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from: 21世紀さん
2009/06/08 09:21:06
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
63 名前: yuriko 投稿日: 2003/05/10(土) 05:10
最初にこの小口偉一編『新心理学講座』の池田インタビューを読んだ時は、その真偽を疑ったが、
池田先生の生い立ち等を考えると、それは、真正のものだ。
その感想は、『こいつとだったら、友達になれそうだ』という好感だった。しかし、その後に本人が辿った輝かしい『人間革命』のお陰で、池田先生は、今や日本で最も嫌われている人物になってしまった。
池田先生がその過程で身に付けたものは、周りの錯覚を己が自覚とした上で、嘘で固めた得意の演出で、自分を偉そうに見せる処世術だけだった。哀れとしかいいようがない。
私は別にコピペのみをしているわけではない。自分の意見を述べるのに必要な資料として提示しただけだ。
個人的には、創価学会の社会に果たして来た役割を高く評価している。そこには、少なからず池田先生の果たした部分もあるだろう。しかし、池田先生=創価学会=公明党には、あまりに欺瞞の歴史が多すぎる。
北朝鮮もよもやと思われたのに、その厚い壁を開きつつある。創価学会に於ても、「人間革命」に代表される嘘で固めた歴史に終止符を打ち、より民主的な開かれた、正直な団体に生まれ変わるべきなのではないのか?
66 名前: yuriko 投稿日: 2003/05/10(土) 20:23
私は、主に人間革命第十二巻を取り上げて、その人権蹂躙的記述を批判してきた。
作者は、言うまでも無く池田先生である。
ゴーストライターの手になる部分が大半だろうが、池田先生の思考パターンか如実に現われているのは確かだ。特異で陰険な表現で反逆退転者を揶揄した挙げ句、粉微塵にその人格を砕く残酷なやり方には、池田先生の面目躍如たるものがある。
その中で、最も悲惨な人格の持ち主として描写されているのが、「滝本欣也」つまり、「竜年光」でる。
かれは、十二ページにも亘り登場する。
存命中の人物を無許可?で登場させて、扱き下ろす作者の神経に唖然とせずにはおれない。
竜の登場の仕方が面白い。
『ある時、報告にやって来た参謀の滝本欣也が、戸田にたずねた。
「................もはや、敵はなくなったと思います。これからの学会は、何を敵として進んでいけばよいのでしょうか」
(戸田先生)「敵は内部だよ」................
滝本は、.....ますます仕事の手を抜くようになっていった。』
つまり、竜の破人格は、とっくに戸田先生の見通す所で、いつか反逆すると面と向かって宣言していたというのだ。
もし、これが本当なら戸田先生は、余程陰険な性格の持ち主だったのだろう。
竜は、仕事を放って『(学会活動の為に)さっさと帰ってしま』ったり、昼休みに勝手に『大学者ぶって御書の講義を始めた』りして、職場に多大な迷惑をかける人物として描かれている。
義弟となった竜に対して、『酒田(誰かな?)は、会合などで見せる幹部の顔とはまったく裏腹な、彼(滝本)の実像を見せつけられて来た』と思っていた。
実に辛辣な表現だ。
67 名前: 続1yuriko 投稿日: 2003/05/10(土) 20:27
そんな破人格の典型である竜は、第四部隊長となり、『伸一は滝本の部隊の班長となった。』これが、竜にとって、生涯の仇になった。
池田先生の偽善に溢れた若き日々を知る竜は、「知り過ぎた男」になってしまったのだ。
『そのころ、......時に喀血さえしながら、病身に鞭打ち、壮絶なまでの戦いを展開していたのが山本伸一であった』が、実際は、会合をサボって、映画などを見ていた
この事は、池田先生が自ら、後に公開した若き日の日記で明らかにしている。
{別にいいんじゃないの?でも嘘はよくない....}(私の独り言)
そして、
『.伸一は、この日も、やむなく仕事のために欠席せざるをそえなかった。』
『滝本は、伸一が欠席しているのを知ると、冷たく言うのであった。
「山本は退転だよ。また欠席だ」』
池田先生、もう嘘はばれちゃったんですよ。
『戸田は、以前から、滝本の壮士気取りの生き方を憂慮しつずけ.....(滝本に)善意の人を自分の為に利用する心が芽生えたのであろう。』と分析させている。
つまり、戸田先生は全く竜を信用していなかったとしているのである。
さらに、終に酒田は、だらしない上、無責任な義弟の滝本を解雇してしまう。
滝本はさんざん悪たれをついて辞める。しかし、どう言うわけか、酒田の家に居座り続ける。
何か腑に落ちない。不自然だ。やはり、解雇の背景には、やむを得ぬ事情があったのではないか?
そんな破人格者の竜を、戸田先生は『腐っても私の弟子であることに変わりはない。』として、忍耐強く訓育し続けたとしている。
そして『滝本は、戸田の指導によって、かわっていったように見えた。そして
滝本は、品川の区議会議員となった。』
メデタシ、メデタシ。しかし、ここで終わりじゃないのだ。
68 名前: 続2yuriko 投稿日: 2003/05/10(土) 20:31
さらに続けて、戸田先生は池田先生にこっそり言う
『滝本はいつ退転してもおかしくない男だ。だが、そんな男だからこそ、まともな日の当たる人生行路をあるかせてやりたいと思って、私は、滝本を育ててきたんだよ。...........
伸一、仏法者というのは、騙されても、騙されても、最後まで相手を信じ、つつみながら、再起と更生を願って、手をつくしていく以外にないのだよ』
そんな怪し気な人物だと戸田先生はわかっていたなら、絶対に大幹部に任命したり、その行動によって学会の社会的評価が左右される議員に推薦などするべきでなかった。
さらに、続けて
『しかし、ひとたび、学会に牙をむき、仏子の和合を破壊しようとしてきたなら、その時は、徹底的に相手を叩きつぶすまで戦うんだ。』
もし、戸田先生が自分が育てた弟子に対してこう思っていたとしたら、戸田先生こそ嫌な人格の持ち主の典型だったと言える。
ただ安心できるのは、この事は、毎度のように戸田先生が池田先生だけにこっそり話していた。
従って、人間革命の今までのパターンとして、この部分は、100%作者の創作と見た方がいい。
さらに結びが強烈だ。
『(三年後)
(戸田)は、滝本をまじまじと見詰めて、もう一度、言った。
「敵は内部だよ.......」』
池田先生は、自分の師匠の陰険ぶりを実に見事に描いている。
結局、『仏法者というのは、騙されても、騙されても、最後まで相手を信じ、つつみながら、再起と更生を願って、手をつくしていく以外にない』だから、
創価学会員も池田先生から、騙されても、騙されても、最後まで池田先生を信じ、つつみながら、池田先生の再起と更生を願って、手をつくしていく以外にない。
でもちょっと気ずくのには、遅すぎた気がするのだ。
池田先生は、余程竜氏が気に入らなかったのだろう。
後に恭しく公開した「若き日の日記」では、竜氏は、Rとして登場して、「バイク事故の弁償金を学会が負担したにも拘わらず、礼の一つも言わない嫌な同志」として登場する。
私にも経験あるのだが、気持ちがあまりにも落ち込んでいたりすると、常識的なマナーまで忘れてしまう事がある。
後で、しまったと思うが遅すぎたりする。そして、せめて自分が逆に人を助ける立場になったら、相手の気持ちがよくわかる故に、あまり厳しい態度を取るまいと思うのだ。
もっとも、いずれの立場もあまり歓迎したくない。
「若き日の日記」で、もっと注目すべきは、竜氏の妻に対する批判的見解だ。
竜氏が「礼も言わぬ嫌な同志」と書いた後、続けて、「特に女房の態度が気に入らない」などと書いている。
池田先生の人間性のパターンとして、こうして敵対者?の家族のものまで攻撃するのだ。
既に、藤原氏の妻「幾子夫人」「日顕上人の妻や息子」「竹入氏の妻や息子」なども容赦なく人格攻撃されている。
ねらいは、「お前等、もし反逆でもしてみろ、お前だけじゃなく、家族、親類、友人関係すべてに塁(るい)が及ぶのだ」という脅しなのだろう。
竹入氏などの場合も、かつての同志達の口から薄汚い人格攻撃や秘密の暴露がされるのも当然といえる。
どう考えても、創価学会が人道主義を掲げ、人権問題に本気で取り組んでいるとは思えないのだ。
実に胡散臭い団体だ。
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from: 21世紀さん
2009/06/08 09:14:33
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
46 名前: SGI 投稿日: 2003/05/08(木) 20:29
>>42 yuriko さんへ
>とすると、竜氏の発言「池田青年は、会場に居た」というのは間違っていたのだろうか?
そうでもないんじゃないか?
>つまり、戸田先生と池田先生の出会いは、少なくとも最初は、何の変哲も無い凡庸なものだった。よくある話だ。
その通りだと思います。
>>31 でご紹介した部分の前段には、三宅さん宅が蒲田の拠点で、戸田先生の月例の「立正安国論」講義の会場だったことをお話されております。そこで、三宅さんのお姉さんが同窓生だった名誉会長を連れてきたことは、話の流れの中で容易に頷けられるところです。
ただ、小説『人間革命』の描写が「全く事実は違います。」と明言されていることと、
きちんと自己紹介をし戸田先生に面識をいただいたのは、昭和24年1月の、三宅さんのお母さんを通じての就職依頼の時だったということです。
したがって、yurikoさんがご指摘されているように、天皇制や愛国者等の質問や即興詩を朗々と詠んだというのは、全くの脚色・創作でしかないでしょう。まさに“神話”創りなのです。
余談を1つ。
興味深いのは、名誉会長が御本尊下付の後、「家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『新心理学講座』より)と、雷への恐怖心から信心を始めたと語っていることです。
宗教改革の流れを生み出したマルティン・ルターは、大学で法律を学んでいたのですが、ある日、目前に雷が落ちて死の恐怖の中で、修道士になることを誓い、1505年に修道院に入りました。
雷は、信仰心を呼び目覚めさすのでしょうかね。
名誉会長は、今般の宗門vs学会抗争が起きる前、側近幹部を前にして
「俺は、マルティン・ルターになる。日本では宗教改革の歴史がなかった。今、それをやるのだ。坊主とケンカをするのだ。もしもの時でも、大聖人の仏法を掲げて、外から宗門を攻めていく」と語っております。
ご本人は“新教の確立”をめざし、改革者気取りなのかもしれませんが、所詮脂ぎった無知性な俗物然としたおっさんにしか思えないのは、私だけでしょうか。
47 名前: SGI 投稿日: 2003/05/08(木) 22:20
名誉会長の入信は、昭和22年8月。昭和3年1月生まれの名誉会長は19歳だった。この「19歳」も、師弟神話に脚色する。つまり「牧口と戸田」「戸田と池田」の出会いにおける師弟の年齢が一致する、というウソである。
「牧口と戸田」の出会いは、牧口先生が東京・西町小学校の校長時代〔大正8年12月12日〜9年6月22日の半年間〕。ところが2人の出会いの正確な日付が明らかではない。様々な資料に当たったが、曖昧で確定しないが、「48歳と19歳」か「49歳と20歳」のいずれかになる。
一方の「戸田と池田」は、昭和22年8月とすれば、戸田先生が47歳で名誉会長は19歳。そこで、弟子の年齢を「19歳」と限定しても、牧口:48歳で戸田:47歳で一致しない。つまり、「48歳と19歳」で一致し「仏法の不思議」とか「尋常ならざる因縁」という師弟神話は成立しないのである。
さらに名誉会長が、戸田会長の事業に従事した日付も資料によってマチマチだ。また「出版業(編集者)」なのか「信用組合・金融業」なのかはっきりしない。
とりあえず『革命の大河』に基づき、昭和24年1月、雑誌編集者ということにしておこう。ところが『冒険少年』は同年8月に『少年日本』と改題され、10月には廃刊となっている。この時、戸田先生は全社員の信用組合への異動を命じている。つまり名誉会長の編集者生活は、最大限に見積もっても1年弱。
信用組合は、翌25年8月に業務停止命令が出され、戸田会長は同年秋に大蔵商事を設立。名誉会長に営業部長を命ずる。したがって戸田先生の下で従事した仕事の大半は、保険代理業や高利貸し、手形割引等を営む大蔵商事の“営業”である。
名誉会長は、編集者であったことをいろいろな機会で得意気になって公表している名誉会長だが、高利貸しの“営業”だったことはひたすら隠す。
信用組合が26年3月に正式に解散すると、戸田先生は学会第二代会長に就任。大蔵商事の業績も、信用と顔がものをいう世界だけに、顧問の戸田先生が会長を務める学会の発展に伴い、急速に好転していく。
信用組合の清算中は給与の遅配や分割払いもあったが、解散後は、歩合給の池田/大作営業部長も、債務者への取立てに辣腕ぶりを発揮し、相当の高給を得るようになった。あの住宅事情が悪かった時代にもかかわらず、20代の若さで家持ちとなるほどだ。
この経済力が、学会組織内で幹部として出遅れた分を取り戻す源泉となったのである。
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from: 21世紀さん
2009/06/08 09:09:01
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
42 名前: yuriko 投稿日: 2003/05/08(木) 11:13
その後、昭和二十四年の一月、池田が二十一歳のとき、蒲田工業会に勤務していた彼を、私の母が、日本正学館を経営されていた戸田先生に、「よい青年がいる」と、初めて紹介し、就職を依頼しました。池田の学会での仕事の出発点がここであり、私は、このときのことを今でも鮮明に覚えています」(『大白法』平成15年3月16日付)。
>
とすると、竜氏の発言「池田青年は、会場に居た」というのは間違っていたのだろうか?
そうでもないんじゃないか?
(名誉会長を学会の会合に誘ったのが三宅さんの実姉)なのだから、本人以外、証明できない。
また、竜氏のいよれば、その座談会会場には、森田青年(後の理事長)も居たというが、池田青年のことは、全く目立っていない為、全く記憶になかったそうだ。
竜氏によれば、池田青年が座談会場に居たことは、竜氏以外に記憶に残ってさえいない。
『戸田先生に、「よい青年がいる」と、初めて紹介し、就職を依頼』とすると、
戸田会長さえ、池田青年のことは、記憶に残っていなかった。
こんな事はよくあることで改めて言及する必要さえ感じられない。
つまり、戸田先生と池田先生の出会いは、少なくとも最初は、何の変哲も無い凡庸なものだった。よくある話だ。
問題は、池田先生が悪智慧を出して、戸田先生を利用した挙げ句、自分が入信した場面を脚色をグロテスクに施した事実だ。
創価学会では、古来から「入信記念日は、第二の誕生日」などと嘯いてきた。
ところが、池田先生の醜悪とも言える権力への野望は、そんな大事な「入信記念日」さえデマによって粉飾(ふんしょく)した。その目的は自分が「神」になることに他ならなかった。
43 名前: yuriko 投稿日: 2003/05/08(木) 13:31
前にも書いたが、聖教新聞に時折連載される随筆人間革命は、主に会内むけであり、それだけに作者?池田先生の本音が窺われて興味深い。ときには、露骨に反学会勢力への怨み事を書いている。外の社会に対しては、神妙な反省の態度を示しながら、内部向けには、怨み事を縷々と書いている。
小説人間革命は、新旧併せて、20巻になろうとしているのに、そういう性質の書物故に、市場に発刊されたのは、何と文庫本の一冊だけだ。もっとも、最近では、インターネットの急速な普及により、そんな内部向けの内容でも、一般で容易に閲覧できるようになった。
書店などで唯一取得できる聖教新聞社発行の「随筆人間革命」では、作者が思わず真実の執筆背景を書いてしまう箇所がある。
「ともあれ、執筆にあたって、今までも多くの方がたにご協力を戴く。..........とくに私を激励してくれたS氏にいたっては、資料の収集はもちろんのこと、文体の運び方、文章の調子、結構までご協力を戴き、感謝の言葉もない。益々のご協力をただ乞う。」(p47)
さらに興味深い記述がある。
「多量にわたる原稿書きは、最早、万年筆では不向きである。....鉛筆のほうが能率があがるからと、....一月中旬より実行。」(p47ー8)
「『人間革命』の執筆直前までは、恩師の出獄は巣鴨が通説となっていた。この通説はかなり抜きがたいもので、私はS氏らに詳しく調べてもらったものである。」(p70)
44 名前: 続yuriko 投稿日: 2003/05/08(木) 13:33
これらの記述からは、一体池田先生は、何をして、同書を自分の著作としていたのか不思議に思う。資料の収集はしない。基本的文さえ書けない。それなのに、堂々と、自分の名を冠しているのだ。
後に、人間革命の代筆を疑われて、大量の直筆の原稿が会員の間に配られた。私もその恩恵?に浴したのだが、それは、万年筆で書かれたものだった。当時は、感激したものだったが、これを読むと、普通は、鉛筆書きだったことがわかる。そうすると、あの万年筆の原稿は、代筆者が仕上げた原稿を写し、さらにそれをそれらしく、万年筆でなぞったものだったようだ。それにしても、上から様々な手直しが加えられていて、本物みたいだった。手の込んだことをすると思う。
「新聞をつくろう。.....俺が社長になる。伸一は副社長になって出発するのだ」(p122)この会話が持たれたのは、昭和25年としている。
池田先生が入信したのは、これよりほんの三年前だ。池田先生は、やっと教学部助師、つまりやっと入門レベルに辿りついただけだ。役職は、やっと班長になったばかりだった。
一方、後に池田先生のライバルとなる石田次男氏は、既に、教授という教学部最高の地位に就いていた。更に、御書の編集発刊や当時の唯一の教義解説書である折伏教典の中心的執筆者であった。役職も、青年部の第一部隊長という栄光の座にあった。そんな中で、戸田先生が石田氏を差し置いて、池田先生に新聞の発刊の相談をしたり、副社長に内示したりするのは、不自然というものだ。
後に両者と戸田先生との距離は、逆転してしまうのだが、ライバルの功績を全て盗むやりかたは、陰険そのものだ。
それでも、この随筆人間革命執筆当時は、石田氏に対しては、それなりの気使いが伺える。
「その後、社に帰り、ただちにスタッフの人選に入った。.....その最初の編集長として、選ばれたのが、後に名編集長とうたわれたI君である」(p122)
I君とは、言うまでもなく、石田氏のことだが、晩年、聖教新聞社の専務とはなったが、最終的には、窓際に追い込まれた挙げ句に、退転反逆(創価学会に対して)をした。
人間革命12巻では、辛辣に批判されている。最期は、60代の若さでこの世を去ったのだが、その葬式には、弟の幸四郎氏(三代目公明委員長)は出席していない。まさに憤死したと言える。
何故に、池田先生は、名編集長とまでうたわれた人材を活用するどころか憤死させてしまったのだろうか?池田先生のリーダーとしての力量に疑問を投げかける、一つのエピソードだ。
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from: 21世紀さん
2009/06/08 08:55:35
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
37 名前: yuriko 投稿日: 2003/05/08(木) 07:00
池田先生は、最近の「随筆人間革命」(平成14年8月25日)において、しつこく自分の入信秘話を美化している。
抑、何への「入信」だったのが大いに疑問だ。せめて、死ぬ前に正直になったらどうだらう?
池田先生は、最近でも戸田先生は、軍国主義に反対して牢に入ったと強弁しているが、そんな事実はない。これは、かつては、『戦争に反対して.....}』という言い回しより前進しているが、池田先生得意の誤魔化しの論法だ。
正しくは、「戦争の遂行方針の方法論で、時の政府と対立した為」だ。
戸田先生や牧口先生は、日蓮大聖人の御本尊を奉じてさえいれば、戦争に勝利できると信じて居た。
聖教新聞に随時掲載される随筆人間革命は、主に内部向けであり、そこには、池田先生の本音がよく現われている。言いたい放題の嘘が書き連ねてある。
8月24は、一応池田先生の入信記念日になっているが、抑、何に対する入信だったのだろうか?
『昭和22年8月14日のよる。私が人生の師と仰いだ戸田先生と大田区の座談会場より御会いしてより、満55年。私は、即座に戸田の弟子たることを決意した。』
竜年光氏(後に第4部隊長、青年部参謀)は、此の日、その座談会の司会をしていて、池田青年は竜氏のすぐ後ろに座った。それで、竜氏のみが、池田先生をよく憶えていた。他にも、辻副会長もいたが、池田先生の事は全然記憶になかったそうだ。それほど池田先生は、目立たぬ男だった。
池田先生は、天皇制について質問をし、そのあと何やらメモらしきものを取り出して、読み出した。
ところが、あまりに、ぼそぼそ喋っていた為に、誰も何を言っているのかわからなかったそうだ。座は完全にしらけた上、池田先生は、無礼にも途中で帰ってしまったそうだ。
それで、池田先生は何か癪に障って、創価学会本部に再び、友達と連れ立って行った。
理論で負けたら、入信すると言って、当時の教学部長の小平氏と論争した。ところが、全く太刀打ちできないで、5時間も締め上げられ、入信を渋々する事になる。随分と随筆人間革命の記述とは隔たりがある。
38 名前: yuriko 投稿日: 2003/05/08(木) 07:02
37の続き
『入信を決意し、大田区から向かった杉並区にある寺院までお道のりは、肺病と肋膜を病んだ私には、随分と遠く辛く感じられた。
入信の儀式の勤行も唱題も、それは長く感じた。慣れない長時間の正座で、足は痺れた。』←---池田先生の日蓮正宗寺院に対する逆恨みは、ここまで逆登れる。だからこそ、池田先生は、勤行をサボり、怠行を皆に勧めているのだ。
『私もまた、青年の直感で、「戦争中、平和の為、仏法の為に投獄された、この人に付いていける」と確信したのであった』
これも全くのデタラメだ。本当は、『前の信者さん達が、牢獄に行ったことで、恐ろしかった』と二の足を踏んだのが、真相だ。
『ちなみに、その「立正安国論」が鎌倉幕府に提出された文応元年の7月16日は、当時の西暦であるユルウス暦では、1260年の8月24日に当たるようだ』
得意のこじつけだ。吐き気がしてくる。それで自分は、日蓮大聖人の再誕とでもいいたいのだろうか?
『侘びしく粗末な西神田の学会本部では、戸田先生の法華経の講義があった。
疲れ切った我が身をはげましながら、青年らしく求道の道を走った。どんなに多忙でも、必ず講義に出席した。』
これも、大嘘で、竜氏によると、池田先生は、戸田先生の事業を手伝うのに忙しいと、言い訳をして、殆ど講義には、出席しなかった。後に、中西氏をして、「あの人の欠点は、教学がないことです」と言わしめた遠因は、ここら辺にありそうだ。
『「言論の自由の時代だ。一つの新聞を持っているということは、実にすごい力を持つことだ。
学会もいつか、新聞を持たなければならない。太作、よく考えておいてくれ」
聖教新聞は、実に、この苦難の渦中の8月24日、師弟の対話から生みだされた。』
これも真っ赤な嘘だ。
戸田先生が、入信したばかり(三年目)で、学歴もなく、得体の知れない男にそんな大事を託す筈がない。
寧ろ、戸田先生は、自分の秘蔵ッ子である石田次男(故人)に全てをまかせて、編集長に命じた。
後年、戸田先生の池田先生への信頼も並々ならぬものがあったのも確かだが、日頃から、戸田先生は池田先生には、「次男が長男で、太作が次男だぞ」と釘をさしていた。これは、決して、駄洒落のつもりで言っていたとは、思えない。
『師匠を支えるために、私は夜学も、さらに大学への進学も断念した』
自分の学歴コンプレックスを戸田先生のせいにする池田先生の嫌らしさがよく出ている。
古今東西、学歴がなくても立派な仕事を成し遂げた人は、いくらでもいる。何故にもっと、肯定的に自分の人生を見れないのだろうか?
『毎朝、そして毎日曜に万般にわたる教育をしてくださった。今もって、その慈愛を噛み締めてて感謝している』
これも恐らく、これまでの文脈からすると、嘘だろう。
池田先生の初期の著作(「政治と宗教」や「政治と科学」など)には、池田先生の無教養ぶりが躍如している。
池田先生は、戸田先生を誉めているようで、貶めている。「催尊入卑」の典型だ。
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2009/06/08 08:50:46
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「Re:Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
34 名前: Leo 投稿日: 2003/05/08(木) 01:34
で、『池田名誉会長の青春対話③―21世紀の主役に語る―』 聖教新聞社 では
このように述べられています。
・「ほとんどは「勝者が書いた」歴史」
・「[名誉会長] いわんや、過去の真実を見きわめるのは至難のわざです。特に歴史書は、
ほとんどが「勝者の歴史」です。「勝てば官軍」と言うが、 「勝ったほうが正義」
とされる。負ければ悪人にされる。そこを見なければいけない。」
・「そのためには、こうすればいいという簡単な方法はない。やはり、ありとあらゆることを
多く学び、多く考え、多く体験する以外にはない。大事なことは、 どこまでも公正に、
利己主義にとらわれず、「事実」を追究し、「真実」を探求することです。」
・「その歴史は、永遠の流転の一コマですが、真実をきちんと残し、積み重ねていかないと、
正しい歴史観がゆがめられ、また未来に不幸を重ねてしまう。
正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるのです。歴史は、
ゆがめたり、歪曲したりしてはいけない。歴史をつくってしまっては《小説》に
なってしまう 。」
・「〝過去を見ない人は、現在にも盲目〟」
まさにこのとおりで、創価の歴史も同様でしょう。
35 名前: Leo 投稿日: 2003/05/08(木) 01:52
>>34 (そのまんま自己批判なってます...)
http://www16.ocn.ne.jp/~a1133/925_1052105523.htmlicon
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2009/06/08 08:45:40
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
31 名前: SGI 投稿日: 2003/05/08(木) 00:43
名誉会長の入信経緯は、Leoさんが度々ご紹介されているように、『人間革命』の記述は全くのウソ。
そこで、小口偉一編『新心理学講座』第4巻とは別の資料を提示してみる。
まず1つは、『聖教新聞』昭和32年10月18日付の「私の初信当時」欄。
これは、名誉会長が青年部参謀室長として、新潟・長岡市での会合で自身の入信当時を振り返って語ったものを掲載している。
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。…折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。…私はそこで教学部長から折伏されたんですよ」
小口偉一編『新心理学講座』のインタビューは昭和30年頃。この記事は32年。共に戸田会長の生前中であり、第三代会長就任前の名誉会長自身の談話である。それだけに信憑性は極めて高い。
もう1つは、先頃(平成15年2月23日)開催された法華講・東京第一地方部総会での体験発表。
発表者は、妙縁寺信徒の三宅妙子さん。平成13年10月に脱会し入講された年配の三宅さんは、なんと小説『人間革命』で名誉会長と戸田先生が初めて出会ったとする蒲田の座談会会場のお嬢さん。名誉会長を学会の会合に誘ったのが三宅さんの実姉で、いわば名誉会長入信の紹介者の妹なのだ。
「時は昭和二十二年の八月、私の姉が同伴してきたのは同窓生であった池田/大作その人でありました。小説『人間革命』には、そのときの美化された戸田先生との出会いが描かれていますが、それは全く事実は違います。そのとき十九歳であった彼は、折伏されて十日後に入信しました。
その後、昭和二十四年の一月、池田が二十一歳のとき、蒲田工業会に勤務していた彼を、私の母が、日本正学館を経営されていた戸田先生に、「よい青年がいる」と、初めて紹介し、就職を依頼しました。池田の学会での仕事の出発点がここであり、私は、このときのことを今でも鮮明に覚えています」(『大白法』平成15年3月16日付)。
つまり、三宅さんの話では、名誉会長と戸田先生のちゃんとした出会いは24年1月のことであり、入信の経緯は、『新心理学講座』や「私の初信当時」に記述の通り、三宅さん宅に新来者として初めて学会の座談会に参加し、その十日後学会本部で小平教学部長に折伏されたのだ。
> http://www16.ocn.ne.jp/~a1133/925_1052105523.htmlicon
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from: 21世紀さん
2009/06/08 08:34:38
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
yuriko 投稿日: 2003/05/05(月) 12:34
作者の言い分とは逆に、戸田先生の石田氏への信頼は絶対とも言える程深かった。
また、戸田先生は、とりわけ聖教新聞の役割を重視した。「聖教新聞は、学会のミサイルだ」と戸田先生が常々語っていたのは有名な話だ。これは、聖教新聞が現在のような無礼講の人格攻撃や争い事を奨励したというより、「聖教新聞こそ広宣流布の道を切り開く最大の武器」という意味だったと思う。
私は、一部内容はともかく、聖教新聞の長年の愛読者である。よく出来ている新聞だと思う。新聞は、その起ち上げこそ重要である。従って、初代編集長の石田氏の貢献度はとりわけ大きかったと言える。
さらに、注目すべきは、石田氏は、当時の創価学会の唯一、最高の教義解説書の「折伏経典」の最初の章で、「宿命論」の執筆を任せられていた点だ。
これは、戸田先生が、石田氏を自分の分身と見ていた何よりの証拠だ。
不幸な事に、戸田先生の死後は、その章は、戸田先生の生命論にそっくり差し換えられた。
そうした戸田先生と石田氏の師弟の交流の記述は、人間革命では、スッポリ抜け落ちている。
p162には、次のような面白い記述がある。
『....彼(戸田城聖)は、石川によくこう言うのであった。
「幸男は長男だな、伸一は次男だよ」
それは、長男が甚六といわれるように、観念的な傾向が強く、苦労知らずの石川に対する戸田の婉曲的な指摘であったが、石川にはその意味がわからなかった。むしろ、石川は、それを自分が学会の跡取りであるといわれているように受け取ったのかもしれない。』
つまり、戸田氏が石田氏にこっそりと話した事を作者の地獄耳が捉えていたらしい。
私は、最初これを読んだ時、大笑いしてしまった。こうした珍説を読んだ全国の長男の会員の皆さんは、どう感じたのだろうかと、思ってしまったからだ。特に、池田家長男の博正氏はどう思ったのだろう?
余程、博正氏は父親から嫌われているののだろう。かつて、次男の城久氏が池田先生の後継者に最有力とされ、彼の突然死の後は、今は、三男の尊弘氏が池田家後継の最有力候補だ。
確かに、組織に於いては実力主義こそ最も尊ばれるべきものだが、古今東西、経験と実力は、ある程度の相関関係があるのも、常識だ。
まして、戸田先生の石田氏への信頼度を考えれば、戸田先生は、石田氏を自分の後継者と考えていたという意味で、氏を長男とよく言っていたのではなかろうか?また、それは、野心家の池田先生の心根を戸田先生は、鋭く見抜いた上での、池田先生への鋭い牽制だったのではなかろうか?
その上で、作者は、石田氏の事を酒のみで乱れがちな上、酒任せの指導をしては、会員から顰蹙を買っていたとしている。そういう破人格者である筈にも拘わらず、戸田先生は、石田氏を九州総支部長に任命している。それを作者は次のように解説している。
p163
『燃え盛る炎のごとき気質をもった「火の国」九州の総支部長には、まったく対照的な理の人にみえる石川幸男が就任することも、全体のバランスを考えると、よいかもしれないと思われた。
一抹の不安はあったが、戸田城聖は、あえて石川の可能性に賭け、彼を九州総支部長に任命しようと決めたのである。』
全く、人をバカにしきった記述だ。なぜに、戸田先生は、破人格の典型ともいえる人間に重要な役職を与えたかの説明には全くなっていない。私は、寧ろ作者が毎度のように勝手に戸田先生の心を推測し、平然と解説する厚顔ぶりにこそ、ぞっとした。
こういうデタラメを許し、有り難がっている創価学会員こそ哀れというより、バカである。
不幸な事に、戸田先生から深い信頼を受けていた石田氏は、戸田先生の死後、完全に池田専制体制から閉め出された。
池田先生が学会本部にやって来ても、周囲が騒然とする中、石田氏のみが、平然としていたという。
そんな態度が我が儘な池田先生の神経を逆撫でしていたのは、想像に難く無い。
そして、晩年には、公然と反旗を翻している。
普段から会員には、「仲良く!」などと池田先生は指導しているが、何故に『兄とも仰ぐべき』石田氏とは、仲良く出来なかったのか不思議だ。
池田先生が、自分を戸田先生の真の弟子を自称するなら、戸田先生が最もかわいがっていた弟子をもっと大切にすべきではなかったのか?
氏の実弟は、第三代公明党委員長の石田幸四郎氏だ。
幸四郎氏は、池田先生の命令の故か、実の兄の葬式にも訪れていない。
戸田先生の一番弟子が惨めに憤死した事実は、重く受け止める必要がある。
全く、目的故には、師弟、夫婦、親子、兄弟、姉妹の仲を平然と裂く池田先生の人生学は、恐ろしい。(参考資料 『堕ちた神池田/大作』 『創価王国の野望』 溝口敦
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from: 21世紀さん
2009/06/08 08:28:54
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池田/大作作小説人間革命批判
名前: yuriko 投稿日: 2003/05/05(月) 12:32
ここの書き込みでは、主に、同十二巻を取り上げる。
同作品は、私小説と断られていないし、純粋な伝記でもない。作者は、これをフィクションと言っている。
しかし、人物の配置、時代設定等を鑑みるとどう見ても、ドキュメンタリーとしか読めない。
つまり、作者に都合の悪い面は、フィクションで、都合の良い部分は、真実としているのだ。
同十二巻では、露骨に「誰」とわかる形で、「反逆者」への陰険な人格攻撃が際立っている。その描写は、あまりにも生々しく、日本の法律で定めた「名誉毀損の罪」に該当するのは、明らかなのだ。
しかし、不思議な事に誰も作者を訴えようとしていない。これは、公明党の存在が明らかな憲法違反であるにも拘わらず、誰も本気で問題にして来なかった事と並んで、日本文化に於ける不思議の一つだ。
私が、ここで問題にしたいのは、同小説160ページに登場する石川幸男こと、石田次男氏への侮辱的記述である。これが書かれた当時は、石田氏は存命中だった。
石田氏の母は、初代の創価学会婦人部長であり、戸田先生との信頼関係は、深いものがあった。しかし、どういう訳か、同小説には、登場していない。これは、意図的に削除されたのだろう。
その息子である次男氏への戸田先生の信頼は、並々ならぬものがあった。同氏は、大卒ではあるが、有名校出身ではない。にも拘わらず、戸田先生に目をかけられた。という事は、池田先生の場合と同様、石田氏の人格的素養が戸田流の人材育成法のメガネに適った為だったのだろう。
p160には、次のような記述がある。
『一一幸男は、九州との馴染みはあるが、力量、人格はどうか....。
石川は........戸田は、翌年四月に聖教新聞が創刊された時には、編集スタッフに任命し、ほどなく彼を編集長とした。......
二十六年七月の男子部結成式の折には、石川は第一部隊長に抜擢され、一年半後には、青年部出身の初の支部長として、小岩支部長に就任したのである。まさに彗星のように、短日月のうちに登場してきた幹部といってよい。』
つまり、作者としては、戸田先生と石田氏との特別な関係を意識的に無視した上で、一応の敬意は払っているように見える。
当時の創価学会は、戸田創価学会と言うべきで、特に人事の面では、戸田先生が全てを裁可した。
その中で、石田氏は、『まさに彗星のように、短日月のうちに登場』したのだ。並々ならぬ戸田先生の信頼を受けていたのだ。
これは、ただ事ではない。ただの要領だけで、(当時の)学会の中で出世できるものではない。
さらに、そこに記載はないが、次男氏は、学会青年部初の理事にも就任している。
誰が見ても、それは、戸田先生が石田氏を自分の後継者とする布石だった筈だ。
実際、戸田先生の石田氏への信頼は、並々ならぬものがあったのは確かだった。
例えば、石川氏を小岩支部長にした時、戸田先生は、
「追いて来る者だけが追て来ればいい。次男と私で創価学会の旗を持って死ぬ覚悟だけだ」
とまで、言った。
また、現在の創価学会が愛用している「御書全集」への氏の貢献は、大きい。同全集は、長年の掘米尊師(後、猊下)の研究がなくては、成立するものではなかったが、氏の貢献も無視してはならい。
因に創価学会では、未だに、同書を「創価学会教学部が総力を結集して成った全集」と位置ずけている。
今年は、その創刊60周年?記念だそうだ。石田氏が果たした学会貢献を再評価するいい機会ではないのか?
戸田先生は、その貢献を称えて、一首の歌を送っている。正確には、覚えていないが、
『夫婦して 作れり御書全集 本仏の 永久に輝け その誉れ高し』
みたいなものだったと思う。
名前: yuriko 投稿日: 2003/05/05(月) 12:32
ここの書き込みでは、主に、同十二巻を取り上げる。
同作品は、私小説と断られていないし、純粋な伝記でもない。作者は、これをフィクションと言っている。
しかし、人物の配置、時代設定等を鑑みるとどう見ても、ドキュメンタリーとしか読めない。
つまり、作者に都合の悪い面は、フィクションで、都合の良い部分は、真実としているのだ。
同十二巻では、露骨に「誰」とわかる形で、「反逆者」への陰険な人格攻撃が際立っている。その描写は、あまりにも生々しく、日本の法律で定めた「名誉毀損の罪」に該当するのは、明らかなのだ。
しかし、不思議な事に誰も作者を訴えようとしていない。これは、公明党の存在が明らかな憲法違反であるにも拘わらず、誰も本気で問題にして来なかった事と並んで、日本文化に於ける不思議の一つだ。
私が、ここで問題にしたいのは、同小説160ページに登場する石川幸男こと、石田次男氏への侮辱的記述である。これが書かれた当時は、石田氏は存命中だった。
石田氏の母は、初代の創価学会婦人部長であり、戸田先生との信頼関係は、深いものがあった。しかし、どういう訳か、同小説には、登場していない。これは、意図的に削除されたのだろう。
その息子である次男氏への戸田先生の信頼は、並々ならぬものがあった。同氏は、大卒ではあるが、有名校出身ではない。にも拘わらず、戸田先生に目をかけられた。という事は、池田先生の場合と同様、石田氏の人格的素養が戸田流の人材育成法のメガネに適った為だったのだろう。
p160には、次のような記述がある。
『一一幸男は、九州との馴染みはあるが、力量、人格はどうか....。
石川は........戸田は、翌年四月に聖教新聞が創刊された時には、編集スタッフに任命し、ほどなく彼を編集長とした。......
二十六年七月の男子部結成式の折には、石川は第一部隊長に抜擢され、一年半後には、青年部出身の初の支部長として、小岩支部長に就任したのである。まさに彗星のように、短日月のうちに登場してきた幹部といってよい。』
つまり、作者としては、戸田先生と石田氏との特別な関係を意識的に無視した上で、一応の敬意は払っているように見える。
当時の創価学会は、戸田創価学会と言うべきで、特に人事の面では、戸田先生が全てを裁可した。
その中で、石田氏は、『まさに彗星のように、短日月のうちに登場』したのだ。並々ならぬ戸田先生の信頼を受けていたのだ。
これは、ただ事ではない。ただの要領だけで、(当時の)学会の中で出世できるものではない。
さらに、そこに記載はないが、次男氏は、学会青年部初の理事にも就任している。
誰が見ても、それは、戸田先生が石田氏を自分の後継者とする布石だった筈だ。
実際、戸田先生の石田氏への信頼は、並々ならぬものがあったのは確かだった。
例えば、石川氏を小岩支部長にした時、戸田先生は、
「追いて来る者だけが追て来ればいい。次男と私で創価学会の旗を持って死ぬ覚悟だけだ」
とまで、言った。
また、現在の創価学会が愛用している「御書全集」への氏の貢献は、大きい。同全集は、長年の掘米尊師(後、猊下)の研究がなくては、成立するものではなかったが、氏の貢献も無視してはならい。
因に創価学会では、未だに、同書を「創価学会教学部が総力を結集して成った全集」と位置ずけている。
今年は、その創刊60周年?記念だそうだ。石田氏が果たした学会貢献を再評価するいい機会ではないのか?
戸田先生は、その貢献を称えて、一首の歌を送っている。正確には、覚えていないが、
『夫婦して 作れり御書全集 本仏の 永久に輝け その誉れ高し』
みたいなものだったと思う。
http://www16.ocn.ne.jp/~a1133/925_1052105523.html-
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from: 21世紀さん
2009/06/08 08:18:40
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ザイクス小島伯軍師が池田/大作を批判
1 :神も仏も名無しさん[]:2008/01/28(月) 01:48:03 ID:G8ks3/Sy
たまたま、ユーチューブで検索してたら、ザイクスの小島露観が
創価の池田/大作をはげしく批判していた。
お前と日蓮はまったく逆だ。ぜんぜんちがう。バカものーー。
みたいな感じでした。
池田/大作と小島露観はどっちが勝つの??
批判内容は憲法20条の政教分離規定に違反していること。
中国に媚びを売って売国行為をしていることを非難。
朝木事件で、担当した刑事が学会員で公正でないと主張。自殺と断定していること。
SGI会長という隠れ蓑を使って部下に全部責任を押し付けていることなど。
また、日蓮の生まれかわりだという主張に対してお前と日蓮はまったく逆のものだと。
ここで、いっきに声のトーンがエスカレート。激しく怒る小島伯軍師。
お前のような卑怯者は日蓮とはぜんぜんちがう。真逆のものだ。
バカモノー。みたいな感じでした。
小島伯軍師の学会にたいする怒り爆発という感じでした。
なんかすごいものを見てしまいました。
はぁ〜。疲れた。
報告終わり。
http://unkar.jp/read/life9.2ch.net/psy/1201452483-
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from: けんちゃんさん
2009/06/07 22:09:30
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「Re:登山をしてきました。」
> みなさんも、写真を撮られると思うのですが、今回はこんな写真を撮ってみました。
>
> 本当は、この提灯の表側、確か「慶祝 立正安国論正義顕・・・」だっと思うんですが、それを撮ろうと思ったのです。
> シャッターを切る直前に裏返ってしまったようです。(^_^;
>
> たまにはこんな写真もいいかと・・・・・?????
まあ、色々有って良いのでは無いですか?次はシャッターチャンスを間違えないようにね。
私も今日は御登山に行って来ました。今日もまた忘れられない御登山でした。朝お寺を出発する前に、この頃唱題会に参加していた創価の人が勧誡を受けられ、一緒に御登山されたのです。彼女は大結集総会にも参加すると話され歓喜の登山会でした。
私も初心を思い出し惰性に流れている自身の信心姿勢を反省した一日でした。icon
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