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  • from: 21世紀さん

    2009年11月10日 00時27分51秒

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    小松原の法難

     伊豆赦免の翌文永元年の秋、大聖人は母君・妙蓮の「病篤し」の報せを受けて、故郷の房州小湊へ戻られた。
     このとき、小松原の剣難がおきた。地頭・東条景信が軍勢を率いて待ち伏せ、襲撃したのであった。
     この景信は、大聖人が立宗のおり念仏破折の説法をされたことに憤激して、その場で危害を加えんとしたほどの念仏信者である。以来、大聖人を「アミダ仏の敵」と憎悪し、殺害の機会を狙っていたのであった。
     
    大聖人の帰省を耳にした東条景信は、大聖人を亡きものにする機会を虎視眈々と狙っていました。

     文永元年(1264年)11月11日、安房における有力な信者であった工藤吉隆は、ぜひとも大聖人を自宅に招きたいと願い、弟子達とともに工藤邸へ向かう最中のことでした。
     松原にさしかかった頃、武器を持って多くの念仏者が襲撃したのです。

    今年も十一月十一日安房国・東条の松原と申す大路にして、数百人の念仏等にまつかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・うつたつはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候云云

    (南条兵衛七郎殿御書 P.1498)

    文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる

    (聖人御難事 P.1189)
     とあるように、弟子の鏡忍房は即死、防戦した工藤吉隆は重傷を負い、その傷がもとで死去しました。それだけでなく、大聖人御自身も額に傷を受け、左手を骨折されました。
     いわゆる、小松原の法難です。
     非常に危険な状態でありましたが、何とか逃れることができました。
     これは他宗の画策が背景にありました。


    頚を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、此れ偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出でたり

    (行敏訴状御会通  P.182)
     大聖人襲撃の実力行使に出た東条景信は、この事件の後、ほどなく狂死してしまっています。これは法華経の行者を迫害し続けてきた罪でしょうか。

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