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from: 21世紀さん
2009/06/08 08:28:54
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池田/大作作小説人間革命批判
名前:yuriko投稿日:2003/05/05(月)12:32ここの書き込みでは、主に、同十二巻を取り上げる。同作品は、私小説と断られていないし、純粋
名前: yuriko 投稿日: 2003/05/05(月) 12:32
ここの書き込みでは、主に、同十二巻を取り上げる。
同作品は、私小説と断られていないし、純粋な伝記でもない。作者は、これをフィクションと言っている。
しかし、人物の配置、時代設定等を鑑みるとどう見ても、ドキュメンタリーとしか読めない。
つまり、作者に都合の悪い面は、フィクションで、都合の良い部分は、真実としているのだ。
同十二巻では、露骨に「誰」とわかる形で、「反逆者」への陰険な人格攻撃が際立っている。その描写は、あまりにも生々しく、日本の法律で定めた「名誉毀損の罪」に該当するのは、明らかなのだ。
しかし、不思議な事に誰も作者を訴えようとしていない。これは、公明党の存在が明らかな憲法違反であるにも拘わらず、誰も本気で問題にして来なかった事と並んで、日本文化に於ける不思議の一つだ。
私が、ここで問題にしたいのは、同小説160ページに登場する石川幸男こと、石田次男氏への侮辱的記述である。これが書かれた当時は、石田氏は存命中だった。
石田氏の母は、初代の創価学会婦人部長であり、戸田先生との信頼関係は、深いものがあった。しかし、どういう訳か、同小説には、登場していない。これは、意図的に削除されたのだろう。
その息子である次男氏への戸田先生の信頼は、並々ならぬものがあった。同氏は、大卒ではあるが、有名校出身ではない。にも拘わらず、戸田先生に目をかけられた。という事は、池田先生の場合と同様、石田氏の人格的素養が戸田流の人材育成法のメガネに適った為だったのだろう。
p160には、次のような記述がある。
『一一幸男は、九州との馴染みはあるが、力量、人格はどうか....。
石川は........戸田は、翌年四月に聖教新聞が創刊された時には、編集スタッフに任命し、ほどなく彼を編集長とした。......
二十六年七月の男子部結成式の折には、石川は第一部隊長に抜擢され、一年半後には、青年部出身の初の支部長として、小岩支部長に就任したのである。まさに彗星のように、短日月のうちに登場してきた幹部といってよい。』
つまり、作者としては、戸田先生と石田氏との特別な関係を意識的に無視した上で、一応の敬意は払っているように見える。
当時の創価学会は、戸田創価学会と言うべきで、特に人事の面では、戸田先生が全てを裁可した。
その中で、石田氏は、『まさに彗星のように、短日月のうちに登場』したのだ。並々ならぬ戸田先生の信頼を受けていたのだ。
これは、ただ事ではない。ただの要領だけで、(当時の)学会の中で出世できるものではない。
さらに、そこに記載はないが、次男氏は、学会青年部初の理事にも就任している。
誰が見ても、それは、戸田先生が石田氏を自分の後継者とする布石だった筈だ。
実際、戸田先生の石田氏への信頼は、並々ならぬものがあったのは確かだった。
例えば、石川氏を小岩支部長にした時、戸田先生は、
「追いて来る者だけが追て来ればいい。次男と私で創価学会の旗を持って死ぬ覚悟だけだ」
とまで、言った。
また、現在の創価学会が愛用している「御書全集」への氏の貢献は、大きい。同全集は、長年の掘米尊師(後、猊下)の研究がなくては、成立するものではなかったが、氏の貢献も無視してはならい。
因に創価学会では、未だに、同書を「創価学会教学部が総力を結集して成った全集」と位置ずけている。
今年は、その創刊60周年?記念だそうだ。石田氏が果たした学会貢献を再評価するいい機会ではないのか?
戸田先生は、その貢献を称えて、一首の歌を送っている。正確には、覚えていないが、
『夫婦して 作れり御書全集 本仏の 永久に輝け その誉れ高し』
みたいなものだったと思う。
名前: yuriko 投稿日: 2003/05/05(月) 12:32
ここの書き込みでは、主に、同十二巻を取り上げる。
同作品は、私小説と断られていないし、純粋な伝記でもない。作者は、これをフィクションと言っている。
しかし、人物の配置、時代設定等を鑑みるとどう見ても、ドキュメンタリーとしか読めない。
つまり、作者に都合の悪い面は、フィクションで、都合の良い部分は、真実としているのだ。
同十二巻では、露骨に「誰」とわかる形で、「反逆者」への陰険な人格攻撃が際立っている。その描写は、あまりにも生々しく、日本の法律で定めた「名誉毀損の罪」に該当するのは、明らかなのだ。
しかし、不思議な事に誰も作者を訴えようとしていない。これは、公明党の存在が明らかな憲法違反であるにも拘わらず、誰も本気で問題にして来なかった事と並んで、日本文化に於ける不思議の一つだ。
私が、ここで問題にしたいのは、同小説160ページに登場する石川幸男こと、石田次男氏への侮辱的記述である。これが書かれた当時は、石田氏は存命中だった。
石田氏の母は、初代の創価学会婦人部長であり、戸田先生との信頼関係は、深いものがあった。しかし、どういう訳か、同小説には、登場していない。これは、意図的に削除されたのだろう。
その息子である次男氏への戸田先生の信頼は、並々ならぬものがあった。同氏は、大卒ではあるが、有名校出身ではない。にも拘わらず、戸田先生に目をかけられた。という事は、池田先生の場合と同様、石田氏の人格的素養が戸田流の人材育成法のメガネに適った為だったのだろう。
p160には、次のような記述がある。
『一一幸男は、九州との馴染みはあるが、力量、人格はどうか....。
石川は........戸田は、翌年四月に聖教新聞が創刊された時には、編集スタッフに任命し、ほどなく彼を編集長とした。......
二十六年七月の男子部結成式の折には、石川は第一部隊長に抜擢され、一年半後には、青年部出身の初の支部長として、小岩支部長に就任したのである。まさに彗星のように、短日月のうちに登場してきた幹部といってよい。』
つまり、作者としては、戸田先生と石田氏との特別な関係を意識的に無視した上で、一応の敬意は払っているように見える。
当時の創価学会は、戸田創価学会と言うべきで、特に人事の面では、戸田先生が全てを裁可した。
その中で、石田氏は、『まさに彗星のように、短日月のうちに登場』したのだ。並々ならぬ戸田先生の信頼を受けていたのだ。
これは、ただ事ではない。ただの要領だけで、(当時の)学会の中で出世できるものではない。
さらに、そこに記載はないが、次男氏は、学会青年部初の理事にも就任している。
誰が見ても、それは、戸田先生が石田氏を自分の後継者とする布石だった筈だ。
実際、戸田先生の石田氏への信頼は、並々ならぬものがあったのは確かだった。
例えば、石川氏を小岩支部長にした時、戸田先生は、
「追いて来る者だけが追て来ればいい。次男と私で創価学会の旗を持って死ぬ覚悟だけだ」
とまで、言った。
また、現在の創価学会が愛用している「御書全集」への氏の貢献は、大きい。同全集は、長年の掘米尊師(後、猊下)の研究がなくては、成立するものではなかったが、氏の貢献も無視してはならい。
因に創価学会では、未だに、同書を「創価学会教学部が総力を結集して成った全集」と位置ずけている。
今年は、その創刊60周年?記念だそうだ。石田氏が果たした学会貢献を再評価するいい機会ではないのか?
戸田先生は、その貢献を称えて、一首の歌を送っている。正確には、覚えていないが、
『夫婦して 作れり御書全集 本仏の 永久に輝け その誉れ高し』
みたいなものだったと思う。
http://www16.ocn.ne.jp/~a1133/925_1052105523.html
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from: 21世紀さん
2009/06/08 09:14:33
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「Re:池田/大作作小説人間革命批判 」
46 名前: SGI 投稿日: 2003/05/08(木) 20:29
>>42 yuriko さんへ
>とすると、竜氏の発言「池田青年は、会場に居た」というのは間違っていたのだろうか?
そうでもないんじゃないか?
>つまり、戸田先生と池田先生の出会いは、少なくとも最初は、何の変哲も無い凡庸なものだった。よくある話だ。
その通りだと思います。
>>31 でご紹介した部分の前段には、三宅さん宅が蒲田の拠点で、戸田先生の月例の「立正安国論」講義の会場だったことをお話されております。そこで、三宅さんのお姉さんが同窓生だった名誉会長を連れてきたことは、話の流れの中で容易に頷けられるところです。
ただ、小説『人間革命』の描写が「全く事実は違います。」と明言されていることと、
きちんと自己紹介をし戸田先生に面識をいただいたのは、昭和24年1月の、三宅さんのお母さんを通じての就職依頼の時だったということです。
したがって、yurikoさんがご指摘されているように、天皇制や愛国者等の質問や即興詩を朗々と詠んだというのは、全くの脚色・創作でしかないでしょう。まさに“神話”創りなのです。
余談を1つ。
興味深いのは、名誉会長が御本尊下付の後、「家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『新心理学講座』より)と、雷への恐怖心から信心を始めたと語っていることです。
宗教改革の流れを生み出したマルティン・ルターは、大学で法律を学んでいたのですが、ある日、目前に雷が落ちて死の恐怖の中で、修道士になることを誓い、1505年に修道院に入りました。
雷は、信仰心を呼び目覚めさすのでしょうかね。
名誉会長は、今般の宗門vs学会抗争が起きる前、側近幹部を前にして
「俺は、マルティン・ルターになる。日本では宗教改革の歴史がなかった。今、それをやるのだ。坊主とケンカをするのだ。もしもの時でも、大聖人の仏法を掲げて、外から宗門を攻めていく」と語っております。
ご本人は“新教の確立”をめざし、改革者気取りなのかもしれませんが、所詮脂ぎった無知性な俗物然としたおっさんにしか思えないのは、私だけでしょうか。
47 名前: SGI 投稿日: 2003/05/08(木) 22:20
名誉会長の入信は、昭和22年8月。昭和3年1月生まれの名誉会長は19歳だった。この「19歳」も、師弟神話に脚色する。つまり「牧口と戸田」「戸田と池田」の出会いにおける師弟の年齢が一致する、というウソである。
「牧口と戸田」の出会いは、牧口先生が東京・西町小学校の校長時代〔大正8年12月12日〜9年6月22日の半年間〕。ところが2人の出会いの正確な日付が明らかではない。様々な資料に当たったが、曖昧で確定しないが、「48歳と19歳」か「49歳と20歳」のいずれかになる。
一方の「戸田と池田」は、昭和22年8月とすれば、戸田先生が47歳で名誉会長は19歳。そこで、弟子の年齢を「19歳」と限定しても、牧口:48歳で戸田:47歳で一致しない。つまり、「48歳と19歳」で一致し「仏法の不思議」とか「尋常ならざる因縁」という師弟神話は成立しないのである。
さらに名誉会長が、戸田会長の事業に従事した日付も資料によってマチマチだ。また「出版業(編集者)」なのか「信用組合・金融業」なのかはっきりしない。
とりあえず『革命の大河』に基づき、昭和24年1月、雑誌編集者ということにしておこう。ところが『冒険少年』は同年8月に『少年日本』と改題され、10月には廃刊となっている。この時、戸田先生は全社員の信用組合への異動を命じている。つまり名誉会長の編集者生活は、最大限に見積もっても1年弱。
信用組合は、翌25年8月に業務停止命令が出され、戸田会長は同年秋に大蔵商事を設立。名誉会長に営業部長を命ずる。したがって戸田先生の下で従事した仕事の大半は、保険代理業や高利貸し、手形割引等を営む大蔵商事の“営業”である。
名誉会長は、編集者であったことをいろいろな機会で得意気になって公表している名誉会長だが、高利貸しの“営業”だったことはひたすら隠す。
信用組合が26年3月に正式に解散すると、戸田先生は学会第二代会長に就任。大蔵商事の業績も、信用と顔がものをいう世界だけに、顧問の戸田先生が会長を務める学会の発展に伴い、急速に好転していく。
信用組合の清算中は給与の遅配や分割払いもあったが、解散後は、歩合給の池田/大作営業部長も、債務者への取立てに辣腕ぶりを発揮し、相当の高給を得るようになった。あの住宅事情が悪かった時代にもかかわらず、20代の若さで家持ちとなるほどだ。
この経済力が、学会組織内で幹部として出遅れた分を取り戻す源泉となったのである。
http://www16.ocn.ne.jp/~a1133/925_1052105523.html
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