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  • from: ハムスターさん

    2009年05月28日 09時45分38秒

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    以下の文は、個人的見解です。

    >北条時宗は弘安7年に入道し、逝去し、法名を法光寺と名乗ったが、弘安5年にご逝去された蓮祖がどうして、法光寺と記されることが出来るのか?
    >まして、この御書の系年は文永12年となっている。
    >偽書でないと言うならば、この矛盾を理論と文証で証明しなさい!

    これは降魔の剣での投稿の一部引用ですが、これを投稿したアホ学会員は、「弘安7年に入道し、逝去し、法名を法光寺と名乗った」ということで教行証御書を偽書という根拠にしております。

    まあ、その根拠は、北条時宗Wikipediaより。
    「弘安7年(1284年)にはすでに病床にあったとされ、4月4日には出家し、同日に34歳で病死。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。」

    その円覚寺のホームページより。
    「時宗公は円覚寺が建立されてから2年後の1284(弘安7)年、4月4日に34歳の若さで亡くなられました。(法名・法光寺殿杲公大禅定門)」

    だそうです。Wikipediaが根拠として文献学的アプローチとは笑えるのですが、死後戒名を前提としているのがアホ学会員らしいところです。

    れいなさんは、この様なアホをあまり相手されないと思いますので私なりの見解を書いてみました。

    法名(戒名)とは、本来その宗派仏門に帰依した場合与えられるものであり、すなわちその宗派の戒律を守るといことであり、必ずしも死後とは決まっていないはずです。

    さて、時宗がいつ禅宗に入門していたか?
    それをうかがい知る資料として、時宗が十五・六歳頃の『大覚禅師語録』に「左馬禅門に示す」という蘭溪の法語があります。
    時宗が左馬頭の頃、すなわち弘長元年(一二六一)から文永五年(一二六八)の間に、既に禅門になっていたといえます。
    禅門とは、入道と同じく在家のまま頭を剃って仏門に入った人を指します。
    そうするとこの時点で法名がなければなりません。

    Wikipediaの「弘安7年に入道し、逝去し、法名を法光寺と名乗った」の記述が正確でないのです。
    文献学からのアプローチと言えるほどのものではない論理展開ですね。

    さて、ネット検索結果でよいのなら次のようなものがあります。
    下記のアドレスは、執権北条氏辞典というものですが、そこから抜粋すると、
    http://homepage1.nifty.com/kitabatake/hojyoshishi.html

    北条 時宗
    (1251年5月15日〜1284年4月4日) 享年34歳
    父・北条時頼  母・北条重時の娘
    幼名..正寿丸
    通称..相模太郎・法光寺殿
    法名..道杲
    守護..武蔵守護・伊豆守護・若狭守護・駿河守護・美作守護
    とあります。

    通称に法光寺殿とあり、法名と道杲とあります。(ただし、いつからとは記載されていません。)

    ここでは法名と戒名の正確な使い分けは置いておくとして、北条時宗の父親、北条時頼の戒名は最明寺道崇、この由来は、 時頼が建てた持仏堂を最明寺(現在の明月院)と名付け、それに由来しているのではと思います。
    ならば息子の時宗は、円覚寺を建てているのですから、本来、入道後は円覚寺殿と名乗ってしかるべきですが、 法光寺殿となっています。
    これは、禅宗に帰依し禅門となり、執権職に就いた時点では時宗の法名が既に法光寺殿道杲であった可能性を示すものです。
    ただし、この文章は思いつきで書いてみようと思ったので、まだ文献を探していません。一度調べるか、御住職に聞いてみたいと思います。
    もし、ご存じの方おられたらお願いします。

    次に、 法光寺殿の由来は、時宗の父親、時頼の縁ではないかと思います。
    その根拠は、法光寺で検索しますと下記のような文が見つかります。

    「法光寺は、今から千百三十余年前(平安時代)に創立されたもので、それより四百年程経て鎌倉執権最明寺時頼公がひそかに奥州行脚の折に名久井岳に登られ、夕陽をあびて無量山観音寺と称する寺に一夜の宿を乞うたが山主は応じてくれなく、やむなく山に登って一草庵をたづねて宿を乞うたところ、庵主大いに喜んで迎え、出来合いであったが饗応して一夜を過ごしました。
     時頼公は、庵主の歓待に深く感謝し、翌朝目がさめ、あたりを見ましたが庵主が見当たりませんでした。時頼公は、携えてきた扇面に「目通り壱千石、右永代可令知行也 最明寺時頼(花押)名久井山主玉峰損城和尚殿」とかき、別面には、「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海より出でて山に入る月」の一首を残して、名残り惜しげに庵を立ち、山を下る途中で庵主に逢いました。庵主の云うには「恥かしながら今朝飯糧がなかったので、お客人の目覚めぬうちに托鉢に出てこのように喜捨を受けて帰ったので再び庵に戻られるように」とねんごろに勧めました。
     時頼公は、このことに深く感激して、鎌倉に帰りました。最明寺時頼公と庵主の逢われたところが「出逢坂」と称してあり、また、この庵を夢想軒と称して、今なお「古寺」としてその面影を残しています。
     時頼公が、鎌倉に帰えるとすぐ、宮野玄蕃、板垣監物の両人を普請奉行として、大工、左官、鍛冶、木挽に至るまで派遣して、観音寺は命令をもって廃止し、その跡は、七堂伽藍を建立して、白華山法光寺と号して、開山には損城和尚を託す。公自ら開基となられ、曹洞宗の道場を開設なされたものと伝えられている。昭和54年6月」

    さてこの文章から分るとおり、父親が寄進した寺の名前から来ているのではではないでしょうか?
    これも一度調べてみたいと思います。

    しまさんが、教行証御書の見解を日蓮正宗正義顕揚750年のサークルで記載されていますが、ここのサークルのメンバーなので、もしよければ御意見をいただければと思います。

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from: しまさん

2009年05月28日 13時22分24秒

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「個人的見解です。②」
この御書は文永十二年三月五十四歳御作の御書と言われております。
しかし真蹟が有りません。

この御書には問題の記述の「又律宗の良観が云く法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く〜」
「観仏相海経等の諸経並びに竜樹菩薩の論文如何が候や」があります。

法光寺殿とは北条時宗です。

生誕 建長3年5月15日(1251年6月5日)
死没 弘安7年4月4日(1284年4月20日)
戒名 法光寺殿道杲 

出家したのは晩年でしかも大聖人様が既にお亡くなりなられた後である。
さてまず法光寺殿だが御書に「又律宗の良観が云く法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く〜」と
ここに極楽寺良観のことが記されております。

忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、
鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。号は良観。父は伴貞行。

良観が法光寺に訴状を云云とあるが、時期は文永8年(1271年)の頃と考えられる。
7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。
9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。

さてこの時の執権は誰だろう、正に法光寺殿事鎌倉8代執権北条時宗である。

・文永5年 1268年 3月5日 執権就任

真蹟から写したのであるが書写した人は法光寺殿と記載した
可能性は否定できません。

当時幕府(執権)は鎌倉殿と呼ぶ事が多く真蹟もそのような記述と
考えられるが書写人が鎌倉殿=法光寺殿と認識していたと考えるのが
自然と思われる。

この御書は法光寺殿との記述=偽書と決まっていない。
其の証拠に他門流の日蓮宗でもこの御書に関しては真偽有りと言っていない。
http://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/mikkyo.htm

真偽がかえって決めかねる記述は、観仏相海経の御文である。

質問者はたしか、「四条金吾釈迦仏供養事」に記述されている「観仏相海経」を
蓮祖の誤記と言って「四条金吾釈迦仏供養事」は偽書ではないと言い切った。

何故、教行証御書だけ「観仏相海経」を疑い「四条金吾釈迦仏供養事」は
疑わないか不思議ではないか。

後世の偽作であれば、観仏相海経ではなく観仏三昧経と書くのが筋だろう。
それなら最も偽書らしいと考える。

「四条金吾釈迦仏供養事」に記述されている「観仏相海経」と同様に
「観仏三昧経」を蓮祖が誤記をしたと考えるのが自然である。

写本は必ずしも全て原本に忠実に写しているとは限らない
歴史的に見てもその写本した人物が、そのときの呼称に変えたりする場合も多々ある。

また、「四条金吾釈迦仏供養事」は建治二年の作で「教行証御書」は文永十二年
しかも文永十二年は4月25日に建治元年に改元しており、日も浅い従って
「観仏相海経」の誤記は蓮祖が書いた事の可能性を高める可能性が大なのである。

以上から蓮祖が著され、後日写本をしたものが北条時宗の呼称を
法光寺殿と写したと考える。


日蓮正宗正義顕揚750年サークルをこちらにも転載いたしました。
歴史的な文献として既に時宗を法光寺殿と呼んでいたのであれば
質問者が言っている内容は、破綻しますね。
しかし、蓮祖の誤記といわれている「観仏相海経」からでも
偽書といい難い、偽書なら「四条金吾釈迦仏供養事」まで
偽書になるが・・・

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