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2009年02月15日 18時19分38秒
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昭和52年路線
日達上人猊下お言葉
昭和53年6月29日
於大講堂大広間
全国教師指導会開会直後のお言葉
今年になって2・3回、皆様にお集り願いまして、最後に皆様から、学会が、本宗の教義と違背しているところが有れば、皆、それを指摘して本山へ提出するということになっておりましたが、早速全国からそれについてたくさん参りまして、一々文献を揃えて、新聞のこういう所に出ている、或はいつのこういう雑誌に出ているという風に細かく出て参りました。それを宗務院で整理致しまして、同じ部類のものは皆一つにまとめて、同一のことがたくさん有りますし、又何だか訳の解らない、どこが違反しているのか分らないのも2・3有ったように聞いております。
とにかく、それをまとめて清書致しまして、今皆様に配ると思いますが、そういう風に一定の質問状を作りまして今月(S53年6月)の19日に学会へ提出したのであります。
それについて学会から、今までの教義のまちがったこと、又言い過ぎた分について答が出ました。それを今日皆様の手元に配りまして、皆様の了解を求めたいと思う次第でございます。だいたい、その答の線であれば、私も宗務院の方でも良いと思うが、皆様からその資料を集めたのですから皆様にそれをお渡しして、目に通して頂きたいと思いまして、今日御集合を願った次第でございます。
ただ今から教学部長(※阿部御尊師)が読みますから、どうぞお聞き取り下さい。(※創価学会よりの回答につづく)-
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コメント: 全17件
from: 21世紀さん
2009年02月20日 14時15分56秒
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「Re:昭和52年路線」
:れいな 日付:2月18日(水) 9時46分
日達上人は学会が教義逸脱をあらわにする当初から、その危険性を警告するためこのように御指南されていた。
「日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界中に広がったからといって、決して我々は喜ぶべきでない、大聖人が、お喜びになるとは思いません」昭和49年 大日蓮 8月号 P20
この強烈な警告内容からも、学会の危うさを猊下の立場で痛感されていたものと思われる。
その御指南は、52年路線の教義逸脱の当初であり、学会は正統なる信徒であったことに他ならなかったのだが、その後の数々の逸脱を予見していたかのようである。
昭和49年ごろの逸脱といえば、2年前の正本堂建立において「大聖人御遺命の本門の戒壇建立を自分が成し遂げたが如き発言」がある。この慢心によって52年路線へ向かっていったことは間違いないことだろう。
名誉会長はイギリスの歴史学者A・トインビーを足がかりに、今日まで数々の名だたる識者と会談し、著作を残しているのは一般の方にも知られるところである。
それらの識者に対し、名誉会長は折伏を行っているのか?
答えはノーである。
名誉会長が識者と対談、海外で講演するにせよ、大聖人の法義に基づいてその場にいる相手の持っている邪義を破折しているわけではない。
「仏教全体を語っているに過ぎない」。相手にはそのようにしか伝わっていないのだ。
決して峻厳なる大聖人の教義をもって破折しているわけではない。
時を知らない物怪とも言うべきか。
このようなことを何十年と繰り返したところで「大聖人の教義」が広まったわけではない。
「元より末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名字を説いて持たすできなり」法華初心成仏抄
(通解:相手がそれによって信心するしないに関わらず、法華経を説いていきなさい)
どんなに耳ざわりの良い言葉であっても、成仏に通じない化導は間違っている。
その行為の裏にあるものは、名聞・売名行為でしかない。「八風」に犯される人間そのものである。
大聖人の仏法を広めるために、関係のないものを道具とする必要などどこにもない。
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from: 21世紀さん
2009年02月15日 18時59分01秒
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「Re:昭和52年路線」
所感恩師のニ十三回忌に思う(抜粋)
昭和55年4月2日(聖教新聞)
広宣流布は御仏意のしからしむるところであり、これらの発展も、ひとえに大御本尊の御威光、歴代御法主上人の御威徳によるところであることは申すまでもありません。とともに、具体的には、社会のなかで、幾百万の同志が恩師の示された折伏・弘教の原理を実践に移し、御宗門の温かな支援と協力を得て、今日まで走りつづけてきたたまものであると信ずるのであります。この間、総本山への忠誠を尽くきれた恩師の大精神を継承し、会員の皆さまとともに、大客殿、正本堂の建立寄進、その他、二百四十一か寺の末寺の建立御供養をさせていただきましたことは、身にあまる光栄であり、大御本尊に、そして御法主上人に感謝し奉るものであります。
しかしながら、創価学会が急速に拡大し、膨大化した結果、とくに近年、現実社会への対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。この間の問題については、当時、その責任の立場にあった私として、懺悔すべきは懺悔し、真情は真情ととして述べさせていただきたいと思うのであります。そのことが、私どもを慈しみくださった代々の御法主上人への御報恩であり、第六十七世日顕上人猊下への変らぬ赤誠の御奉公を、お誓い申し上げることになると信ずるのであります。
近年の宗門との問題が昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第二章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります。(中略)そのなかには、たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり「学会が主、宗門が従」というような状況もありました。その結果、宗門の一部御僧侶に、この方向が、学会が独立を企図しているのではないかとの疑念を生ぜしめ、また会内にいわゆる「北條文書」などのような感情的な議論のあったことはまことに申し訳なく思っております。
もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私自身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じててないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります。ただ、私が、恩師の「創価学会の歴史と確信」の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶・寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。
次に、学会の教学は、御書を根本に、日寛上人の文段を釈として、信心のうえから、また実践のうえからの研さんを重ねてきた伝統に貫かれおります。戸田先生も御書の拝読にあたって「いずれも信の一字をもって、一切をつらぬいていることを、知らなくてはならない。かつまた、民衆救済の大確信と、燃ゆるがごとき大聖人の情熱が、その根底をなしていることを、読みとらなくては、また無意味になることを知らなくてはならない」と信心の教学、実践の教学であるとの原理を残されております。そのうえで、この深遠な仏法哲理を、宗教に無知で無理解な現代人の心にいかに説いていくかの展開があったのであります。私自身も、この展開については、幾度となく御指南を仰ぎ、日達上人からも、学会の教学は「活釈」としてお認(みと)めいただいてきたのであります。
しかし、この難解な仏法をだれにでも分かりやすく説くために、いつのまにか、そのなかに安易な適用が行われたり、元意から遊離して勝手な展開が行われる等、いわゆる催尊入卑(さいそんにゅうひ)のそしりを免がれない恐れかあることは確かであります。この点、御書の拡大解釈や逸脱については、すでに「六・三〇」(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。したがって、この徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々末代にわたる肝要と深く自覚しなければなりません。とともに、広宣流布のいっそうの推進のために、この正宗の法義、伝統を正しく踏まえたうえで、生活に、社会に、世界にと、確信をもって、教学を展開しゆくことは、私ども創価学会の使命であることを銘記して、進んでまいりたいのであります。
なおここで、いわゆる『会長本仏論』について、重ねて申し上げておきたい。申すまでもなく、末法の御本仏は日蓮大聖人ただお一人であらせられ、また、代々の御法主上人は、唯授一人、その遺使還告(けんしげんごう)のお立場であらせられると拝し、尊崇申し上げるものであります。私どもは、瞬時たりとも、この原点を忘れては信心の筋道を逮えることになってしまいます。しからば、創価学会の会長とは何か。牧口常三郎先生、戸田城聖先生は、広宣流布の仏法実践の指導者なのであります。いかなる団体であり、いかなる国であり、一つの組織が存在すれば、そこには為のずと、指導者が必要になるものでありましょう。創価学会の代々の会長ならびに幹部は、その意味からも、いわゆる仏法実践展開の指導者であるとともに、文化、平和、社会へ仏法を展開しゆく指導者であるといえるのであります。いうまでもありませんが、指導者と仏とはべつであり、そこには、いささかたりとも混同があってはなりません。
このことについては、かつて私も「創価学会には、教祖も、唯一至上の絶対者などもいない。私も会員諸氏も、共に広宣流布をめざして進む同志である。(中略)すなわち日蓮正宗創価学会員にとって、唯一至上、絶対の尊崇は三大秘法の御本尊であり、他はすべて、創価学会会長といえども、平等に末法の衆生であり、凡夫である」と述べたとおりであり、同じことは、今までも数多くの会合で話してまいまりした。したがって、代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第三代会長の任に就きましたが、私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあってはならないことです。私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております。「大荘巖懺悔」とあるごとく、日々、大御本尊に対し奉り強き信を持ち、三業(さんごう)を三徳に転じゆく修行であり、人生であらねばならないと肝に命じ、深く謗法罪障消滅を御祈念し奉る日々であります。
また、今日の種々の問題も、私の指導性の不徳のいたすところであり、多くの会員信徒に多大なご迷惑をおかけし、ご心労をわずらわしたことについても、御本尊に深くお詫びの合掌をさせていただいている日々でもあります。ともあれ、学会は絶対尊崇の本源たる本門下種人法一筒の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本として、永遠に代々の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。
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2009年02月15日 18時56分51秒
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「Re:昭和52年路線」
創価学会問題に関して宗務院より通達
院第18号
宗 内 一 般
昭和54年10月8日
日 蓮 正 宗 宗 務 院
今般、法主上人の御意向に基き、現時局下における宗内僧俗の進むべき方途につ
き左のとおり通達いたします。
これは去る8月21日御公布の訓諭の趣旨に則り、より具体的にその指針を示し
たものでありますから、よく理解の上、誤りなく実践されるよう願います。
一、創価学会に対する基本的な態度は、前法主日達上人が示された既定の方針と聊
かも変るものではない。それは、去る昭和53年11月7日創価学会創立48周
年記念代表幹部会の席上及び本年5月3日同第40回本部総会における御講演を
始め、各種院達等に明確にされている。
即ち、
「この数年、宗門と学会の間に種々な不協和の点がありまして、さわぎにもな
りましたが、こういう状態が続くことは宗開両祖の御精神に照らして憂慮すべき
であることはいうまでもありません。こうした状態をいつまでも続けていること
は、世間の物笑いになり、我が宗団を破壊することにもなり兼ねないといつも心
配しておりました。
幸い、学会においてその点に気付かれて今後の改善のために、反省すべき点は
卒直に反省し、改めるべき点を明確に改める決意をされたことは、まことに喜ば
しいことであります。
……今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現
されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をつ
けて、相手の悪口、中傷をいい合ろことなく、理想的な僧俗一致の実現をめざし
てがんばっていただきたいのであります」(53・11・7)
「この数年間、まことに残念な出来事が続き、混乱を招きましたことは、悲し
いことでありました。幸いにして前会長の英断と、心ある人々の努力により、再
び秩序の回復に向かい、晴ればれと今日の天気のごとく明るい出発ができること
は、まことに喜ばしいことであります。……私は、日淳上人のもとで創価学会の
宗教法人設立に立ち会った一人であります。宗門の外護団体としての創価学会の
理解者の一人であったし、今後もそうありたいと念願しております。
どうか今後は、信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただき
たいのであります。そのうえで自主的な指導と運営で伸びのびと御活躍を願いた
いのであります。
なお、我が日蓮正宗には創価学会の他にも法華講および檀徒会に属する信者が
おることは御承知の通りであります。同じ信者として仲良くしていただきたいの
です。これまでの経緯は水に流して大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に
協力していただきたいのであります」(54・5・3)
と御指南のごとくである。
二、僧侶にあっては上求菩提下化衆生の誓願に徹して慈悲の精神に立ち、法主上人
のもと一結して僧俗和合協調の右基本路線に添い奉るべきである。
したがって、御講を始めいかなる場においても、また各種紙誌等出版物におい
ても創価学会の過去の誤り等を指摘批判する言動は厳に慎しまなくてはならない。
さらに創価学会員に対しては、自らの意志・希望によって檀徒となることを申
し出た者の受け入れは差支えないが、それ以外は一切の働きかけをしてはならな
い。このことは指導教師または住職として所属の法華講・檀徒の全員にも充分徹
底せられたい。また正宗信徒として法華講・檀徒及び学会員の間で、互いに謗法
呼ばわりする等誹謗中傷し合うことも断じて許されない。
宗祖大聖人生死一大事血脈抄に曰く、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にし
て南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が
弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮
が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」と。以っ
て肝に銘ずべきである。
我々正宗僧俗は、いたずらに過去の行きがかりにこだわり、内輪同志で反目し
合い、世間の嘲笑の的となる愚は避けなければならない。そして今や互いに励ま
し合い、助け合い、異体同心の上、外に向って謗法不信の人々の慈折教化に全力
を注ぎ、以って一天広布の願業に邁進すべき時である。
勿論もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然
と破斥し善導すべきであり、またそこに何等かの複雑な問題を含むときには宗務
院に報告して善処を委ねるなり、或いは地方協議会の機関に諮る等の道を講ずべ
きである。
三、創価学会にあっては、六・三〇、十一・七につき、さらに全会員が充分その経
緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽して説明徹底することを怠ってはな
らない。即ちそのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分
を明確にし、またそのような指導を行なったことについて卒直に反省懺悔し、再
び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない。
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from: 21世紀さん
2009年02月15日 18時47分37秒
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「Re:昭和52年路線」
総本山日顕上人猊下より訓諭
院第1号
宗 内 一 般
昭和54年8月21日
日 蓮 正 宗 宗 務 院
今般、阿部日顕猊下より別紙のとおり訓諭
が発せられましたので通達いたします。
就ては、これを御諒承の上、檀信徒一般に
も周知せられ、訓諭の趣旨に副うよう御徹底
方御取計らい願います。
以 上
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2009年02月15日 18時45分20秒
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「Re:昭和52年路線」
特別学習会のために
一昨年末、近年の創価学会の広布への歩み方をめぐって、宗門と学会の間にさまざまな不協和を生じ、宗門から種々のご指摘がありました。
これらの諸点につき、日蓮正宗の伝統ある化儀化法のうえからみて、学会として現代社会に実践的に展開するなかに、行き過ぎ、逸脱等があったことを認め、改めるべき点は改め、正すべき点は正し、日蓮大聖人の大正法を広宣流布するため、永遠の僧俗和合のため努力を重ねてまいりました。
まず、昨年6月30日には、過去の学会の教学展開のなかで、正宗の伝統法義解釈のうえから指摘のあった問題点を正し「教学上の基本問題」として聖教新聞に掲載し、今後、学会の教学展開にあたり、逸脱のないよう確認をいたしました。
そして、昨年11月7日には、総本山大石寺で代表幹部会を行い、近年の学会の歩みと流れを総括し、(一)学会のここ数年の指導・進み方、教学の展開のなかに正宗の信徒団体としての基本がおろそかになったいたこと、(二)52年のような学会の行き方は、行き過ぎがあったことを率直に反省いたしました。
更に本年5月3日には、この信徒団体としての基本、性格を新会則に明確にし、規則も改め、同時に、今後の僧俗間の問題については、最高教導会議、地方協議会で話し合い、解決する道が開かれたのであります。
日達上人猊下からも「どうか今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたいのであります。そのうえで自主的な指導と運営でのびのびと御活躍を願いたいのであります」との御指南を賜ったのであります。
以来半年、その間、7月22日には、日達上人猊下が御遷化あそばされ、8月には血脈相承をうけられた第67世日顕上人猊下が御登座あそばされ、この日顕上人猊下のもと令法久住、広宣流布への新たなる前進が開始されたのであります。
日顕上人猊下は、御登座あそばされた直後、8月21日、宗内一般に「血脈法水に基づく和衷協力を」との訓諭を発せられ、甚深の御決意で僧俗和合して広宣流布への方針を示されたのであります。
そして去る10月8日には、この訓諭の趣旨にのっとり、宗務院より宗内一般に通達がなされました。この院達においては
創価学会に対する基本的な態度は、前法主日達上人が示された既定の方針と聊(いささ)かも変わるものではない。
僧侶にあっては上求菩提下化衆生(じゅうぐぼだいげけしゅじょう)の誓願に徹して慈悲の精神にたち、法主上人のもと一結して僧俗和合協調の基本路線に添い奉るべきである。
創価学会にあっては、「6・30」「11・7」につき、更に全会員が十分その経緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽くして説明、徹底することを怠ってはならない。すなわち、そのためには、過去において正宗の化義化法から逸脱していた部分を明確にし、またそのような指導を行ったことについて、率直に反省懺悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない。
との宗内僧俗の進むべき方途を示されたのであります。
学会としては、この猊下の御指南に基づく院達をうけて、直ちに過去の逸脱について反省懺悔する北條会長談話を発表いたしました。
そして、ここに院達に基づき、もう一度「6・30」「11・7」をふまえその意義内容を正しく理解するための過去の経過のなかから反省し、改めた点を明確にするとともに、再び過ちを繰り返さないためにも、次の諸点に要約して確認をいたしました。幹部並びに会員の皆さまには、この点よくよく御理解くださるようお願いいたします。
52年当時を中心とする指導のなかに、宗門、寺院、僧侶に対して、従来の正宗と学会の関係からもはずれた行きすぎた指導があったことは、まず第一に率直に反省すべき点であります。
例えば、極端に「寺へ行くな」とか「僧侶は折伏もしない。広宣流布しているのは学会だ」とか「寺院は単なる御授戒の場」とか、登山会を軽視する発言などがありました。
また在家仏教的な考え方から僧侶並びに寺院を軽視し、日蓮正宗本来の三宝の意味を正しく理解せず、「学会が僧宝である」といったあやまった記述もあり、結果としてあたかも日蓮正宗を無視するかのような発言があったことは、ことの経緯はともあれ、信徒として明らかに逸脱であり、今後、こうした考え、指導上の誤りのないよう十分注意をしてまいります。
「11・7」において創価学会の前提たる日蓮正宗の信徒団体としての基本及び伝統法義についての意識が希薄化していたことを正したのであります。
この点、私達は日蓮正宗の信徒であることの意識を明確にし、僧侶に対しても礼節を重んじ、信徒としての姿勢を正すなかに僧俗和合の道を進めてまいりたいと思います。
過去の指導のなかに、会長に対して、日蓮正宗では、御本仏日蓮大聖人または日興上人にしか用いない法義になっている言葉を用いて、宣揚する幹部の言動がありました。
すなわち「大導師」とか「久遠の師」とか「帰命」とか「主師親の三徳」という言葉、また「人間革命は現代の御書である」と言ったことなども、明らかに誤りであります。こうした表現を用いてはなりません。
これについては、池田名誉会長自身「私がごとき者を、かりそめにも、本仏などということはもちろん、思ったりすることも謗法なのであります」と 明確に否定しています。また「私は凡夫の身であり、誤り多き身であります」「創価学会には唯一至上の絶対者などもいない。日蓮正宗創価学会員にとって、唯一至上、尊厳は三大秘法の御本尊であり、他は全て創価学会会長といえども平等に末法の衆生であり、凡夫である」とも述べております。したがって神格化することがあってはなりません。それはかえって本意に反することになります。幹部並びに会員の皆さまもこの点、よろしくお願い申しあげます。
学会における師弟の関係については、牧口初代会長以来、今日の深いきずなをなしてきたものであります。
第65世日淳上人猊下も、昭和33年6月、九州総会において「創価学会が、何がその信仰の基準をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この関係をはっきりと確認し、そこから信仰を掘り下げていく、これが一番肝心なことだと思う。今日の創価学会の強い信仰は、一切そこから出てくる。戸田先生が教えられたことはこれが要であろうと思っております。」と御指南くださっております。
学会内における師弟は、あくまでも「よき師、よき法、よき檀那」の檀那のなかにおける指導性であります。具体的には、昨年の「11・7」で再確認したように、代々の会長は折伏・弘教の師であり、現実社会における人生の師であることを銘記すべきであります。しかして、法義のうえで「よき師」とは日蓮大聖人お一人であり、代々の血脈付法の御法主上人であることを、正しく理解しなければなりません。
学会における正宗教学の展開にあたって、実践の教学として、社会に広く仏法を展開していくことに、主眼をおいて進められてきました。
もちろん、その展開にあたっては、どこまでも日蓮大聖人の仏法の正当の流れは、ただ一つ日蓮正宗にあり、また、大聖人よりの血脈付法は、唯授一人の代々の猊下であることを根本にしなければならないことは当然であります。また法体の血脈と信心の血脈の立て分けも正宗の根本義であり、信徒として正しく理解しなければなりません。
この点、過去において、その根本を論述せず、いきなり飛躍的に、学会及び個人の日常生活に当てはめた展開があり、日蓮正宗の伝統化儀・化法の上から見て、行き過ぎた表現や、基本からの逸脱があった点について、反省するものであります。
具体的には、たとえば「創価仏法」という用語の用い方は、大聖人の仏法のほかに、何か別のものがあるような印象を与えることにもなり、日蓮正宗の法義のうえからは不適であり、こうした言葉の使用は改めることに「6・30」でいたしました。
更に、「本因本果」「本迹」「境智冥合」という、日蓮正宗の法義のうえで、甚深の法門にわたる用語を、安易な解釈で用いることのないようにするなど、これらはいずれも「教学上の基本問題について」で改めたところであります。
また、謗法厳誡についても、46年頃から「地域友好」の方針が打ち出され、そのなかで、一時、宗教的意義も消え、風俗、習慣、市民行事的色彩が強い「まつり」については、友好の場として活用していこうとの考えに基づいて、その方向の指導が出されましたが、これも行き過ぎであり、法義の厳正を期するうえから「6・30」で是正いたしました。
日蓮正宗に伝わる厳粛なる化儀は、日蓮大聖人の仏法を令法久住せしめるための信心のうえの化儀であります。しかし、過去において、我々の考えのなかに、そうした基本精神を理解せず、単なる形式として安易に受け止め、これを軽視する風潮がありました。
宗門行事及び末寺諸行事、また御僧侶の三衣に対する厳しい考え方、教本・念珠に対する考え方等をはじめ、正宗伝統の化儀について十分認識を改め、粗略であった点を反省するとともに、信徒としての基本を誤たぬよう留意してまいります。
御本尊の件につきましては、信心の根本の問題であり、「11・7」の基本をふまえて、猊下の御指南を仰ぎつつ、お取り扱い、手続きなど、宗風を重んじ、一段と厳格に望んでまいります。
御本尊に関しては、昭和53年10月3日付けの院達をもって「一切論じてはならない」旨の厳命を受けておりますので、私たちとしては、これを猊下の御命と受けとめ、厳守してまいりたい。御命があるにもかかわらず、なお論ずることは、そのこと自体が猊下の御命に背く謗法であると信ずるからであります。
以上これまでの経緯と意義内容及び過去において正宗の化儀化法から逸脱した点を明らかにしてまいりましたが、会員の皆さまにおかれては、よろしくその趣旨をご理解願いたいと思うものであります。
なお、この学習にあたっては、去る10月12日、北条会長談話で「今回の院達では、とくに学会には、3番目の項目に御指摘いただいたことを真摯に受けとめ、信徒としての道を遵守してまいります。私どもは、ここで重ねて過去における正宗の化儀化法のうち逸脱した点を明らかにし、正しき指導を徹底するとともに、そのような指導を行ったことについて、全最高幹部みずから率直に反省し懺悔するとともに、再び過ちをおかさぬよう猊下にお誓いするものであります」とあるように、幹部自らが真摯な姿勢で取り組んでまいりたい。そして理想的な僧俗和合の道を私どもの信心で切り開き、広宣流布の前進と、信徒団体の基本を守り、宗門を外護申し上げることを願ってやまないものであります。
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2009年02月15日 18時42分43秒
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「Re:昭和52年路線」
主師親三徳
◇問題資料
主徳-----眷属を守る力。現在でいえば、社会それ自体。しかし民衆の犠牲のうえで成り立っている主徳を失った社会もあり、その民衆は不幸です。真に人々を根底から幸福にするには、妙法を根底とした社会以外にない。全日本を、そして世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。
師徳-----眷属を指導する力。師とは、知識を教えるのみでなく、智慧を開かせてあげる者でなければならない。現代の教育は、知識に終始した師徳なき姿である。以信代慧の妙法によらねば、真実の師徳はありえない。私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。
親徳-----眷属を慈愛する力。親の愛は、相対的であり、子の発展をさまたげる場合がある。身命を惜しまず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ親徳兼備でいらっしゃる。 (「講師筆記試験答案」から大白蓮華41年2月号)
◇宗門質問
日蓮正宗で主師親三徳のお方は日蓮大聖人お一人であります。
◇学会回答
十数年前に、ある教学部講師が、筆記試験に際し、主師親三徳を現代生活のうえから説明するにあたって、第三代会長と結びつけた表現のものがありましたが、これら行き過ぎについて、今後十分注意してまりいます。
久遠の師
◇問題資料
この決意に対して、ただ今拝読されましたごとく、久遠の師・池田会長より、メッセージが寄せられたのであります。(「ひのくに」11号)
*
師匠に人法があります。師匠の一つ一つの振る舞い、指導を通して師匠の偉大さを知りそして心から慕い心から尊敬し、更にもう一歩進んで、帰命していこうと決意するに至ります。それは“人”であります。その“人”としての師匠の振る舞いは一体いかなるものであるか、いかなるものから発せられるものであるか、それが“法”であります。まさしく、われわれの師弟の道はその人法一箇としての師匠というものを、学び取っていかねばならないと私は訴えておくものです。(「ひのくに」11号)
◇宗門質問
文中「久遠の師池田会長」とありますが、本宗で久遠の師とは大聖人のことであります。故に池田会長が久遠の師なら池田会長は即ち大聖人ということですか?また本宗で帰命とは人法一箇の本門の本尊への帰命てすが、文中でいうように池田会長の振舞いが法であり、それに帰命するということは日蓮正宗の教えと全く違っているように思いますがいかがですか。
◇学会回答
第三代会長に関して「久遠の師」という言葉を使った場合がありますが、これは師弟の縁が深いことを述べようとするあまり行き過ぎた表現でありました。正宗では久遠の師とは大聖人のことであり、今後、こういう表現を用いないことにします。
また「会長の振る舞いが法でありそれに帰命する」といった表現も、帰命の質問に対する答えの中で述べた通り、明らかな逸脱であります。
本門弘通の大導師
◇問題資料
池田先生こそ本門弘通の大導師であります。私達は、かかる希有の師と会うことのできた幸運をかみしめると同時に、必ず師の心にかなう弟子として生涯を貫き、学会総体に久遠元初の生命活動を確立し、広宣流布達成を決意するものであります。(文集「教学と私」第一巻)
◇宗門質問
本門弘通の大導師とは大聖人日興上人であり、ここに日蓮正宗の血脈の意義があります。学会では池田会長がそうだというのですか、もしそうなら日蓮正宗とは全く異質となります。また「学会総体に久遠元初の生命活動を確立し…」ということはどういう意味ですか。
◇学会回答
これらは明らかな誤りであります。基本的な考え方については、大導師の質間に対する答えの中に述べている通りです。
境智冥合
◇問題資料
昭和38年頃の夏季講習会で、八矢教授(現壮年部長、師範)より「生死一大事血脈抄」の講義を受けたとき、「生涯、池田先生と生死一大事血脈抄でいこう。池田先生と境智冥合できる人材になろう」と強く訴えられたことは、強く私の脳裏に焼きついて忘れられない。(文集「教学と私」第一巻)
◇宗門質問
池田会長と境智冥合というなら、池田会長は仏ということになりますがそうなのですか?
◇学会回答
「境智冥合」とは、境とは御本尊であり、智とは信心であります。したがって、会長と呼吸を合わせることを境智冥合などと、安易に使ってはなりません。
寺院、会館混同
◇問題資料
いわゆる正宗の寺院は、授戒とか葬式とか法事などの儀式の場であります。社会のためとか、広宣流布とか、人間革命という御本仏直結の脈動の場は、もはや現代においては創価学会しかないのです。(文集「女子部と私」)
◇宗門質問
正法をもって行う授戒、葬式、法事、結婚式等は衆生済度のための大切な行事であります。これを行っている寺院が広宣流布のため活動していないと、どうしていえるのですか。また学会の会館や研修所でも聞く処によると、法事や結婚式などをしているではありせんか。特に創価学会のみが広布の場として区別する必要がどこにあるのですか?
◇学会回答
正宗寺院においては正宗をもって授戒、葬式法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行っています。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識すべきであります。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎであります。
寺院軽視
◇問題資料
したがって、信心の血脈こそ大事なんです。われわれの次元に於いてはそれでいいんです。生死一大事血脈抄、その他の御書を拝読すれば全部それは明快である。形式は必要ない。(池田会長「昭和52年元旦勤行あいさつ」)
◇宗門質問
「形式は必要ない」といわれているが世間の事でも形式は必要であります。結婚式でも葬式でもそれがなければ、人間生活における秩序が立ちません。従って寺院における各種法要、授戒、結婚式等の儀式が形式だから必要ないという考えは成立しません。
◇学会回答
寺院における法要・儀式についての考え方は宗門からの質問に対する答えの中で述べた通りであります。なお「形式は必要ない」と述べている点については、創価学会員の実践においては、特に広宣流布への使命感と情熱とが肝要であることを強調したものであり、言葉がたりませんでした。
供養(財務)
◇問題資料
更に、。この供養について、若干、歴史的なことを申し上げますと、前にもお話しした維摩詰は、在家の身でありながら供養を受けた事実が「維摩詰経」に記されております。(中略)つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります。(池田会長講演「仏教史観を語る」大白蓮華52年3月号)
◇宗門質問
維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく、仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外にない。在家はどこまでも資生産業にはげみ、仏に供養するべきであります。
◇学会回答
維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで供養を受ける資格かあるのは仏以外はないのであります。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改めます。
三宝
◇問題資料
▼仏法に三宝というものが説かれている。いうまでもなく仏法僧の三宝であるが、この「僧宝」が問題なのである。「僧宝」と言っても僧侶を意味するのではなく、社会のなかで実践し「法」を正しく伝持する人々のことである
▼(中略)今日における「僧宝」つまり仏法実践の組織としては創価学会があるのであり、その組織こそ、仏法を厳しき人間の打ち合いのなかで実践している「和合僧」なのである。(聖教新聞「名字の言」49年5月27日付)
◇宗門質問
日蓮正宗でいう三宝は法宝御本尊、仏宝大聖人、僧宝日興上人であります。正法を伝持してきた僧を僧宝ということは当然であります。又七百年来学会では「僧宝といっても僧侶を意味するものでない」として、日蓮正宗の三宝のたて方を無視し、自分達創価学会が僧宝であるというが、これは日蓮正宗の法義からは大変な逸脱だと思いますがいかがでしょう。これについて再度学会の意見をお聞かせ下さい。
◇学会回答
「僧宝」とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また第三代会長も発言しておられるごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられます。従ってこの正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては絶対に混同するようなことがあってはなりません。また広義においても、学会を「僧宝」という言い方をしてはならないことであります。
僧俗
◇問題資料
しかし、その仏教も、時代を経るにつれて、出家僧侶を中心とする一部のエリートたちの独占物となっていくのであります。在家の供養で支えられた僧院の中で、学問的に語られるにすぎないものとなっていったことは、皆さんもよくご承知のことでしょう。
(中略)これによると、在家はもっぱら唱題に励み、供養し、そのうえ、力にしたがって仏法を語るべきであるとされているのであります。僧侶がもっぱら折伏に徹し、三類の敵人と戦い、広宣流布するのに対して、在家は自身の成仏のため唱題し側面から僧侶を応援する立場である。その本義に立てば、現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果しているといえましょう。(中略)私ども学会員は、形は在俗であろうとも、その精神においては出世間の使命感をもって誇りも高く…。(池田会長講演「仏教史観を語る」聖教新聞52年1月17日付)
◇宗門質問
この文では「在家の供養で支えられる僧院」と言いながら前に在家も供養を受けてよいと言うのは、何か話しがチグハグなようです。このように一連の出家仏教を否定する表現から考えると創価学会では在家仏教を立てる方針なのですか?
文中「その本義に立てば現代において創価学会は在家出家の両方に通ずる役割を果してる…、私ども学会員は形は在俗であろうともその精神においては出世間の使命感をもって誇りも高く云々」とあるが、このことは結局学会幹部もみずから有髪の僧侶たることを認めているようであります。
つまり創価学会は今の僧侶は駄目だとして自分の方の在家教団でやって行くという考えのように思われます。もしそうでないといわれるならば、日蓮正宗には七百年来僧侶が存在しているのですから、その意義を充分にわきまえたかたちでの発言をなすべきであると思いますがいかがですか。
◇学会回答
一昨年の1月15日の第九回教学部大会における「仏教史観を語る」と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものであります。今日、これだけの在家集団ができあがったことは、仏法史上、画期的なことであります。しかし、このことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことは、まことに遺憾であります。そうした考えはもとよりありません。
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from: 21世紀さん
2009年02月15日 18時40分50秒
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「Re:昭和52年路線」
6・30逸脱教義の是正(抜粋)
昭和53年6月30日
特別学習会テキストより
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途中の人師論師
◇問題資料
「先師の御弘通」の「先師」とは、御本仏日蓮大聖人のことであります。したがって「日蓮大聖人の御弘通」そのままにということになるのであります。すなわち日蓮大聖人の正真正銘の門下であるならば、日蓮大聖人の振る舞いと、その精神を根本にすべきなのであります。それは、途中の人師、論師ではないということなのであります。途中の人師、論師が根本でないということは、人師、論師の場合には、いろいろな時代背景のもとに、生き延びなければならなかったが故に、令法久住を願ってさまざまな知恵をめぐらした場合があるからであります。(池田会長講演 聖教新聞52年2月17日付)
◇宗門質問
途中の人師論師とはだれを指すのですか。
◇学会回答
「途中の人師、論師を根本とすべきでない」と表現したことについては、この人師、論師は唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではありません。我ら末弟は「日興遺誠置文」の「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と仰せのごとく、御本仏日蓮大聖人の御弘通のままにということを強調する意味でありました。その日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、第二祖日興上人、第三祖日目上人、そして第六十六世の御法主日達上人猊下の御内証に流れていることはいうまでもないことであります。したがって、こうした唯授一人の血脈に触れずに論ずるような表現は決して使わないようにしたいと存じます。
大聖人直結
◇問題資料
この日我々は「本陣の男子部」として、日蓮大聖人直結の創価学会を厳護し、魔軍に指一本たりともふれさせない戦いを展開していくことを決意したのである。(大白蓮華52年2月号)
◇宗門質問
日蓮大聖人直結とはどういう意味なのですか。
◇学会回答
「大聖人直結」ということについては、大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものであります。したがって、唯授一人、遣使還告であられる御法主上人猊下を通しての大聖人への直結であることは当然であります。
血脈
◇問題資料
血脈相承といえばよく既成宗教などにみられるように神秘的に高僧から高僧へ、深遠甚深の儀式を踏まえて流れるものであると思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたにちがいない。しかし大聖人の仏法の本義はそんなところにあるのではない。我が已心の厳粛な信心のなかにこそあるといわれているのです。大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人は人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受けるのでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。というよりも、我が生命の中にある、大聖人のご生命、仏界の生命を涌現させる以外にないのです。(池田会長講義「生死一大事血脈抄」大白蓮華52年6月号)
◇宗門質問
ここでは既成宗教に血脈相承があることを述べ、かつ大聖人の仏法の本義は『そんなところ』(高僧から高僧への血脈相承)にあるのではないと論じられているが、それは日蓮正宗に血脈相承があることを否定することともとれますが、その意味なのですか。他宗でも血脈ということは言うが血脈相承とはと言いません。また、法体の血脈相承と生死一大事の信心の血脈とはその意味に違いがあります。しかるに学会で大聖人直結の血脈というところに、おのずから本宗の唯授一人の血脈を否定するかのようです。そこであえて質問いたしますが、学会では生死一大事の血脈のみを血脈として、身延相承書の「血脈の次第日蓮日興」の文義を否定するのですか。
◇学会回答
血脈については、法体の血脈と信心の血脈等があります。御書に「生死一大事血脈抄」があります。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法華経是なり」と仰せであります。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味であります。この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのであります。ゆえに、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の存り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となるのであります。ゆえに、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたいと思います。一昨年、発表された第三代会長の「生死一大事血脈抄講義」は、こうした原理をふまえたうえで、総じての仏法実践のうえでの生死一大事の信心の血脈を中心に、一般社会に展開したものでありますが、別しての法体の血脈相承について深く論ずることをしなかったために、誤解を生ぜしめる点もありました。これについては、第三代会長からの意向もあり、一部訂正して改訂版を発行しましたのでご了承をお願い申し上げます。
人間革命は御書
◇問題資料
私は再び繰り返したい。「人間革命」は現代の御書である。「人間革命」を通して御書を拝読すると、大聖人の大精神がより鮮明に、私の心を打つ。更に御書を通して「人間革命」を読むと、学会精神が体内により強烈に脈打ってくる。御書から「人間革命」へ、そして「人間革命」から御書へと。この往復の中に、の揺がぬ確立があるのではなかろうか。「人間革命」はそのような一書である。大聖人との不可思議な血脈の相承がある。不思議な書といわざるをえない。(「教学と私」第一巻)
◇宗門質問
前進のNO204では大聖人の教えの真髄は御本尊と御書であるといっている。が、ここでは人間革命が御書であるとしています。それでは人間革命が大聖人の教えの真髄ということになりますが、そうお考えなのですか。
◇学会回答
「人間革命は現代の御書」という発言については、第三代会長もすでに明確にしているように、明らかに誤りであります。
帰命
◇問題資料
一、この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知ったのである。(中略)妙法広布の大願に身命を削る戸田前会長と生死を共にしていくとの、生命の奥底からの深く厳しい決意にたった実践。これが山本伸一青年の「革命は死なり」という意味であった。(「小説人間革命第3巻に学ぷ」聖教新聞49年11月8日付)
*
一、まさしく、現代における、人への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また、池田会長が大聖人の御書を寸分違わず、身に移し実践されていることから考えても、必然的にそうなるのである。(「ひのくに」10号)
*
一、戸田先生のとらえ方が、“希有の師”なのです。“希有の師”という言葉が初めて出てきたのです。「希有の師への帰命」ということを、御義口伝をひっぱり出して読んだのです。いずれにしても、これはついていくというようなものではない。師弟不二だから、生命次元の問題だ、と。(「潮流」第9号)
◇宗門質問
御義口伝における人と法は釈尊と法華経であるが、本宗では人とは文底本因妙の釈尊で、法とは御本尊であります。しかるに学会では帰命する人とは戸田会長であり、また池田会長であるというのは、まさに戸田・池田会長が人の仏となります。戸田・池田会長に南無し皆に拝ませるというのですか。また「大聖人の御書を寸分たがわずに身に移し、実践きれている」との言も行き過ぎであると思います。
◇学会回答
「帰命」という言葉は、正宗では仏に対してのみ使う言葉であります。当初は「妙法への帰命」を大前提として「師への帰命」といっておりましたが、それが一部で「人への帰命」といった表現にまでエスカレートして、会長が本仏であるかのような使われ方がなされました、これは誤りであり、帰命という言葉を安直に使用しては絶対にならないものであります。なお「ひのくに」については「会長が久遠の師」とか「会長の振る舞いが法でありそれに帰命する」「大聖人の御書を寸分たがわず身に移し実践されている」等の趣旨の、かなり逸脱の部分があったので、すでに廃刊処分にしました。
大導師
◇問題資料
御書「今日蓮等の類いは善の導師なり」(御書全集721P)とあるごとく、別しては日蓮大聖人こそ末法の大導師であられるが、総じて民衆を幸福へと指し導いていく指導者こそ、この「導師」「大導師」の今日的な謂でもあると明示。さまざまな世界の指導者のなかにあって、牧口初代会長こそ、真実の成仏即幸福の道を指し示し、広宣流布の大願へ民衆を導いていった指導者であり、大導師であると論じた。(池田会長指導聖教新聞52年6月2日付)
◇宗門質問
大導師に関して総別を立てていますが、宗門では総別ともに大導師とは大聖人と血脈付法の日興上人等であります。
◇学会回答
「大導師」という表現を使ったこともありました。御書に「日蓮等の類いは善の導師なり」とありますように、仏法弘通の人は「導師」であります。ただし「大導師」という言葉は正宗では総別ともに、大聖人と血脈付法の日興上人等であられます。ゆえに今後、たとえば初代会長を大導師と呼ぷような表現は使わないようにしてまいります。
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金吾、
from: 21世紀さん
2009年02月15日 18時38分25秒
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「Re:昭和52年路線」
御法主日達上人猊下のお言葉
昭和54年5月3日
第40回本部幹部会における特別講演
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創価学会第40回本部総会を盛大に開催されましたことを、心よりお祝い申し上げます。おめでとうございます。このたびは、新しく第四代会長に北條浩氏が就任されまして、まことに意義の深い総会であると思います。
私は初代会長以来、今日までの歴代会長を皆よく存じ上げております。初代会長牧口常三郎会長は謹厳実直なお人柄で、まことに信心の筋目をきちんとせられた方でありました。次の二代会長戸田城聖会長は豪放磊落、物事にこだわらない率直な方で、私は大正8〜9年ごろ、学校で共々机を並べたこともありました。この方は、我が正宗を守護し、総本山を護持する信念のたいそう強い方でありました。三代の池田xx会長は、皆様の御存じの通りスケールの大きな英傑とも申せる方で、しかも求道心の強い信仰者で広宣流布への大発展の指揮をとられました。今後も名誉会長として皆様を見守り、社会に大いに活躍し貢献せられることと期待しております。この三代にわたる会長の強い信心と会員の皆様の弘法によって、日蓮正宗は今日の発展をみることができました。その功労に対しここに改めて深く敬意を表し、謹んで御礼申し上げます。今、ここに新しい四代会長を迎えられて、輝かしい歴史と伝統を踏まえて、一層の御活躍を期待いたします。
この数年間、まことに残念な出来事が続き、混乱を招きましたことは、悲しいことでありました。幸いにして前会長の英断と、心ある人々の努力により、再び秩序の回復に向かい、晴ればれと今日の天気のごとく明るい出発ができることは、まことに喜ばしいことであります。「雨降って地固まる」との格言があります通り、何の障害もなく順調に事が運ばれるよりも、幾度か危機に直面しつつ、これを信心と賢明な衆智の結集で乗り越えながら貴重な体験を積みつつ前進することのほうが、まことの広宣流布の道程のように思われます。生きている人間はだれしも完全無欠ではあり得ません。誤りは避けることができません。要は自己の誤りに気付き改めることのできる聡明さと謙虚さを持つことが大切であります。また、お互いに気付いたことを素直に話し合い、戒め合うことのできる信頼感に基づいた付き合いが大切であり必要であります。
このたび、宗門と学会の間で、最高教導会議、並びに地方協議会等の充分な話し合いの制度が制定されたことは、まことに意義深いことと思われます。それ以外にも若い僧侶と学会の若手の幹部、住職教師と地域の会員の間などで忌憚のない話し合いができる風潮が生まれてきたことは、まことによいことと思います。これからは僧侶も、積極的に行動し発言しなくてはならないし、これまでのように、あなたまかせではなく、共に話し合い、手を携えて広宣流布へと永遠に和合して進むという心構えが必要であると思います。そのさい、よく理解していただきたいことは、我々僧侶はどこまでも信徒の皆様が正しい信心をして、幸せになられることが最大の喜びであり、いつもこれを念願しているということであります。
私自身、大御本尊様に丑寅勤行において乃至常に信者の皆様方の幸福を御祈念申し上げております。その立場のうえで敢えて色々申し上げる場合もあるかということであります。それが仮に厳しいことのようであっても、決して悪意ではないことをよく御理解していただきたいのであります。世間やマスコミの方々には、ただの諍いに見えるかも知れないことも、信心のうえで受け止めていただけるならば、それはただの諍いではなかったということがわかっていただけると思います。
仏教において、出家ということは、重要な意義があります。また寺院というのは、やはり重大な意義と働きを持っているのであります。寺院も僧侶も、その檀徒、信者によって守られなければ存立ができません。我が宗の僧侶には、若い人が多いのです。が、真剣に努力するよう、よく指導していきますから、どうか信徒の皆様は温かく、譲り、育てていただきたいのであります。気が付いたことがありましたら遠慮なく私に言ってください。
私は日淳上人のもとで創価学会の宗教法人設立に立ち会った一人であります。宗門の外護団体としての創価学会の理解者の一人であったし、今後もそうありたいと念願しております。どうか今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたいのであります。そのうえで自主的な指導と運営で伸びのびと御活躍を願いたいのであります。
なお、我が日蓮正宗には、創価学会の他にも法華講および檀徒会に属する信者がおることは御承知の通りであります。同じ信者として仲良くしていただきたいのです。これまでの経緯は水に流して、大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に協力していただきたいのであります。
最後に、池田名誉会長には永い間、本当にありがとうございました。皆様方の御健康と御繁栄を心よりお祈り申し上げます。どうも今日はありがとうございました。
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from: 21世紀さん
2009年02月15日 18時35分24秒
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「Re:昭和52年路線」
御法主日達上人猊下のお言葉
昭和53年11月7日
於大講堂大広間
創価学会創立48周年登山代表幹部会(通称“お詫び登山”)
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先程来、学会の幹部の方々から種々とお話を承りました。
確かに、この数年、学会と宗門の間に種々な不協和の点がありまして、騒ぎにもなりましたが、こういう状態が続くことは宗開両祖の御精神に照らして憂慮すべきであることはいうまでもありません。こうした状態をいつまでも続けているということは、世間の物笑いになり、我が集団を破壊することにもなりかねないといつも心配しておりました。幸い、学会においてその点に気づかれて今後の改善のために反省すべき点は率直に反省し、改めるべき点を明確に改める決意をされたことは、まことに喜ばしいことであります。
どうか今後は、今日の決意を出発点として池田会長を中心に、いっそうの広宣流布への邁進と宗門外護を改めてよろしくお願いします。
僧侶の役割は、はた目に見るほどなまやさしいものではありません。非才の身ではありますが、僧侶は一同、常日頃から我が正宗僧侶にふさわしい人格と識見を各々が身につけるべく鋭意教育に努め、各人にもそれぞれ努力を促しております。また各寺院についても、信徒の依止の道場としての確固とした基盤を築くべく、日夜努力を重ねております。
しかしながら我が宗門においては若い僧侶が多く、指導力が足らなくて信徒の皆さまに御不満を招く場合もあるかと思いますが、僧侶も寺も、信徒の皆さまの暖かい御支援と理解と思いやりがあれば、より立派に育つものであります。もちろん、どんな逆境にあっても御本尊を厳護し、大聖人の仏法を一歩たりとも前進させるのが正宗僧侶の悲願であり、決して信徒や世間に甘えるつもりはありません。しかし人々の無理解のため、あるいは悪意の中傷に紛動されてもっともたよるべき信徒が寺院を非難中傷し、圧迫するようなことがあれば僧侶はまことに悲しい思いをいたして、否応なく反論しなくてはならないのであります。こうした言動は破和合僧であり、正宗の法義にももとる行為であると指摘せざるを得ないのであります。賢明なる幹部の皆さまは、この辺をよくよく御理解のうえ、正しい寺壇関係の確立に最大の決意と努力をお願いいたします。これに対しては、各僧侶も最大の信頼と感謝をもって応えることにやぶさかではないのであります。
この三十年間、学会はまことに奇跡的な大発展を遂げられた。そのために今日の我が宗門の繁栄が築かれたことは歴史的事実であり、その功績は仏教史に残るべき、まことに輝かしいものであります。しかし、その陰に、宗門の僧侶の挙(こぞ)っての支援と協力があったことを忘れないでいただきたいのです。体制的には、学会の発展に十分ついていけない部分があり、依存することも多かったが幸い人材も育ったので今後は、宗門としてなすべきことは自ら責任をもって果たしていく決意であります。
とにかく大聖人以来、七百年間守りつづけてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これをふまえなかったならば仮にこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったかとの後世の批判を免れることはできないのではないかと心配いたします。私は法主として、正しい信心を全信徒に持(たも)ってもらうよう最大限の努力をする責任があります。その立場から老婆心ながら、この点をあえて強調しなくてはならないのであります。私はもとより池田会長の信心を信頼し、正しい日蓮正宗の信仰を全信徒に深めることをお願いいたします。
今回の経過中に新しく檀徒となられた方々については、その寺院の住職教師が責任をもって正しき正宗信徒として指導していただきたいのであります。今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべてここに終止符をつけて、相手の悪口、中傷をいい合うことなく、理想的な僧俗一致の実現をめざしてがんばっていただきたいのであります。戒壇の大御本尊を中心に僧侶、檀信徒、ともども一致団結して手をとり合ってまいりたいのであります。
要するに過去のあやまちは過去の出来事として納め、現当に亘(わた)り我が日蓮正宗をいかに強力に発展させ広宣流布を実現するかにあるのです。我々の信心する御本尊は現当二世の御利益を賜る御本尊であります。過去のことにいつまでもこだわることなく今日以後、真の僧俗の和合層を実現して我が宗門を守っていただきたいと私はお願いするのであります。
皆様どうかよろしくご賢察をお願いいたします。
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2009年02月15日 18時33分37秒
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「Re:昭和52年路線」
会長あいさつ
昭和53年11月7日
於大講堂大広間
創価学会創立48周年記念代表幹部会(通称“お詫び登山”)
創価学会会長 池田xx
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一言、ごあいさつをさせていただきます。
本日、本門大講堂におきまして、ここにもったいなくも、御法主日達上人猊下のご臨席を賜り、また法務ご多繋のなか、全国より御尊師方のご出席をいただき、創価学会の記念代表幹部会を有意義に開催できましたことに対し、一同を代表しまして、衷心より御礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
戒壇の大御本尊根本に広布に挺身
未法の御本仏日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、いうまでもなく、わが日蓮正宗であります。法水潟瓶・唯我与我の代々の御法主上人猊下御一人にのみ、受け継がれておられるのであります。
私どもは、その清流の日蓮正宗の信徒として、今までも正法正義の広宣流布の一翼を担わせていただきました。また、随力弘通の日々を送らせていただき、最大の名誉と福運を自負しているものであります。
私達は、今日よりはまた、ふたたび日達上人猊下が、熱原法難七百年記念法要のみぎり、御説法くだされた御聖訓、すなわち「とにかくに死は一定なり(中略)かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづむとをもへ」(御書全集156ページ)の御金言を胸に、弘安2年10月12日、末法総与の本門戒壇の大御本尊を根本として、御宗門を外護し、広布大願に、さらに挺身していく決意でありますけれども、皆さんいかがでしょうか。(拍手)
眼前の昭和56年には、値い難き宗祖第七百遠忌を迎えます。一眼の亀が浮木にあうがごとき最大に意義深さ時を迎え、私達は、信心の姿勢を引き締め、御本仏日蓮大聖人より、御法主上人猊下より、称賛される精進をしていきたいのであります。
先程来、理事長、副会長から、僧俗和合の路線の確認、その他の問題について、いろいろと話がありましたが、これは総務会議、県長会議、各部最高会議の全員一致による決定であり、また私の決意であります。この方針に従って、私どもは、一段と広宣流布と正法外護のご奉公に励む所存でございますので、御宗門の先生方、くれぐれも凡下なわれわれを、厳しくも温かく、今後ともご指導くださいますよう心より御願い申し上げます。よろしくお願い申し上げます。(拍手) 会員、幹部の皆さまも、この一点を深くご了解をいただき、その指導徹底をなにとぞお願いいたします。
なお、これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で、深くおわびいたします。
万代にわたる僧俗和合へ第一歩
再建以来、創価学会は、広宣流布、折伏の挺身にすべてをかけてまいりました。他を顧みるいとまもなく一直線に進んでまいりました。その結果、今日の大発展と一つの完成をみることがでさえました。これひとえに大御本尊のお力であり、日達上人猊下のご威徳のたまものであります。そしてまた、御宗門の御僧侶の先生方のご支援のたまものであります。ここに深甚の敬意を表します。
また、その過程にあっては、幾多の大難にもあいましたが、そのつど、御宗門におかせられましては、つねに学会を守りに守ってくださいました。そのご恩を私どもは、永久に忘れず、一段と御宗門へのご奉公を尽くしてまいる決意でございます。
ともあれ、激動の時代の変遷と相まって、広宣流布の過程にあっては、たしかに幾多の試行錯誤もありました。また、これからもあると思います。われわれは凡夫幼稚の身であり、誤り多き人間の集いであります。
今は、この場で多くを語るよりも、猊下のご指南を賜り、また宗内の皆さま並びに社会とも真摯に対話させていたださながら、厳たる正しい方向を作り上げる決心であります。それが、私どものとるべき大道であると思い定めております。当面、大いなる発展よりも、内部の整備と信心を深めることに力を注ぎ、ことに正宗の伝統教義の基本をふまえて進んでまいりたいと思っております。これが、万年への宗門と学会、すなわち、僧俗和合の大なる基礎の第一歩となれば、と私は思っております。
正宗の伝統ふまえ広布大願を
ともかく、昭和26年、戸田前会長が当時、申し上げた「本山を守護し、諸難を会長の一身に受ける覚悟である」との原点を、私は、ふたたび深く胸に刻んで、広宣流布という大願に、いっそうの信力・行力を奮い起こして前進していく覚悟であります。
広宣流布は、万年への遠征であります。これからが、21世紀へ向けての本舞台と展望いたします。どうか同志の皆さんは、美しき信心と信心とのスクラムを組んで、広々とした大海のような境涯で進んでいっていただきたいのであります。そして、現実に人生の四苦に悩める人を、常楽我浄の幸福の道へと転換するために、きょうもあすも粘り強く、民衆のなかに入り、人間のために、社会のために、そして、広くは世界のために、一閻浮提の正法の光を、さん然と輝かせていく新たなる前進を、開始しようではありませんか。(拍手)
謹んで、御法主日達上人猊下のますますのご健勝と、正法護持の御尊師方のご繁栄を、心よりお祈り申し上げます。また、全会員の皆さま方が、安心して一生成仏への仏道修行の道を信心強盛に進まれんことを念顔しまして、私のあいさつとさせていたださます。ありがとうございました。(拍手)
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2009年02月15日 18時30分37秒
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「Re:昭和52年路線」
教学の基本について
昭和53年11月7日
於大講堂大広間
創価学会創立48周年記念代表幹部会(通称“お詫び登山”)
創価学会副会長 辻武寿
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伝統、法義を一段と厳守
ただいま、北条理事長より、信徒団体としての基本について確認がありましたが、私からは、これをふまえて、私どもが留意すべき点について申し上げます。
それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、再び原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません。日寛上人は「就中(なかんずく)弘安2年の本門戒壇の御本尊は、究境中の究境、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘宝の随一なり。況や一閻浮代総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段)と仰せであります。この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳粛なる化儀、伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、よく確認していかねばなりません。
その意味からも、不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います。
第二には、唯授一人、血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重してまいりたいと思います。「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」(御書全集1600頁)とありますごとく、日蓮大聖人の法体、御法門は、すべて現法主日達上人猊下に受け継がれております。ゆえに創価学会は広布を目指し、社会に仏法を弘通、展開していくにしても、その大前提として、猊下のご指南に、いっさい従っていくことを、忘れてはならないのであります。
第三に学会員の心情には、長い歴史のなかで、自然に会長への敬愛の念が培われてきましたが、またそれは当然であるとしても、その心情を表すのに、いきすぎた表現はさけなければなりません。「法華初心成仏抄」のなかに「よき火打ちとよき石のかどと・よきほくちとこの三つより合いて火を用ゆるなり。祈りも又是の如し。よき師と・よき檀那と・よき法とこの三つ寄り合いて祈りを成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(同550頁)とあります。この御文のなかに、よき法とは、いうまでもなく末法の法華経たる三大秘宝の大仏法であります。よき師とは、末法の御本仏日蓮大聖人であらせられ、また代々の血脈付法の御法主猊下であると拝するのであります。
私ども創価学会は、よき檀那の立場でなくてはなりません。したがって、今日において、学会で師弟という場合、よき檀那のなかにおける指導性の問題であり、私どもにとっては、代々の会長は、折伏・弘通の師であり、現代社会における人生の師であることを銘記すべきであります。
この三点に基づき、広宣流布を目指す学会の教学の展開についてふれれば、その大原則は、6月30日付聖教新聞に掲載した「教学上の基本問題について」に明らかであります。これは、猊下のご指南を得て発表したものであり、今後の展開の規範として、さらに学習してまいる方針でありますので、よろしくお願いいたします。
その他にもご指摘をうけております点についても、鋭意正してまいります。また今後、教学展開上の重要な問題があった場合には、御宗門の教学部に検討、指導をお願いするようにしてまいりたいと思います。
日蓮大聖人様の法義は、深遠かつ厳正なものであります。したがって、日蓮大聖人の根本の教義に関する仏法用語を使用する場合は、かならずその大前提をふまえねばなりません。そのほか、たとえば、在在諸仏土常与師倶生(ざいざいしょぶつどじょうよしぐしょう)とか、如来如実知見とか、大導師とか、本来、仏にのみ用いる言葉を、私どもの立場にあてはめることは、厳に慎むべきでありましょう。
このような姿勢で、今後、学会は進んでまいりますので、御宗門の先生におかれましては、温かく見守ってくださり、またお気付きの点があれば、私ども幹部に率直におっしゃっていただきたいと思います。
新しい宗教運動の波起こそう
しかし、だからといって、社会に向かって仏法を弘通する自信を失ってはなりません。それが、私ども在家の尊き使命であるからであります。今日、幾百万の庶民が、幾十カ国にわたり、国を超え民族を超え、真剣に仏法を学習している姿が、いずこにありましょうか。 日常生活のなかに、人生に、社会に大聖人の仏法が新鮮な感動をもって語られている姿は、未曾有のことであります。大聖人の仏法は力強く全世界の鼓動していることの感を深くいたします。 御聖訓にいわく「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりおこるべく候、力あらば一文一句なりとも語らせ給うべし」(同1361頁)と。
すなわち、正信のもとに、行学を錬磨し、さらにさらに人々の救済のために、大仏法を一文一句たりとも語り継いでいきなさいとの仰せであります。したがって、私どもは今ふたたびの新しい船出にあたって、この御聖訓のままに、原則をふまえつつ、社会のなかにあって、不幸な民衆救済のために、胸を張り、誇らかに仏法を語りに語り、新しい宗教運動の波を、万波のごとく起こしてまいろうではありませんか。
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2009年02月15日 18時28分35秒
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「Re:昭和52年路線」
僧俗和合へ新たな前進を
昭和53年11月7日
於大講堂大広間
創価学会創立48周年記念代表幹部会(通称“お詫び登山”)
創価学会理事長 北条浩
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私は、21世紀への創価学会の新たなる船出にあたり、これまでの日蓮正宗と創価学会の関係について振り返りながら、今後の新しい基調について申し上げます。
創価学会は昭和27年、宗教法人として出発いたしました。御宗門からはその設立にさいし①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること、②当山の教義を守ること③仏法僧の三宝を守ること、の三原則を遵守するようお話があり、以来創価学会はこの三原則をふまえて御宗門の外護をつとめ広宣流布への歩みを始めたのであります。
この歩みのなかで、日蓮大聖人のご遺命たる広宣流布への流れは、大きくかつ広く推進され、それは、世界にまで及ぶものとなりました。とくに、正本堂建立にいたるまでの永き年月、創価学会は宗門に対して、赤誠の念をもってご奉公申し上げ、外護の任にあたってきたのであります。その結果、未曾有の発展と基盤が確立されてきたと、私どもは信じております。
しかし、この間、言論問題等さまざまな問題を経るなかで、学会それ自体の基盤をあるていど確立しなくては、今後の社会情勢には対応できず、外護の役割も果たせないのではないか、と思われる客観的状況が存在したことも事実であります。それゆえに、学会を確立、発展せしめていくことが、次への宗門全体の発展、外護につながるとの希望的な展望に立ち、創価学会は、正本堂建立以降、それに力を尽くしてきたわけであります。
行き過ぎ改め『三原則』を遵守
さらに、創価学会の宗教法人としての体制についても、関係筋からの種々の指摘もありました。あわせて、大聖人の仏法を広く社会に弘通・流布する学会の根本的使命のうえからも、実践の教学の展開を、いかに時代、社会の要請に合致させるかとの、いわば宗教と社会という永遠の課題たる問題に直面しつづけてきたのであります。
正本堂建立以降、今日まで、こういう意識のもとで、創価学会の運営は進められてまいりました。
しかし、今にして思えば、そうした数年間の流れのなかに、学会の独自性と社会的存在基盤を追求するあまり、創価学会の前提たる日蓮正宗の信徒団体としての基本及び伝統法義についての意識が、会内において、しだいに希薄化していたことも否めません。
そのことについて、すでに宗門からは、指摘の声が出ていたのでありますが、当時にあっては、直面する問題に四つに取り組んでいたために、われわれは、事の重要性を十分認識するにいたらず、気にはかかりつつも、学会として定めた既定の道を進んでいったのであります。
とくに昨年初頭、今日これだけの在家集団ができあがったことは画期的なことであるという視点から、また宗教のもつ現代的役割のうえから、在家の宗教的使命の側面を掘り下げて展開したのであります。しかし、そのことか宗門・寺院・僧侶を軽視する方向へと進んでしまったことも事実であります。昨年来の宗門との問題は、こうした経緯から起きたものと思うのであります。
今、このことを総括するに、問題を起こした背景に、宗門の伝統、法義解釈、化儀等に対する配慮の欠如があったことを率直に認めなければなりません。
ともかく、この意識のズレ、配慮の欠如がその後の対応のなかでもあらわれ、そのことが、問題をここまで発展させてしまったのであります。学会としては、その間、認識の距離をなんとか埋めようと御僧侶方とも話し合い、日遠上人猊下のご指南も、たびたび賜って事態収拾のために努力してまいりました。
その結果、私ども創価学会といたしまして、以下の二点を率直に認めるものであります。すなわち、第一に、学会のここ数年の指導、進み方教学の展開のなかに、正宗の信徒団体としての基本がおろそかになっていたこと、第二に、昨年のような学会の行き方は行き過ぎがあったこと、とくにわれわれ執行部は、深く反省するものであります。
その認識に立ち、戦後再建の時から今日に至る、宗門と学会との30年余りに及ぷ関係を顧みたうえで、創価学会は昭和27年年の宗教法人設立時の三原則を遵守し、日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてまいる方針であります。
もとより私どもの宗門に対する赤誠の外護の念は、初代牧口会長以来の根本の生命線であり、学会の依って立つ基盤であります。しかし、この外護の在り方についても、あくまでこの根本路線をふまえ、御宗門ならびに寺院の運営の主体性を尊重していくものでなくてはなりません。すなわち、ともに主体性を尊重しあうお互いの信心のうえの理解と協力とが、これからの時代の基調であると思うのであります。
よき信徒・会員として広布に邁進
さらに加えて申し上げれば、私どもは信徒として、寺院参詣の重要性を指導してまいります。寺院は、経文に当詣道場とあるごとく、信徒としての参詣の道場であります。
それに対して、在家の私どもが異体同心で広布を目指す信心練磨の場が会館であります。ゆえに、学会員はよき正宗の信徒とし、礼節をわきまえながら寺院に参詣していくとともに、よき会員として、広宣流布に挺身すぺきでありましょう。
どうか、御尊師方におかれましても、信徒が気持ちよく参詣できますよう、温かいご理解とご慈愛で包んでくださいますようお願い申し上げます。
また、寺院行事を尊重する意味から、各地にあっては、御講や彼岸法要など、寺院の行事に影響を与えないよう、学会行事、会合の開催を考慮してまいります。そのためにも、春秋彼岸会、孟蘭盆会の学会としての開催は、学会本部ならびに各県中心会館では行う場合はありますが、地方では、いっさい行わないようにいたします。元旦勤行についても、寺院と会館が隣り合わせのような地域にあっては、会館では、今後自粛いたします。
寺院の総代については、推薦依頼のあったときには、寺院協力の推進者という視点から、社会的見識、信心を考慮した人選を行い、推薦してまいります。また、現総代の人には、末寺の外護に身を挺していくよう指導を徹底してまいります。
なお、新たな檀徒の皆さんについては、その心情をよく理解し、われわれは同じ日蓮正宗の信徒として、誹謗中傷せず、仲良くやっていきたいと願っております。
以上申し上げまして、私の本日の話とさせていただきます。
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2009年02月15日 18時26分44秒
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「Re:昭和52年路線」
代表幹部会 開会の言葉
昭和53年11月7日
於大講堂大広間
創価学会創立48周年記念代表幹部会(通称“お詫び登山”)
創価学会男子部長 溝口隆三
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本日ここに、日達上人猊下のご臨席のもと、全国多数のご尊師方のご出席を得て、代表幹部会を開催することができ、篤く御礼申し上げます。
この幹部会は、2000人の代表が、創価学会創立48周年の意義をこめた記念登山を行ない、戒壇の大御本尊に、大聖人のご遺命たる広宣流布の推進を、一段と誓っていくものであります。すなわち、七つの鐘の総仕上げを明年にひかえた学会が、本日を期して、恒久的に崩れざる僧俗和合の新しい船出をして参りたいと思うのであります。
創価学会も今や、半世紀の歴史をふまえて、21世紀へ向けて、明確なる針路を定めて進んでいく段階に人ったといえましよう。
ここに、新生への息吹きあふれるスタートに臨んで、反省すべきは反省し、正すべきは正していかねばなりません。
御書に「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑われる事なかれ」(全集・1589頁)とあります。私どもは、御本仏日蓮大聖人の末弟らしく、信仰者としても、人間としても、また社会人としても、流石といわれる力量をもった一人一人に成長し、広宣流布へ挺進してまいろうではありませんか。まぎれもなく、21世紀は宗教の世紀であり、陸続とつづく正法護持の人材が、全人類の希望の依怙依託となっていくことを確信し、開会の言葉とさせていただきます。
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2009年02月15日 18時24分58秒
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「Re:昭和52年路線」
院達 模刻本尊の件
院達第2915号
昭和53年10月3日
日蓮正宗宗務院
このたび、創価学会に於ては、これまでに彫刻申上けた板御本尊については、すべて総本山へ納め奉ることとなり、去る9月28日、七体の板御本尊が、総本山へ奉納せられ総本山に於ては29日奉安殿へお納めいたしました。
但し、学会本部安置の日昇上人板御本尊については、御法主上人猊下御承認のもとに、そのまま本部に安置せられることになりました。
依って、今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切議論を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。
我が宗は、日蓮大聖人の正義を広宣流布するものであることは、既に御承知の通りでありますので、これの妨げとなるような僧侶間の摩擦を排し、僧俗一致して御奉公の誠を尽されるようお願い致します。
右、通達いたします。
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2009年02月15日 18時23分10秒
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「Re:Re:昭和52年路線」
(4)僧俗の関係について
昨年の1月15日の第9回教学学大会における「仏教史観を語る」と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものである。
今日、これだけの在家集団ができあがったことは、仏法史上、画期的なことである。しかしこのことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことはまことに遺憾である。そうした考えはもとよりない。
この講演の文中「葬式だけを行い我が身の研鑽もしない…」とあるのは、日蓮正宗僧侶を目して述べたものではなく、日蓮正宗以外の一般仏教界の多くの姿を語ったものである。したがって「既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でなく、道場でもない」というのも、正宗の寺院を言ったものではないことをご了承願いたい。しかし、そういう印象を与えたとすれば、まことに遺憾である。
維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意昧である。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえない。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外はない。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改める。
寺院の存在についてであるが日蓮大聖人はお亡くなりになる前年の弘安四年には、身延に十間四面の堂宇を建てられ、これを久遠寺と命名された。そして「池上相承書」においては、「身延山久遠寺の別当たるべきなり」と日興上人へ遺付されている。さらに日興上人は、身延離山の後、正応三年、南条時光の寄進を得て大石寺の基を築かれたことは、周知の事実である。
正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行なっている。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識したい。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は明らかに言い過ぎである。
「僧宝」とは、正宗においては第二祖日興上人のことであり、また会長も発言しているごとく唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられる。したがってこの正宗教義の根本となる僧宝と信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。
また広義においても、学会を「僧宝」という言い方はしてはならない。
かつて入信動機を語るに際し“正宗から学会へ入信”と記した表現があった。これは、それ以前も正宗であったが、学会に入って初めて正宗の真実の信仰にめざめたとの意味であり、信仰のあり方の問題であったが、正宗と学会が別であるかのような印象を与える表現となってしままったことは遺憾である。
(5)社会への展開について
学会は、実践の教学として社会に仏法を応用展開してきたが、それを急ぐあまり、宗門伝統の教学に対し、配慮のいたらない部分があった。この点は、今後十分留意していきたい。
「創価仏法」という表現を使ったことがあるが、これは折伏弘教のうえでの社会への展開という側面であった。すなわち、実践の教学の意義が込められていた。ものごとには一つのことをさまざまに表現する場合がある。いわば創価というのは、幸福ということであり、幸福の仏法という意味で用いたのである。
また、仏法の展開に際しては、さまざまな現代の哲学、科学上の成果を踏まえなければならない。そのためには、多少の試行錯誤もあることは、当然、覚悟しなければならない。むしろ現代人にわかりやすいように、外護の責任のうえから、ある意味のクッションを置いた形が、後々のために望ましいと考えた。しかし「創価仏法」という表現自体は避けるようにしたい。
「日蓮大聖人の生命哲学」という表現は、厳密にいえば「日蓮大聖人の仏法」というべきである。日蓮大聖人の仏法は宗教であり、その実践においては、純一な信を根本とすべきである。ただ、広く仏法を理解させる素地をつくる手段のために、理論的には「生命論」「生命哲学」として展開することは、ご了解願いたい。
「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」との御金言のごとく、正宗において謗法厳禁である。神社に対する寄付、祭礼の参加等の具体的活動においても、社会への対応というこ、とより謗法厳禁という信仰の姿勢から対処していくべきである。
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2009年02月15日 18時21分35秒
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「Re:昭和52年路線」
(52年路線における)創価学会よりの回答
(1)血脈について
血脈については、法体の血脈と信心の血脈等がある。御書に「生死一大事血脈抄」がある。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」と仰せである。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味である。
この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第日蓮日興」と仰せのごとく、二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところである。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのである。故に代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となる。
故に、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたい。
昨年、発表された(※池田)会長の「生死一大事血脈抄講義」は、こうした原理を踏まえたうえで、総じての仏法実践のうえでの生死一大事の信心の血脈を中心に、一般社会に展開したものであるが、別しての法体の血脈相承について深く論ずることをしなかったために、誤解を生ぜしめる点もあった。これについては、会長からの意向もあり、一部訂正して改訂版を発行するので了承願いたい。
これに関連して、以下の各項目についても法義を誤らぬよう確認しておきたい。
かつて「途中の人師、論師を根本とすべきでない」と表現したことがあった。この人師、論師は唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではない。
我ら末弟は「日興遺誠置文」の「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と仰せのごとく、御本仏日蓮大聖人の御弘通のままにということを強調する意味であった。その日蓮大聖人の仏法の正統の流れは第二組日興上人、第三祖日目上人、そして第六十六世の現御法主日達上人猊下の御内証に流れていることは、いうまでもない。
したがって、こうした唯授一人の血脈に触れずに論ずるような表現は決して使わないようにしたい。
「大聖人直結」ということについては、大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものである。したがって唯授一人、遣使還告であられる御法主上人猊下を通して大聖人への直結は当然であると拝したい。
「本因本果の主」は、久遠元初自受用報身如来の再誕であられる末法御本仏日蓮大聖人の御事である。また正宗においては、一往三妙に分けるなら、本果妙とは日蓮大聖人であられ、本因妙とは日興上人、本国土妙とは大日蓮華山である。しかし文底の三妙合論の上では、御本尊のことであり、日蓮大聖人の御当体に具わるのである。故に、大聖人を本因本果の関係を一般的に我々の人間関係について使うのは慎みたい。
牧口初代会長と戸田前会長のあいだに師弟の血脈があったといった趣旨の表現は、あくまでも一次元として広宣流布達成への師弟の決意と約束と実践を通しての表現であった。ただ、こうした場合の血脈という言葉は使わないようにしたい。
(2)戸田前会長の“獄中の悟達”について
戸田前会長の、いわゆる“獄中の悟達”については、どこまでも大聖人の仏法を古今の教えのなかで最高のものであるということを悟り、大聖人の南無妙法蓮華経を広宣流布していくべき使命の自覚に立たれたということである。すなわち南無妙法蓮華経の大慈大悲に包まれた境涯に感涙したという意味であった。それが日蓮大聖人の御内証と同じであるとか、大聖人の仏法とは違う仏法を創造したと受け止めてはならない。
戸田会長の悟達を「従果向因」と表現したのは、法華経から大聖人の仏法に入ったのではなく、日蓮大聖人の御書にのっとり大御本尊への唱題の行を持続されて、法華経を読み切られたとの意である。しかし、このような場合に「従果向因」の語は適当でなく誤解を生ずるので、前会長の自覚に関連したような形では、この語を使わないようにする。
戸田前会長が、後に法華経を講義したために罰をうけたというのは、前会長は、大聖人の仏法の文底から解釈していったつもりであるが受講者にとっては、いつのまにか文上に流され、その理解にとどまったことをいったのである。
かつて戸田前会長の悟達の意味を「己心の久遠の仏としての生命を覚知した」と解釈したこともあった。これは妙法に対する題目の力によって、我が胸中に力強く仏界が湧現することを表現しようとしたものであるが、十分その意を尽くしていないので、そうした言葉は使わないようにしたい。
戸田前会長が「仏とは生命なり」と叫んだということの意味は、キリスト教のように神を遠くに置き、神になれないといった考え方に対し、大聖人の仏法では、我が生命に仏界があると説かれている。その大聖人の仏法の深遠な偉大さを、透徹した信心で確信したとの意味である。すなわち御本尊への唱題によって、一切衆生に仏性があるということを実感したことの、一つの表現である。
学会の原点が戸田前会長の悟達にあるということをさまざまに表現した。例えばそこから「生命の暖流が流れはじめた」とか「仏法を現代に蘇生させた」とかいったが、いずれも学会の広布仏教の起点を意味したものである。この意味により正確にいえば、戸田前会長の獄中の自覚と決意が、戦後の折伏活動の起点となったということである。事実、戸田前会長は戦後の学会にあってひとり決然と折伏に立ち、75万世帯の達成をする決意で戦った。これがあって、今日のような大河のような広宣流布の姿がある。
もちろん、根本は御本尊であり、日蓮大聖人の大慈悲である。かつまた、700年間、正宗の正しき法義、化儀があったからであり、それが見事に開花したのである。戸田前会長が戦後いちはやく総本山に御奉公をしたことをもってしても、他意がないことは明らかであることを確認しておきたい。
(3)本仏論について
末法の御本仏が日蓮大聖人お一人であられることは「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」との御金言のごとく、末法万年にわたって変わらぬ根本義である。また学会の半世紀にわたる苦闘の歴史は、すべてこの日蓮大聖人が末法御出現の御本仏であることを、折伏をもって世界に知らしめてきた。
日常の自行において、また化他行において、すべて日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、日蓮大聖人の魂をとどめられた御本尊を信心の根本対境とし、日蓮大聖人の仏法の広宣流布を実践の大目的としてきたのが、学会精神の骨髄である。
故に、学会には本来、会長本私論などということは絶対にない。
歴代会長を折伏仏教、広宣流布の指導者として尊敬し、またさまざまの指導をうけ、心からの信頼を寄せていることは、会員の自然の心情である。そのことを宣揚するあまり、あたかも大聖人と等しいがごとく受け止められる過大な言葉や表現を用いることは、厳重に慎しまなければならない。
戸田前会長のことを「地涌の菩薩の棟梁」といったことがあるが、これは在家における折伏仏教のうえの指導者という意味で使った。戸田会長自らいわれた言葉でもある。
ただし、不本意ながら、文は意を尽くさずで、要旨としてまとめたとき、文脈上、上行菩薩の再誕即御内証は久遠元初自受用報身如来の再誕・末法の御本仏日蓮大聖人に通じるかのような文体となってしまった場合もあった。したがって、今後こうした言葉づかいに十分注意していきたい。
また、我々が地涌の菩薩というのは、御書の「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との御文等によったのであり、この表現自体は許されると考えられる。
しかし、それは総じての立場であり、別しての日蓮大聖人に対するときは、地涌の菩薩の眷族というべきである。
牧口初代会長を一般用語として一時「先師」と呼称したことがあるが、正宗では二祖日興上人が宗祖日蓮大聖人のことをいわれた言葉である。したがって、会長もすでに述べているように、恩師戸田前会長と区別する意味で使用したことがあるが、今後はともに恩師と呼称し、初代会長を先師と呼ぶようなことのないようにしたい。
「諸法実相抄」の「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが…」の御文を講義する際、学会において初代会長、二代会長が唱え始められたとの表現があったが、現時点における学会における歴史的事実を述べたものであった。しかし、こうした論述をする際も、大聖人がただお一人唱え始められたお題目であることを銘記し、僭越にならぬように注意したい。
会長に関して「久遠の師」という言葉を使った場合があるが、これは師弟の縁が深いことを述べようとするあまり、行き過ぎた表現であった。正宗では久遠の師とは大聖人のことであり、今後、こういう表現を用いない。
「大導師」という表現を使ったこともあった。御書に「日蓮等の類いは善の導師なり」とあるように、仏法弘通の人は「導師」である。ただし「大導師」という言葉は正宗では総別ともに大聖人と血脈付法の日興上人等であられる。故に今後例えば初代会長を大導師と呼ぶような表現は使わないようにしたい。なお「本門弘通の大導師」とか「学会総体に久遠元初の生命活動を確立し」といった人がいるが、それは明らかな誤りである。
「人間革命は現代の御書」という発言については、会長もすでに明確にしているように、明らかに誤りである。
「帰命」という言葉は、正宗では仏に対してのみ使う言葉である。当初は「妙法への帰命」を大前提として「師への帰命」といったが、それが一部で「人への帰命」といった表現にまでエスカレートして会長が本仏であるかのような使われ方がなされた。これは誤りであり、帰命という言葉を安直に使用しては絶対にならない。なお「境智冥合」とは、境とは御本尊であり智とは信心である。したがって、会長と呼吸を合わせることを境智冥合などと、安易に使ってはならない。
「師が地獄に行けば弟子も地獄に行く」といったことについては、同志間の強い絆、苦悩の共有ということを強調しただけで、教義上の意義で用いたわけではないが、正宗では即身成仏であり、誤解を招きやすいので、今後使わない。
正宗では主師親三徳具備のお方は、日蓮大聖人お一人であられる。第九世日有上人の仰せに「高祖日蓮聖人ノ御抄ニハ、日蓮ハ日本国ノ一切衆生ノ親ナリト遊シテ候モ今ハ人ノ上ニテ候。但今ノ師匠在家ニテモアレ、出家ニテモアレ、尼・入道ニテモアレ信心無ニニシテ此妙法蓮花ヲ能ク進ムル人乃チ主師親也、能ク能ク心得ヘシ」とあるのは、総じての立場から述べられたと拝する。
したがって、信心修行に関する指導のなかで、あえて凡夫の我が身にふ師親三徳が具わることを強調する必要はない。我々凡夫が仏知見を開いたとしても、そのところに主師親が具わるということは行き過ぎである。
なお十数年前に、ある教学部講師が、筆記試験に際し、主師親三徳を現代生活のうえから説明するにあたって、会長と結びつけた表現のものがあったが、これら行き過ぎについて、今後十分注意したい。
なお「ひのくに」については「会長が久遠の師」とか「会長の振る舞いが法であり、それに帰命する」「大聖人の御書を寸分たがわず身に移し、実践されている」等の趣旨のかなり逸脱の部分があるので、すでに廃刊処分にした。
こうした内容表現は、今後絶対に使用してはならない。「潮流」についても同じ考えである。
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from: 21世紀さん
2009年03月26日 23時37分50秒
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「Re:昭和52年路線」
池田名誉会長挨拶(お座替式の祝辞)
S54.8.6『大日蓮』S54.9・20頁)◆謹んで、総本山第67世御法主日顕上人猊下の御座替の儀を、一同衷心よりお喜び申し上げます。この法水瀉瓶、法統連綿の尊厳なる儀式に参列できましたことを、私どもは心から喜び、万感の思いで日顕上人猊下の御姿を歓喜をもって拝すのでございます。(中略)今後私共は、益々御法主日顕上人猊下に御奉公の赤誠を尽くすことを、固く固くお誓い申し上げまして、簡略ながら本日の御祝詞とさせていただくものでございます
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