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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 荒野の素浪人さん

    2010年01月16日 12時11分53秒

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    創価学会の隠された真実史

    「神札拒否を貫き殉難」の真相


    さて、牧口氏は、「皇国日本」を戦争に勝たせるため、強く国家諫暁を主張するようになり、併せて、氏独自の神道観によって神札消却を強調した。これによって創価学会は、治安を乱す恐れありとして、官憲から厳しくマークされるところとなったのである。

    昭和18年6月5日、東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏したことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。

    特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会員を一気に壊滅せしめる意思決定をし、逮捕した学会員を激しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」作成にかかったのである。まさに、学会弾圧は秒読みの段階に入った、と言ってよい。

    このような事態に最も困惑されたのは、日蓮正宗宗門であっただろう。なにしろ学会が、いかに信仰的には絶縁一歩手前の状態とはいえ、形の上ではいまだ日蓮正宗信徒の集まりという立場をとっている以上、弾圧は日蓮正宗をも巻き込んで起こる可能性すらあるのだから。

    そこで、総本山大石寺では、6月20日、牧口・戸田両氏を呼び、注意を与えることとなった。

    当日、その場には、大学匠として名高い御隠尊(ごいんそん)日亨上人と62世日恭上人の両上人が立ち会われ、庶務部長・渡辺慈海師より、牧口・戸田両氏に対し「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」注意がなされ、意外にも、牧口氏もこれに素直に従ったことが、日亨上人の御允可(いんか)された記録(「宗学要集9巻431頁」)に記されている。

    この時の宗門の注意は、非常事態下においては、必ずしも神札を消却しなくとも、祀って拝んだりしなければ、一時、許容されるであろう、との判断(むろん、平常時にまで無制限に適用されるものではない)の上から、これ以上、いたずらに当局を刺激して無用な弾圧まで引き起こさぬように、との配慮でなされたものであった。

    今日、これを理解しえず、なんとしても日蓮正宗宗門を「謗法容認」と罵ろうとする池田教の狂信者も多いが、要するに仏法においては、「随方毘尼(ずいほうびに)」「四悉檀(ししつだん)等といって、やむなき時代性や地域性に応じて、暫時、法義に違背しないギリギリの範囲内で、その言動を緩和することが許容されているのである。

    さらに付け加えておけば、大聖人の御書中には、"比叡山延暦寺で法然の撰択集(せんじゃくしゅう)を消却した"等の御記述はあるものの、"いかなる場合であれ謗法の物は消却処分しなければならない"等の御教示は存在していない。

    それでもなお、この時の宗門の判断を指して「謗法容認」だのと罵る輩は、もはや言葉も道理も通じない最悪の狂信者、と断ずる他なかろう。

    ともあれ、大石寺より下山した牧口・戸田両氏は、応急の対応策を講じた。それが6月25日付けで学会内に出された「通牒」だったのである。

    この通牒についても、今日の学会では「折り畳んで保管されていたにしては、左右の虫食い状態が対称ではないから変だ」とか「通牒の『牒』の字が間違っているから変だ」等と難クセをつけ、結局、「この通牒は昭和52年頃に偽造された贋作であり、その証拠にコピーだけが出回っていて、原本が出てこない」として、その存在を全面否定している。

    なるほど、当時の日蓮正宗宗門を「謗法容認」呼ばわりするためには、このような通牒があっては、なんとも不都合なのであろう。

    しかし、その詳しい検証は別の機会に譲ることにするが、ここでは、やはり実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦氏が次のように述べている事だけを紹介しておこう。

    「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘(いなば・さかり)氏(学会の初代総務・稲葉猪之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気でボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれた時の破損状況は理にかなって作為はあり得ない」

    かくて、通牒は発せられたが、官憲の側では創価教育学会壊滅の方針で罪状を作り上げてしまっていたから、この「会長の応急策もすでに遅し」(「宗学要集」9巻431頁)、7月6日、牧口氏は旅行先の伊豆で逮捕され、続いて戸田理事長ほか21名の幹部が相次ぎ逮捕されたのである。

    後に掘日亨上人は、この戦時下の学会弾圧事件を『富士宗学要集』の法難編に「第13章 昭和度の法難」として加えられているが、同法難編の冒頭の文に、
    「顧みるに法難の起こる時、必ず外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の発端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し。本編に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし」(「宗学要集」9巻247頁)
    と指摘されている。

    まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の」言動に走った牧口氏以下学会員達の行きすぎた言動(神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、という他はない。少々酷な言い方をすれば、自業自得の誹りは免れない、ということである。



    異流儀めざした牧口氏――獄死は「誹謗の罪」


    さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在している。それは、逮捕後の牧口氏に対する特高警察の尋問調書である。その中で牧口氏は、

    「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於いて宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」

    として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰と価値論を結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのである。

    この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠するところは、日蓮正宗に相違なきや?」との質問をしている。これに対し牧口氏は、

    「会員は悉く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申し上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります」

    などと答え、重ねて、

    「学会は飽迄も日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に特異性があるのであります」

    と強調しているのである。

    なんたることであろうか。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、学会そのものを一個の独自な在家宗教団体として意義付けていたのである。

    これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたことは間違いない。

    また、これを見るならば、今日の池田創価学会が長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の新在家教団(池田教)を指向してきた原体は、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽していた、と言わざるをえないのである。

    結局、投獄された牧口氏は、一年有半を経た昭和19年11月18日、獄中に死去し、その一生の
    幕を閉じた。そして、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長は翌年7月、釈放されたが、創
    価教育学会は半ば壊滅同然の状態になっていた。

    こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わった――。が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流儀思想の実態や、日淳上人に対する誹謗と背反、偏った布教の在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難などと呼ぶことはとうていできえない。『佐渡御書』には、

    「善戒を笑えば、国土の民となり王難に遭う。是は常の因果の定まれる法なり。日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね崋山に崋山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲弄せし故に、此八種の大難に値るなり」(新編御書582頁)

    と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗した罪、と明かされているが、獄中にあっての戸田理事長は、このご金言を厳しく我が身に引き当てて読まれたのであろう、

    「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる、と話してください。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」(前出「獄中書簡」)

    と述べて僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧口氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧に、

    「牧口先生の先業(せんごう)の法華経誹謗の罪は深く、仏勅(ぶっちょく)のほどはきびしかったのでありましょう」(『創価学会の歴史と確信』)

    と述べている。仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然とさせられるではないか。また、これら獄中書簡等を見る限り、ひとり戸田理事長だけは、師たる牧口氏の謗法に気付いていたものと思われる。現に、出獄の2日後(昭和20年7月5日)、戸田理事長は、

    「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任せしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)

    と固くお誓いしたという。

    さらに戸田理事長は、二代会長として学会再建に着手したが、まず牧口氏の根本的誤りを払拭すること(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷つけることなく、むしろ顕彰しながら行なう)に心を砕いた。その真実は、若かかりし頃の池田大作が、迂闊にも『人間革命』の第1
    巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかである。

    「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭みを帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時。大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。――ここに砕尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射して来るようだ。戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て身をもって体験した確信からであった。彼は、価値論を現代哲学の最高峰であるとは思っていた…しかし、大聖人の大生命哲学からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた」

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