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from: 21世紀さん
2009年02月27日 11時42分48秒
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御法主上人猊下御講義 立正安国論
於夏季講習会第1・2期<立正安国論講義の開講に当たって>皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗
於夏季講習会第1・2期
<立正安国論講義の開講に当たって>
皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗門僧俗一致しての正法護持興隆・行学増進に励む次第であります。そういうことから、本年度よりまた、この夏期講習会を始めることになり、今回は第2期に当たります。昨日から、それぞれ担当講師によりまして、折伏その他のいろいろな重要な行学に関する話があったことと思うのであります。
本年度は『立正安国論』正義顕揚750年を6年後に控えた、その最初の年といたしまして、『立正安国論』を拝読して、皆様と共に大聖人様の深い御仏智を拝したいと思うのであります。それで、講義の内容を考えましたが、『安国論』の始めから終いまでの御指南の量は、たとえば『開目抄』とか『報恩抄』『撰時抄』というような御書はとても長い御書でありますが、それに対してもっと短い御書も御消息等においてはあるわけで、この『安国論』は、ちょうどその中間くらいの長さになります。
そこで、全10期にわたっての講義の内容をどのようにしたらいいかということを考えた挙げ句が、『安国論』全体を5つに分けさせていただき、第1期と第2期を最初の部分、次のところを第3期と第4期というような形で行うことにいたしました。したがって本日は、先般の第1期のときに拝読いたしました『安国論』の最初の部分を、もう1回拝読する次第であります。
<安国論建白の背景と意義>
最初に、この『安国論』は、どのような縁由によって示されたかと申しますと、その当時、数年にわたって大風・大雨・洪水・飢饉・疫病・大地震等の災害がずっと重なったのであります。これは日本国中が正に背き、邪を行っておるところの謗法に因るということを大聖人様が御覧になりまして、しかも王臣共にこれを覚らず、したがって仏の弟子としてその謗法を戒め、不義・邪悪を諌めるということが、この『立正安国論』を作り、最明寺入道時頼に献じられたその意義であります。
しかし、これは一往、文に付しての形の上からの縁由でありますが、再往の深い元意におきましては、久遠元初自受用報身という根本の仏様が末法において再誕をせられ、そして法華本門の下種の大法を、その大行者たる日蓮大聖人によって末法万年の正法広宣流布のため、一切の民衆、一国乃至全世界への折伏諌暁の書であると拝して、しかるべきと思うのであります。
その時は、人皇(にんのう)90代・亀山天皇の御宇(ぎょう)でありました。いわゆる文応元(1260)年7月16日に奏呈をされました。そのときの将軍は、鎌倉9代の中の第6代・宗尊(むねたか)親王であり、執権は北条長時という人でありましたが、政治の実権はその前に執権を務めた最明寺入道時頼の手にあったのであります。時頼は4年前の康元元(1256)年に落髪をして入道となりましたが、なお政務に携わっており、したがってその政治の権力を持つ実力者として存在しておりましたから、宿屋入道光則(みつのり)に託して、この『立正安国論』を時頼に献ぜられた次第であります。
その主意は、第一に未来の大災難、これは経文等に明らかに示されるところの自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難と他国侵逼(たこくしんぴつ)の難、この2つは、それ以外のたくさんの災難が現れておるこの時点においても、まだ現れていなかったのであり、かかる大災難の起こるべき所以を、予言書として示されたのであります。第二に、その災難の原因としての謗法の誤りを指摘して、これを強く諌められておる。すなわち仏法上の謗法に対する諌めであります。それから第三には、衆生の現当二世にわたる救済のために、その謗法の罪を糾されるという意義があります。
しかるに、文永9(1272)年の2月にこの予言の一つである自界叛逆の難が起こりました。さらに文永11(1274)年10月と弘安4(1281)年5月の2回にわたって蒙古の国が攻め寄せてきて、他国侵逼の災難の大予言が、まさに寸分も違わず的中したわけであります。これまさに、このことを通じてさらに下種の御本仏が未来末法万年にわたるところの日本乃至世界における真の正法護持、立正安国により真の平和に至る道を示された大予言であり、その大指針であります。
<安国論の題号について>
次に、「立正安国」の題号ということについて申し上げます。
「立正安国」というのは「正を立てて国を安んずる」ということです。この依拠は経文にたくさんありますけれども、法華経の『方便品』に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(法華経124ページ)という文があります。すなわち、従来の爾前経、大乗・小乗等の四十余年の経々はすべて方便教であるということを、釈尊自らがはっきりと決定した上で「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということを説かれたのであります。この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道を説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる「破邪顕正」が、この「立正」であります。
次に、「正」の内容は非常に深く、また広いのであり、すなわち五重相対が考えられます。これは第一に内外相対、次が大小相対、第三番目が権実相対、第四番目が本迹相対、第五番目が種脱相対で、この5つの相対の上からはっきりと浅深勝劣をつける。そこに本当の「正」の意義と衆生を開導する徳が現れるのであります。
・内外相対
第一の「内外相対」ということは、内道すなわち仏教は法界の一切と過去・現在・未来の三世にわたるところの正しい原因・結果、さらに因縁・果報ということをはっきり正しく述べておるのであります。しかるに、外道たる他の哲学・宗教等においては、このところがまことにはっきりしておりません。イスラム教やキリスト教など、その他世界中にはたくさんの宗教がありますけれども、それぞれの神様が出来た原因は、全く説いておりません。神は元々存在するというのです。しかし、これは一切万物の、原因があって結果があるという理法に反するのです。仏教においては、仏も仏としての原に成る原因がある。また、それによって一切衆生がその筋道の上から本当の仏の修行と悟りに基づいて、真の幸せを得ることができるという次第であります。
また、因縁因果は、そのまま善因善果、悪因悪果という大原則に通じています。この善因は必ず善果を生じ、悪因は悪果を生じるという因果の理法が徹底していないために、今、世の中において「目前の結果さえ良ければ、悪いことをしても平気である」というような誤った思想が現れておるのであります。その悪見が、今日の世界の様々な不幸と大動乱を起こしておるということが言えるのです。
したがって、内外相対した場合に、「内道」の仏教と、仏教以外の教えの「外道」との相対において、仏教が因縁因果の道理を説く故に本当に正しい教えであるということ。その筋目から見ないと、この『立正安国論』のこれから拝読していくところの本当の意義が判りません。やはり仏の教えをきちんと正しい意義と筋道において見ることにより、はじめて「正」が立つわけであります。それが第一の内外相対であります。
・大小相対
次は「大小相対」です。この「小」というのは小乗のことで、同じ仏教の中でも小乗と大乗の区別があり、仏教は外道に対すれば正しいけれども、大乗と小乗を内容の上から相対すれば、小乗は非常に視野が狭いのであります。教えの内容が、単に六道の迷いから抜け出して、より安穏な灰身滅智(けしんめっち)のところに行こうということにすぎません。ですから法界全体の存在とその因果の姿、またその大きな法界観、世界観によるところの修行の道が欠けているのであります。したがって、小乗は自分だけが迷いを去って悟りを開けばいいということだけで、他の苦悩の相を見ることができないのです。
しかし実際には、世の中は決して自分一人だけの存在ではありません。必ず他との関連において善悪、正邪、幸不幸等、あらゆることが存在するのです。したがって、自分が善い行いによって幸せになっていくと共に、他をも導いていくということがなければならない。故に、小乗は「空」の真理を示すのみであるのに対し、大乗は「空」と「仮」と「中」の真理観が説かれます。それらをはっきりと示して、全体観の上から教えを説くのが大乗の教えであります。
したがって、小乗と大乗を相対するならば、小乗に対して大乗こそ真実の正法であるにもかかわらず、小乗が大乗に背くならば邪の意義が生じます。故に「正を立てる」とは、小乗を廃して大乗を立てることが大小相対の意味であります。
・権実相対
次が「権実相対」。「権(ごん)」とは「かりのもの」方便の意で、「実」とは真実の意です。仏教五千七千の経巻を大きく分ければ、方便と真実に分かれます。この方便教として華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の四十余年の諸経が説かれておりますが、それに対して「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」と、釈尊が法華経においてはっきりと宣言され、法華経こそ一切の衆生を真に導き幸せにするところの教えであると示されました。
そうすると、この権教によって宗旨を立てておるところの、いわゆる念仏・禅・真言・律等、様々な仏教における権大乗の宗旨は、すべて正法を無視し、正法の意義と価値に背いておるところに邪の意味があるのです。その邪を打ち破って、真実を立てるところに権実相対における「立正」の意義があります。特にこの『立正安国論』においては、大聖人様の御一期(いちご)のうち最初の御化導の形として、まず第一に法然(ほうねん)の念仏宗の邪義を中心として破折されており、これがこの権実相対の内容からの破折に当たるのであります。
・本迹相対
その次が「本迹相対」です。これは法門の上から言うならば、本門の大法をもって根本とし「正」といたしますから、爾前迹門にとらわれた考え方は邪法となります。その法華迹門を中心とする宗旨として天台宗があります。これは一往、法華経の教えをもって正しく仏法を立てたものであるけれども、まだ権実相対までがその教義の主意になっておりまして、きちんとした形で本門と迹門とのけじめがついていないのであります。これは迹門付嘱の天台や伝教の法義としては当然のことなのです。
しかし、すでに時の過ぎた、像法の時代の衆生を導く法華迹門にいつまでもとらわれることは邪法となり、末法においては法華本門の教えをもって爾前迹門との区別を立てていくところに「立正」の「正」という意義が存するのであります。
・種脱相対
[本尊] 最後は「種脱相対」です。これは下種の法華本門の教えこそが本門の宗旨の実体であり、大聖人の御出現の目的でありますから、その種脱に迷乱するところの日蓮他門家はことごとく、「立正」と口では言っても真実の「立正」ではありません。それは何かと言えば、下種の本尊とその三大秘法こそが真の「立正」の「正」という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての「立正」とは、三大秘法の妙法大漫茶羅、本門戒壇の本尊であります。その意義はすでに大聖人の『立正安国論』の中に深く篭(こ)められておるわけですけれども、ただ化導の具体的な形としては、文永、建治、弘安等、御一生の御化導の上から、それが次第に現れてくるのであります。
さて、「立正」とは「三大秘法」であるということよりして、この「正」とは何かと言うと、第一には「妙」ということなのです。「妙」が「正」、「正」がまた「妙」です。ですから「妙」ということを離れて真実の「正」はないのです。
故に「妙」についてさらに本仏の悟りを拝するならば、それは「妙法蓮華経」の五字であります。この妙法蓮華経の法体のもとについて、大聖人様が『観心本尊抄』に仰せであります。すなわち、末法万年を救う法華経の根本的な付嘱の要旨として、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊・薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏…」(御書654ページ)と示されております。右の文の「本尊の為体」というところに、特に注目すべきです。
すなわち妙法蓮華経とは、地涌の菩薩に付嘱された法華経本門の根本の法体としての本門の本尊なのです。ですから「立正」の「正を立てる」ということは、三大秘法を立てるということであり、その第一は「本門の本尊」を立てることであります。本門の本尊を正しく立てることが「立正」の「正」なのであります。
[題目]さらに、この御本尊を顕す目的は、一切衆生に正しい修行をさせるためである。ですから、この正境の本尊に縁するということは、正しい本尊に縁して初めて信心が正しくなるわけです。信心が正しくなるから、また「行」というものが正しくなるのです。もし間違った「行」をしていたら大変です。いつの間にか不幸になっていき、未来は地獄に堕ちるような結果となります。
すなわち正しい「行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これがいわゆる「行」についての「立正」であります。ですからこれは「本門の題目」です。
[戒壇]また、次に「正」とは「一」に「止」まると書きまして、この「一」とは、三に非ず、五に非ず、七に非ず、九に非ず、三乗、五乗、七方便、九法界を超絶し、かつこの一切を含む久遠元初の実相たる人法体一の法体です。これについて、「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」(同1569ページ)という『南条殿御返事』の中の大事な御文があります。その御本尊を所持されて末法に出現し給う大聖人様のおわしますところ、またその御魂を墨に染め流して御顕示あそばされた本門の本尊のところに妙法の法体が止(とど)まるわけであります。
「止まる」とは、すなわち住する、そこに存在するということです。したがって、止まり住するということは、本尊の住するところの意義であり、すなわち「本門の戒壇」であります。ですから、先般、皆様方の尊い御供養によりまして立派な奉安堂が出来ました。この奉安堂に本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げておるところが、すなわち本門の戒壇であります。
さらに、戒壇に関する根本的な大聖人様の御指南の上から拝するならば、『一期弘法抄』『三大秘法抄』のごとく、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)と示された戒壇は、また広宣流布の時の戒壇です。そのような意味において、日本国乃至世界の衆生の妙法受持の功徳をもって立てる事の戒法の顕現たるところの戒壇。それがまた「立正」の「正を立てる」という意味に当たります。故に「立正」とは、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、すなわち三大秘法であるということ、これをまず申し上げておく次第であります。
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from: 21世紀さん
2009年02月27日 16時10分51秒
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「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
次に、仁王経を引かれます。
仁王経に云はく「仏波斯匿王に告げたまはく、是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」已上。
・仁王経に云はく、
この「仁王経」というのは、国土を正しく治め守るという内容において、波斯匿王に説かれたのであります。
・「仏波斯匿王に告げたまはく、
この「波斯匿王」は、当時インドに舎衛国(しゃえこく)という国があり、その国の王で、釈尊と同じ日に生まれているのです。また勝軍王という名前が付いており、戦って負けたことがないという、大変武力に勝れた王であったということです。
・是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」已上。
その波斯匿王が深く仏法を信じ、釈尊の教えを受けた因縁から、釈尊は波斯匿王に対して仁王経を説いたのです。これは国王のごとく広く強い勢力の威力を持っておる方が、仏法を受けて正しく護持し、それによって国を治め、多くの人々を幸せにすべきであるという意義から、この経を国王に付嘱されたのです。それに対し、国王のような威力を持たない比丘・比丘尼や、一般の人には付嘱をしないというわけであります。
結局この国王への付嘱という趣意は、正法を護り弘めるための、王様に対する特別な意味を述べておるのです。
涅槃経に云はく「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし」と。又云はく「仏の言はく、迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・無槊(むさく)を持すべし」と。又云はく「若し五戒を受持せんの者有らば名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。五戒を受けざれども正法を護るを為て、乃ち大乗と名づく。正法を護る者は、当に刀剣器仗を執持すべし。刀杖を持つと雖も、我是等を説きて、名づけて持戒と曰はん」と。
・涅槃経に云はく、
次は、涅槃経の『長寿品』を引かれます。
・「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。
これは国王にも付嘱するが、国王のみならず、さらに大臣や宰相、四部の衆にも付嘱をするということです。「四部」というのは、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷です。
・正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし」と。
すなわち、国王とさらに多くの方々に付嘱をし、その国民的意義において、もし正法を毀り、背く者があったならば、これをまさに「苦治すべし」、つまり懇(ねんご)ろにその悪心を治むべきであると示されるのです。
・又云はく、
次は、苦治についてより強い意味で述べられており、涅槃経の『金剛身品』の引文であります。
・「仏の言はく、迦葉
これは迦葉菩薩に対する説法で、迦葉が如来の法身の金剛不壊を得られた原因を質問したその答えです。
・「能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。
すなわち仏は「正法を護持する因縁によって、私はこの金剛身を得ることができたのである」と答えます。この金剛の身というのは強く堅固で、どんなことをしても破ることのできない身という意味です。「金剛」というのは金剛石、ダイヤモンドですから、固くて破ることができない。そのように仏の身は破ることができないという意味であります。
・善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・無槊(むさく)を持すべし」と。
続いて、その正法を護持する方法としては、五戒を受けず威儀を修することをしないで、刀剣等の武具を持つべきと言われるのです。けれども、この「五戒」というのは、人間のあらゆる生活の道徳上の基本です。つまり不殺生戒・不偸盗(ちゅうとう)戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒(おんじゅ)戒の5つですが、そのうちの特に不飲酒戒を除く4つは、先ほど言った殺生・偸盗・邪淫・妄語ですから、そういうことを行うのは基本的にはいけないことです。ところがそれをあえて「そういうことにとらわれるよりも、正しい仏法を守ることこそ大切である」という心であります。
次の「威儀」とは三千の威儀という言葉があり、釈尊教団の正式な比丘は二百五十戒という多くの戒を受けました。その二百五十戒を、行住坐臥と言って、人間生活の基本たる4つの行為の中で持つが故に、これが千になり、その千にさらに過去・現在・未来の三世を合わせますから三千となるのです。つまり一切にわたってこの戒を持っていくのが、威儀を修するということであります。
けれどもここでは大乗の教え、特に法を護るということからすれば、それらを修する必要がなく、その代わりに、刀や弓・矢・槍などの武器を持てと言うのです。これはつまり邪法邪義をもって正法を破る者があるならば、守護のために刀や槍などの武具を持てと言うのです。しかし、あえて殺せということではありません。正法の人を迫害するような者がもし来た場合には、刀を用いても法を護るために武装を許すという意味であります。
この例が、ずっと日本国の仏法にも伝わっておりまして、総本山での御大会のときにも、客殿から御影堂へ向かって行列が進みますが、そのときに総代の一人が裃(かみしも)姿で刀を持っております。あれが古式により刀剣を持って法を護るという姿です。その元の教えがここに述べられておるわけであります。
・又云はく、
次も前と同じく『金剛身品』の文です。
・「若し五戒を受持せんの者有らば名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。
つまり「五戒」は、小乗大乗に通ずる戒ですが、小乗からも出てきます。故に五戒のみを受けることは、むしろ小乗の意味になって、本当の大乗の戒を持つことにならないのです。
・五戒を受けざれども正法を護るを為て、乃ち大乗と名づく。
そして、すなわち正法を護ることが本当の大乗の戒であると、ここで言われておるわけです。
・正法を護る者は、当に刀剣器仗を執持すべし。
したがって、正法を護る者は、その必要に応じて刀や剣・兵器・杖、そういう敵を打ち倒すものを持って法を護るべしということであります。
・刀杖を持つと雖も、我是等を説きて、名づけて持戒と曰はん」と。
それで五戒等の個人的な道徳・規範、特に不殺生戒の規定にとらわれるよりも、大乗の法を護るために刀杖を持つことが、真に戒を持つことと示されるのです。
次も『金剛身品』ですが、これから先は、実際に法を護ることを行った聖者の過去の実例を挙げておられるのです。すなわち有徳王・覚徳比丘の事蹟であります。
又云はく「善男子、過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまふこと有りき。歓喜増益如来と号したてまつる。仏涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ。爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼む。是の時の国王名を有徳と曰ふ。是の事を聞き已はって、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。爾の時に説法者厄害を免るゝことを得たり。王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言はく、善きかな善きかな、王今真に是正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。王是の時に於て法を聞くことを得已はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生ず。而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿仏の国に生ず。覚徳比丘却って後寿終はりて亦阿仏の国に往生することを得て、而も彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是くの如く受持し擁護すべし。迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是なり。説法の比丘は迦葉仏是なり。迦葉、正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳し、法身不可壊の身を成ず。
・又云はく「善男子、過去の世に・・・余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ。
これは歓喜増益如来の化導において仏の滅後、正法が長く住し、次に「余の四十年仏法の末」とありますから、像法か、あるいは末法の時代に入ったのでしょう。その時に1人の持戒の比丘、戒を正しく持つ僧侶があり、その名を「覚徳」と称しました。
・爾の時に多く破戒の比丘有り。
そのときに、また多くの破戒の比丘があり、この者たちは正法を誹謗する一闡提の破戒に当たっていたと思われます。
・是の説を作すを聞き
「是の説」とは、僧侶たる者は修行と衆生化導を根本とすべきであり、物欲に頼ってはいけないと、覚徳比丘が破戒の者を諌(いさ)めたことを言うのです。
今の宗教団体の者たちの中には、信者から供養されたお金をもって、いろいろな事業をしたり様々なことを行って、直接金儲けをするような姿もあるようです。そういうことは、宗教者としてはよくないのです。ですから我が日蓮正宗では、そういうことは絶対にいたしません。僧侶が商估(しょうこ)に類する金儲けをするようなことはしてはいけないということが、『宗規』の中にも規定されているのです。ところが当時は、そういうことをしていた破戒の僧侶がおり、それを誡められたのが、この覚徳比丘であります。
・皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼む。
そして、破戒の比丘らはその言を聞き終わって、覚徳を殺そうという悪心を生じたのです。
欲のある者は、その欲の道を断たれると、非常に怒りを生ずるものです。これは現在の世間でも皆同じで、いろいろな悪いことをして金儲けをしている人間は、そのことを閉じられようとすると怒り狂って、あらゆる悪巧みをします。そのために人を殺したり、様々な迫害を及ぼすのであります。このときの破戒の僧侶もこれと同様、覚徳比丘を非常に憎み恨んで、殺そうとしたのです。
・是の時の国王名を有徳と曰ふ・・・是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。
そのときに有徳という国王がこれを聞いて説法者のところに駆けつけて、破戒の比丘らが覚徳比丘を殺そうとするのを防ぎ、身を挺して戦いました。
・爾の時に説法者厄害を免るゝことを得たり。
その結果、覚徳比丘が悪い僧侶どもから殺される厄害を免れることができたということです。
大聖人様が文永元(1264)年11月11日、房州小松原において東条左衛門ら数百人に襲われたとき、直檀・工藤左近吉隆殿が身を挺して大聖人を守って戦い、ついに討ち死にされたのも、まさにこの仏法守護の実例であります。
・王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。
その戦いによって有徳王は身体のあらゆるところに、敵の刀による傷を受けて、瀕死の状態であったということです。
・爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言はく、
この王のまさに臨終のときに及んで覚徳比丘は、王に対しその捨身の行為を讃歎します。
・善きかな善きかな、王今真に是正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。
「あなたは本当に正法を護る方である。この功徳によってあなたの身は将来、無量の智徳を持つ法の器となるであろう」、つまり仏と成るであろうと言われたのです。
・王是の時に於て法を聞くことを得已はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生ず。
有徳王はこのことを聞いて心に大いなる歓喜を抱き、そこで命を終わりました。この王様は、その功徳をもって阿仏という仏様の国に生じたということです。この阿仏は、法華経の『化城喩品』に、大通智勝仏の十六王子の成道を示される中の一番目の仏としてその名があります。
・而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。
この王はその仏の国土に生じて、その仏の第一の弟子となったのです。
・其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者・・・命終して悉く阿仏の国に生ず。
また王様の臣下として極めて共に戦闘した人たちが皆、一緒に阿仏の国に生じて、立派な菩提を成ずることができたと言われるのです。
・覚徳比丘却って後寿終はりて亦阿仏の国に往生することを得て・・・第二の弟子と作る。
さらにこの覚徳比丘もまた、死んだ後に阿仏の国に生じて、その仏の第二の弟子となったということです。
この過去の事例を挙げられた釈尊は、正法がまさに尽きようとするときには、我が命を捨ててもこのように法を受け持ち、護るべきであるとおっしゃるのであります。
大聖人様は、内・大・実・本・種の五重の深義の上から、三世にわたり一切衆生を救う究極の仏法たる三大秘法を正しく弘めていくためには、まさにこの根本の法を命懸けで護るということをあくまでも根底とされております。これは『三大秘法抄』のあの大事な戒壇の文の中に、「有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」(御書1595ページ)と示され、究極の戒壇建立の大事に関し、有徳王・覚徳比丘の故事を引き給うところに明らかであります。もって深くこのお示しを拝すべきであります。
・迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是なり。
さて釈尊が迦葉に対して呼びかけ、示されたのは、そのときの王すなわち有徳王とは、釈迦仏の前身であるということをおっしゃるのです。
・説法の比丘は迦葉仏是なり。
次の「説法の比丘」すなわち覚徳比丘とは、迦葉仏と成った方と言われます。「迦葉仏」は、釈尊が出現する前に出られた仏様であります。
・迦葉、正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳し、
そして、このように命を懸けて法を護る因縁があったから、結局、無量の果報たる仏の相を得ることができたと言われるのであります。仏の相には、三十二相八十種好というのがありまして、それらはみんな非常に勝れてめでたい相なのです。百福荘厳と言って、無量の善を行って一相を得ると言います。しかし、その元は護法の因縁によると言われるとおり、仏様は根本の正法を護る徳によって、三十二相という種々の相を得られたということです。
・法身不可壊の身を成ず。
「法身」とは、法界を体とし、その大真理と一体の身を言います。それは広大深遠の徳がある故、壊(やぶ)ることができない、それを「不可壊」と言うので、そういう尊い身を成じたと示されるのです。
仏、迦葉菩薩に告げたまはく、是の故に護法の優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし。善男子、我涅槃の後、濁悪の世に国土荒乱し、互ひに相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん。是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。刀杖を持つと雖も我是等を説きて名づけて持戒と曰はん。刀杖を持つと雖も、命を断ずべからず」と。法華経に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。
・仏、迦葉菩薩に告げたまはく、是の故に護法の優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし。
そこで以上の護法の功徳を受けて、仏は迦葉菩薩に向かって、在家の信者はまさに刀杖を帯して法を護るべきであると説かれます。
・善男子、我涅槃の後、濁悪の世に国土荒乱し、互ひに相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人(とくにん)と為す。
その故は未来においても仏の滅後、濁悪の世に国土が乱れ、お互いに他の物をかすめ取り、人民が飢え苦しむときに、まことの道心もなく、飢えを凌(しの)ぐために出家して、民の供養を受けつつ不善をなす者が出るであろう、これを「禿人と為す」と言われます。
・是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん。
この「禿人」というのは、要するに心が非常に荒(すさ)んでおり、自分の欲のために出家をする人です。今日では、我がまま勝手に宗教を翫(もてあそ)ぶ者たちがこれに当たります。道心の上から正しい法を護り、多くの人々を導こうという僧侶は大切ですが、そうではなく、権力欲・支配欲・独占欲等の自分の欲のため、栄耀栄華を得るために僧侶や宗教者になる。「あれは宗教家だ」ということで御供養してくれることを見込んで指導者の振りをする。要するに、欲のためですから、正しい法を行ずる人を見て、必ず怒りを生ずるわけです。
今、創価学会が宗門に対して邪悪な怒りを生じ、あらゆる罵詈・誹謗を行っています。けれども、私どもは決して彼らを怒っていません。地獄に堕ちる気の毒な者共だから救わなければならないと思うものです。これが、私どもの常に折伏をしようという心です。しかし彼らは、あらゆる点で嘘が多く、しかも正しい人にありとあらゆる迫害・妨害をする。これは心中に我欲が充満しているから不当な怒りを生じておるのです。つまり、その一番の元に彼らの邪悪な欲望がある。ですから、この「禿人」と同じなのです。つまり欲によって自分たちの宗教を誤魔化して立てながら、その欲をあくまで貫こうとするために、正しい僧団を見て怒りを生ずるわけです。仏説は、このように未来、末法濁悪の謗法者について、きちんと説かれておるのであります。
・是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。
そこで、そういう正法を持つ比丘を護るために在家の方が、場合によっては刀を持ち、杖を持ち、説法者を守り、同伴することを許されているのです。
・是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。
そしてこの行為こそ、戒を持つ善人として讃めるべきであると言われます。
・刀杖を持つと雖も、命を断ずべからず」と。
しかし、そこで最後の言葉として、刀杖を帯びることについて一言きちんと釘を打たれていることに注意すべきです。すなわち刀杖等の武器を持っておるからといって、軽々しく人の命を奪ってはいけないと言われるのです。ここに刀杖の許可を挙げながら
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