大切であると説いているのです。そのときに、それらの始終を聞いておったのが迦葉という菩薩でありました。そのことに関してこの菩薩が疑問を感じ、一切衆生を慈悲をもって導くべしと言われるけれども、仏様、あなたは昔、婆羅門を殺し、命を断ったことがあると言われたではありませんか」という質問の言葉が、この文なのです。

    この『梵行品』に説かれている中に「一子地(いっしち)」という菩薩の境界がありますが、これは自分の子供に対しては、親はありとあらゆる愛情を傾けて、自分の命にも代えて子供を救おうとする、そのような境界であり、つまりあらゆるものを救おうとする菩薩の境界を言うのです。そのような菩薩の境界であなたは説いているにもかかわらず、あなたは昔、婆羅門を殺したと言うのは、一仏二言の矛盾ではないかと、釈尊の言の矛盾背反を詰(なじ)る質問の文なのです。

    それに対して釈尊は、迦葉菩薩を納得させるためにいろいろ説かれるのですが、その文は原経典にあって『安国論』に引用はされていません。簡略に申しますと、要するに釈尊は「この婆羅門を、憎いという悪い心をもって殺したのではない」とおっしゃるのです。「このままいけば、この者は必ず地獄へ堕ちる、したがって今殺すことによって命を改めさせ、それによってむしろこの大乗をもって殺された因縁において、将来、正しい大乗の教えにおいて救われることになる意義を観じ、その慈悲の気持ちを持って殺したのである」と言われました。

    したがって、その殺した行為の元となる心は、菩薩が一子地に住して、親が子供を本当に救おうというごとき、菩薩が一子地に住して衆生を救う慈悲の気持ちといささかも変わりないものであったと釈明されたのであります。つまり大乗を誹謗する者に対し、慈悲の上からその命根を断つ行為を護法の手段として挙げられているのです。

     ・又云はく、「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。

    ここからの経文も、涅槃経『梵行品』です。殺という行為の不可と可についての仏説を挙げられるのであります。

    「下中上なり」とは、つまり殺の行為には下と中と上の3段階の罪があると言われます。まず初めに「下」とは、殺す罪の中でも一番軽い罪を言うのです。

     ・下とは蟻子乃至一切の畜生なり。

    この下殺とは、諸の畜生を殺すことであると示されています。

     ・唯菩薩の示現生の者を除く。

    ただ「菩薩の示現生」というのは、菩薩が特別に衆生を導く誓願により畜生として生まれ、自分が殺されることによって、その因縁で衆生を救うという、深い三世の仏法の因縁果報の上からの誓願によるものです。したがって、それを殺しても罪にはならないと言われるのです。

     ・下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。

    けれども、それ以外の畜生について殺生を犯せば、具に下殺の因縁で地獄・餓鬼・畜生に堕し、「下の苦」、すなわち「上」「中」に比べれば比較的に軽い苦を受けるとの仏説です。

     ・何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。

    つまりこれらの畜生にも、生を受けた命には過去の善根が微かに存在する。故にこれを殺せば、やはり罪を受けるのです。これは法界全体観の上から見る仏の知見であります。それによれば、蟻を殺しても地獄へ堕ちると書いてあるのです。すなわち仏教を正しく勉強すると、蟻も理由なく殺してはいけないということが判るのです。蟻も微かな善根の命を持っているから、無益に悪心をもって残虐な心によって殺せば、やはりそれだけの報いを受けると言われるのです。これは、蟻に限らず一切の畜生を殺すのも同様で、やはり仏法の上から罪になるのです。

     ・中殺とは凡夫の人より阿那含(あなごん)に至るまで是を名づけて中と為す。

    この「中殺」とは、人を殺す罪がこれであります。普通の凡夫の、つまり凡人から阿那含までを殺すのは「中」の罪業になるのです。

    「阿那含」というのは、下のほうから須陀亘(しゅだごん、初果)・斯陀含(しだごん、二果)・阿那含(三果)・阿羅漢(四果)という4つの聖者の位があるうちの、先ほど出た阿羅漢より1つ下の位でありまして、かなり上の境界であります。これは「不還果」と言いまして、三界のうちの欲界の煩悩を断尽した聖者の名であります。ただし未だ色界・無色界の思惑が残っていますから、未だ三界を脱却できないけれども、欲界に再び生まれることはないのです。しかし、まだ完全な聖者ではないという意味がありますから、凡夫の人から阿那含までを殺すのを「中殺」と名付けるということであります。

     ・是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。

    この業因によって、地獄・餓鬼・畜生に堕ちて具に「中の苦」を受けると説かれます。

     ・上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。

    この「上殺」には、先ほど言った五逆罪という意味が出てきます。父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺す。これらは五逆罪です。さらに辟支仏、畢定の菩薩を殺すということです。阿羅漢と辟支仏は、大体同じような意味ですが、阿羅漢は声聞の極位で、辟支仏は縁覚の聖者という位であります。皆さん方が読んでいる『方便品』と『寿量品』の中にも、「辟支仏。所不能知」(法華経88ページ)「辟支仏。以無漏智」(同430ページ)という文が出てきます。

    この辟支仏の「辟支」という語には、各々、独、一人という意味があるのです。それから「仏」という字は、当然「覚」という意味です。ですから辟支仏は一人で覚る、すなわち独覚という意味で、十二因縁という法門がありますが、その無明・行・識・名色(みょうしき)・六入・触・受・愛・取・有・生・老死を自分で観じつつ煩悩を断じ、空理を覚っていくのです。山林に入って修行をし、それによって心を研ぎ澄ましつつ十二因縁を観じ、それによって覚るのが辟支仏で、阿羅漢と同様の聖者のことであります。

    次に「畢定の菩薩」という「畢」とは、「おわる」という意です。「定」は「さだまる」ことで、したがって「畢定」というのは「おわりさだまる」、いわゆる深い仏法において修行すべきことが完全に畢り定まったという意味であります。ですから非常に勝れた境界の菩薩、いわゆる不退の菩薩ということであります。

     ・阿鼻大地獄の中に堕す。

    つまりこれら父母・阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩を殺す場合は、阿鼻大地獄という、最も重く苦しい地獄に堕ちると言われるのです。

     ・善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。

    この文は、前の三種の殺罪が不可であることと比較対照して、殺の可を示されるのです。すなわち、一闡提を殺すということは、前の三種と異なって罪にならないと言われる。

     ・善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

    その上で「彼の諸の婆羅門」とは、釈尊が過去において仙予国王だったときに殺した者であり、これは一闡提の悪人であったと言うのです。したがって、それらを殺すことは罪にはならないと言うと共に、同時にまた仏が殺を犯したその境界が、先ほども言ったとおり、悪心を持って殺したのではなく、慈悲の上に殺したということなのです。その両面の意味を含めて、殺は悪いけれども一闡提を殺すのは罪にならないと言われるのであります。さらに、この殺すという趣意が、正しい法を護るということに、その根本の目的があるということを申しておきます。

    また、この『安国論』で後の第八問答に出てくる主意から言えば、たとえ一闡提人といえども無闇に人を殺さず、別の方法をもってその邪悪を止めるという義のあることを申し添えておきます。


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