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from: れいなさん
2011年06月30日 00時49分52秒
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牧口常三郎と創価の代表選手、吶喊ロム男君の邪義を粉砕する
○れいな君!もう一度チャンスをあげる。君の国家諌暁の定義の論拠をあげなさい!(笑)
●あんたまた最初からスゴロクをするおつもりか? 私が示した国家諌暁の定義が我見とか、訳の分からぬことをまだ言っておるのかね。「よりみち」という貴殿の多重ハンネに対する回答をよく読みたまえ。「別に音声でもよろしいですよ。…あればご紹介ください。」と当方は極めて柔軟に対処しておるではないか。更に当方は、「国家諌暁の定義は貴殿のフリーハンドで結構です。ご提示してください。」とも申しておるではないか・・。
ここだ!
http://6730.teacup.com/tasakuikeda/bbs/561
○次に、私は牧口先生の行われた国家諌暁の例として、『官憲による尋問調書発言』
『石黒英彦』(元文部次官)『小磯国昭』(陸軍大将)『平沼騏一郎』(枢密院議長)
への、折伏をあげたが、アホタンは「広義の意味では」と国家諌暁を認めた。
● こらぁ〜、話が反対になっておるぞ!!ついに発狂したか、それとも認知症か?! 当方がいつ貴殿が挙げた上の事例を国家諌暁の証であると認めたのかね? 阿呆よ!
復習だよ、トッカンロム男君よ、貴殿はまず最初に「尋問調書」を以て国家諌暁の証とし、これは当方によって、破折された。そして三日間考えた挙句、出てきたのが青年部三名による報告書「石黒邸訪問記」であったな! 忘れたか?! お前さんはこのように言っておる、これも忘れたか?!
トッカンロム男君曰く、
【「以上だが、当時石黒英彦氏は、前文部次官で、退官後も、文部省
の指導的立場にあった。
昭和16年の記録であるが、これが国家諌暁でなくてなんなのだ?】
http://6730.teacup.com/tasakuikeda/bbs/?
して当方にまたまた破折された貴殿は、とうとう「広義の意味で国家諌暁である」と抜かしよったのだ、アハハ
忘れたか、これ?
【④ ロム男君は「諌暁とは・・(大善生活・価値論)・・も広義の意味で諌暁である」と述べられているが、それならば、ほんみち(天理本道)も「神政実現の教義」を旗印とし国家を諌暁したこととなる。どこが違うのであろう。日蓮正宗信徒の諌暁とは大聖人の仏法を広めることである。これを石黒英彦氏訪問目的の第一義とすべきである。)
http://6730.teacup.com/tasakuikeda/bbs/727
○ところが、自分の言ってる事が全く自分でも理解出来ないらしく、
●それは貴殿のことであろうがww 話をあべこべにするな。
○未だに牧口先生は国家諌暁をしていないと、間抜けなことを言っている!
●アハハハハハ、では牧口常三郎が、いつどこで誰に国家諌暁をしたのかね? 貴殿が最終的に国家諌暁の証として出した「石黒邸訪問記」ケ? <ケケケ笑 アホラッシ! 青年部の報告書がね〜〜? アハハ コ〜ギではそうなるのかい、坊や。
○『教義の意味では、僧宝は日興上人お一人だが、
広義のうえからは、歴代貫首も僧宝である』
広義を否定してしまうなら、歴代貫首は僧宝でないことになる!!(大爆笑)
●当該テーマとは何の関係もない、話を逸らすな。この件に関しては貴殿が「申し訳ございません、牧口常三郎は国家諌暁を叫んだだけの、唯の阿呆です」と認識した後で論議しよう。
○れいな君よ!牧口先生の国家諌暁は、広義のうえでの国家諌暁であると認めるのか?
●ギャハハハハ、阿呆よ! 誰が広義の上で認めるのだよ。wwww! おぬし本当に大丈夫か?
○いずれにせよ!牧口先生は昭和15年に、政党関係者30人が集まる集会で講演され、
『軍国主義』批判をされたのである!
立派な国家諌暁である!!
●アハハ、またまたここで、牧口常三郎の国家諌暁の証を変更されるか?!!(^^)!
○↓君は、これを国家諌暁と仰せなのだろ!(爆笑)
答えよ!!^m^
●答えてやるよ、よ〜く聞け!w
ぷーぎん氏はお前の挙げた「石黒邸訪問記」の牧口常三郎の諌暁の証に呆れ返り、トッカン失敗会長がただ叫んだだけでなく、松前重義氏は実際にダ!高松宮に面頭で「東條英機は日本を滅ぼすと話した」のだよ。高松宮殿下は戦時下、海軍参謀であったからのぅ〜。そのことを考えられた高松宮殿下は、昭和天皇に戦争を避けるように進言された。そういう意味で、「国家諌暁に近いことをやったのは・・・」と仰せなのだよ。分かるか、鈍感よ? ・・・しかしこれとて、日蓮正宗でいう国家諌暁ではあるマイで・・。あくまでも世法上の諌暁ということだ。
阿呆よ、この動画を見てよく思索せよ。
http://www.youtube.com/watch?v=xhhYEJ_C4ws
【海軍参謀だった高松宮殿下は、軍令部の暗号を読める立場にあった、厳しく軍批判をしていた閣下は、海軍にゆとりが無いとして、天皇に日米戦争は避けるべきと進言していた。?ポツダム宣言受け入れの際に、条件付のポツダム宣言受け入れは連合軍にはねつけられる可能性があると進言、徹底抗戦を主張する軍部の説得にあたった。】
【阿呆殿への参考資料】
戦争指揮をしている海軍軍令部に説明した。そこには軍令部の一員であった高松宮(天皇家の構成は、長男昭和天皇、次男秩父宮 三男高松宮 四男三笠宮)(天皇家三男)が出席していた。高松宮に「今夜うちに来い」と松前は言われ、二晩宮邸へ出かけた。高松宮は赤線を引きながら熱心に説明を聞いていた。「しかるべき手を打ってほしい」と松前は訴えた。つまりは、東條内閣の退陣である。
この説明が、高松宮から昭和天皇へ伝わって、戦争指導最高会議で天皇の「終戦決断」にいたる判断根拠にもなっている、と推測している。
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2008/09/2-42d4.html
いずれにせよ、能書はよい、一日も早く価値論が今の創価組織内部でどのように具体的に展開されているのかを説明せよ!
説明無き場合、貴殿の敗北とする。
以上、 -
from: 21世紀さん
2011年06月29日 20時05分54秒
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「Re:第68世御法主日如上人猊下御指南」
御法主日如上人猊下御言葉
五月度広布唱題会の砌
平成23年5月1日 於 総本山客殿
本日は、 五月度の広布唱題会に当たり、 皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。本年も既に三分の一を過ぎ、いよいよ中盤に入りましたが、皆様には日夜、折伏誓願の達成へ向けて御精進のことと存じます。
さて、法華経神力品を拝しますと、「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定(けつじょう)して疑(うたがい)有ること無けん」(法華経517ページ)とあります。「斯の経」とは法華経のことでありますが、末法に約して申せば、文上の法華経ではなく、法華経文底下種の南無妙法蓮華経のことであります。すなわち、滅後末法において、文底下種の南無妙法蓮華経を受持する者は、必ず成仏できると仰せられているのであります。
そもそも、この神力品の御文の前を拝しますと、「日月の光明の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(同516ページ)と説かれております。
この御文について、大聖人様は『寂日房御書』に、「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と、此の文の心よくよく案じさせ給へ。 『斯人行世間(しにんぎょうせけん)』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明を指しい出して、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経を受け持てと勧めしは是なり」(御書1393ページ)と仰せであります。
すなわち、先程の神力品の「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」との御文は、末法に上行菩薩が出現され、南無妙法蓮華経の五字をもって一切衆生の無明煩悩の闇を照らすと仰せられているのであります。
このことは『観心本尊抄』にも、「今末法の初め、小を以て大を打ち、権(ごん)を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天其の国を棄て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」(御書660ページ)と仰せられ、
また『右衛門大夫殿御返事』には、「日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とと思(おぼ)し食(め)す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。経に云はく『我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」云云(同1435ページ)と仰せられています。
すなわち、大聖人様は上行菩薩の再誕として末法に御出現あそばされましたが、しかし上行菩薩としてのお立場はあくまでも外用のお姿であって、内証深秘(じんぴ)の辺から拝するならば、久遠元初自受用報身如来の御本仏にましますのであります。
故に、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄49ページ)と仰せられているのであります。
すなわち、末法は、釈尊が予証せられたとおり、外用上行菩薩、内証久遠元初の御本仏宗祖日蓮大聖人が御出現あそばされ、三大秘法の妙法をもって、本未有善の荒凡夫たる末法濁悪の衆生の心田に仏種を下し、もって救済あそばされるのであります。
されば『高橋入道御返事』には、「末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(御書887ページ)と仰せられているのであります。
つまり、末法においては、御本仏大聖人の妙法蓮華経のみが成仏得道の要法にして、爾前の厳仏・権経の教えをはじめ、他のいかなる教えでも成仏することはできず、かえって無間大城に堕ちることになってしまうのであります。故に、今、我々末法の衆生は、宗祖日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ奉り、大聖人が御建立あそばされた三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊を帰命依止の御本尊と崇め奉り、至心に南無妙法蓮華経と唱え奉るところに、初めて即身成仏の本懐を遂げることができるのであります。
ただし『三大秘法抄』に、「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計(ばか)りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是、理行の題目なり、末法に入って今、日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同1594ページ)と仰せの如く、末法の修行は自行化他にわたる題目が肝要であります。したがって、唱題行にしても、唱題が唱題だけで終わらず、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出るとが肝要なのであります。
要は「実践行動の年」にふさわしく、一人ひとりが、理屈ではなく、折伏実践の行動をおこすことであります。「座して食らえば山も空し」という言葉がありますが、たしかに、働かないでいれば、豊富な財産もやがてはなくなってしまいます。同じように、信心も折伏を行じなければ、今まで積んできた功徳もいつの間にか、なくなってしまいます。
我々一人ひとりが一生成仏を果たし、仏国土を実現するためには、地涌の菩薩としての振る舞い、すなわち「上求菩提、下化衆生」の誓願のもと、唱題を重ね、折伏を行じていくことが最善の方途であることを知らなければなりません。特に、今回の東日本大震災の惨状を目の当たりにする時、その感を深くするものであります。
『法華初心成仏抄』には、「元より末法の世には、無智の人に機に叶(かな)ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其の故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざりき。或は罵られ毀られ、或は打れ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しも懲りもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に今の釈迦仏となり給ひしなり」(同1315ページ)と仰せであります。
この御金言の如く、今、末法における折伏は、不軽菩薩がそうであったように、「機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たす」ことが肝要であります。されば、同じく『法華初心成仏抄』には、「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となつて仏になるべきなり」(同1316ページ)と仰せられているのであります。慈悲の心をもって、心の底から相手を救いたいと思うならば、この御金言を実践に移し、一人でも多くの人に下種し、折伏を行ずべきであります。
信心とは理屈でなく、 実践行動であります。 なかでも我々は、折伏という実践行動を起こしてこそ、過去遠々劫の罪障を消滅し、一生成仏を遂げることができるのであります。まさしく、神力品の「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑有ること無けん」 との御文を拝し、 己れ一人だけではなく、 不幸にあえぐ多くの人に妙法の偉大なる功徳を説き、折伏を行じていくことが肝要となるのであります。
どうぞ皆様には、このことを忘れずに、本門戒壇の大御本尊様への絶対の確信をもって、来たる平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、講中が異体同心・一致団結して折伏を行じ、すべての支部が必ず誓願を達成されますよう、心から願うものであります。
「時は得難くして失い易(やす)し」とも「時人(ひと)を待たず」とも言います。まだ年末までには時間があると思ったら負けます。「時は金なり」とも言います。時は貴重であるからこそ、無駄に過ごしてはならないのであります。されば、 今の一時(いっとき)を無駄にすることなく折伏を行じ、 本年度は全支部が必ず折伏誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。
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from: 22世紀さん
2011年06月28日 20時11分44秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)20時52分22秒 通報 返信・引用
折伏大行進と大蔵商事の商法
昭和26年5月、戸田は創価学会本部に常置する本尊の下賜を総本山に請願した。それはその請願書に、「一国大折伏の時機到来せり・・・・・大折伏大願成就の為の大御本尊」とあったように、同会の広宣流布という大目的の公然化と、それへの起請文にほかならなかった(またその請願は、同年4月公布施行された宗教法人法の宗教団体の定義に、「礼拝の施設を備える」という一句があり、それを字義通りに受けたうえでの、日蓮正宗から独立した宗教法人設立に向けての用意周到な布石をも兼ねていた)。
戸田の号令一下、創価学会は折伏大行進の臨戦態勢下に入り、以後、暴力的といわれるまでの折伏が創価学会の常態になった。
戸田の下ではすべてが組織伸張を基準に処断された。6月には10名近くを除名し、少し遅れて、前に理事長からおろした矢島周平を休養の名目で、さらに指導監査部長からもおろし、後任を柏原ヤスに兼任させた。27年4月、矢島は復帰がかなったものの、翌28年8月に出家して日蓮正宗の僧にならなければならなかった。
池田は矢島について、「矢島さんは良い調子で派閥を作った。親の心、子知らずで、戸田先生の気持ち等全然わからず、良い調子になった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)と語っているが、矢島自身は、「ひとくちにいえば、戸田さんに追い出されたんです。私は彼の教学に批判的だったし、事業のやり方にも反対だった。それをしばしば口にしたわけです。それが戸田さんには気に入らなかった」(『週刊ポスト』昭和53年9月22日号)としている。
彼は昭和8(1933)年の長野県赤化教員事件で検挙された一人だったというが、昭和10年創価教育学会に入会、18年に牧口、戸田とともに検挙され、20年4月まで入獄という経歴が語るように強い意志を持つ草創期からの幹部だった。
人事は原則として能力と実績だけで考課された。
ふつう新興宗教では、選挙によらない非民主主義的な形態にもかかわらず、他教団との競争や分派発生防止のため、実力第一主義の人事が行われ、一般の社会のような学歴、顔、買収、追従などは通用しないとされる(高木宏夫『日本の新興宗教』)が、戸田の人事も、たとえば元子爵夫人・北条ツネ子に教学部の名誉教授を授け、その血族・北条浩の早い登用など、元華族の偏重を除けば、大約その例外ではなかった。
池田の置かれた地位は、その当否はともかく、彼にとっては大いに満足すべきものであった。彼は最初から幹部候補生としてノミネートされていた。
戸田の就任前には、池田は、一日の大部分の時間と精力とを大蔵商事の信用の確保と、新しい営業分野の開拓に費やし、「彼ひとり人知れぬ分野で孤軍奮闘し」(池田、前掲書)なければならなかったため、その会活動は皆無に等しく、「池田は〝退転〟したのではないか」と噂されるほどだったが、彼が日本正学館や東京建設信用組合の困難な業務に見せた努力は、戸田の心証をよくし、会活動にかわる経歴と考えられていた。
そのころ池田は前に述べたように、蒲田支部の大森地区委員だったが、当時の戸田の池田評価は、「竜年光君、池田大作君・・・・・等は共に熱血をたぎらせて広宣流布の闘志として養成され邪宗折伏においての獅子吼は相手に一撃を加えずにはおかない」という聖教新聞(昭和26年5月1日)評とほぼ同一と見られ、池田は同支部幹部の竜年光の一ランク下ぐらいに位置つ゛けられていた。
会員がまだ少なく、聖教新聞も同人連絡紙のおもかげを漂わす時代に零細企業で苦楽をともにしたという戸田へのコネを持つ池田は、きわめて有利な場所にいたといえよう。彼には、戸田の会長就任後一ヵ月で、さらにもう一つの有利さが加わった。
6月、池田の勤める大蔵商事は新宿から市ヶ谷駅前の市ヶ谷ビルに移転した。戸田は翌年4月、同ビルの一室に創価学会の分室を設けたが、分室と称して差し支えないほどに西神田の創価学会本部と近く、池田の会活動には便利となった。
また大蔵商事の社業好転も池田の活躍を助けてあまりあるものがあった。
創価学会員の増加とともに、池田をしばり、苦しめ、彼のハンディキャップとなっていた戸田の事業は発展に向かい、昭和27年春には、戸田の7、8,000万円という借財は、三割返済を含んでいたものの、ともかく皆済されるほどであった。
大蔵商事の営む不動産や保険代理業、高利貸し等は、いずれも顔と信用が物をいう業種であり、同社の最高顧問である戸田の背後に多数の信者が控えていることは、そのまま絶大な信用につながったし、また聖教新聞に「資金の融通は大蔵商事」と広告をうっていることからも、会員との取引が増大したことは十分察知される。
大蔵商事の主業務は手形の割引であった。
「割り引いてもらいたい者は創価学会支部長の紹介状をもらって朝9時までに大蔵商事に行く。商事では手形を預かり、3時にまた来いというわけだ。それから、目と鼻の先の三菱銀行市ヶ谷支店に運んで、銀行の手で振出し銀行に問い合わせ、ふるいにかけて2時に戻ってくる。割引率はふつう1割5分、3ヵ月手形なら4割5分を引く。一方、会員からは日歩15銭で運用してやると金を集めていた」(前出、瀬尾正吉談)
池田はまた債務の取立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたといわれている。池田ののちの回顧「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』昭和43年2月10日)が、その業務の非情さを裏つ゛けていよう。
同社の繁昌は創価学会の隆盛に負うものであった。
大蔵商事の発展は、それまでとは逆に池田の会活動を保証するものに変わった。社業がうまくいっている以上、戸田が他の事業家の誰よりも、創価学会員である部下の会活動に理解を示すのは見やすいところであり、その点、池田は他の青年男子部員の誰よりも、それ以上望みようがないほど恵まれた勤務環境にあったといえよう。
さらに四六時中、戸田と顔をつきあわせている生活は、戸田の意向を汲み取ることを池田の得手にさせた。池田の追随的な事務家の能力は、戸田のアイデアを実行するうえに、ソツがなかった。
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from: 22世紀さん
2011年06月28日 20時10分15秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)20時35分49秒 通報 返信・引用
第三章 戸田城聖の番頭から創価学会の大幹部へ
狂信者戸田の指導と組織力
昭和26(1951)年5月3日、創価学会会長の地位についた戸田は、「私が生きている間に75万世帯の折伏は私の手でいたします。・・・・・もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出して下さるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!」
といったという(もっともこの75万世帯は、『聖教新聞』昭和27年5月10日では「断じて150万の世帯にならなければ」となっている。が、いずれにしろ戸田の死没寸前に達成されたとされる、その75万世帯は、一世帯一人としても、就任時の会員数約3,000名の250倍にあたる)。
戸田の願望は大きかったが、彼はそれに見合うだけの、強信に基つ゛く使命感と能力とに欠けていなかった。彼にとっては、創価学会の強化と拡大だけが広宣流布に直結して、そのまま善であったから、会の拡大が彼にもたらすはずの莫大な利益を思って後ろめたさを感じるようなことは、まずもってなかった。会員増と彼の利益の一致は、「折伏大行進」への彼の声を大きくするものの、小さくする性質のものではない。
戸田の強みはすべて、強信に負っていた。強信でこそ、彼は他の牧口門下生を圧倒し、彼らの会長就任反対の意向を無視、あるいは封殺して独裁体制を確立することができたし、また会員を折伏という会員獲得運動に臆面もなく、強制動員することができたのである。
マックファーランドは、ホッファーの「運動は能弁な者によって開拓され、狂信者によって実体化され、行動者によって強化される」という言葉を創価学会の三代にあてはめ、戸田は狂信的な人間で、彼の指導と組織力のもとで創価学会は勢力が著しく伸びたとしている(内藤、杉本訳『神々のラッシュアワー』)。
戸田の強信は、それによる儲けを忘れなかったとはいえ、たしかに狂信といって差し支えないものだったし、その指導力や組織力も、牧口に較べれば文句なく、また池田に較べればその創始性において、屹立するものであった。彼がいったという「ぼくが舞台を作っておく」(池田『人間革命』四)には、誰がいったかは別として、毛ほどの偽りもない。
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from: 22世紀さん
2011年06月28日 20時08分00秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)20時32分25秒 通報 返信・引用
戸田城聖の破産と教団指導業への転進
昭和25(1950)年6月、東京建設信用組合の預金払い戻しは急増し、7月に入ると取りつけまがいの騒ぎさえ起こった。焦げつき債権の回収も、優良組合との合併策も思うにまかせず、払い戻し請求には、なりふりかまわぬ居留守と平謝りの一手しかなかった。
同組合の被害者のひとりは、のちに戸田をインチキと激しく非難している。
「昭和24年、当時戸田が西神田にある『東京建設信用組合』なるものの経営をしているとき、知人を通し゛て手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不審も抱かず、手形の割引きを、4、5回したものです。
また、その信用組合は定期預金なるものを作り、3ヵ月、6ヵ月満期の定期にも加入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だとは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼鏡をタタミにすりつけて平身低頭『生きている限り、必ずこの戸田が誓って全額返済します』といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、2年後に彼の負債(1,500万円とか)は三割返済の決議により清算されました」(『週刊朝日』昭和31年9月2日号、読者投書)
結局、事業家・戸田の論理は宗教家・戸田の論理とゴッチャになって、無い袖は振れぬだった。戸田のなめた苦しみは、他人に対して無責任で酷薄な言い抜けや一時しのぎを許す権利を授けたわけである。
8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家として致命的に敗れて組合法違反を問われ、また取り立てにからむ刑事事件をひきおこし、債権者からは告訴されることになった。そのため彼は創価学会理事長の職を辞任し、後任を矢島周平に譲って夏季講習会にも出られず、一時は城聖の名を城正と変え(佐木、小口『創価学会』)、雲がくれした。戸田の破産は多くの会員を動揺させ、彼に出資していた一部会員を離反させたばかりか、中には数十世帯を集めて分派を結成するものさえ現れてきた。
戸田は刑事事件としていつ起訴されるかも知れない身であり、彼の妻は生活のために働きはじめ、池田は牧口門下の清算事務局長の下で、毎日を希望のない善後策に走りまわり、疲労しきっていた。
池田はのちに当時をこう回想している。
「昭和25年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜悪口を云った。(池田先生が)私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。25年の12月には、もう駄目かも知れぬと思った」
「記者が玉の井で遊んだ時、その売娼婦が信用組合に金を出して損をした話をした。26万だまされたと話したので、それをネタにして乗り込んできた。一応、私が会って、その晩玉の井へ行った。遊郭へ行って、その女に会って話をした。あなたは若いのに真心がある、あなたが来てくれたのだから、その話はもうしないと約束してくれた」(いずれも『社長会記録』昭和43年4月29日)
東京建設信用組合は春をひさぐしか生きられない底辺庶民の金さえ、結果的にはだましとったのだから、その瓦解が明らかになったとき、出資者たちの怒りが戸田や社員に集中したのは当然である。若い22歳の池田ならずとも、修羅場と感じる。
《御本尊さまにこの苦しみだけは逃れさして下さい、という願いをして御題目を六十万遍唱えることにしました。逃れ(られ)なければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなったのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信仰しなければ二十三くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますが、ずっと順調で申し分のない幸を得ております》
「この苦しみ」とは貧困や病弱、家族や友人からの信仰への反対も指そうが、中心は東京建設信用組合の事後処理問題であろう。池田は一切から閉ざされてもなお将来を賭けた戸田に、最大の苦悩を背負わされた。「逃れられなければやめようと思っていた」は、信用組合や信仰を、であろう。
実際は、同僚はつぎつぎにやめ、池田としても苦しむために勤めるような気持にもなったにちがいない。のちに池田は「大半の人がいなくなり、私一人になった。その時、しめた! これで自分の人生は勝った! と思った」(昭和50年6月6日、第一回本部代表者会議で、内部文書)と述べているが、自らの先見性を証するための創作であり、「やめようと思った」が偽りのない気持ちだったろう。
が、池田によれば、昭和26年1月下旬、信用組合は「大いに心配がなくなった。目鼻がついたので(戸田は)会長就任の決意を2月11日の誕生日になさった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)という。
「先生は事業を譲って」とあるのは、東京建設信用組合の清算事務を、牧口門下で戸田の事業仲間でもある会理事に委ねたこと、また25年秋、戸田は小口金融、不動産、保険代理業などを営む大蔵商事を設立したが、彼自らは世間をはばかってその顧問で控え、社長に会理事の和泉覚、専務理事に戸田の公認の妾である森重紀美子を立てた(由比、前掲書参照)ことの二つを指すものと思われる。
池田が六十万遍の唱題を発心したのは、入信から満三年を経た25年晩秋のことであったが、唱題の当初は、相変わらず給料遅配で、その冬もオーバーをあきらめざるを得ないような実効性にとぼしいものであった。が、彼のいう「身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も」のうち、まず「社会的地位」が早くも彼にほほえんでくれた。
「本日、営業部長に、昇格する。一、経済の勉強をいたすべき事、一、事業の発展に、責任を、一段と深くすべき事、一、学会の前進に、遅れざる事」(池田『若き日の日記から』11月27日)
大蔵商事の社員は池田のほか、戸田の親戚二、三人にすぎなかったというから、「営業部長」は、およそ名刺上の箔つ゛けだけにとどまっていたにちがいない。事実、部長にともなう手当や給与の方も、翌28日を見ると、「今月で、三ヵ月給料遅配。本日、少々戴く。帰り、大森にて、シャツ等を購入。金、百六十円也」という情けない仕儀であった。
大蔵商事は12月、新宿百人町に移転したが、その事務所が地肌のままの土間だったことに見合って、営業成績もいっこうに振るわなかった。が、22歳の池田は生まれてはじめて「長」を与えられ、大いに戸田への心証をよくしたと同時に、その妾にも仕える腰巾着の地位を、職制のうえで確立したのだった。
池田が唱題を始めて、ほぼ「百日」後の26年2月ころから、効験はいよいよ実をともないはじめた。二月初旬、信用組合を解散してもよい、という大蔵省の内意が伝えられて3月11日、東京建設信用組合は正式に解散し、戸田への責任追及はひとまず解消した。
戸田がどのような手段で法的制裁を免れたかは不明である。
池田への真の救いは同じころ、戸田が、牧口以後長らく空席のままであった創価学会会長の地位につく意向を表明したことによってもたらされた。その時点で戸田に会長就任の決意をかためさせたものは、「ここに、不思議のことありて、大確信を得」(戸田『論文集』とある「不思議のこと」であり、その意味するところは、明らかに、彼には「ありがたい御本尊の功徳」と映じた、この信用組合の免責であった。それが立正佼成会(昭和35年に大日本立正交成会から改称)への敵対心と相乗して、ふいに戸田を会長に立たせたのである。
立正佼成会は創価学会と同じく日蓮系で、法華経を重視し、また設立年月も昭和13年で、創価学会の設立と近接している。が、当時会員は約20万を数えて、3,000の創価学会とは雲泥の差であり、新興宗教中、最高の成長率と最大の教勢を誇っていた。
佼成会は戸田にとって、教義上はもとより、いわば近親憎悪といった面でも敵であり、思いのたけをこめて打倒すべき邪宗以外の何ものでもなかった。
「学会と立正佼成会は同じく正と邪の道を開き、しかも、いまだかれら邪宗をつぶすにいたらず。このまま便々としては、大御本尊様よりお叱りあることをおそる」(同前)
が、佼成会に対する戸田の敵愾心には、一筋縄ではいかない、陰微な嫉視や競争心も混入していた。佼成会の発展は戸田には、なにより不正不当な、横取りされたような成功と感じられた。
「学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、7ヵ年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている」(同前)
規模もスタートも同じくして、一方は「邪教」の分際で大教団、一方は事業家として塗炭の苦しみ――この事実に戸田は事業上の挫折を天啓と見、また新事業を着想する視点をも得た。
彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこの世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして「信者を30人集めれば食っていける勘定の、べラぼうに高収益のあがる商売」(大宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への道はそれ以外になかった。
戸田は早速会長着任をめざして布石を始め、まず会員間に会長推戴署名運動を起こさせ、3,000人の署名を集めた。戦前からの会員の一部は署名を拒否したが、戸田は歯牙にもかけなかった。ついで4月6日、支部をA級(1,000世帯以上)、B級(500世帯以上)、C級(500世帯以下)の3段階、12支部に格つ゛け、再編し、支部長を任命して組織再編成をはかった。また旬刊、ブランケット判二頁の『聖教新聞』の創刊にも着手し、編集主幹に入信まもない、芝浦工専卒の石田次男をあて、4月20日、第一号3,000部を刊行した。
戸田はこれらの措置によって会長就任の花道をしつらえた後、5月3日、東京向島の常泉寺で行われた会長推戴式に臨んだ。
式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のままで、それまでの理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落とした。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授―助教授―講師―助師の四段階にランクつ゛けされた。
池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。ようやく池田に「順調で申し分のない幸」が訪れかかっていたのである。
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2011年06月28日 20時05分54秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)20時14分50秒 通報 返信・引用
投機的強信者の弟子
それほどまでに強く池田をとらえた戸田の人柄は、ざっくばらんに過ぎて人に面白がられはするものの、決して一般には尊敬をかち得られるものではなかった。
戸田は初代会長・牧口常三郎の法要の席で、牧口と対比して彼自身のひととなりを次のように語ったことがある。
「わたくしと先生はまったく違う。先生は理論の面から、御本尊様を信じきっていた。わたくしは、功徳の面で信じている。わたくしはある体験から、ぜったいの功徳を信じ、日蓮正宗のために命をささげるものです。先生は謹厳そのもので、わたくしは世の中をふざけて生きている。先生は謹直で、わたくしはルーズだし、先生は目白に、わたくしは目黒に住んでいる。先生は非常な勉強家で、わたくしはさっぱり勉強せぬ。先生は飲まないし、わたくしは大酒飲みだ。これだけ、まったく正反対の性格でありながら、先生とわたくしは境地はピッタリ一致していた」(戸田『講演集』上、昭和27年11月)
戸田の酒は、「29の年から44で牢屋に入るまで一晩もかかさず、出獄後今日まで一晩もかかさない。前は料理屋と待合で飲んだが、今は本部と自宅で飲む。量は今ではウイスキーのオールドびん一本が3日間」(週刊朝日』昭和31年7月29日号)というもので、酔って大石寺での会員質問会にも臨んだ。
また「料理屋と待合で飲んだ」ことからもうかがえるように、戸田は女性に対しても発展家であった。
夕張郡真谷地尋常小学校に奉職中には、複数の女性と恋愛し、「恋にもつれ、恋に狂いて、最も神聖なる教職を汚」(戸田『若き日の手記・獄中記』)した結果、その清算のために退職しなければならなかった。また戦前には三角関係を経験し(小口、前掲書)、当時も、戦前、彼の経営する会社の会計役であり、会員でもあった森重紀美子との関係をつつ゛け、彼女との間には子まであったようだ。森重は創価学会幹部間で公認されていた戸田の二号である(由比宏道『毒鼓の縁』)。
戸田には己の弱所を口にして憚らない率直さはあったものの――おそらくそれは「この世に遊びにきた」(戸田『講演集』上)という彼の行動的、快楽主義的な空無観に通じる一種の達観と関連したものであり、そうした率直さの点では池田よりはるかに上だが――、内省的な深みはまったく欠けていた。
彼は昭和31年、参院選で柏原ヤスが落選した挙げ句、多くの会員が選挙違反に問われた際には、「(官憲は)買収をしたのじゃないかと買収の証拠を探そうとしている。柏原参議院落選候補のオチンコを探すようなものだ。ワシは柏原だけはオチンコがないから、落ちんと思っていた」(『週刊朝日』前掲号)と野卑な駄洒落をとばしたりした。軽度のアルコール依存症患者は下界に対して上機嫌で円満な態度を持し、駄洒落を好むというが、戸田のこうした言葉はまさしくその症状と思われる。
戸田にインタビューした大宅壮一は彼の印象を「如才がなく、ぬけめのなさそうなところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校校長か役場の収入役といった感じである。・・・・・そういえば金貸しにもむきそうな面がまえである」(『婦人公論』昭和32年10月号)と記した。
戸田の人相、風体、言動、著作物などいずれも聖性とは縁遠く、そのすべてに俗臭が立ちこめていた。池田はそのようなものの弟子であり、戸田から池田への進化はただ一つ、後者がスノビズムを身に付けたことだけであった。
総じて生前の戸田を知る人々の戸田像は、もうけを片時も忘れることのない小事業家、「勝負」に生きがいを見出す投機的商人、はったりと大言壮語で人をけむにまく山師的性格、さばけた苦労人といったものであった(日隈、前掲書)。
が、そのような戸田にも、戦前、当局の弾圧に「退転」しなかったことに典型的に見られる、強い力がひそんでいた。戸田を支えた力は、初めは牧口への敬愛の念だったろうが、後には日蓮正宗への強信と入れ替わった。彼の強信は、信仰のフィルターを通せば、その人柄を十分魅力的に、人物を尊敬に値するように見させたのだろうし、一見性格的に相容れそうもない池田をはじめ、多くの青年の心をつなぎ得たのだろう。
池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負って立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
「毎日の目標をきちんと立てさせる。私も戸田先生から厳しくやられた。耐えられる人はいないね、窒息してしまう。今日はどこに行って何をどれだけやってくるのか。株も勉強させてもらった。二百万円位やらせてもらって二年で三十五万円位損をした」(池田の回想、『社長会記録』昭和46年7月27日)
この実地教育が大世学院で教える課目以上に有用だったことはいうまでもない。池田は後に修羅場で学んだその知識や技能をおおいに創価学会の経営に役立てたし、また創価学会の成功により、その試練の期間を、池田の先見の明を表す証左ともしたのである。
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2011年06月28日 20時03分59秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)20時04分37秒 通報 返信・引用
信仰の証としての労苦――池田の前時代的性格
東京建設信用組合は、池田によれば、その年6月ころ戸田のもとに持ち込まれた東京建設信用購買利用組合を種目変更したものであり、専務理事を務める戸田に一切の経営責任があった。それは、「およそ事業の基礎というものは、最後には金融資本の掌握が必要となってくることを、痛感していた」(池田『人間革命』四)という資本家・戸田の経営学の実践であった以上に、敗北につく゛敗北のなかでの、それ以外にしょうことのない戸田の窮余の一策であった。ドッジ・ラインの進行によるデフレ不況は、つくつ゛く金繰りさえつけばとの思いを戸田に強いたことだったろう。
しかし、その場合、窮すれば通ずという格言は適用せず、同信用組合は正式発足後、一年ももたずに破産した。預金額が借り入れの申し込みに反し、思うようにのびなかったのだというが、戸田や日本正学館社員のにわか転用では、およそ能力に限りがあり、いきおい無理と知りつつ、あこぎな手口もとらざるを得なかったようだ。
が、その結果は昭和24年暮れから翌々26年にかけて戸田も池田も債鬼に追われて困窮と過労の度を深めるというものであった。降って湧いた朝鮮特需による世の好況をよそに、戸田はウラボロとあだ名されたように裏地がボロボロの背広を着通さなければならなかったし、それでなくとも数少ない社員は半年以上も出ない給与に愛想をつかして、次々と去った。
池田もまた50キロ以下にやせて頬がこけ、「お前の顔で、指にささったトゲが掘れる」と揶揄されたばかりか、24年秋、病弱を表むきの理由に、一年半通った大世学院を中退するはめになった。
「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、と言われたんです。“おれが教えてやるから十分だ”というのです」と、池田はのちに語っている(央忠邦『日本の潮流』)。
以後、池田は日曜日ごとに、後には毎朝一時間ずつ、矢田俊隆『世界史』、熊谷幸次郎『日本史――概説と問題点』、鵜飼信成『憲法』、鈴木安蔵『政治学』、高田保馬『経済学原理』、ガモフ全集などを教材に戸田の教えを受けたとされている(草柳大蔵「"手つ゛くり人間"池田大作」、『文藝春秋』昭和44年9月号)。
戸田が学校教材風のこれらすべてを実際に用いたかは疑問であり、また戸田の講義を受けたのは池田ばかりでなく、たとえば26年入信の秋谷城永(のちに、栄之助)も受講者の一人だった。「(秋谷は8:30から)9:00までの30分、かならず博学の戸田会長から雑談ふうの講義をきいた。池田現名誉会長も仲間であった」(『文芸朝日』昭和38年8月号)
彼らは貧弱の中で、いっそう身を寄せ合い、時に叱られながらも、猥雑なまでに密着した。
「『さあ、寝るか、伸(池田をさす)、ぼくの布団で一緒に寝ようよ』戸田は隣室の布団に入った」
「幾度か 戦の庭に 起てる身の 捨てず持つは 君が太刀ぞよ」(戸田から池田への返歌という、いずれも池田『人間革命』四)
池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。彼は、「この地を受けつぐだけでなく、天国をも受けつぐことを定められながら、今はおとなしい様子をしている王子である」(E・ホッファー『大衆運動』)と自分自身を考えていた。そういう池田にとっては、あと半年通えば卒業できた大世学院を断念させられようと、金銭的に恵まれなさ過ぎようと、戸田を見限るなどは論外であり、彼はひたすらマゾヒスティックな快感さえ覚えて、日々を試練として耐えつつ゛けた。一方、それは池田のいうとおり、使われるよりは仕える境地でもあり、彼の前時代的な作風が、自己犠牲をしのびやすくしたのも事実である。
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2011年06月26日 21時22分52秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)19時57分5秒 通報 返信・引用
日本正学館の破産
《戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。14、5人の研究会の仲間からもやられました》
家族は池田の創価学会入信に反対しつつ゛けたし、池田も四兄と同居の六畳間で朝晩、題目や経典をあげることをやめなかったから、両者の関係は当然、険悪であった。
池田が文筆で立つ志望を持ち、五男であったかぎり、家と出版社とどちらを選ぶかは明白であった。また彼が世の荒波に揉まれて家や協友会の友人のもとに舞いもどり、おとなしく退転するには、それまで病・貧・争の苦しみに慣れすぎて免疫になっていたうえ、戸田の提供する体験の場が貧しいとはいえ、魅力的でありつつ゛けたのだろう。
しかし、池田の別居には周囲の反対から逃れ、世に乗り出すという以上の積極的な意味がこめられていた。家族や友人からの離脱は、池田を否応なく戸田のもとに押しやり、もともと冷静な観察力に乏しく、対人関係に古風な一面をも残す池田をして戸田に、父なき世代にもかかわらず、父を見出せることになった。
同年5月から池田は『冒険少年』の編集を手がけはじめ、原稿とりに野村胡堂や西条八十、挿絵画家などの家を訪ね、また時に山本紳一郎というペンネームで穴埋め記事を書いたという。
そのころ、他の編集員・小平芳平らは前年までの『価値創造』にかわる創価学会の機関誌としての『大百蓮華』の編集にあたってい、戸田も自ら同誌の巻頭論文に「生命論」を寄稿した。
シラミの話で始まる「生命論」は、生命とは過去、現在、未来の三世にわたって連続し、永遠に存在するもので宇宙自体が生命であるとの主張に尽き、せいぜい古代インドのウパニシャッド哲学以来の素朴な観念論のやきなおし(日隈、前掲書)にすぎないというしろものであったが、池田は当時の彼の感動として、「鮮烈な感動が、孤独に沈んでいた彼を、いきなり襲ってきた。彼はしばらく茫然としてしまった」と記すばかりか、現在の評価としても、「まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書」(池田『人間革命』四)など、思いつく限りの最大級の讃辞を連ねている。
客観的にはどのように他愛のないものに感銘したのであれ、ほぼこの頃から池田は創価学会の教義に骨がらみからめとられたと見られる。人はまだ理解していないことにだけ絶対的な確信を持つことが出来るという定式からすれば、彼は「生命論」のつまらなさを理解せずに、信じこんだ訳であった。
7月、『大百蓮華』創刊号が発刊された。月刊、B5判、32ページ、活版印刷で、謄写版の『価値創造』より立派な体裁ではあったが、創価学会の経済的負担をことごとく一人で賄ってきたという肝心な戸田の事業は悪化の度を深め、もはや機関誌どころではなくなっていた。
日本正学館の敗北は誰の目にも明らかであった。同社の刊行物のうち、まず単行本の売れ行きが止まり、ついで『ルビー』『冒険少年』の二雑誌も返品が激増して採算点を割った。池田の担当する『冒険少年」は8月に『少年日本』と改題されたが、そのような細工では頽勢は改まらず、同年秋には返本率は7、8割に達し、月に数百万円からの赤字が累積して、ついには日本正学館全体で6,000万円に達したという。原稿料や画料の支払いの遅れはもちろん、出入りの紙屋や印刷屋は談じこみ、社員への給料は遅配した。
池田が編集業務をおぼえる間もない10月、戸田は全社員を集めて一切の休刊(廃刊)と残務整理をいい渡し、かねて準備していた東京建設信用組合への社員の移行を明示した。信用組合の社屋は日本正学館のそれがそのままあてられ、浮き足だつ社員には分割で給料が支払われた。
池田『若き日の日記から』(『週刊言論』昭和40年1月〜42年3月に断続的に連載)10月29日の条には、「六時、分割払いの給料を貰う。床屋にゆく。給料が安い、私も皆も大変だろう」とある。彼は念願の職場を否も応もなく奪われ、新しい職を押し付けられても、そこには低賃金、遅配、分割払いといったそれまでの「乞食同然」の生活から脱け出せる保証は一つとしてなかった。
戸田の処置は時代相がどうであれ、経営者の無能力というより、無責任かつ残酷なものであり、宗教的紐帯なしには当然労働争議に発展している問題であった。池田も少なからず戸田に不満や怨みを抱いただろうが、それらの感情は発表時に手入れされたはずの『若き日の日記から』はうかがうべくもない。ただ、さすがの池田も休刊決定の夜には、座談会をさぼり、新橋で映画を見たという。
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from: 22世紀さん
2011年06月26日 21時20分14秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)19時40分32秒 通報 返信・引用
日本正学館の商法
池田はさきにふれた通り、前年23年秋に小平芳平の推薦を受けて戸田へ履歴書を出し、日本正学館への入社を決めたが、同社の業績は、21年6月に謄写版刷りで再刊された「価値創造」が池田の入社内定とほぼ同時期、10月に第16号で停刊されたことにも見られるように、倒産寸前の状態にあった。
20年8月、中学生相手の通信教授で営業開始した同社は、まず、その六ヵ月分前納という、堅実な営業を保証するはずの予約金制度が未曾有のインフレにかえって災いされて失敗した。前金内では日毎に騰貴する用紙代や印刷費をカバーしきれず、かといって予約金のたてまえ上、追加金もとれなかったのだという。ただこの通信教授により、いち早く紙と印刷のルートだけはつけられていた。
そのため21年、戸田は単行本なら短期で捌けてインフレに強く、戦前、大道書房等から刊行した大衆小説の版権もあり、また売れ行きに関しては、刷れば売れるという時代で、なに一つ心配はないと考え、事業を単行本の出版に切りかえた。
ことに戸田は、単行本切りかえの一環として、流行語の観を呈していた民主主義を早速稼業に結びつけ、『民主主義大講座』の刊行を企てた。責任編集者に室伏高信、今中次麿、加田哲二、堀真琴をあて、編集人員も強化し、編集長に矢島周平、編集員に小平芳平ほか数名を置いた。
責任編集者の一人だった室伏は、のちに同講座とのつながりを回想している。当時の日本正学館の雰囲気と戸田の人柄をよく伝えていると思われ、長くなるが、次に引用する。
「多分昭和21年であった。神田の西神田に一軒の小さい出版屋があった。日本正学館といった。その名もとっくに忘れていた。忘れるのがほんとうくらいの小さい、名もない、吹けばとぶような小出版社があった。戸田城聖がそこの社長であった。
ここで『民主主義大講座』という十巻くらいのものを出版する計画があった。川瀬宏という友人の仲立ちで、わたしもその編集委員に名を連ねることになり、その中にいくつかの論文も書いている。
そういう関係で、この出版社に、二度くらい行っている。株式会社となってはいたが、会社というのは名ばかりで、その実体は何かの商店の二階の一と間の借間会社だった。室の中に三つくらいの机があって、五、六人の社員がいた。二階に上がってゆくと戸田社長は手持ち無沙汰に、ポツネンと椅子にかけていた。
その隅っこのほうに、一人の少年がいた。美少年でその礼儀正しさが、わたしの目をひきつけた。それが池田少年であったかどうかは、むろんわかっていない。・・・・・
ところで、この小さい出版屋を訪れると、二度とも、戸田はわたしをうながして、梯子段を下り、裏口から小さい露地に出た。イタチのとおるくらいの小さい、陽の目を見ない露地だった。その突き当りに小さい一軒飲み屋が立っていた。立っていたというより蹲まるとか、しゃがむといったほうがぴったりする。そこに60がらみの老婆がいた。戸田の顔をみただけで徳利をもってきて、先生どうぞといった。古いおなじみだということが直ぐとわかった。先生ということばには尊敬も親しみもうかんでいた。しかし徳利一本きりで、あとをつつ゛けようともしなかったし、お酒の肴は何もそえてなかった。そのころ終戦後で、酒の事情も苦しかったせいもあろうが、戸田の懐事情がわかっていたからであろう。
わたしはこの大講座にいくつかの論文を書いている。前に述べたとおりである。だから原稿料の問題で、戸田には債権債務の関係がある。わたしはそれがどうなったのかを、今は覚えていない。しかしその問題で、わざわざこの出版屋を二度も訪ねたとしたら、この間にすらすらいかないもののあったことはわかる。
そのくらいの見すぼらしい出版屋であったと思う」(室伏、前掲書)
この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版によるが、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
23年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できようという、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池田によれば数カ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたようだという。
だが、昭和24年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カストリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『オール読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を譲りはじめ、そのような時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかった。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの『小僧』だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」(池田『勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用というより、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐え得たのだろう。
このころ、彼は森ヶ埼の実家を出、大森・新井宿の青葉荘(二反長、前掲書)というアパートに一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族との関係の悪化からであった。
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from: 21世紀さん
2011年06月26日 09時36分10秒
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2011年5月 信濃町探偵団―創価学会最新動向
投稿日: 2011年5月28日 作成者: okkotu
「聖教新聞」
・4月20日付「聖教新聞」「きょう本紙創刊60周年」「名誉会長の随筆2・3面 聖教は永遠に獅子吼」
・同「随筆 我らの勝利の大道 山本伸一」「創刊60周年我らは信念の言論で勝つ」
「きょう20日は、聖教新聞の創刊60周年。1951年(昭和26年)4月20日。戸田第2代会長と池田名誉会長が中心となって、聖教は創刊された。―中略―(創刊記念の勤行会が18日、東京・信濃町の本社で行われ)原田会長は、戦後の逆境のなか、師弟の語らいによって誕生した聖教新聞が、名誉会長の間断なき闘争と励ましを通して育まれてきた歴史を紹介。『師弟共戦』『異体同心』こそ聖教の精神であると語り、正義の言論戦に断じて勝利しようと訴えた」
・4月21日付「聖教新聞」「本紙創刊60周年記念特集第1回」「師弟こそ聖教の声援の原点」
・4月22日付「聖教新聞」「本紙創刊60周年記念特集第2回」「世界を結ぶSGI会長の闘争」「池田会長の運動を広く社会に伝える「聖教新聞」新聞の責任は重大」
・4月23日付「聖教新聞」「本紙創刊60周年記念特集第3回」「人類の歴史は『人間革命』に向かう」「小説『人間革命』『新・人間革命』連載回数日本一 本紙に6129回 新聞小説の金字塔」「苦難を越えペンの金字塔 海外11言語で発刊」
・4月26日付「聖教新聞」「本紙創刊60周年記念特集第4回」「迫害と戦った人から学べ」「世界の指導者を本社に歓迎」
※創価学会の機関紙「聖教新聞」が4月20日に創刊60周年の節目を迎えたことを「聖教新聞」が自画自賛している。「聖教新聞」は「正義の言論」であるとか、「聖教新聞」連載の「人間革命」「新・人間革命」が「連載回数日本一」であるなどと、いつもながらの自己宣揚。
各種の訴訟で創価学会が敗訴しているにもかかわらず、その事実をまったく報道しない姿勢に顕著な大本営報道を続ける「聖教新聞」が「正義の言論」であろうはずもない。ましてや司法によって「聖教新聞」や「創価新報」掲載の創価学会首脳幹部の座談会記事の名誉毀損性が認定されていることは本誌既報のとおり。
同様に「大作の代作」であることが明らかとなっている池田大作著とされる「人間革命」や「新・人間革命」が「ペンの金字塔」とはお笑いぐさである。
本部幹部会をはじめとする公的会合に全く姿を見せない池田氏を、いまだに「お元気」であるかのごとく報じる「聖教新聞」。いったいこうした姑息かつ欺瞞的な報道をいつまで続けるつもりなのか。
統一地方選後半の選挙戦終盤・投票日・投票日翌日の「聖教新聞」池田コラム「わが友に贈る」
・4月25日付(投票日翌日)「偉大な全同志の 不屈の闘争に感謝! 我ら青年学会は 勝ちに勝った! 新たな常勝劇を共々に!」
・4月24日付(投票日当日)「『いよいよ強盛に 大信力をいだし給へ』 不撓不屈の心で 愛する地域に 断じて栄光の旗を!」
・4月23日付(投票日前日)「『今日』の勝利が 広布の未来を開く。 全員が獅子となれ! 『法華経の兵法』で 断じて勝ちまくれ!」
・4月22日付「聖教新聞」(投票日前々日)「『仏法と申すは 勝負をさきとし』 執念で語れ! 獅子吼で勝て! 異体同心で進め!」
※公的会合に全く姿を見せない池田大作氏。当然、選挙活動も行わないだろうし、投票に行くとも思えない。その池田氏が学会員に対して「執念で語れ」だの「断じて勝ちまくれ」などと上から目線で号令を下す。本誌の連載「宗教団体と政治」は、今回で最終回だがその掉尾には次のようにある。宗教団体が信者の「思想や政治信条の自由まで拘束することを憲法は許していない」。言論出版妨害事件で厳しい社会的批判を浴びた創価学会・池田会長は、昭和45年5月3日、いわゆる「政教分離宣言」を行い、学会員の政党支持の自由を社会に公約した。その公約が反故にされている事実を、「聖教新聞」掲載の池田コラムは明示している。