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from: 21世紀さん
2009年04月03日 22時44分55秒
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第六十八世御法主日如上人御講義・御指南
第四回法華講夏期講習会①
御法主日如上人猊下御講義
折 伏 要 文 法華講夏期講習会 第一期(平成18年5月28日) 於 総本山客殿
皆さん、おはようございます。
本年度の法華講夏期講習会の第一期に当たりまして、皆様方には多数の御参加、まことに御苦労様でございます。
この夏期講習会で培われたたくさんの知識と体験、これらは今後の皆様方の信心の上において、まことに大きな力になっていくものと思います。
したがいまして、この夏期講習会におきましては、皆様方も真剣に取り組んでいただいて、また今日は第一期の方々でありますから、まだ申込みをしておられない方々がおられましたら、ぜひとも講中の方々に参加を推進・啓蒙していただきたいと、このように存する次第であります。
さて、私も前御法主日顕上人猊下の後を継がせていただきまして、昨年十二月十六日に総本山に入り、そして本年四月に代替法要をさせていただいたわけでありますが、それからまだ半年も経っておりません。
私も総本山に入った当初は、いろいろと戸惑うことがたくさんありました。けれども、そうした中で様々な行事や時間帯等についても、少しずつではありますけれども、慣れてきたような状況であります。
そんな状況の中で今回、私にとりましては第一回の講義を行うことになったのであります。そこで本年度の私の講義のテーマを「折伏」といたしました。テキストには折伏の要文を挙げまして、これを皆様方と共に勉強していきたいと考えた次第であります。
今、宗門が僧俗一致してなすべきことは、やはり前御法主日顕上人猊下から賜った「地涌倍増」と「大結集」、これを何としても果たしていくために絶対に欠かせないのが折伏であります。つまり、折伏の伴わない地涌倍増はないわけでありますから、地涌倍増の絶対要件は折伏であります。また同時に、大結集も同じ意味がありまして、折伏の伴わない大結集は、それは単なる数集めであります。それではやはり日顕上人猊下が意図せられたところとは反してしまうと、このように考えます。
本年は「決起の年」であります。「決起」とは文字通り、決意して行動を起こすことです。では、いかなる行動を起こすのかと言えば、それは明らかに広布への闘いであり、平成二十一年の御命題達成に向けて前進をしていくことであります。その御命題の主たるテーマというのは、まさしく「地涌倍増」と「大結集」、つまり折伏であるということであります。
そういう意味から私は、本年度は折伏の要文を挙げて、その要文を中心に話をしていきたいと考えた次第であります。
さて、テキストの一ページを開いていただきますと、
法華経
とあります。法華経の中にも、折伏についての御教示がありますので抽出をした次第であります。
主に御書を中心に話をしていきたいと思いますが、その前に、法華経の中には、どのように説かれているかということについて話をしたいと思います。
御承知の通り法華経というのは、釈尊が本懐として説かれた経典であります。したがって、法華経八年の説法というものは、まさに重要中の重要であり、それ以前の四十二年は方便権教であります。
この法華経の精神とは何かと言うと、これは天台も言っておりますけれども、
「法華は折伏して権門の理を破す」(法華玄義釈籖会本 下 502頁)
ということです。権門というのは、権(かり)の教えということで爾前権教のことです。
つまり、法華経の精神、法華経の思想そのものが折伏にあるわけです この折伏というのは、一切衆生を救済する、すべての人たちを幸せにしていく慈悲行なのです。このような意味から法華経の精神というのは、すべてを救っていくことなのです。
これは法華経そのものも、そうでありますが、仏様の出世の本懐そのものがそこにあるわけです。仏様は何のために出現せられたかと言えば、これは一切衆生を救済するためなのです。仏様は、自分の自己満足のために世に出て法をお説きあそばされたのではないのです。
開示悟入の四仏知見ということがありますけれども、仏様は一切衆生を救っていくというお命をもってこの世に出現せられたわけです。
つまり、衆生を救っていくということは何かと言えば、それは今で言えば折伏であります。ですから、法華経の精神は、仏様がまさになされようとしたこのお命と全く同じであります。
よって「法華は折伏して権門の理を破す」と、このように仰せられているわけであります。
そういうことから、まず仏様の御出現の目的ということをよく知って、そして各要文を拝読していきたいと思います。 まず、
法師品第十
でありますけれども、この『法師品』には、法華経の弘通の功徳が説かれておりまして、皆様方も御承知の「五種法師」、あるいは「已今当(いこんとう)の三説」、あるいは「衣座室(えざしつ)の三軌」などが説かれておるわけです。
そこで、
「善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん」
とあります。ここに「善男子、善女人」とありますが、善男子とは、仏法を信ずる在家の男性であり、善女人とは、仏法を信ずる在家の女性のことです。つまり、善法を信じていることから「善男子、善女人」と、このようにおっしゃっているわけです。
それから「我が滅度の後、能く竊に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん」というように、法華経を説く方、つまり折伏をする方は、
「当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり」
とあるように如来の使いの者であると仰せです。つまり仏様の代理として、仏様のように振る舞う者であるということです。この「如来の使」とは、まさに仏様の意を体して、仏様がなすべきことを行っていく者をいうのであります。
「如来の所遣として、如来の事を行ずるなり」
「如来の所遣」とは、仏より遣わされた者という意味ですから、言うなれば使いと同じ意味であります。仏様から遣わされた者として「如来の事を行ずるなり」と、このように説かれております。
この「事」ということは、どういうことかと言いますと、衆生に利益を得せしめるために、仏様がいろいろなことをなされることをいうのです。
また、この「事」に対する語として「理」という語があります。特に、天台の「理行」に対して、大聖人様の仏法を「事行」と言いますが、その大聖人の仏法を実践修行する意義が、この「事」という中に存するわけであります。
ですから、仏様が衆生に対して様々な功徳を得せしめんがために説かれた修行を、我々が、理屈だけでなくして、実際に行っていくということが「如来の事を行ずるなり」ということになるわけであります。
何に況や、大衆の中に於て、広く人の為に説かんをや」(法華経321頁)
前の御文では「竊に一人の為にも」とあり、さらに「一句を説かん」とありましたように、わずか一人のために一句を説くことにおいてさえ、大きな功徳があると仰せられました。そこで、このところでは「ましてや、大勢の人に対し、法華経を広く説く功徳はいかばかりであろうか」と説かれるのであります。
折伏をすることは、まさに仏様の使いであり、仏様の所遣であり、仏様の事を行ずる者であると、このようにおっしゃっているわけであります。ですから、折伏をする者は皆、仏様の使いなのです。
仏様は、滅不滅の相をもってすでにお亡くなりになっておられるけれども、その仏様の御遺訓を拝して、仏様のなされることを行っていくところに、大きな功徳が存するわけであります。
仏様の御遺訓に反していたら、仏様の言いつけと違うことをしていたならば、これは功徳が戴けないのです。ですから、仏様の仰せのごとくに折伏を行ずる者には、必ず功徳が生じてくるということであります。
次が、また『法師品』の御文であります。
「若し善男子、善女人有って、如来の滅後に、四衆の為に、是の法華経を説かんと欲せば、云何が応に説くべき」
この「四衆」というのは、比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)のことであります。
この「比丘」とは、お坊さんのこと。「比丘尼」は、尼さんです。それから「優婆塞」は、男性の御信徒。そして「優婆夷」は、女性の御信徒のことであります。
これを四衆と言うわけでありますけれども、この四衆のために、どのようにして法を説いていったらいいのかということであります。
「是の善男子、善女人は、如来の衣を著(き)、如来の座に坐して、爾して乃(いま)し四衆の為に広く斯の経を説くべし」
これが「衣座室の三軌」であります。仏様の滅後に法華経を弘通する三つの方軌が、ここに示されているわけです。「方軌」とは規則という意味で、簡単に言うとお手本ということです。その「衣座室の三軌」が「如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐す」の三つであるということです。
そこで、
「如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是なり」
とあるように、「如来の室に入る」とは、大慈悲心を起こすこと。つまり自らの命の中に一切衆生を救済していこうという慈悲の心を起こすことです。
これは折伏にとっては、極めて大事なことであります。相手を本当に救っていこうという心がないと、やはりその命は相手にどうしても伝わっていきません。
ですから、慈悲の心を持って「この人を何としても救っていく」、「あの人の不幸を何としても打ち破っていく」、そういう慈悲の心を持つべきであるということであります。
ですから、仏様がおっしゃる「如来の室」とは何かというと、この大慈悲心のことをおっしゃっているということであります。
それから、
「如来の衣とは柔和忍辱の心是なり」
この「柔和」とは、素直な心で正法を持つことです。「忍辱」とは、いかなる侮辱や批判、迫害や中傷に対しても一切動揺しない。そしてまた、いかなる逆境の中にあっても、それを乗り切っていくということです。これが「如来の衣を著る」ということです。
ですから、折伏をしていけば非難・中傷を受けるのは当然でありますけれども、そこで挫けてしまって、怖じけてしまって臆病風を吹かせてはだめなんです。どんなことがあっても、それを乗り切っていくという、勇気ある行動が必要なのです。
「如来の座とは一切法究是なり」
とあります。この「一切法空」とは経文に、
「諸法空を座と為す」(法華経 332頁)
とありますけれども、簡単に言うと、一切の煩悩に執われないということです。つまり、すべてに執着せずに大聖人様の教えを弘通していくことが「一切法空」という心であります。
これをもう少し具体的に言いますと
『御義口伝』の中に、
「座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり」(御書 1750頁)
と説かれるように、一切法空とは不惜身命、つまり命を惜しまず折伏をしていく、そういう心であると大聖人様がおっしゃっているのです。
ですから、折伏をするときには、まず大慈悲心を持つこと。そして、どのような非難・中傷、迫害にも耐える強盛な信心を持つこと。そして命を惜しまないという勇気を持つこと。この三つを持って折伏に臨むべきであるということであります。
「是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩、及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし」(法華経 329頁)
と、このように仏様はおっしゃっているわけです。ですから、折伏ができないというときには、この「衣座室の三軌」をもう一度、振り返ってみる必要があります。
本当に自分に勇気があったのか。あるいは本当に相手を救おうという心があったのか。あるいはどんな非難・中傷にも耐え、途中で諦めない心があったのか。これらを一つひとつ反省していけば、どこかに自分が折伏についてつまずいた原因が見出せるのです。
ですから「衣座室の三軌」ということは、まさに弘経の方軌、つまり法を弘めていく、折伏をしていくときのお手本であります。これを常に心していけば、必ず折伏を成就することができるわけであります。
随喜功徳品第十八
この『随喜功徳品』には、皆さん方も御承知の通り、五十展転の随喜の功徳が説かれているのです。
「阿逸多、汝且くこれを観ぜよ」
この「阿逸多」とは、弥勒菩薩のことであります。
「一人に勧めて、往いて法を聴かしむる功徳此の如し」
ここに「法を聴かしむる功徳此の如し」とありますが、実はこの法華経にはすばらしい功徳があるということが、この御文の直前に説かれております。かいつまんで言いますと、
「法華経を聴いた人の功徳というのは、まず利根にして智慧が湧いてくる。それから、声が出なくなることがない。口の息が臭くない。舌は常に病がなく、口にも病がない。そして、歯が黒くなったり黄色くなったりもせず、また欠けたりもしない。唇は垂れておらず、縮んでおらず、厚からず大きからず。鼻は曲がっておらず長からず(趣意)」(法華経 469頁)
と、このような功徳が具わってくることが説かれているのです。そしてまた、
「そのような人は、次もまた必ず善い処に生れてくる(趣意)」(同 407頁)
と、このように法華経の中に説かれているのです。
ですから、「往いて法を聴かしむる功徳此の如し」とある「此の如し」というのは、今言ったような功徳が、たった一人のために法を説くことによってでも具わってくるということであります。
そこで、
「何に況んや、一心に聴き、説き、読誦し、而も大衆に於て、人の為に分別し、説の如く修行せんをや」(法華経 470頁)
と。ですから、一人のために法を説くだけでも、それほどの功徳が具わってくるのであるから、ましてや大衆のために法を説くということになれば、それはとても計り知れないほどの大きな功徳があるということです。つまり、折伏の功徳というものは、まことに甚大であると、このようにおっしゃっているわけであります。
私たちは、折伏をすることによって過去遠々劫以来の様々な罪障を消滅することができるのです。これには不軽菩薩の例があります。 我々、本未有善の衆生は、過去世において様々な罪障を背負ってきています。しかし、その罪障を折伏によって全部打ち消していくことができるのです。
折伏をして種々の迫害、難を受けることによって、ますます信心強盛になり、そして難を受けることによって様々な過去世の罪障を滅していくことができると、このように法華経の中には説かれているわけです。このことを我々は、よく知らなければならないのであります。
次が、
薬王菩薩本事品第二十三
であります。この『薬王菩薩本事品』の中には、
「我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶」(法華経 539頁)
という有名な経文があるのです。つまり、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(同)
ということで、広宣流布の達成する時が必ず来るということが、法華経の中に説かれているのです。
しかし、ここで大事なことは、我々の努力なくしては広宣流布は達成しないのです。ですから、経文には広宣流布を達成する時が必ず来るとあっても、我々が折伏行に励まなければ、その時はどんどん先へ先へと延びていってしまうのです。
したがって、我々の代で広宣流布を達成しようとしていく心意気、その信心が尊いのです。ですから、我々が努力をするということを忘れてしまってはだめだということです。
さて、この『薬王品』の中に、
「善男子、汝能く釈迦牟尼仏の法の中に於て、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳、無量無辺なり」
とあります。「是の経を受持し」とは、法華経を受け持つこと。それから「読誦し」とは読み、諳んじること。「思惟し」とは、心を一つにして静かに考察し、仏様を一心に念じて救済を願うことです。そして「他人の為に説けり」とは、他人のためにこの法を説くということです。その「所得の福徳」、つまり得るところの福徳は、まさに「無量無辺なり」、すなわち計り知れないほどの功徳がそこに存する、折伏野功徳は無量無辺であるということであります。
しかも、
「火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」
と、このようにおっしゃっているのです。妙法法蓮華経の功徳は依正不二の原理によって、つまり妙法の功徳は、自然の力がそこに用(はたら)いて、そして火も焼くことができず、水も漂わすことができない、そういう大きな功徳が必ず生じてくるということです。諸天善神の用きが、そこに必ず出てくると、このようにおっしゃっているのです。
「汝の功徳は、千仏共に説きたもうとも尽さしむること能わじ」(法華経 538頁)
つまり、貴方の功徳は、千人の仏様が説いても、それでもなお尽くすことができないほどの大きな功徳がそこに存しておると、このようにお説きになっておられるのであります。
以上、法華経の中の折伏に関する要文のいくつかを挙げた次第であります。
*折伏要文は単行本としてまとめられ、発刊されていますので、各末寺で購入なさるか、御登山の際書籍販売コーナーなどでお求めください。-
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コメント: 全7件
from: 21世紀さん
2009年04月10日 07時45分29秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
大白法平成18年4月16日号より転載
御法主日如上人猊下 初転法輪
『立正安国論』
宗祖日蓮大聖人『立正安国論』にのたまわく、「広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の網に纏(まつ)はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊(はえ)無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇むべし。
客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。此の経文を披きて具に仏語を承るに、誹謗の科(とが)至って重く毀法の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣(さしお)きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。今世には性心(しょうしん)を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。弥(いよいよ)貴公の慈誨(じかい)を仰ぎ、益(ますまず)愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶(たす)けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誠めんのみ」(御書250ページ)と。
本日は、このたびの代替法要に当たり、宗内僧俗代表の皆様には諸事御繁忙のところをわざわざ御参詣いただき、まことに有り難く厚く御礼を申し上げます。今夕は、ただいま拝読申し上げました『立正安国論』の御文について少々、申し上げたいと思います。
今回、『立正安国論』を拝読させていただきましたのは、皆様方には既に御承知のとおり、今宗門はいよいよ3年後に迫った「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節における御命題、すなわち「地涌倍増」と「大結集」の達成へ向けて真の僧俗一致を計り、異体同心・一致団結して前進すべき、まことに大事な時を迎えております。
かねがね申し上げておりますように、「地涌倍増」と「大結集」は、日顕上人より賜った御命題であり、広布の途上において、私どもが必ず達成しなければならない、まことに重大なる目標であります。なかんずく「地涌倍増」は、今日の如き頻発する地震や地球全体を覆う異常気象をはじめ、内戦や暴動やテロ、そのほか国内外の悲惨な事件や事故など、混沌とした状況を見る時、これら混迷の原因がすべて間違った思想・考え、つまり謗法の害毒にあることを知り、今こそ『立正安国論』の原理に基づき、一人ひとりの幸せと平和な仏国土実現を目指して、宗門僧俗が総力を挙げて推進していかなければならない、最も重要なる課題であります。
かかる時に当たり、このたびの機会を得て『立正安国論』の御意を拝し奉り、もって御命題の達成を誓い、万分の一なりとも仏祖三宝尊の御恩徳に報い奉ることができればと思量し、『立正安国論』を拝読申し上げた次第であります。
『立正安国論』の梗概
さて、『立正安国論』は今を去る747年前、文応元(1260)年7月16日、宗祖日蓮大聖人御年39歳の時、宿屋左衛門入道を介して、時の最高権力者・北条時頼に提出された国家諌暁書であります。大聖人は『撰時抄』に、「余に三度の高名あり」(御書867ページ)と仰せのように、御一代中に三たび天下国家を諌暁あそばされましたが、最初の国家諌暁の時に提出されたのが『立正安国論』であります。
御述作の動機について、第26世日寛上人は、「正嘉元の初め、大地太(はなは)だ震い彗星丈に余り、風雨・飢饉年を累(かさ)ね月を積む。師此の変動の洪基を勘えたもうに、此れ偏(ひとえ)に国中の謗法に由る。王臣之を覚(さと)らず。夫れ謗法を見て責めざるは仏子に非ず、其の不義を見て之を諌めざるは忠臣に非ず、故に此の論を作り以て時頼に献ずるなり」(日寛上人御書文段4ページ)と仰せであります。
すなわち『立正安国論』は大聖人が、日本国の上下万民が謗法の重科によって、今生には天変地夭・飢饉疫癘をはじめ自界叛逆難・他国侵逼難等の重苦に責められ、未来には無間大城に堕ちて、永劫にわたって阿鼻の炎にむせぶことを悲嘆せられ、一往は和光同塵して仏の弟子として、再往は末法の御本仏としての大慈大悲をもって、身命を賭して北条時頼ならびに万民を御諌めあそばされたところの折伏諌暁書であります。
この『立正安国論』は、全体が客と主人との十問九答の形式から成っており、客の最後の問いはそのまま主人の答えとなっております。今その大要を申せば、初めに正嘉元年8月23日の大地震をはじめ、近年より近日に至るまで頻発する天変地夭・飢饉疫癘等の惨状を見て、その原因は世の中の人々が皆、正法に背き悪法を信じていることにより、国土万民を守護すべきところの諸天善神が去って、悪鬼・魔神が便りを得て住みついているためであるとし、金光明経・大集経等を引かれて、正法を信ぜず謗法を犯すことによって三災七難等の災難が起こると、経証を挙げてその理由を述べられ、これら不幸と混乱と苦悩を招いている一凶は、ひとえに法然の念仏であると断ぜられ、この一凶を断ち、謗法を対治して正善の妙法を立つる時、国中に並び起きるところの三災七難等の災難は消え失せ、積み重なる国家の危機も消滅して、安寧にして盤石なる仏国土が出現すると仰せられ、しかし、もし正法に帰依しなければ、七難のうちまだ起きていない自界叛逆難と他国侵逼難の二難が競い起こると予言され、そして速やかに実乗の一善に帰依するよう結んでおられます。
すなわち、『立正安国論』は国家の治乱興亡を透視し、兼知し給う明鏡にして、過去・現在・未来の三世を照らして曇りなく、まさしく、「白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にも劣ら」(御書1055ページ)ざる書であります。
また、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同241ページ)と仰せのように、一往はもっぱら法然の謗法を破折しておりますが、再往元意の辺は広く諸宗を破折しておられるのであります。したがって、一往は念仏破折であり、権実相対の上から破折されていることになりますが、「立正」の意義から拝せば、一重立ち入って天台過時の迹を破し、法華本門を立てて正とする故に本迹相対となります。さらにまた一歩深く立ち入って拝せば、久遠下種の正法すなわち末法弘通の三大秘法の妙法蓮華経を立てて、本果脱益の釈尊の法華経を破するが故に種脱相対となるのであります。つまり、「立正」の「正」とは下種の本尊と三大秘法がその正体であります。
また「立正」の両字については、「立正の両字は三箇の秘法を含むなり」(同6ページ)と仰せであります。すなわち、「立正」とは末法万年の闇を照らし、弘通するところの本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法を立つることであり、正法治国・国土安穏のためには、この本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法の正法を立つることこそ肝要である旨を仰せられているのであります。
また「安国」の両字について、日寛上人は、「文は唯日本及び現在に在り、意は閻浮及び未来に通ずべし」(日寛上人御書文段5ページ)と仰せられています。つまり、国とは一往は日本国を指すも、再往は全世界・一閻浮提を指しているのであります。 以上、概略ではありますが『立正安国論』の梗概(こうがい)および大要についてほぼ申し上げましたが、次に、ただいま拝読申し上げた御文について申し上げたいと存じます。
第九段(疑いを断じて信を生ず)前半部の大要
ただいま拝読申し上げました御文は、『立正安国論』の第九段目の途中から最後第十段の終わりまでであります。『立正安国論』は「第一に災難の来由」から始まり、「第二に災難の証拠」「第三に誹謗正法の由」「第四に正しく一凶の所帰を明かす」「第五に和漢の例を出だす」「第六に勘状の奏否」「第七に施を止めて命を絶つ」「第八に斬罪の用否」「第九に疑いを断じて信を生ず」「第十に正に帰して領納す」までの十段で構成されております。
このうち、この第九段目は初めに、「客則ち席を避け襟を刷(つくろ)ひて曰く」(御書248ページ)とあるように、第一段目の「災難の来由」から始まって、主客の問答が繰り返されてきましたが、ここへきて客は態度を改め、主人の言葉に承伏して主人を敬い、座を正し、身繕いを改めて主人に問い、主人の破邪顕正によって国を安んずることができる旨を聞き、「疑いを断じて信を生ずる」すなわち「断疑生信」に及ぶところの段であります。
そこで、この九段目の初めから、今日拝読したところまでの内容について簡単に申し上げますと、初めに客が主人に対して、「仏教はまちまちにして多く分かれ、その趣旨は極め難く、不審も多く、理非を明らかにすることは困難である。ただし主人の導きにより、法然の『選択集』の謗法によって、聖人は国を去り、善神は国を捨て、これにより三災が興起する旨を経文を挙げて教えてくだされた。故に、今までの妄執をひるがえし耳目が明らかになりました。詮ずるところは、天下泰平・国土安穏は万民の願うところであり、早く一闡提への施を止め、仏海法山の賊徒を対治せば、世は義農の世となり、国は唐虞の国の如くなるとのことであるので、これからは法水の浅深をくみ取り、仏家の棟梁たる正法を崇めてまいります」との申し出に対し、主人はこれを聞いて喜び、「主人悦んで曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤(はまぐり)と為る。悦ばしいかな、汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る」(同)との主人の答えに入るのであります。
この主人の答えは、「客が心を翻し正法を崇めんと申し出られたことを喜ぶとともに、さらに客の決意を促し、もし国土を安んじ現当二世にわたって自分の幸せを祈ろうとするのであれば、まず急いで謗法に対治を加えなければならない。もし今、謗法を対治しなければ、まだ起きていない自界叛逆難と他国侵逼難の二難が起きてくるであろう。あなたが一身の安堵を願い、一国の静謐(せいひつ)・平和を願うならば、すべからく国中の謗法を絶たなければならない。もし法然などの邪法に対する執着の心をひるがえすことができずにいれば、早くこの世を去り、後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう」と客を諭(さと)し、大集経の文によって王の福運が尽きる姿を示し、仁王経の文を挙げて、現世には六親不和となり、死しては三悪道に堕ち、たとえ人間と生まれても兵奴の果報を受けるであろうと説き、法華経、涅槃経の文を引いて、たとえ正法を聞いても邪法への執着を絶たず、なお謗法を信じていれば無間地獄に堕ちるであろうと仰せられ、謗法の果報の怖ろしさ、なかんずく念仏無間の怖ろしさを示されました。
以上、第九段目の初めから、今日拝読申し上げました御文の前までの概略を申し上げましたが、次に本文に入ります。
第九段(疑いを断じて信を生ず)後半部の大要
まず「広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る」と仰せであります。「衆経」とは、すなわち大集経、仁王経、法華経、涅槃経等の多くの経々のことで、「広くこれらの経々を見ると、いずれの経も謗法が重罪であると説かれている。しかるに、悲しいことに人々は皆、法華経が最も勝れた教えであり、他経はその法華経の門から出たところの方便・権教であるにもかかわらず、正法の門を出て、深く邪法の獄すなわち邪義邪法の牢獄に入って苦しんでいる」と仰せられているのであります。
次に「愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮に謗教の網に纏はる」と仰せであります。「悪教の綱」「謗教の網」とは、大綱と網目の意で、「愚かにも多くの人は法然などの悪教の綱にかかって、いつまでも謗教の網すなわち正法を誹謗する教えに纏わりつかれて苦しんでいる」と仰せであります。
次に「此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや」と仰せであります。「朦霧」とは、もうもうと立ちこめる霧、邪宗教に迷っている様子を霧でものがよく見えない姿に譬えたものであります。「盛焔の底」とは、無間地獄のことであります。つまり「現世には邪教の朦霧に迷い、死後は無間地獄に沈むことを見て、どうして愁えずにおられようか。どうして苦しまずにおられようか」と申されているのであります。
次に「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや」と仰せであります。ここからが『立正安国論』の肝要なるところであります。「寸心」とは、わずかな志、小さな志という意味で、「信仰の寸心」とは、小さな信仰心、狭い信仰心を言います。その「信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」と仰せられているのであります。
日寛上人は、「当に知るべし、『寸心を改めて』とは即ち是れ破邪なけ。『実乗に帰せよ』とは即ち是れ立正なり。『然れば則ち三界』の下は安国なり」(日寛上人御書文段49ページ)と仰せであります。つまり「実乗」とは権大乗に対しての実大乗、「一善」とは最高の善、唯一の善の意で、すなわち法華経のことでありますが、ただし再往、大聖人の御正意は文上の法華経ではなく、法華経文底独一本門の妙法蓮華経にして、三大秘法の随一大御本尊に帰命することが「実乗の一善に帰する」ことであります。
そもそも大聖人が末法に御出現されて一切衆生を救済あそばされることは、既に釈尊が法華経神力品において予証されているところであります。神力品には、「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」(法華経516ページ)と仰せられておりますが、この御文について、大聖人は『寂日房御書』に、「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と此の文の心よくよく案じさせ給へ。『斯人行世間』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり」(御書1393ページ)と仰せであります。
この神力品の「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」との御文は、末法に上行菩薩すなわち日蓮大聖人が出現されることを釈尊が予証された御文であります。つまり、釈尊は涌出品において大地より上行菩薩を上首とする本化地涌の菩薩を呼び出し、寿量品を説いたのち如来神力品において文殊・薬王等の法華弘通の申し出を制止して、この本化地涌の菩薩に対して、「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(法華経513ページ)と、法華経の肝要・妙法蓮華経を四句の要法に括って付嘱し、末法流布を託されたのであります。
大聖人はその上行菩薩の再誕として末法に御出現あそばされたのでありますが、しかし、上行菩薩としてのお立場はあくまでも外用のお姿であって、内証深秘の辺から拝すれば、大聖人は久遠元初自受用報身如来の再誕であります。故に、日寛上人が、「若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄49ページ)と仰せられているのであります。すなわち法華経に現れた上行菩薩は仮りの姿であり、久遠の御本仏大聖人が、仏法付嘱の上から、また釈尊の久遠開顕を助けるために、過去に上行菩薩として御出現あそばされたということであります。
今末法は、釈尊の説かれた文上の法華経では既に一切衆生の良薬とはならず、久遠元初の御本仏が御出現あそばされ、その御本仏の説かれる教法によって、本未有善の衆生の成仏得道が初めてかなえられるのであります。故に『高橋入道殿御返事』には、「末法に入りなば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(御書887ページ)と仰せられているのであります。すなわち釈尊より付嘱を受け今、大聖人が御所持あそばされるところの妙法は、法華経の題号としての妙法五字ではなくして、久遠の本法たる妙法五字であり、まさしく三大秘法の随一・本門の本尊であります。この妙法五字が、釈尊をはじめ三世諸仏の成仏得道の根本の法であり、三世にわたって一切衆生を救済する根源の法であります。
よって、ここで「実乗の一善に帰せよ」と仰せられた元意は、まさしく三大秘法の随一・本門の本尊に帰せよと仰せられているのであります。したがって「一刻も早く信仰の寸心を改めて、実乗の一善たる三大秘法の随一・本門の本尊に帰依すれば、この三界は皆、仏国となる。仏国であるならば、どうして衰微することがあろうか。十方の国土はことごとく宝土である。宝土であるならば、どうして壊れることがあろうか」と仰せられているのであります。
すなわち『当体義抄』に、「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居所居、身土色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(694ページ)と仰せでありますが、この文のなかの「其の人の所住の処は常寂光土なり」の御文について、日寛上人は「当体義抄文段」において、「此の下は依正不二を明かすなり。『其の人』とは即ち是れ三道即三徳の妙人、是れ正報なり。『所住の処』等とは依報なり。中に於て『所住之処』の四字は依報の中の因なり。『常寂光土』の四字は依報の中の果なり。当に知るべし、依正不二なる故に、依報の因果も亦是れ倶時なり。是れ正報の因果倶時なるに由る故なり。当に知るべし、依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」(日寛上人御書文段622ページ)と御指南あそばされております。すなわち依正不二の原理によって、実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依すれば、その不可思議無辺なる功徳によって、その人の所住の処が仏国土となると仰せられているのであります。
次に「国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」と仰せであります。すなわち「国に衰微なく、そして国土が破壊されることがなくなれば、その身は安全になり、『心は是禅定ならん』心身ともに安定して動揺することがなくなるようになる。この言葉は心から信ずべきであり、崇むべきである」と仰せられているのであります。
第十段(正に帰して領納す)の大要
次に「客の曰く、今
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2009年04月08日 21時48分25秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
大白法・平成21年3月1日刊(第760号より転載)
宗 祖 誕 生 会
五重塔のお塔開きの砌 (平成21年2月16日 於 総本山五重塔)
本日は、宗祖日蓮大聖人御誕生会に当たり、海外からの御信徒を含め大勢の方々が参加され、まことに御苦労さまでございます。
さて、法華経本門神力品を拝しますと、
「日月の光明の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽(ゆう)冥(みょう)を除くが如く 斯(こ)の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(法華経 五一六㌻)
とあります。この御文について大聖人は『寂日房御書』に、
「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と此の文の心よくよく案じさせ給へ。『斯(し)人(にん)行世間』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさ(推)しい(出)だして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をう(受)けたも(持)てと勧めしは是なり」(御書 一三九三㌻)
と仰せられております。
すなわち、神力品の「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」との御文は、「斯の人」すなわち地涌の菩薩の上首・上行菩薩が滅後末法に出現されて、あたかも太陽や月の光が諸々の闇を照らすように、多くの人達の心の闇を照らし、救われると仰せられているのであります。
そもそも仏教におきましては、三時弘経の次第として、釈尊の滅後、正法時代・像法時代・末法時代の三時には、それぞれ、いかなる人師が現れ、いかなる法を弘通すべきかが定められているのであります。
正法時代には迦葉、阿難、竜樹、天親等が小乗、権大乗教を弘め、像法時代には天台、伝教等が法華経迹門の教えである理の一念三千の法門を弘め、正像二千年を過ぎて末法時代になると「闘(とう)諍(じょう)言(ごん)訟(しょう)・白(びゃく)法(ほう)隠(おん)没(もつ)」、すなわち闘諍堅固の時代となり、争いごとが起き、世の中が乱れ、釈尊が説かれた法は功徳が消滅し、効力がなくなると説かれているのであります。
そこで、釈尊は神力品を説かれて、滅後末法の弘通を上行菩薩に委(ゆだ)ねられ、御自分の亡きのち二千年過ぎた末法になるとその上行菩薩が出現し、南無妙法蓮華経を説かれて衆生の闇を滅す、すなわち多くの人々を救われると仰せられたのであります。故に『高橋入道殿御返事』には、
「末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(同 八八七㌻)
と仰せられているのであります。大聖人はその上行菩薩の再誕として、末法に御出現あそばされたのであります。
しかし、大聖人が上行菩薩の再誕として御出現あそばされたのは、あくまでも外(げ)用(ゆう)のお姿でありまして、大聖人の御内証は久遠元初自受用報身如来の御本仏にましますのであります。このことを日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「若(も)し外用の浅近(せんごん)に拠(よ)れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深(じん)秘(ぴ)に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄 四九㌻)
と示されているのであります。
すなわち今、末法は釈尊の説かれた文上の法華経では、既に一切衆生の良薬とはならず、久遠元初の御本仏の御出現とその御本仏の説かれる教法によって、末法本未有善の衆生の成仏得道は初めてかなえられるのであります。
故に今、我々は、宗祖日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ奉り、大聖人が宗旨をもって御建立あそばされた人法一箇の大御本尊を帰命依止の本尊と崇め奉り、至心に妙法を唱え、広布の大願を目指して、自行化他の信心に励んでいくことが最も肝要となるのであります。
『諸法実相抄』には、
「いかにも今度(このたび)信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた(伝)ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(御書 六六六㌻)
と説かれ、末法に妙法を信受する日蓮大聖人の弟子檀那は、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せられているのであります。
されば、我らもまた地涌の菩薩の自覚を持って、その名にふさわしく、大聖人の教えのままに、一天四海本因妙広宣流布達成へ向かって、断固たる信念と強盛なる信心を貫きとおしていくことが大事であります。
すなわち、私どもは大聖人の御化導がそうであったように、あらゆる困難を乗り越え、初めは一人からでも、二人、三人、百人と次第に唱え伝え、世界中のあらゆる人々に本因下種の妙法を下種結縁し、折伏を行じていくことが最も肝要となるのであります。
特に本年は「正義顕揚の年」であります。大聖人が『立正安国論』に掲げられた正義を顕揚し、僧俗一致・異体同心して、御仏意のままに広布の大願へ向けて弛(たゆ)まず精進をしていくことが、今、我々に課せられた大事な使命であることを自覚しなければなりません。
大聖人は『最蓮房御返事』に、
「其れに付けても法華経の行者は信心に退転無く身に詐(さ)親(しん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(同 六四二㌻)
と仰せであります。
皆様には、この御金言を心肝に染め、いよいよ自行化他の信心に励み、もって自らの一生成仏と仏国土実現を目指して御精進くださるよう心から願い、本日の挨拶といたします。
from: 21世紀さん
2009年04月08日 21時45分44秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
大白法・平成21年1月16日刊(第757号より転載)
出陣式より
本日は、立正安国論正義顕揚七百五十年出陣式に当たり、御隠尊日顕上人猊下には親しく御臨席を賜り、まことに有り難く、謹んで厚く御礼を申し上げます。まことに有り難うございました。
平成十四年、日顕上人より「地涌倍増」と「大結集」の御命題をいただいてから七年、本年はその御命題完結の年であります。
この大事な完結の年を迎え、木宗僧俗は全力を傾注して、なんとしてでも御命題を達成し、もって仏祖三宝尊と御命題をくだされた日顕上人に、晴れてその結果を御報告申し上げ、御指南にお応えしていかなければなりません。
なかんずく「七万五千名大結集総会」は、いまだかつて行たれたことがない大結集であり、法華講の精鋭が本門戒壇の大御本尊まします、ここ総本山に集う世紀の大総会であります。
精鋭とは、選(え)り抜きの戦士のことであります。広布の使命に燃え、一天四海本因妙広宣流布の願業達成を目指して、一身を擲(なげう)って広布に尽くす死(し)身(しん)弘(ぐ)法(ほう)の法華講員のことであります。言わば広布の戦士であります。大結集総会に集う七万五千名の法華講の精鋭は、そのまま一人も漏れず、次の広布への戦いの中核となるべき人材であります。
すなわち、七万五千名の大結集は、御命題にお応えして七年間の結果を示す大事な意義が存しますが、同時に、次なる戦いへの出発の儀式であり、広布の歴史を築く新たなる地涌の菩薩の大出陣式であります。
そこで、大結集に当たっては、各講中は現在の可動勢力だけに止(とど)まらず、改めて組織を掘り起こし、埋(うず)もれている優れた人材を発掘し、育成し、精鋭として陣容を整え、大総会に臨むよう、徹底的に推進を計っていく必要があります。支部のなかには必ず、埋もれたすばらしい人材が多くいるはずであります。
精鋭七万五千名の結集のために、講中が強力に推進運動を進めていけば、新しい人材が発掘され、かつ一人ひとりの信心が錬磨されるばかりではなく、組識全体が活性化し、周りに生き生きと作用する力を与え、異体同心の団結はより強固になり、あらゆる障害・困難にも微動だにしない、強(きょう)靭(じん)な広布の組織が構築されてくるのであります。
大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「きた(鍛)はぬかね(金)は、さかんなる火に入るればと(疾)くと(蕩)け候。氷をゆ(湯)に入るゝがごとし。剣(つるぎ)なんどは大火に入るれども暫(しばら)くはとけず。是(これ)きたへる故なり」(御書 一一七九㌻)
と仰せであります。
鍛え抜かれた日本刀のように、匠(たくみ)が心を込めて、何回も何回も焼きを入れて鍛えた刀は、少々の火にはびくともしませんが、鍛えていない、なまくらな刀は火に入ればたちまちに溶けてしまいます。これでは実戦に役立ちません。
強(ごう)盛(じょう)な信心と広布に挺身(ていしん)する強固な組織を作り上げようと思うならば、信心の錬磨が必要であります。そのためには、それなりの手を打たなければなりません。
その意味からして、精鋭七万五千名の大結集総会は、与えられた絶好の機会であります。次なる広布への戦いの中核を担う優れた人材発掘と育成のためには、またとない機会であります。
そして、大総会に集った七万五千名の精鋭が一斉(いっせい)に立ち上がり、勇猛果敢に折伏に打って出れば、そこからさらに折伏の輪が日本乃至全世界に広がり、大きな波動となって、『立正安国論』の御理想実現へ向かって、大きく世の中を変えていくことができるのであります。
そのためには、まず、精鋭七万五千名大結集総会を完全勝利することであります。各講中は全力を挙げて、この七万五千名大結集総会を達成していただきたいと思います。
またこれは「記念総登山」においても同じことが言えます。
御金言に、
「須(しゅ)弥(み)山(せん)に近づく鳥は金色(こんじき)となる」(同 一〇五四㌻)
と仰せの如く、本門戒壇の大御本尊まします最勝の地、総本山に登山参詣する功徳は凡智をもってしては計り知れない大きなものがあり、過去遠々劫(おんのんごう)の罪障を消滅し、三業(ごう)の悪を転じて法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳を成(じょう)ずることは毛頭、疑いないのであります。したがって、講中の全員が老若男女を問わず、互いに声を掛け、互いに誘い合っていくことが肝要であります。
かつて。日顕上人は「支部総登山の目的は、支部の足腰を鍛えることにある」と御指南されています。七万五千名大結集総会と同様に、支部総登山を推進していくなかで獲得するものは、実に計り知れない大なるものがあります。
それは個人においても、あるいはまた組織においても、また信心においても、また生活においても実に顕著に表れてきます。そこで培(つちか)われたものが、今後の広布への戦いの大きな原動力となって、折伏逆(ぎゃっ)化(け)の場に発揮されることになるのであります。
されば、我々本宗僧俗は、本年、まず七万五千名大結集総会をはじめ記念総登山を全力を挙げて達成し、その功徳と歓喜と勝利の勢いをもって広布の大願を目指し、勇躍として大折伏戦を展開していくことが最も肝要であります。
近年まれに見る世界的な混乱と不況、世界規模での戦争がいつ起きても不思議でない現在の混沌(こんとん)とした世相を見るとき、この窮(きゅう)状(じょう)を救えるのは、ただ、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の三大秘法の仏法以外にはありません。
大聖人は『撰時抄』に、
「一〓(てい)あつまりて大海となる。微(み)塵(じん)つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一〓一微塵のごとし。法華経を二人三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此(これ)よりほかに又もとむる事なかれ」(同 八六八㌻)
と仰せであります。幸せを築くためには、まず「千里の道も一歩から」であります。
日顕上人は「一年に一人が一人の折伏を」と御指南せられています。
折伏は理屈ではなく、まず行動を起こすことであります。法華講員一人ひとりが広布の使命に燃えて、時を断つことなく、真剣に折伏に励み、二人、三人、十人、百千万億人と次第に唱え伝えていくならば、御金言の如く、広布の大願もけっして夢ではないのであります。
全世界の人々を幸せに導く最善の方途こそ折伏であり、折伏を行じていくことは、世のため人のためにはもちろん、自他の成仏のみに止まらず、依(え)正(しょう)不(ふ)二(に)の原理が示すように国土世間もまた安穏となるのであります。
折伏によって、個人はもとより、全人類の幸せと真の世界平和を実現できるのであります。したがって、謗法の害毒によって世の中が極度に混乱している今この時、我々がなすべき最も大事なことは折伏であります。『立正安国論』の御理想実現の具体的実践方途とは、すなわち折伏であるからであります。
本年、私どもは、七万五千名大結集総会を完全勝利し、記念総登山を勇躍達成し、その勢いをもって、打って一丸となって大折伏戦を展開し、もって全国すべての講中が必ず折伏誓願を達成するよう、心から願うものであります。
幸い、昨年は皆様方の師子奮(ふん)迅(じん)力(りき)によって折伏誓願を達成した支部が多く輩出しました。本年も、その勢いを衰頽(すいたい)させることなく、全支部が僧俗一致、異体同心、一致団結して、必ず誓願を達成するよう心から願い、本日の挨拶といたします。
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2009年04月04日 23時37分50秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
御法主日如上人猊下御言葉
第三回 立正安国論正義顕揚七百五十年
記念局委員会の砌
(平成19年2月20日 於 宗務院大会議室)
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本日は、第三回立正安国論正義顕揚七百五十年記念局委員会に当たりまして、委員の方々にはお忙しいところを御参集いただき、まことに有り難うございます。
まず最初に発表したいことがございます。かねがね懸案でありました御命題のうちの「大結集」、これは先般の記念局委員会の席上におきまして「総本山において七万五千の大総会を開く」ということに決定いたしましたが、その日時を種々検討いたしました結果、平成二十一年七月二十六日にこの大総会を開催いたしたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
その十日ほど前の七月十五日・十六日の記念大法要と多少、重なるところがありますが、記念大法要のほうは、これはいわば選抜された方々が出席せられますので、十日間の期間があれば充分にフォローできると考えております。そういうことでありますので、各位には記念大総会について今からお心得いただきたいと、このように思う次第であります。
本日は、既にお手元に議事次第が配られておりますように、全部で三つの案件について御審議いただくわけであります。
その第一号案のなかに出ております事業でありますが、これはあとあと詳しく説明いたしますけれども、佐渡の塚原に記念碑を建立したいということであります。
それからもう一つは、総登山の折に記念展を開きたいということであります。これは先般、三十万総登山の時に記念展を開きまして、たいへん好評でありました。今回も、もう少し企画を検討しまして記念展を開催したいと考えている次第であります。
そのほかの案件につきましては、それぞれの事業計画のなかで詳しく説明いたします。
先程の記念総会の七万五千の割り当てにつきましてもよく検討いたしまして、記念局から支院長さんを通して各寺院に通知をしていきたいと考えております。 現在、鋭意、検討中でありますので、その結果につきましては少々お待ちいただきたいと思います。
また、記念総登山につきましても検討中でありまして、決定次第、これもまた御連絡をしたいと考えております。
いずれにいたしましても、平成二十一年まで、あと残り二年となりました。本年は「行動の年」でありまして、この「行動の年」の闘い如何によって二十一年の成否も決するのではないかと考えています。
今現在、柳沢総講頭、そしてまた石毛大講頭の二人によりまして、全国において激励会を開いておりますけれども、このほかに本年度は様々な指導会等を開いて、二十一年に向けての態勢をきちんと整えていきたいと考えております。
これらにつきましてもあとで詳しく説明申し上げますが、いずれにいたしましても、二十一年に向っての闘いの中枢となるのは、この記念局委員会に出席なさっている皆様方、すなわち支院長さんであり、そしてまた広布推進員であり、御信徒にとっては連合会であり、そしてまた、それぞれの地方部長さんが中心になってくるのではないかと思います。やはりここで、僧俗一致してなんとしてでもこの御命題を達成していきたいと、このように考えている次第であります。
特に地涌倍増と大結集の二つの御命題中、大結集のほうは一往、日程と人数については決まりましたが、これもなかなか大変な闘いであります。しかし、さらに大変な闘いは、やはり地涌倍増の闘いではないかと思います。やはり地涌倍増の闘いと大結集の闘い、そしてそのほかの記念事業等も含めてでありますが、これらが全部整ってこそ、名実ともに二十一年を迎えることになるのではないかと思います。
我々は僧俗一致して、なんとしてでも名実ともに二十一年を迎えたいと思います。そして仏祖三宝尊の御照覧を賜ると同時に、この御命題をくだされた御隠尊日顕上人猊下の御慈悲にお応えしていかなければならないと、強く感じている次第であります。
どうぞ各位には、それぞれの分に応じて御奉公の限りを尽くしていただきたいということをお願いし、挨拶といたします。どうぞよろしくお願いいたします。
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2009年04月04日 23時33分11秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
総本山御大会の砌
御法主日如上人猊下御説法
平成18年11月20総本山御影堂
妙法蓮華経如来寿量品第十六
そ もろもろ だいしゅう なんだちまさ じょうたい ことば
「爾の時に仏、諸の菩薩、及び一切の大衆に告げたまわく、諸の善男子、汝等当に、如来の誠諦の語を
また
信解すべし。復大衆に告げたまわく、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし。又復、諸の大衆に告げた
はじめ な
まわく、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし。是の時に菩薩大衆、弥勒を首と為して、合掌して仏に
もう もう ただ これ みこと かく
白して言さく、世尊、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。是の如く三たび
おわ
白し已って、復言さく、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし」
(法華経四二八ページ) (題 目 三 唱)
本日は、恒例の宗祖日蓮大聖人御大会式を奉修いたしましたところ、全国より代表の信徒各位には多数御登山され、御報恩の法会を執り行うことができまして、まことに有り難く、厚く御礼申し上げます。
さて本夕は、ただいま拝読いたしました寿量品について少々申し上げます。
皆様には既に御承知のとおり、法華経は、無量義経に、
「四十余年。未顕真実(四十余年には未だ真実を顕さず)」(法華経二三ページ)
と説かれ、法華経方便品には、
のち かなら まさ
「世尊法久後 要当説真実(世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたまもうべし)」(同九三ページ)
と説かれ、さらに法師品には、
しか
「我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり」(同三二五ページ)
と説かれ、また大聖人は『秀句十勝抄』に、
「当に知るべし、已説の四時の経、今説の無料義、当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。
こ
此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に。随自意の説は随他意に勝れたり」(御書一三二九ページ)
と仰せられ、『立正観抄』には、
ほんかい
「法華経は釈尊乃至諸仏出世の本懐なり」」(同七六八ページ)
と仰せられ、さらに『開目抄』には、
ただ かんが
「但し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、
なんご そ ご
顕教・密経、軟語・麁語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり。但し法華経計り教主釈尊の
ごうが
正言なり。三世十方の諸仏の真言なり。大覚世尊は四十余年の年限を指して、其の内の恒河の諸経
を未顕真実、八年の法華は要当説真実と定め給ひしかば、多宝仏大地より出現して皆真実と証明す。
ふんじん ぼんてん
分身の諸仏来集して長舌を梵天に付く。此の言赫々たり、明々たり。晴天の日よりもあきらかに、
おも
夜中の満月のごとし。仰いで信ぜよ、伏して懐ふべし」(同五二六ページ)
と仰せの如く、法華経は釈尊一代五十年の説法中、真実・最勝・最尊の教説にして、三説超過の大法、随自意の仏説、釈尊出世の本懐として説かれた諸経中王の経典であります。
この法華経のなかにおいて、本門正宗分として説かれたのが、いわゆる一品二半であり、その中心は寿量品であります。大聖人は『開目抄』に、
「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、
たましい
人に神のなからんがごとくしてあるべき」(同五五三ページ)
と仰せられ、また同抄に、
「寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり」(同五五四ページ)
と仰せられています。すなわち、法華経が一切経のなかにおいて最も勝れ、釈尊出世の本懐たる所以は、畢竟(ひっきょう)、この寿量品がましますが故であります。よって『可延定業御書』には、
「法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし」(同七六一ページ)
と仰せられているのであります。
そこで初めに、この寿量品の説かれた来由について申し上げますと、遠くは見宝塔品の「三箇の勅宣」に応え、近くは従地涌出品において、釈尊が、他方の国土より来集した迹化の菩薩達が滅後、娑婆世界の弘通を願い出たのを、
「止みね、善男子。汝等が此の経護持せんことを須いじ。所以は何ん。我が娑婆世界に、
自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等、
能く我が滅後に於て、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」(法華経四〇八ページ)
と制止して、上行菩薩を上首とする六万恒河沙の地涌の菩薩を大地から呼び出されたのであります。
この菩薩達は、皆、金色にして三十二相を具え、無量の光明を放ち、『開目抄』に、
「釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢・文殊等にもにるべくもなし。華厳・方等・般若・法華経の
宝塔品に来集せる大菩薩、大日経等の金剛薩等の十六の大菩薩なんども、此の菩薩に
対当すれば、猴の郡中に帝釈の来たり給ふがごとし。山人に月卿等のまじわれるにことならず。
補処の弥勒すら猶迷惑せり。何に況んや其の巳下をや。此の千世界の大菩薩の中に、四人の
大聖まします。所謂、上行・無辺行・浄行・安立行なり。此の四人は虚空霊山の諸大菩薩等、
眼もあはせ心もをよばず。華厳経の四菩薩、大日経の四菩薩、金剛頂経の十六大菩薩等も、
此の菩薩に対すれば翳眼のものゝ日輪を見るがごとく、海人が皇帝に向かひ奉るがごとし。
太公等の四聖の衆中にありしににたり。商山の四皓が恵帝に仕へしにことならず。魏々堂々
として尊高なり。釈迦・多宝・十方の分身を除いては、一切衆生の善智識ともたのみ奉りぬ
べし」(御書五五〇ページ)
と仰せのように、まさに「普賢・文殊等にもにるべくもな」く、「猴(みこう)の郡中に帝釈の来たり給ふがごと」き、威風堂々たる菩薩であったのであります。
この地涌の菩薩達を見た弥勒菩薩は、いまだかつて見たことがない、これらの菩薩達の姿を見て疑念を懐き、一座の大衆を代表して、いかなる所から、いかなる因縁によってこれら地涌の菩薩が出現したのかを釈尊に尋ねられたのであります。
釈尊は、この弥勒の疑問に対して、
「我今実語を説く、汝等一心に信ぜよ 我久遠より来 是等の衆を教化せり」(法華経四二二ページ)
と答えて、仏寿が長遠であることを、ほぼ説き明かされたのであります。すなわち「略開近顕遠」を示し、今まで釈尊は始成正覚の仏と思われてきたことに対して動執生疑(どうしゅうしょうぎ)せしめ、久遠の本地を示唆されたのであります。
そして、この疑いを断ち信を生ぜしめる(断疑生信)ために如来寿量品が説かれ、「広開近顕遠」が示されたのであります。すなわち、釈尊は寿量品において、
「汝等 諦かに聴け、如来の秘密神通の力を。 一切世間の天、人、及び阿修羅、皆今の
釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅
三藐三菩提を得たまえりと謂えり。 然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺
百千万億那由佗劫なり」(同四二九ページ)
と説かれ、始成正覚を打ち破って、久遠実成の仏であることを明かされたのであります。
このことについて、大聖人は『開目抄』に、
「『然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺、百千万億那由佗劫なり』等云々。
此の文は、華厳経の三処の『始成正覚』、阿含経に云ふ『初成』、浄名経の『始坐仏樹』、
大集経に云ふ『始十六年』、大日経の『我昔座道場』、仁王経の『二十九年』、無量義経の
『我先道場』、法華経の方便品に云ふ『我始坐道場』等を、一言に大虚妄なりとやぶるもん
なり」(御書五五二ページ)
と仰せられているのであります。
すなわち、この寿量品における久遠の開顕、広開近顕遠は爾前権経における仏身に対する認識を「大虚妄なり」と否定し、根本から変えたものであったのであります。また、この久遠の開顕に当たって、 本因・本果・本国土の三妙が説かれ、これによって事の一念三千の法門が明かされて、一切衆生成仏の原理が示されたのであります。まさしく、寿量品は法華経の中心肝要なる一品であるばかりではなく、一代五十年の眼目たることが明らかになったのであります。
次にこの如来寿量品の題意について申し上げます。
大聖人は『御義口伝』に、
「汝等 諦かに聴け、如来の秘密神通の力を。 一切世間の天、人、及び阿修羅、皆今の
釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅
三藐三菩提を得たまえりと謂えり。 然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺
百千万億那由佗劫なり」(同四二九ページ)
と説かれ、始成正覚を打ち破って、久遠実成の仏であることを明かされたのであります。
このことについて、大聖人は『開目抄』に、
「『然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺、百千万億那由佗劫なり』等云々。
此の文は、華厳経の三処の『始成正覚』、阿含経に云ふ『初成』、浄名経の『始坐仏樹』、
大集経に云ふ『始十六年』、大日経の『我昔座道場』、仁王経の『二十九年』、無量義経の
『我先道場』、法華経の方便品に云ふ『我始坐道場』等を、一言に大虚妄なりとやぶるもん
なり」(御書五五二ページ)
と仰せられているのであります。
すなわち、この寿量品における久遠の開顕、広開近顕遠は爾前権経における仏身に対する認識を「大虚妄なり」と否定し、根本から変えたものであったのであります。また、この久遠の開顕に当たって、 本因・本果・本国土の三妙が説かれ、これによって事の一念三千の法門が明かされて、一切衆生成仏の原理が示されたのであります。まさしく、寿量品は法華経の中心肝要なる一品であるばかりではなく、一代五十年の眼目たることが明らかになったのであります。
次にこの如来寿量品の題意について申し上げます。
大聖人は『御義口伝』に、
「文句の九に云はく『如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。
別して本地三仏の別号なり。寿量とは詮量なり。 十方三世諸仏の功徳を詮量する故に
如来寿量品と言ふ』」(同一七六五ページ)
と仰せであります。「十方三世の諸仏」とは、十方と三世、すなわち無限の空間と無限の時間にわたって存在する無量無数のあらゆる仏のことであります。
「二仏」とは、真身と応身の二仏のことであります。真身とは報身と法身を合わせての称号であります。天大師は『成実論』の「如実の道に乗じ来たって正覚を成ず、故に如来という」との文を引いて二仏について弁じておりますが、乗とは如如の智、実とは如如の境、道とは因、覚とは果、すなわち真如実相の如如の智あって如如の境と合する時、正覚を成ずるは真身如来であります。この如如の智をもって如実の道に乗じて三界のなかに来生して正覚を成ずるは応身如来であります。
「三仏」とは、法・報・応の三身如来のことであります。一切処に遍して異なりなきを「如」となし、動ぜずして至るを「来」となすは法身如来であります。 如如の智をもって如如真実の道に乗じて妙覚を成ずるに、如如の智は如如の理に称い、この理にしたがって「如」と名づけ、智にしたがって「来」と名づくるは報身如来であります。如如の智と如如の境と冥合するをもっての故に、よく処々に出現して法輪を転ずるは応身如来であります。この三身如来の寿量を明かされているのが如来寿量品であります。
すなわち爾前経では、この三如来は縦に時間的に顕れてきますが、単に縦のみでありますので、かかる修徳の仏はいあまだ円融円満の仏ではなく、また横に名のみ並列する性徳の仏もまた、真仏とは言えないのであります。寿量品で説く仏は、性徳に即して修徳を具えた、一身に三身を具える三身如来であります。つまり爾前経において三身は説かれても三身即一身ではなく、また法華経迹門においてもいまだ自受用身ではなく、本門に来たって初めて発迹顕本によって爾前各別の三身が整足され、一身即三身、三身即一身が明かされ、三身が総体的に説かれるようになったのであります。故に『法華文句』には、
「法華の前に亦円の如来を明すは、同じく是れ迹の中の所説のみ。発迹顕本の三如来は
永く諸経に異なる」(学林版文句会本下二五四ページ)
と仰せのように、爾前の円教および法華経迹門の始成正覚の仏は三身円満具足を説くといえども発迹顕本なく、寿量品の発迹顕本によって、報身に即する三身円満の三世常住が示されたのであります。
次に「寿量」について申し上げますと、『文句』の意に準ずれば、寿量の寿とは受の義にして、量とは詮量であります。三身に約せば、法身如来は如の理を寿命とし、報身如来は智慧をもって寿命となし、応身如来は同縁の理をもって寿命となすことを詮量するに、真如の境は無量無辺で、その性と相は常住不変であります。また、これに相応する智も用(ゆう)も無量無辺、常住不滅となり、三身の寿命は常住不滅にして、その功徳は無量無辺と説かれるのであります。
なかんずく寿量品は、別して言えば報身の寿命を詮量することにあります。すなわち『文句』に、
「此の品の詮量は通じて三身を明す。若し別意に従わば正しく報身に在り。何を以ての故に。
義便文会ず」(同 二六六ページ)
と述べられています。すなわち「義便」とは、報身の智慧は上に冥じ、すなわ法身の理に冥合し、また下に契(かな)って、すなわち応身の用にかない、三身宛足するが故に義便と言うのであります。また「文会」とは、寿量品に
「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり」(法華経四三三ページ)
とありますが、これは三身相即して、よく三世において衆生を利益したもうところ、所成は法身、能成は報身、法と報と合すれば応身となり、その応身において、よく物を利益するが故に文会と言うのであります。かく示されるように、寿量品の正意は、別して報身仏の功徳を詮量するのであります。
しかし、これは文上の上から三身相即を示されたもので、本果第一番、釈尊久遠本果の仏身に即する三身であります。大聖人の仏法においては、久遠名字の一身即三身、三身即一身、三世常恒の無作三身如来の寿命を詮量することが正意であります。『御義口伝』には、
「此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の附属なり。如来とは釈尊、総じては
十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは
一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。
無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是れなり」(御書一七六五ページ)
と仰せであります。
本地無作三身の如来とは、すなわち久遠名字の三身如来にして、境智冥合の真仏であります。されば久遠はすなわち今にあり、今はすなわち久遠にして、本地無作三身の如来とはすなわち末法法華経の行者、御本仏宗祖日蓮大聖人の御事であります。
しかれば我ら一同、宗祖日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ奉り、その御魂魄たる本門戒壇の大御本尊に対し奉り、至心に題目唱え、自行化他の行業に励むとき、即身成仏、決定として疑いないのであります。
なかんずく、このたび皆様には、宗祖日蓮大聖人御大会式に当たり、御報恩のために深信の御登山、まことに喜びに堪えません。大聖人は『南条殿御返事』に、
「此の砌に望まん輩は無始の罪障 忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(同一五六九ページ)
と仰せであります。申すまでもなく「此の砌」とは、本門戒壇の大御本尊まします、ここ総本山大石寺であります。
すなわt、本門戒壇の大御本尊まします最勝の地、ここ総本山に登山参詣する功徳はまことに計り知れないものがあり、過去遠々劫の罪障を消滅し、三業の悪を転じて、法身・般若・解脱の三徳を成ずること、毛頭、疑いないのであります。 よって皆様には、本日の御登山を機に、さらに一段と御信心に励まれますよう願うものであります。
特に今、宗門は来るべき「平成二十一年・『立正安国論』正義顕揚七百五十年」の御命題、「地涌倍増」と「大結集」へ向けて、僧俗が一体となって前進しております。御命題の達成は、我らに与えられた尊い使命であります。
昨今の教育問題をはじめ、国内外の混沌とした惨状を救い、真の世界平和実現のため、一天四海本因妙広宣流布を目指し、今こそ私どもは、一人ひとりが日顕上人より賜った御命題の「地涌倍増」と「大結集」の達成へ向けて、全力を傾注して大前進を計っていくことが肝要であります。
なお、このたび『立正安国論』正義顕揚七百五十年の記念事業として、御影堂の大改修工事を行うに当たり、着工法要ならびに御遷座式を今月二十八日に奉修することに相成りました。したがいまして二十八日以降、改修工事完了までの間、御本尊ならびに御影を奉安殿へ御移し申し上げ、奉安殿を「仮御影堂」として諸法要を行う予定であります。工事期間中は多々御迷惑をおかけいたしますが、何とぞよろしく
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from: 21世紀さん
2009年04月03日 22時51分02秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
信 行 要 文②
第六回法華講夏期講習会
御法主日如上人猊下御講義(抜粋)
十如(じゅうにょ)是事(ぜのこと)
我が身頓(やが)て法華経にて、法華経は我が身の体(たい)をよび顕は(わ)し給ひ(い)ける仏の御言(みことば)にてこそありければ、やがて我が身三(さん)身(じん)即一の本覚(ほんがく)の如来にてあるものなり。かく覚(さと)りぬれば無始(むし)より已来(このかた)、今まで思ひならはしゝひが思ひの妄想(もうそう)は、昨日の夢を思ひやるが如(ごと)く、あとかたもなく成りぬる事なり。是(これ)を信じて一遍(いっぺん)も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚(さと)りて如法(にょほう)に一部をよみ奉(たてまつ)るにてあるなり。十遍は十部(じゅうぶ)、百遍は百部、千遍は千部(せんぶ)を如法によみ奉(たてまつ)るにてあるべきなり。かく信ずるを如(にょ)説(せつ)修行の人とは申すなり。(御書一〇五頁)
この御文の前には、
「されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば」(御書 一〇五頁)
とありまして、そのあとに「我が身頓て法華経にて」と続くのであります。つまり「我が身」、私達の父母所生の肉体、父母から生まれた凡夫の身体、この我が身が、実は妙法蓮華経という、すばらしい当体なのだということをおっしゃっているのです。そのことを知るならば、「我が身頓(やが)て法華経にて」、つまり我が身がそのまま法華経そのものであるということになります。
続いて「法華経は我が身の体をよび顕はし給ひける仏の御言にてこそありければ」とありますが、法華経は何かというと、妙法蓮華経の当体たる我が身を呼び顕してくださるところの、仏様の尊いお言葉であるという意味です。
そうであるから、「やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり」、我が身が「本覚の如来」、仏様と同じだとおっしゃっているわけであります。
ここに「三身即一の本覚の如来」とありますが、法身・報身・応身の三つの身を三身と言うのであり、それが一身に具わっていることを三身即一と言います。
勉強なさっている方はお解かりかと思いますけれども、仏様には、三身がバラバラではなく、全部一つにまとまって、分離しないで一身に具わっている、つまり仏様は三身即一のお身体をなさっているという意味があるのです。
まず一つ目の法身とは何かと言いますと、これはいわゆる所証の真理、つまり悟られたところの真理という意味です。
それから報身というのは能証の智慧で、その真理を悟るための智慧が報身ということになるわけです。
それから応身というのは、応とは応現、すなわち応じて現ずることですから、衆生救済のために相手の色々な様相に応じて変現する千差万別の仏様の力と用(はたら)き、これが応身なのです。
仏様はそのとき、そのときによって様々な形を現じて衆生を救うということがあるのです。
仏様はこの三つの身を、バラバラではなく、全部を一身に具えていらっしゃるのです。我々凡夫も南無妙法蓮華経と唱えていくと、そのようになるということをここではおっしゃておるのです。
この「本覚の如来」とは何かと言いますと、本覚とは始覚に対する言葉で、元々、本来覚っているという意味があるのであり、始というのは始めて覚るということであります。
つまり一切衆生は、我々もすべて、本来的に仏様の命が具わっているということです。 これは十界互具の上から言いましても当然、そうなるわけであります。ですから、自分達のような荒凡夫であっても一人ひとりが妙法蓮華経の当体であって、すばらしいのだということを、我々はしっかりと自覚していかなければならないのであります。
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from: 21世紀さん
2009年04月11日 02時22分28秒
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「Re:第六十八世御法主日如上人御講義・御指南」
大白法平成19年6月1日号より転載
御法主日如上人猊下御言葉(妙護寺お立ち寄りの砌)
このたび立正安国論正義顕揚750年記念局といたしまして、ここ佐渡に、塚原跡碑を建立することにあいなり、これから現地に赴きまして、その建立法要を行うことになっております。
皆様方も御承知のとおり、大聖人様の御一生は「大難四カ度、小難数知れず」と仰せられたように、まことにもって苦難の連続でこざいました。なかんずく竜の口の発迹顕本以降、佐渡配流に至るまで、そしてまた佐渡在島中の大聖人様の御苦難というものは、それこそ筆舌に尽くせぬものがあったと拝する次第でございます。
しかし、そのなかでまた大聖人様は、人本尊開顕の書と言われる『開目抄』をお認めあそばされ、また法本尊開顕の書と言われる『観心本尊抄』を認められ、さらにまた『当体義抄』『如説修行抄』等と、重要御書をこの佐渡においてお認めあそばされております。また塚原問答をはじめ、そのほか様々な艱難辛苦の広布への道のりを、御身をもって私どもにお示しあそばされた次第であります。
そうしたなかにおきまして、今回、宗門といたしまして塚原跡碑を建立することは、まことに意義のあることであると、このように存ずる次第でございます。特に御当地の御信徒各位には、今日のこの塚原跡碑建立法要を契機といたしまして、さらにまた一段と御精進くださることを心から願う次第でございます。
本日の法要に当たりまして、一言、申し上げた次第でございます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
○経過報告
謹んで佐渡塚原跡碑の建立の経緯について報告させていただきます。
宗祖日蓮大聖人は文永8(1271)年9月12日、竜の口法難ののち、10月28日に佐渡に着かれ、11月1日に塚原に入られました。塚原の三昧堂で約半年間、さらに約2年間を一谷で過ごされました。大聖人が赦免となったのちは、阿仏房・中興入道らの信徒が日興上人およびその門弟の指導のもとに信仰を持ち、大聖人御入滅後も如寂房日満・大和房日性等の日興上人門下が佐渡の弘教に努めました。しかし、時の経過と共に次第に総本山大石寺と疎遠になり、塚原の史跡も忘れ去られていきました。
塚原に関しては、宗祖滅後200年頃、行学院日朝が『元祖化導記』に初めて佐渡の国「新穂郷内塚原」と記し、それから100年後の天正18(1590)年に京都妙覚寺の日典が佐渡に来て新穂郷を中心に史跡を探索し、郷内にあった真言宗の弘樹寺の僧が大聖人と問答をしたという伝説をもとに、その寺の一角にお堂を造ったのが、塚原の史跡寺院と言われる根本寺の始まりと言われております。
しかし、昭和に入って郷土史家の橘法老氏が明確に「根本寺否定説」を主張し、それを受けて田中圭一氏がさらに綿密な研究を重ねた結果、根本寺が存在する新穂大野は、古来、日吉神社の領地てあり、死人の捨て場所や流人を置く所ではなかったこと、慶長5(1600)年の『慶長検地帳』には根本寺の名も、根本寺の前身である正教寺の名前も見あたらないことから、根本寺はもっと後から造られた寺であり、そこは塚原ではなかったと断定し、その上で、本間重連邸や守護所との関係などから、この目黒町の地が塚原であったことは間違いないとしたのであります。
宗門におきましても、大正時代に第59世日亨上人が佐渡を踏査されました。また、昭和43年に第66世日達上人の御指示を受けて、当時の所化学衆による佐渡研究班が結成され、佐渡史跡の見直しを行い、その研究成果として、昭和56年刊行の『日蓮大聖人正伝』に、塚原は新穂ではなく、目黒町の地であろうと結論づけております。
佐渡研究班の調査開始以来、十数年を経た平成17年、全く思いも掛けない形で塚原跡のこの地を買収できることになりました。土地の買収には松田泰玄委員、並びに妙護寺総代・本井義之委員の多大な尽力をいただきました。土地購入は第67世日顕上人のお許しを戴き、かつ種々の御指南と御高配を賜って、目黒町字鳥居畑559番1ほか2筆、計2,187平方メートル(662坪)の土地を購入し、一部必要な土地については地目変更の手続きを済ませました。この届け出書類などの事務処理は、斎藤栄順委員が何度も当地に足を運んで事に当たってくださいました。この席をお借りして、斎藤委員、松田委員、並びに本井委員に甚深の謝意を表するものであります。
こうして塚原跡地を取得したものの、跡碑の建立は当分先のことと考えておりましたところ、御当代日如上人猊下より、立正安国論正義顕揚750年記念局の記念事業として、塚原の跡碑を建立してはどうかとの有り難い御指南を賜り、直ちに準備に取りかかりました。そして、本日の法要の運びとなった次第であります。
なお、中央の御法主上人猊下の揮毫を賜りました「塚原跡」の石碑は高さ3m90cmあります。また、向かって右手の石碑には塚原建立の経緯を記した碑文を、左手には郷土史家の田中圭一(元筑波大学教授)・山本仁(佐渡博物館長)の両氏から寄せられた、塚原配所に関する解説をブロンズ製の銘板にして掲示しております。
なお、中央および右手の黒石はインド産の黒御影石、中央の赤みがかった台石は、埼玉県北部を流れる神流川上流で採れた万場天竜石で重量約12tの自然石です。左手の銘板を掲示する石は北海道夕張の赤石であります。これらはすべて、守護所跡の方向を向いて建てられております。また、跡碑の向かい側に置かれた2つの自然石は、四国愛媛の青石でありまして、これらは真南の方角、すなわち富士大石寺に向かって縦に並んでおります。
本日、ここ佐渡の地に総本山第68世御法主上人猊下をお迎え申し上げ、大導師を賜って塚原跡碑建立の法要を奉修できましたことは、宗開両祖の御照覧・御嘉納あそばされるところと拝察申し上げるものであります。さらに阿仏房をはじめとする佐渡弘教の先達にとって、本日の法要はまさしく永年の暗雲が晴れた瞬間であり、定めし大いなる歓喜に浴しておられることと推察いたします。
なお、御法主上人猊下におかせられましては、今日の法要を迎えるまで、筆舌に尽くせぬ御慈悲と尊い御指南を賜りましたこと、塚原跡碑の建立に関わった一人といたしまして、謹んで御礼申し上げます。まことにありがとうこざいました。
また、御隠尊日顕上人猊下の御慈悲に対し奉り厚く御礼申し上げます。
さらに、立正安国論正義顕揚750年記念局委員長・八木総監様、副委員長・藤本重役様、同じく副委員長・柳沢総講頭様をはじめ、本日御出席いただきました関係者の皆様にも、種々御指導・御協力をいただき、衷心より序く御礼申し上げます。以上、経過報告とさせていただきます。本日は、まことにおめでとうございました。
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