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  • from: 21世紀さん

    2009年04月16日 13時47分52秒

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    破邪鉄槌!

    大白法 平成14年4月1日

    立宗の日を3月28日に改ざん?

     本年一月三十一日の唱題行の折、御法主日顕上人猊下より宗旨建立の日について、宗門に「四月二十八日」と「三月二十八日」の、二重にわたる意義が伝えられている旨の御指南があり、これを受けて慶祝記念局では、三月二十八日に「宗旨建立七百五十年慶祝記念 開宣大法要」を奉修することを決定した(御法主上人の御指南は本紙、二月十六日号に奉載)。
     この「開宣大法要」に関連して、浅識の謗法者どもが素人教学を得々と披瀝しているので(二月十三日付聖教新聞)、かいつまんで俎上に載せてみよう。
     聖教新聞では、大きな見出しで「『立宗の日』を三月二十八日に改ざん」と打ち、読者の目を引きつけるとともに、浅識者の一人が、
     「今まで『立宗の日』は四月二十八日とされてきたが、実は三月二十八日であると言い出したんだ」
    と述べているのであるが、ここに創価学会お得意のスリ替えがある。
     御承知のように「改ざん」とは「文書の文字、語句などを改めなおすこと」であるが、なにも御法主上人は、立宗の日を三月二十八日に改められたわけではない。同日の御言葉を拝すれば明らかなように、四月二十八日が宗旨建立の日なのであって、現実に宗門では、その前日の二十七日と二十八日の両日にわたり、宗旨建立七百五十年の大佳節における中心の法要である「特別大法要」が奉修されることとなっている。
     そのことが前提となり、さらに宗祖大聖人の御化導を拝察した上から甚深の意義のある「三月二十八日」にも大法要を奉修するということであって、浅識者どもの言う「改ざん」ではないことを明確にしておく。

     御書全集がすべて「四月二十八日」のわけ
     浅識者の一人はまた、
     「御書全集のどこにも『三月二十八日』とは書かれていない。すべて『四月二十八日』と仰せだ」
    と述べ、その証拠として『諌暁八幡抄』等の六書の文を別に掲載している。
     ところが、例えばそこに挙げる『御義口伝』の、大石寺に所蔵する古写本には「三月二十八日」と記されてあるのであり、詰まるところ、創価学会版の御書全集では編纂の段階で一律に、宗旨建立についての記述に
    「三月」とある箇所を、すべて「四月」に改めただけのことである。したがって、浅識者どもが文証を挙げて勝ち誇っても、それは「三月二十八日」を否定する根拠とはならない。

     御歴代上人は「三月二十八日」を否定?
     さらに、浅識者どもは、
     「日興上人の仰せに『三月二十八日』という記述がある」
    「日興上人の『安国論問答』や、日道上人の『御伝土代』に(三月二十八日と)書かれている」
    と正論を述べながら、最後には、
     「代々の法主は、全部、『四月二十八日』」
    と括っていて、頭破七分ぶりを遺憾なく発揮している。
     ここでちょっと教えてあげれば、総本山第三十一世日因上人の『三四会合抄』に、三月二十八日に「宗旨建立の法会」を奉修したことが記されているし、総本山で奉修された行事に関する江戸時代の記録には、
     「三月二十八日 御講 和常」(文化十五年の年中行事帳)
    ともある。それに加えて、自らが日興上人の『安国論問答』や日道上人の『御伝土代』に「三月」とあることを認めているのだから、どうして「代々の法主は、全部」云々と言えるのか。
     虚構を前提に他を非難する創価学会の体質は、かの写真偽造事件などと共通する悪癖であるが、今はそのようなことをしている時ではあるまい。目前に迫った宗旨建立七百五十年をいかに慶祝し御報恩に備えるか、それに頭を使うべきであろう。


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コメント: 全8件

from: 21世紀さん

2009年05月25日 11時12分45秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年8月1日

人間主義 ②

  前回に続いて、創価学会で言う「人間主義」について考察する。
 この「人間主義」という言葉は抽象的で、その意味が判りづらいが、人間の生命や人格性、創造力など、人間性に根ざしたあらゆる価値を尊重するような意味合いを感じ、耳に触れる語感も心地よい。
 とはいえ、一般的な意味合いはともかく、実際に池田大/作らが、いかなる意図をもって「人間主義」なる言葉を使用しているかが問題であり、それを検証しなければならない。

 「創価学会至上主義」
 前回、凡夫本仏論という新たな教義の上に、池田大/作の教祖としての絶対的立場を築かんとしていることを紹介したが、創価学会が「池田大/作絶対主義」であることは衆目の一致するところである。たとえ自らの「規則」や「会則」で会長の権限をいくら高らかに謡おうとも、すべてが大/作の手のひらの上にあることは周知の事実と言える。
 さらに、もう一つの特徴として「創価学会至上主義」とも言うべき、危険きわまる思想を持つことが挙げられる。
 本当に書いてあるのかどうか真偽のはどは疑わしいが、既に昭和三十二年七月の日記に、
 「学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(平成十四年七月十七日付聖教新聞の社説)
と書き記したという池田大/作は、かつて、
 「二〇〇一年五月三日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(平成六年九月二日付聖教新聞)
と述べて会員を煽動したことがある。憎悪の念を植えつけるだけでなく、反学会・反池田を唱える者に対しては、人間としての尊厳をも認めないという、非人道的な体質をあらわにした発言と言えよう。
 もっとも、このような悪指導は日常茶飯事で、聖教新聞の各紙面にごろごろしている。したがって、わざわざ挙げる価値もないところではあるが、大/作はこのような悪言を繰り返し述べて、判断力のない無智な会員を洗脳しているのである。

 「人間」とは学会員だけ?
 実際、数を頼んで日蓮正宗の寺院や法華講員宅に押し掛けては恫喝を繰り返してきたことや、機関紙などで連日のように誹謗の限りを尽くしている現実を見れば、池田大/作らの言う「人間主義」が、ただの見せかけに過ぎず、創価学会至上主義を意味することが容易に見抜けるところである。
 つまり、大/作らの言う「人間主義」とは、人間という言葉を使いつつも、けっしてすべての人間を指すのではない。あくまで創価学会員だけを人間とするのであり、自分たちの思想や意見に従わない者は人間として見なさないのである。

 組織拡大の「旗印」
 しかし創価学会は、そうした「池田大/作絶対主義」「創価学会至上主義」体質を、なるべく世間にさとられないようにしながら、平和運動や文化運動なるものを機軸として、さらなる組織拡大を図っている。
 その旗印として「人間主義」という、いかにも耳に聞こえのいい言葉を多用し、危険性のない、善良なイメージを演出しているのである。

 学会の本質を糾明していこう!
 創価学会の言う「人間主義」は、法義的には凡夫本仏論を立てて戒壇の大御本尊と血脈相伝の仏法を否定するものであり、布教的には破邪顕正の折伏精神を忘れて新興の政治団体と化したことを象徴するものである。
 我らは「人間主義」の美名に隠れた、創価学会と池田大/作の本質を断固として糾明し、徹底した破折を加えていかなければならない。


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from: 21世紀さん

2009年05月25日 11時07分28秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年7月16日

人間主義 ①

 今般の創価学会問題が表面化した平成二年ごろより学会の機関紙誌に登場してきた言葉に「人間主義」がある。
 これを学会では「ヒューマニズム」と同義で使うことが多いようであるが、言葉自体が抽象的であり、その使われ方も様々で、意味するところがなかなか判りづらいのも事実である。
 そこで、学会はこの言葉をもって何を言わんとするのかを考えてみたい。

 新教義を構築するための「人間主義」
平成三年十一月に宗門から破門された創価学会は、自らの正当性を裏付けるための新しい教義の構築が緊要の課題であった。
 そこで、まず、学会員でもある御用学者の松戸行雄に『人間主義の日蓮本仏論を求めて』(以下、『人間主義』と略称)や『日蓮思想の革新』(以下、『革新』と略称)という本を書かせて世間や学会員の反応をうかがい、そのあとで池田大/作をはじめとする創価学会幹部が、それらの本に書かれている教義内容に沿って会員を洗脳していくという方法を採ったのである。

 「人間主義」とは凡夫本仏論
「人間主義」という言葉について、松戸は、
 「人間主義仏法の根本的立場は、自行化他の題目を実践する私たちが凡夫の体そのままで南無妙法蓮華経の九界即仏界を体現する地湧の菩薩であるとする『凡夫本仏論』である」(革新 まえがき)
と述べ、凡夫本仏論が「人間主義」の根本的立場であるとしている。この凡夫本仏論を打ち立てることにより、池田大/作を日蓮大聖人と比肩し、ついには超越させることをもくろんでいるのである。

 大聖人と肩を並べたい大/作
 末法の御本仏である宗祖日蓮大聖人と肩を並べることは、僣聖増上慢・池田大/作の宿願であったに違いない。松戸は、大/作の本書を代弁するかのように、
 「日蓮大聖人も法主も池田名誉会長も、そして私たちも全く同じ『人間』である(中略)大聖人だけが特別に神格化され、久遠本仏に祭り上げられる必要はない」(革新 四七)
と述べ、久遠元初の御本仏である大聖人を「全く同じ人間」と見下し、迷いの凡夫と同列に仕立てようとする。
 このように松戸によって地ならしがなされた上で、池田大/作自身も、
 「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」(平成六年五月二十六日付聖教新聞)
と言い、凡夫本仏論を創価学会の教義として定着させていく。学者や著名人の論を利用しながら学会員を洗脳していく、いつものパターンである。

 大/作が「人間主義」の王者?
 さらに松戸は、
 「池田SGI会長は徹底した真の人間主義の王者だからこそ、会員はますます敬愛し、信頼し、共に広宣流布のために動くのである」(人間主義まえがき)
と述べ、一方では大聖人を迷いの凡夫に引き下げながら、一方では大/作を「人間主義の王者」と持ち上げ、大聖人をも凌ぐ偉大なる存在として、強く印象づけるのである。
 こうして、凡夫本仏論という新教義の上に、池田大/作の教祖としての絶対的立場が築かれていくことになる。
 しかしながら、大/作が、会内においていかに強大な権力を手にしようとも、あるいは外道の教えを信仰する人々から摧尊入卑の勲章や名誉称号をいくつもらおうとも、御本仏大聖人と肩を並べることはできないし、ましてや越えることなど、できるはずもない。
 私たちは、俗のなかの俗人である、「人間主義の王者」とやらの実像を、多くの学会員に知らしめていきたい。


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from: 21世紀さん

2009年05月25日 11時01分51秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年7月1日

御 書 根 本 ?!

 池田創価学会で頻繁に使用される言葉のなかで、一見、解りよさそうだが、本当はよく解らないものとして「人間主義」とか「御書根本」を挙げることができる。このうち、今回は「御書根本」について考えてみたい。

 日什の「経巻相承」
 日蓮大聖人滅後百年のころに顕本法華宗を開いた日什は、当時の日蓮宗各派の分派抗争を批判し、血脈相承と師資相承(師は師匠、資は弟子の意)を排して「経巻相承」を主張した。言うところの経巻相承とは、後世の者が経巻を読んで師の真意を悟り、付嘱を受けたと自称することである。
 これについて、創価学会の教学部が編んだ『新版 仏教哲学大辞典』の解説は、たいへん興味深いので、ちょっと紹介してみよう。
 まず、総論的な破折として、
 「経典に依拠するのは仏教の基本であり、経巻を読んで仏の教えを学ぶことはだれでも同じで、特に相承を受けたなどと主張する必要はない」
と述べているが、まことに明快な論理である。

 正論を述べる「新版 ぶってつ」
 同大辞典は続けて、
 「経巻(御書)から思い思いに学んでいくうちにいろいろの解釈や主張の乱れを生ずるので、単なる経巻相承(御書根本)では新たな分立諍論の基となる。そこで仏(日蓮大聖人)の真意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。仏教においては究極の法体はすべて血脈相承、師資相承される」(カッコ内の語句は筆者)
とも述べている。これもまた正論であって、まことに立派な文章ではないか。
 ここまで解っていながら、「御書根本」だとか「大聖人直結」などの邪義をまき散らす池田大/作を諌められない創価学会教学部の阿諛追従ぶりは、なんとも情けないかぎりである。

 大事なことは「血脈相伝」の深義!
 ところで、御書を根本とするとはいっても、その御書に示される法門は所対によって、それぞれの意義と価値が異なってくる。
 例えば『報恩抄』の、
 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六)
の文を読んで、血脈相伝の深義を知らざる他門下においては熟脱の教主たる色相荘厳の釈尊像を本尊とする。池田創価学会が「御書根本」を標傍し、それ以外の血脈相伝を無用のものとするならば、他門下と同様に当文を文字づらだけで判断して、金ピカの釈尊像をもって本尊とするのが順当であろう。
 池田創価学会がそうしない理由は何か。それは、口では「御書根本」と言って独自の見解を立てた如くに述べるも、その実、日蓮正宗から学んだ相伝による判釈を用いているからである。
 この例からも判るように、御書の解釈の大綱を、他門にはない、本宗御歴代上人の相伝による判釈に依っていながら、自ら相伝を否定するのは、枝葉に執して根を截る愚であると言えよう。

 大/作が言う「御書根本」
 池田創価学会が言う「御書根本」は、御歴代上人による相伝の仏法に頼らなくとも、御書さえ読めば大聖人の仏意にかなうというものであるが、大/作の言うそれは、さらにタチが悪い。
 つまり池田大/作は、自分勝手な我見をもって御書を解釈し、三大秘法を曲解しつつ、それでいて「私の御書の解釈の仕方が一番正しい」と考えているからである。
 しかしながら、自らの辞典に述べるように、それは全くの邪義であり、御本仏の聖意にかなうことはない。
 血脈相伝の深義を否定する池田大/作の「御書根本」は、驕慢・浅識・不解・不信・疑惑・誹謗等の、十四誹謗のすべてに該当する大悪言であることを知らなければならない。


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from: 21世紀さん

2009年05月23日 16時54分38秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年6月16日

大 聖 人 直 結 ?!

 邪教化の著しい池田創価学会が声高に唱える言葉に「大聖人直結」があるが、これはなにも新しいものではない。近いところでは昭和五十二年ごろに顕在化した謗法路線、いわゆる「五十二年路線」においてもはっきり述べていて、学会には宗門からその意義・内容を詰問されたにがい経験があろう。

 御法主上人を通しての大聖人への直結?
 この「大聖人直結」について創価学会は、宗門の指摘により、いやいやながら作らされた『特別学習会テキスト』のなかで、
 「大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものであります。したがって、唯授一人、遣使還告であられる御法主上人猊下を通しての大聖人への直結であることは当然であります」(同書 二五)
と釈明している。クロをシロと言いくるめるのをお家芸とする創価学会のことだから、にわかには納得しがたいが、そもそも「Bを通してのAへの直結」などという論理が成り立つのだろうか。
 辞書を繰ってみると、
 「直結=間にものをはさまないで直接結びつくこと。直接関係があること」(小学館・日本国語大辞典)
とあって、そこに「B」が介在する余地はない。創価学会の言う「大聖人直結」はまさにこの意味であって、テキストに書いた「御法主上人猊下を通して」との回答は全くの詭弁である。

 「大聖人直結」「御書根本」は異流義の常套句!
 冷や汗をかきながら懸命に詭弁を弄する創価学会首脳の姿はまことに哀れであるが、どうして「大聖人直結」を高唱しなければならないのであろうか。それは池田x作に、血脈伝持の御法主上人を押しのけて、その上に立ちたいという、大慢心があるからである。
 いまさら言うまでもないが、末法の御本仏・日蓮大聖人の下種仏法は、本門戒壇の大御本尊を信仰の主体とし、化儀・化法の一切を唯授一人の血脈によって相伝されることによって正しく伝持される。その血脈を所持される御法主上人の御指南に基づいて信心をしてこそ、一切衆生の成仏もかなうのであり、そうした大聖人の正法を七百五十年間、正しく受け継いだ宗団が日蓮正宗である。
 この正系・正統宗団である日蓮正宗の教義とは異なった義を立て、宗門から分立し一派を形成していく流派――これを異流義と言うが、それら異流義は自らの存続のため、必ず血脈相伝による仏法の承継を否定しなければならなくなる。よって、日興上人以下の御歴代上人を抹殺せんとする「大聖人直結」とか、経巻相承と同義の「御書根本」などが常套句となって登場することになるが、創価学会もまた、多分に洩れない。

 池田x作が言う「大聖人直結」の真意!
 大作は様々な機会に「大聖人直結」を述べるが、その主意は、x作と大聖人とが直ちに結びついているということを会員に知らしめるところにある。したがって、表向きは崇めているようであるが、実際には日興上人も、また日寛上人も必要ないと考えているのである。
 つまり、「血脈の次第 日蓮日興」と示される、唯我与我の僧宝・日興上人の意義を全く否定し、さらには相伝による御歴代上人の御指南もなきものとして、直ちに大聖人の仏知・仏見を得ることができるというのがx作の考えであって、その傲慢非道にはあきれ果てるのみである。
 さらに言えば、x作のような低俗な人間が御本仏に比肩したり、日常的にはそれ以上に敬わせているというのであるから、もはやこれほどの大聖人軽視・蔑視はないであろう。
 このように下種三宝のうちの仏宝と僧宝を全く知らないx作であるから、理の推すところ、法宝の随一たる本門戒壇の大御本尊をも否定するのは時間の問題である。

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from: 21世紀さん

2009年05月23日 16時45分24秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年6月1日

「方便品・自我偈」でOK ?!

 自ら「規則」と「会則」を改悪した創価学会は、名実ともに日蓮正宗から離反し、いや増して謗法・堕地獄路線を突き進むことになった。
 その手始めとして、池田x作の大きらいな「勤行」の化儀を、手っ取り早く簡素化しようとしているらしいので、紹介しよう。

 まずは海外で反応をさぐる?
 会長の秋谷らは聖教新聞の紙上座談会において次のように述べている。
 「秋谷 各国の広布の伸展とあわせて、今回、『海外での勤行は方便品・自我偈の読誦でもよい』と、皆の総意で申し合わせました。
 M 大賛成ですね。これだけ忙しい現代社会にあって、それが当然の行き方じゃないですか。
 N (省略)
 秋谷 (省略)
 H サラリーマンのご主人が奥さんから無理やり朝、五座をやらされてケンカになったり、寝不足になったり、遅刻ばかりしてたら、それこそ意味がない。」(五月十五日付 聖教新聞)
 この対談のなかで、秋谷はわざわざ「海外での勤行は」と断っているのに、婦人部のMはついつい口をすべらせて、近い将来、日本国内でも「方便品と自我偈だけ」の方式をもって創価学会の化儀とすることを暴露している。
 また、付け足しで紹介したHの言い分は、本人の信行に照らして、けっして看過できない。
 下種三宝尊に対し奉る御報恩謝徳の勤行について「無理やりやらされる」 「寝不足になったり、遅刻ばかりしてたら、それこそ意味がない」とは、なんとも情けないかぎりではないか。

 五座三座の勤行は宗門のやり方?
 先に登場した婦人部Mは、
 「五座三座の勤行というのは、もともと、宗門のやり方を元にしたものでしたね。」(五月十五日付聖教新聞)
とも述べて、宗門から破門された新興宗教・創価学会としては、それにこだわる必要がない旨を主張している。
 しかし、考えてもみよ。創価学会は、独自の教義や化儀は全く持ち合わせず、すべて「宗門のやり方を元にし」てきたのではなかったか。
 創価学会教学部の手になる
『創価学会入門』(昭和五十五年九月十二日発行の改訂版)に、
 「日蓮正宗宗務院より、
一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
二、当山の教義を守ること。
三、三宝(仏・法・僧)を守ること。
 という三箇条が示されました。
 創価学会は、昭和二十七年八月、この三箇条を守ることを前提に、独自の法人格を有する団体となり(後略)」(同書 三二二)
と説示されるように、創価学会は「当山」すなわち、日蓮正宗総本山大石寺の教義を守ることを約束している。その「教義」のなかに「五座三座の勤行」が含まれることは言うまでもない。

 「創価学会の究極の目的」は?
 この『創価学会入門』には、
 「創価学会の究極の目的は日蓮正宗を外護してその興隆をはかり云云」(同)
とも述べている。
一般論として、よほどのことがないかぎり、「究極の目的」が改変されることなど、ありえない。ところが、新興宗教・創価学会は、その究極の目的である「日蓮正宗を外護」することをやめ、大邪教を世にまき散らさんとしているのである。
 本門戒壇の大御本尊から離れ、血脈法水を誹謗し、七百五十年の伝統に背を向けた創価学会は、水に浮かぶ根無し草のごときものであり、そこには独自の教義もなく、化儀もなく、信行学三道のすべてが日蓮正宗から盗んだものである。
 とはいえ、盗んだ宝はただちに謗法の重垢に覆われ、活用することができないのは当然である。その顕著な例として今般は「勤行の改変」に表れたが、今後、謗法の現証が続々と表れることであろう。

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from: 21世紀さん

2009年04月16日 23時18分33秒

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「Re:破邪鉄槌!」
『大白法』H15.7.1)
日蓮正宗を外護するのか!?
―『御書講義』の完結に喜ぶが―
創価学会は、全39巻・53冊の『日蓮大聖人御書講義』の完結がよほどうれしかったのか、4月22日付の『聖教新聞』で完結を報じ、さらに4月25日付同紙の「社説」でも取り上げている。

<社説子の自讃>
 この講義録について、社説子は次のように自讃する。
 「大聖人の教えを正しく拝し、仏道修行の実践の糧となる講義録の発刊に、学会教学陣が総力を挙げて取り組んだ。その後、1つ1つ確認し、掘り下げ、加筆して、地道に作業は続けられ、順次、発刊されて、37年にして完結をみた」(『聖教新聞』H15.4.25)
 「世に大聖人の御書を解説した書は多い。しかし53冊にもわたり精細を極めて解説したものはほかにない。まして大聖人を末法の御本仏として拝し、文底独一本門の法門を正しくとらえた解説書は本講義録が唯一である」(同)
 しかし、社説子がいかに自讃しようとも、日蓮正宗から破門された創価学会では「大聖人の教えを正しく拝し」えないこと、また「文底独一本門の法門を正しくとらえ」ることのできえないことは、既に述べ尽くしたところである(5月16日号の「破邪鉄槌」を参照)。

<中身はそのままでいいのか?>
 ところで、第1回の編纂委員会が開催された昭和41年と今とでは、創価学会の主張・信条が大きく異なるが、その講義録のなかに山積する相異・矛盾をどのように処理するのか。他人ごとながら大いに興味をそそるところではある。
 今、手元に、昭和59年2月16日発行の『日蓮大聖人御書講義』第38巻(同年10月20日・第4刷)がある。そのなかに、
 「末法の御本仏たる日蓮大聖人を心から供養する功徳は無量無辺であり、今生に大福運を積み、後生は霊山浄土に生まれること、すなわち一生成仏を遂げることは疑いない。今日、私達は生身の大聖人を拝して供養し奉ることはできないが、御本仏の御生命の御当体たる本門戒壇の大御本尊を拝し、大御本尊を厳護する日蓮正宗を外護申し上げることによって、大功徳を受け、成仏していくことができるのである」(同書62頁)
と書いてはあるが、本門戒壇の大御本尊を拝する資格が失せ、日蓮正宗の外護を放棄した創価学会員は「大功徳を受け」ることも、「成仏」ができないことも、自明の理である。

<「末法の霊山」に参詣せよ!>
 その講義本には、また、
 「大聖人の出世の本懐であり御本仏の法魂たる本門戒壇の大御本尊と、大聖人・日興上人以来血脈付法の歴代の御法主上人のいます総本山大石寺こそ末法の霊山なのである。したがって、総本山大石寺に参詣し、正本堂に御安置された本門戒壇の大御本尊を拝し奉ることのみが、我ら末法の一切衆生が『三業の悪転じて三徳を成ぜん』唯一の道であることを知らなければならない」(同書71頁)
とも書いてある。文中の「正本堂」を「奉安堂」と置き換えれば、日蓮正宗の伝統法門にのっとった、非の打ちどころのない正論であると言えよう。
 問題は、正論を述べながらも、血脈付法の御法主日顕上人猊下に対し奉り、言葉を極めて悪口罵詈していること、あるいは「末法の霊山」と持ち上げる総本山大石寺について「謗法の山」と誹謗している現実である。そんな創価学会員が、「三業の悪」を積み重ねることはあっても、「三徳を成」ずることなど、絶対にないことを知らなげればならない。
 創価学会員の「悪道修行の実践の糧となる講義録」なのだから、自らの言行と乖離するものであってはなるまい。
 いっそのこと、教祖・池田x作の仰せのまま、三宝破壊の徹底改悪版講義録を発刊してはどうかと告げておく。

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from: 21世紀さん

2009年04月16日 13時53分30秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年5月1日

ついに【池田】教の旗揚げ?! ②

  三月二十八日の総務会で議決された「創価学会会則」の改悪に関連して、聖教新聞の紙上座談会(四月十七日付)に会長の秋谷某と総合婦人部長の秋山某との、こんなやりとりが載った。
 「秋谷 また、本文の第二条では、学会の教義を明確に定めました。
 『日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする』と掲げました。
 秋山 これまた納得できますね。まったく正しい路線と思います」。

 「日蓮正宗の教義」を放棄!
 会長の秋谷某が「学会の教義を明確に定めました」と、これまでの「教義」を改悪したことを正直に白状するのに対し、秋山某は痴呆症を疑うような相づちを打ってこれに応える始末で、創価職業幹部らの悩乱ぶりが見て取れるが、旧会則では「教義」について、
 「第三条 この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年一〇月一二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
(大白蓮華 昭和五十四年六月号)
と明確に謳っていた。
 この新旧両会則を一読して判るのは、今回の改悪において「日蓮正宗の教義」を抛棄するとともに、本門戒壇の大御本尊を「根本とする」のをやめたことである。
 秋谷某は全国総県長会議の席上、自ら「会則改正の一番魂の部分であ」るから説明したと言いながら、創価学会の教義の最も根幹をなす「日蓮正宗の教義に基づき」の文言を削除した理由を、全く述べていない(三月三十日付聖教新聞)。

 「どこか特定の場所」ってどこ?
 また、教学部長の斉藤某は、「本門戒壇の大御本尊を根本とする」ことをやめた後ろめたさを糊塗するため、
 「どこか特定の場所に参拝しなければ成仏できないという日顕宗のような誤った考えは大聖人の御本意ではありません」(三月三十日付聖教新聞)
と強弁する。斉藤某の論旨を推測するところ、「どこか特定の場所」とは日蓮正宗の総本山である大石寺、乃至、戒壇本尊を安置する「奉安殿」を指すのであろう。
 もし、そうであるならば、新会則に謳う「三代会長」の一人、戸田城聖氏の言う、
 「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない」(戸田城聖全集 三巻四九〇)
との根本精神を完全に否定するものである。また、昭和五十三年十一月七日、通称「お詫び登山」における辻武寿副会長の、
 「戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません」(昭和五十三年十二月一日付大日蓮号外 六)
との発言からすれば、創価学会はもはや、信仰自体が成立しない団体になったということである。

 新興宗教【池田数】の旗揚げ!
 池田x作は、七百年の伝統に輝く日蓮正宗を乗っ取るため、昭和四十七年に建立された正本堂を利用して宗門に圧力をかけた。ところが、それに失敗したため、今度は多くの会員を道連れにして宗門よりの独立をねらったのである。
 今回の「会則」改悪により創価学会は、日蓮正宗の正法正義から退転し、池田x作が夢にまで見た新興宗教【池田教】の旗揚げが完成したと言えよう。

 さらなる破邪鉄槌を!
 昭和五年に日蓮正宗から派生した創価学会は、平成三年に破門され、根無し草と同然になった。それでもなお、寄生虫のように、日蓮正宗の教義に基づくのか否か、本門戒壇の大御本尊を根本とするのか否かがはっきりしなかったが、今回、その二つ共に否定する団体であることが明確になったわけである。
 このことによって我々は、創価学会破折の筋道がより明確になったとも言えるのである。本年の大佳節を邪教創価学会撲滅の好機ととらえ、徹底的な破折をもって教化善導していこうではないか。

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from: 21世紀さん

2009年04月16日 13時50分19秒

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「Re:破邪鉄槌!」
大白法 平成14年4月16日

ついに【池田】教の旗揚げ?! ①

 桜花爛漫と咲き誇る総本山大石寺において「宗旨建立七百五十年慶祝記念 開宣大法要」が厳粛に奉修された三月二十八日、邪教・池田創価学会では総務会を開いて「創価学会会則」を改変した(三月二十九日、同三十日付の聖教新聞)。
 唯授一人・嫡々付法の御法主日顕上人猊下の大導師のもと、本門戒壇の大御本尊まします総本山において、末法下種の御本仏・宗祖日蓮大聖人に対し奉る御報恩の大法会を、清信の僧俗が登山参詣して盛大に修し奉った同じ日に、かたや創価学会では、同会運営上の法規たる会則の命脈・魂とも言うべき「教義」や「目的」の条文をいじり、いやまして謗法・堕地獄路線を突き進むことを発表するに至った。このことは、凡眼凡智では計り知れない、破邪顕正の御仏意と拝するものである。

 学会員は永久に登山できない!
 今回の会則の改変により創価学会は、本門戒壇の大御本尊を明確に否定するとともに、名実ともに【池田教】として新たな第一歩を踏み出すことになった(このことについては次回、詳しく論ずる)。
 既に創価学会は、平成三年十一月に日蓮正宗から破門された団体である。したがって、そうした謗法団体が今さら何をしようとも勝手であり、我々の関知するところではない。しかし、破門されてすっきりしたと喜ぶポーズを見せながら、日蓮正宗の総本山である大石寺について、いつまでも未練がましく、
「日顕(上人)が退座すれば、学会員はふたたび大石寺に行けるようになる」
などと言って一般会員の組織離れを阻止していた職業幹部の甘い言葉が、今回の会則改変によって、全くの誑言であったことが明確になったのである。

 宗門の「しがらみ」を排除?!
 ところで、会則を改変した理由について会長の秋谷某が、従来の会則のなかに日蓮正宗の「しがらみ」が残っていたため、これを抜本的に改めたなどと囁いている。
 たしかに、従来の「創価学会会則」(昭和五十四年六月号の『大白蓮華』から引用)に謳われるところの、
 「この会は、日蓮正宗の教義に基づき」
云々とか、
 「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年一〇月一二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
の条文、はたまた、
 「この会は、日蓮正宗を外護し」
の文句は、現在の創価学会の実態に照らし、全く空文化しているので、これらの文言をきれいさっぱり削除したのは、ある意味で当然の「改悪」と言えよう。
 これと同様に、従来の会則中、会員を規定した、
 「日蓮正宗の檀・信徒で、この会に入会し、会員名簿に登録された者を会員とする」
とか、活動の基本を定めた、
 「会員は、日蓮正宗の教義を遵守し、三宝を敬い」
などの条項も、実態に即して「改悪」されているに違いない。
 そしてこれらの改悪後の会則が、法義の上から、創価学会の邪教化に、今後一段と拍車をかけることは、疑いないことと言えよう。

 池田教を徹底的に破折しよう!
 ともかく日蓮正宗から退転した創価学会が、会則を改変し、いよいよそのベールを脱いで【池田教】の旗揚げをしたわけである。
 創価学会の宗教法人取得に当たり、日蓮正宗の外護を時の御法主日昇上人猊下に誓った第二代会長戸田城聖氏の嘆きと憤りは察するに余りある。宗旨建立七百五十年の開幕を告げる開宣大法要当日の、この会則改悪こそは、末法広宣流布の礎たる法華講三十万総登山と奉安堂の建立が、まさに大聖人の仏勅たるを証明するものと言うほかはなく、我らはいよいよ慈悲の破邪鉄槌を加えていこうではないか。

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