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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 21世紀さん

    2009年10月02日 18時52分35秒

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    御会式について

     御会式(おえしき)とは宗祖日蓮大聖人が弘安5年(1282年)10月13日ご入滅され、滅不滅・三世常住のお姿を示されたことをお祝いする儀式です。
      会式(えしき)という語はもともと宮中でおこなわれた諸法要のことで、この名称をとって各宗内の法要にあてたものといわれています。
      この日は桜の花を作って仏前を荘厳します。
      大聖人は弘安5年10月13日、武州(東京)池上の右衛門大夫宗仲の館において大勢の弟子や信徒が読経・唱題申し上げる中、安祥としてご入滅あそばされました。日興上人の御遷化記録等によると、ご入滅は辰の時とあるので今の午前8時頃になりますが、この時は大地が震動し、10月だというのに庭の桜に時ならぬ花が咲いたと記されています。
      実に末法の御本仏のご入滅を、宇宙法界の生命が挙げてこれを惜むと同時に、滅不滅の仏法をお祝い申し上げたさまをほうふつとして偲ぶことができます。
      一般に他派における御会式(おえしき)といえば大聖人のご命日の法要のことと考えていますが、大聖人を末法の御本仏と仰ぐ本宗においてはそのご入滅は非滅の滅であり、真実には大聖人の永遠不滅の御本仏としてのご境界を拝するお喜びの儀式なのです。

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コメント: 全4件

from: 21世紀さん

2009年10月07日 22時59分44秒

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「Re:Re:御会式について」
> 続き
五蓋を取り除く方法
                                            まかしかん
 さて、この心のフタとなる「五蓋」を取り除く方法について、天台大師は『摩訶止観』に、法華経
  ごしゅほっし
の五種法師を根本に「二十五方便」をもって心身を調えることを教えておりますが、天台大師が

出られた像法時代の人々は機根が勝れておりましたので、各々の観念観法によって五蓋を取り

除くことができたのです。ところが、末法の衆生は機根が下劣で、貪瞋癡の煩悩が強いために、

自分の力では五蓋を取り除くことはできません。


 そこで末法には、久遠元初の自受用報身如来が日蓮大聖人の御身をもって御出現あそばされ、

人法一箇の本門戒壇の大御本尊を顕されて、末法の一切衆生に聞法下種されるのです。


故に『新池御書』に、
   たと                                              そうろ
  「縦ひ世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此の経にあひぬれば、衆罪は霜露の如くに

 法華経の日輪に値ひ奉りて消ゆべし」(御書1456)
                                                      いしんだいえ
と仰せのように、この御本尊を真剣に拝し、自行化他にわたる信心に精進するならば、「以信代慧」

の功徳によって、五蓋に覆われた眼、耳、鼻、舌、身、意の六根は、自然に清浄になり、煩悩を

断ずることなく、凡夫の身そのままの姿で成仏することができるようになるのです。


自行化他の信心

 自行の中心は、なんといっても朝夕の勤行にあります。 勤行とは、勤めて行うということで、

信心修行の根本です。この勤行をきちっと励行することによって、生命に内在する仏界という

最高の力が発揮され、障魔に紛動されることのない功徳に満ちた境界を築くことができるように

なるのです。

 したがって、その大事な勤行をやったりやらなかったりでは、力強い生命力を発揮させることは

できません。生活の根本となる勤行の姿勢がいい加減であれば、その結果として、現実の生活

は狂い、行き詰まりが生じてくるのは当然のことです。


 総本山第九世の日有上人は、勤行の姿勢について、
                                             かお
 「一、当門徒の御勤めの事一大事也(中略)勤めの時目つかいにより貌の持ち様、手の持ち様、
                                  いわん
 ひざのくみ様にても其の人の余念を顕すと御沙汰候、況や外見これ有るべからず、余事余念

 なくして唱る処の題目を事行の妙法蓮華経と申し、即身成仏の当体と仰せられ給い候」

                                          (歴代法主全書一巻 334)

と御指南なされています。

 いわゆる勤行の時、合掌ができなかったり、目をつぶっていたり、だらしのない格好をしている

ことは、雑念が顕れている証拠で、それらを正して題目を唱えなければ即身成仏の因とはならな

いと仰せなされているのです。


 この自行を励行すると同時に、さらに大事なことは化他行の実践です。日蓮大聖人は

『寂日坊御書』に、

  「かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘む

 べきなり」(御書 1394)

と自分と同様の折伏を展開せよと厳命なされています。

 日蓮大聖人の御生涯は『立正安国論』に終わると申されますように、正法を樹立して平和
                                           おこた
な国家社会を建設する広宣流布を目的とされるわけですから、折伏を怠る者は日蓮正宗の

信徒とは申せません。

 また、日寛上人は、折伏を忘れることは謗法につながることを『如説修行抄筆記』に、

  「心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を

 言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわざれば、身が謗法に

 同ずるなり」(日寛上人文段集767)

と仰せなされています。

 折伏は難事中の難事でありますので、折伏を行ずる者の功徳は極めて大きいのです。

それを大聖人は『上野尼御前御返事』に、

  「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり」

と仰せなされています。(御書 1574)

 このように大聖人の仰せのままに自行化他の仏道修行に精進するならば、五蓋はたちどころに
                             ばんじゃく
消えて、あらゆる宿命を転換し、成仏の境界を磐石に築くことができるようになるのです。

 成仏は正しい仏道修行によって決定されるのですから、五体が満足に動く今こそ五蓋を

取り除き、現当二世の成仏を築く絶好の機会であるととらえ、総本山への登山参詣はもとより、

所属の寺院に参詣して御本尊に手を合わせ、自行化他にわたる信心をしっかりすることが大事です。

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from: 21世紀さん

2009年10月07日 22時57分27秒

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「Re:御会式について」
> 続き
信 心 を 狂 わ す 五 蓋                                       
 様々な家のなかや身体のなかに入り込むように、仏法においては、私達の身体に八万四千もの
                          じんこう
毛穴があって、そこから毎日その数だけの塵垢が体内に入ると言われています。

 家や身体に付いた垢は、洗えばきれいになりますが、心に付いた垢は、着物を洗うようなわけ
       
にはまいりません。
                                とんよくがい しん にがい          じょうげがい
 八万四千もの垢のなかで、最も始末に悪いのが、貧欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、悼悔蓋、疑蓋の
           ごがい
五つありますので「五蓋」と申します。
                                  おお
 五蓋の「蓋」は、フタということです。つまり、この垢に覆われますと、心にフタをしてしまって、
                  
仏様の救いの手が入り込めなくなるので五蓋と言うのです。
                 
 五蓋の第一に挙げられる「貧欲蓋」とは、飽くなき欲望のことです。
                            
 人間には、眼、耳、鼻、舌、身という五根が働いて起こす、「きれいな物を見たい」「良い声を
              
聞きたい」「良い匂いを嗅ぎたい」「おいしい物を食べたい」「柔らかい物に触れたい」という五つの

欲望が本能的にありますが、これがさらに高じますと、あたかも池田が世界の勲章を欲しがるように、

物質欲や名誉欲や支配欲が出て、色々な悪事を働くようになるのです。

 この欲に支配されますと、地道な生活ができなくなり、やがて悲惨な状態に陥るようになるのです。


 次の「瞋恚蓋」とは、怒りの心に支配されて心にフタをしてしまうことを言います。普段は冥伏して

いる瞋恚の心が、自分の思いどおりにならないと頭を持ち上げ爆発するのです。

 また、異体同心の団結を破る怨嫉も、この瞋恚蓋の現れなのです。怨嫉は、自分を中心にした

考えに執着するところに起こるものです。

 怨嫉を起こすときは、自分の信心が弱くなっている証拠なのです。信心が弱くなると、それに

ならって生命力も弱くなり、逆に貪瞋癡という煩悩が頭を持ち上げてまいります。そのために

責任の一端は自分にあるのにそれに気が付かず、他人のせいにしてしまうのです。

 自分を省みることを忘れ、責任を他人のせいにしている間は、いかなる問題も解決いたしません。

 自分の信心がしっかりしているときは、人の良いところを見習って信仰に活かしているものです。

人の悪口や噂話が出たとき、話題を明るいほうへ転換できる人が賢明な人なのです。


 次の「睡眠蓋」とは、起きているのに心身ともに眠ったような状態で常に精気がなく、

御本尊の前に座ると決まって眠くなるというのがこれです。

 信心をする目的は、御本尊に具わる仏力、法力をいただいて功徳に浴した毎日を送る

ことにあります。

 したがって、仏力、法力をいただくためには、それを引き出す強情な信力、行力が伴わなければ

なりません。信心が弱くなると御本尊に向かう姿勢は、どうしても横着になります。この怠惰の

心がフタになって、御本尊の仏力、法力をいただくことができなくなるのです。

     しょうげがい
 次の「悼悔蓋」とは、常に心が落ち着かない状態を言います。悼悔蓋の「悼」には跳ねるという

意味があるように、この垢に覆われますと、ちょうど池田が檀上で見せるように、常に落ち着き
                                                    
なく身体を動かしたり、目的もなく動き回ったりするのです。そして、些細なことに悔い憂い、
ぐち
愚癡が多くなって正しい信心ができなくなるのです。


 仙崖が、老人を読んだ六歌に、
   しわ     ほくろ
 一、皺が寄る 黒子ができる 腰がまがる 頭がはげる ひげ白くなる

 二、手は振れる 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる
           ずきん  えりまき            おんじゃく
 三、身に添うは 頭巾 襟巻 杖 眼鏡 たんぽ 温石 しびん まごの手

 四、くどくなる 気短になる ぐちになる 出しゃばりたがる 世話やきたがる

 五、聞きたがる 死にとうながる 寂しがる 心はまがる 欲深くなる

 六、またしても 同じ話に 子をほめる 達者自慢に 人はいやがる


とありますが、人間はだれしも老境に達すると、多かれ少なかれ、こうした傾向が出てくるよう

ですから、日頃の信心によって、できるだけこうした垢を付けないようにすることが大事です。


 次の「疑蓋」とは、何事にも疑いを持つ心で、これがまた大きな障りになるのです。 これには

自分を疑い、師を疑い、法を疑うという三つがあります。

 まず自分を疑うというのは、自分自身に正しい教えに対する信念がないために、何事にも

不安を感じ、最後には自分を死に追いやることもあるのです。

 また、こうした疑いの心が強いと、「この仏法で本当に救われるのだろうか」と仏様の法をも

疑うようになり、

  「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからず」(御書 669)

との御金言に背いて、凡夫の浅はかな心で仏法を批判するようになるのです。こうなると

完全に真理が得られなくなり、やがて地獄の境界に陥る原因を作ってしまうのです。

 このように「五蓋」に覆われますと、貪瞋癡という煩悩に支配された狂った一念で物事を

見るようになりますので、謗法に謗法を重ね、それが因となって、いよいよ地獄の泥沼から

脱けられなくなるのです。


 いわゆる、今の邪教創価学会の池田のように、本門戒壇の大御本尊を単なる物体と見下し、

「曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない(中略)『久遠元初の法』

を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける」(平成五年五月五日付聖教新聞)

などと、恐るべき天魔外道の邪義を嘯くようになるのです。


 日寛上人が『当流行事抄』に、
                                                まさ
  「久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益したもう(乃至)応に久遠元初の

 三宝を信じ奉るべし」(六巻抄 195)

と仰せのように、人法一箇の大御本尊を離れて、久遠元初の法などあろうはずはないのです。

 さらに、池田は血脈法水を紹継あそばされる御法主上人に対し、学会員を扇動し、あらん限りの
            ひきざんぼう
陰険な手段をもって誹毀懺謗しておりますが、こうした発想は、まさに五蓋に覆われた頭破七部

の迷妄によるもので、この大謗法の悪心と同時に、その心には無間地獄に堕ちる業因が内臓

されるのです。

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from: 21世紀さん

2009年10月07日 22時55分54秒

icon

「Re:御会式について」
続き

総 本 山 の 御 大 会                                ごかいひ      おたいや    ね
 総本山の御大会は、十一月二十日の御開扉のあと、御逮夜の「お練り」の儀式によって始まります。
        
 「お練り」とは静かにおもむろに行列を作って歩くことですが、これは、仏様が法を説かれるために、
おごそ
厳かにして、ゆったりとした歩みの上に顕されているのです。
             みえいどう                                        はんしょう
 この行列が御影堂の正面の参道にまいりますと、いったん停止し、七、五、三の半鐘に合わせて、
                                            
六人の助番僧が一人ずつ、御法主上人に一礼に走ります。 これは御本仏日蓮大聖人にお説法
           
を願うために、御影堂へ入っていただくことを身をもってお願いする儀式なのです。
                                      うらごはい
 「お練り」が終わると、行列は御影堂の西側を回り、裏向拝からなかに入られます。西側を回るの
   がっし
は、月氏の仏法が日本に伝わってきたことを示すのです。
                                                うらごはい
 また、参詣の御信徒が御影堂の正面から入られるのに対して、御法主上人は裏向拝から入られ
                             
ますが、これは御影堂には御本仏日蓮大聖人が常に居られることを意味しているのです。



                      しゅみだん          ないじん               とうど
 御影堂に入られた御法主上人は、須弥壇の東側を通って内陣へ入られますが、これは東土の
 
日本に末法万年を救う仏法が誕生したことを意味するのです。
      いちえ
 かくして一会の満山大衆が御影堂に着座したあと、御法主上人は、いったん高座の下手正面に
                                                    こつねん
しつらえられた上行座に北面して着座されますが、これは法華経の涌出品において、忽然と大地
                  なぞ
より涌出した上行菩薩の姿に準らえているのです。
     えぎょうじ          くぎょう         さんかいさんしょう じゅうしょうじゅうかい
かくして会行事が立って仏様を恭敬する、寿量品の三誡三請、重請重誡の法式をもって登高座を

願うのです。

 ここに御法主上人は、お説法をするために上行座を立って高座に登られますが、そのお姿は、

神力品において妙法五字の別付嘱を受けられた本化地涌の上行菩薩が末法に出現せられ、
          はら
上行菩薩の迹を発って久遠元初の自受用報身如来と顕本あそばされた、御本仏のお姿を顕され

ているのです。

 かくしてここに、いよいよ三世の生命を説き明かす寿量品のお説法が始まるのです。

 このお説法ののち「三々九度の盃の儀」が行われますが、これは、御本仏日蓮大聖人とお弟子
                         く
の本六僧が師弟の常住を祝ってお酒を酌み交わす儀式なのです。
                                                   ことほ
 このように御大会は主師親の三徳を具えられた御本仏日蓮大聖人の三世常住を寿ぐ最も重要な

法要であり、ここに日蓮正宗の信仰があるのです。
                                      とむら
ですから、御大会の意義が判らないと「お寺は先祖の菩提を弔うためのもので、お彼岸とお盆に

お参りをすれば充分である」と思ってしまうのです。

 お彼岸やお盆も大事な法要ではありますが、それはどちらかと言えば、自分達の先祖のための

お参りです。

 それに引き替え、この御大会は、御本仏日蓮大聖人に御報恩申し上げる、日蓮正宗の信仰を
もとい
基にした参詣ですから、『南条殿御返事』に、
     みぎり     やから        たちま
  「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(御書1569)
                                
と仰せのように、無始以来の罪障はたちどころに消滅され、発心、般若、解脱の三徳という

大きな功徳となって、皆様の御身に具わるのです。

 このように仏様の生命が三世常住であるということは、私達の生命もまた、三世にわたっって

永遠であるということなのです。それを日蓮大聖人は『四条金吾殿御返事』に、

  「生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり」(同598)

と説かれています。

 このように三世の生命に伴う因果の理法と、その実践の功徳を説き明かすのが仏法であり、

それを信じ、現当二世の成仏を目指して仏道修行に励むのが信仰なのです。

 このように人間は、だれしも永遠の生命のもとに今世を生きているのですが、日有上人も、
   そ      かくしょうそくおう
  「夫れ人間は隔生即忘して前世の事を知らず」(歴代法主全書一巻379)

と仰せのように、生と死が交互に繰り返されるために、人間の目には今生のことしか見ることが

できないのです。 そのために、未来世があることが判らず、結局、「人間は死んでしまえば終わり

なのだ。来世なんか在るものか」と思うのです。
                                              とんじんち
 そこで、生きている時こそ、おもしろおかしく過ごさなければ損であると考え、貪瞋癡という煩悩
                                      あか
のなすがままに振る舞うために、知らず知らずのうちに、謗法の垢が体内にたまって、成仏の道を

閉ざしてしまうのです。

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from: 21世紀さん

2009年10月07日 22時53分48秒

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「Re:御会式について」
御大会と信仰の要諦
 全国布教師  大 村 寿 顕 (常秀院日統上人) (御尊能化)

平成八年十一月二十一日

                  とうび       ごたいえ
 この布教講演を掉尾として御大会の幕は閉じられますが、本年度は約四千六百名の御信徒各位の
     たまわ       げんしゅく       ほうしゅう                ちゅうしん
御参詣を賜り、盛大かつ厳粛に御大会を奉修することができました。ここに衷心より厚く御礼申し

上げます。
                   
 この御大会に布教講演を勤めさせていただくことは、まことに身に余る光栄であります。本日は、
                     ようてい
御大会にちなみ、「御大会と信仰の要諦」と題して、少々お話をさせていただきます。
                                しょうつきめいにちき
 さて、御大会は日蓮大聖人の祥月命日忌である、ということは知らない人はおりません。しかし、

その御命日を何故お祝するのかとなりますと、とっさに答えられる人は少ないようです。しかし、

これが判らないと、日蓮正宗の正しい信仰はできません。
                                    ぶしゅう いけがみ むねなか       あんじょう
 たしかに、日蓮大聖人は弘安五年十月十三日の辰の刻、武州池上宗仲の館において、安祥として
ごにゅうめつ                      ごこんぱく
御入滅あそばされました。しかし、大聖人の御魂魄は、本門戒壇の大御本尊とましまして、

末法の一切衆生を永久に成仏の境界に導いておられるのです。 したがって、日蓮正宗の
                      さんぜ じょうじゅう
御大会は、一つには日蓮大聖人の三世常住をお祝申し上げるのであります。
                    みえいどう              もうしじょう  ほうどく
 もう一つは、今朝午前九時より御影堂において奉修せられた「申状」の捧読に見られるように、
         ごゆいめい                               こぞ   まいしん
日蓮大聖人の御遺命である広宣流布実現に向かって、宗門の僧俗が挙って邁進することを

お誓い申し上げる、極めて重要な法要なのであります。




               じょうじゅう                                どくじゅ
 このように、仏様が三世常住にこの世にましますことは、皆様が朝夕の勤行の時に読誦する

法華経の寿量品に、
  がじつじょうぶついらい   むりょうむへん
  「我実成仏已来。 無量無辺」(開結 496ページ)
               ごひゃくじんでんごう
と釈尊が仏に成ったのは五百塵点劫という遠い昔であったことが説かれています。

 釈尊が五百塵点劫に仏に成るためには、当然、それに伴う修行を積まれたことは申すまでも

ありません。それを同じく寿量品に、
   がほんぎょうぼさつどう
  「我本行菩薩道」(同 500ページ)
                           くおんがんじょ じじゅゆうほうしんにょらい  しょうとく
と示されております。つまり、釈尊は遠い昔、久遠元初の自受用報身如来が証得なされた
                       しょじゅうい    ふたい
妙法蓮華経を修行した功徳によって、初住位という不退の位に登ることができ、五百塵点劫に

仏に成ることができたのです。

 それ以来、釈尊は、寿量品に、
   がじょうざいし  しゃばせかい   せっぽうきょうけ
  「我常在此。 娑婆世界。 説法教化」(同 498ページ)

と説かれているように、この娑婆世界において説法教化をされてきたのです。
                    ほんにん ほんが  ほんこくど さんみょう  ごうろん
 このように寿量品には、仏様の本因、本果、本国土の三妙が合論して説かれておりますが、

これを五百塵点劫の釈尊の上にとらえるのは、いまだ文上の辺であり、これを久遠元初の
じじゅゆうほうしん にょらい
自受用報身如来が常にこの娑婆世界において説法教化をされてきたととらえるのが、

日蓮正宗の文底の拝し方なのです。

 故に、日蓮正宗の御大式は、久遠元初の御本仏が末法に御出現あそばされ、一切衆生を成仏の
                 あら
境界に導く姿を儀式の上に顕しているのです。

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