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  • from: ハムスターさん

    2010年06月19日 21時14分47秒

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    「人間革命の正しい読み方」慧妙編集室編 連載五回目


    今回は、例の神札が出てきます。
    実際に戦時中を知っている人に私も話を聞きましたが、この神札は1年に一度配ってくるそうで、貼っていようがいまいが誰も確認に来なかったそうです。
    一年前に配った神札は回収されないそうです。一年間の有効期限付きみたいですね。o(^▽^o)笑〃


    「戦時中、学会が宗門の身代わりに 難を受けた」の欺瞞(ぎまん)(第三巻「渦中」の章より)

    『人問革命』第三巻「渦中」の章に、昭和十八年七月、初代牧口常三郎会長が伊豆で逮捕される頃の様子を記して、次のようなことが書いてある。

    「牧口の頑強な主張は、いまや彼を完全に孤立せしめていた。結局、創価教育学会の姿は、反政府的な存在として、 いきおい鮮明にうかびあがらざるをえなかった。 当局の日蓮正宗弾圧の的は、大きく変わって、創価教育学会を焦点に集中しはじめた。弾圧の的が変転したことは、総本山を安泰にしたが、学会は一身に国家権力の圧追をうけ、飛沫(ひまつ)のすべてを浴びなければならなかった。」

    要するに、創価教育学会の存在が、軍部の弾圧から日蓮正宗宗門を護った、 というのである。

    しかし、実際には、創価学会の必要以上に頑(かたく)なな折伏により、かえって総本山が国家より圧追を受け、その飛沫のすべてを浴びなければならなかった、というのが真相である。

    すなわち、当時の日蓮正宗は、宗外には日蓮宗との合同問題、宗内には、軍部とつながって「神本仏迹論」の邪義を構える某師の暗躍があり、まさに内憂外患(ないゆうがいかん)の状態であった。

    このような状況下、宗門の苦悩をさらに深めさせる団体があった。 それが創価教育学会である。

    『人問革命』第一巻は、戦時中の学会の活動を、次のように記している。

    「創価教育学会会長牧口常三郎は、厳然として叫んだ。 『今こそ、国家諫暁の秋(とき)である。国家権力などは、恐るべきではない。而(しか)し、大聖人の御金言、御予言は絶対であり、まことに恐ろしき極みだ。いま、国家の減亡を救うのは、国家諫暁以外にはない』(中略)
    牧口門下の折伏戦は、その戦時下にあっても、なお天照太神の神札を謗法払いしていた。」

    牧口氏は、折伏の際に、国家が祀(まつ)ることを強(し)いていた大麻(=伊勢神宮の神札)を、公衆の面前で焼却する等の強引な謗法払いをしていたが、 これが当局の日をつけるところとなり、その余波が大石寺に及んでいった。

    当時のことを、渡辺慈海師(日容尊能化)は、その著『日恭上人の御師範』の中で、 概(おおむ)ね次のように記している。

    “昭和十八年二月のこと、大石寺信者である創価教育学会末端会員が公衆の面前で神札を破棄する等の行為を行なったため、その大本である日蓮正宗に対し、当局から取り調べが入ることが、渡辺慈海師のもとにもたらされた。この時は、御当職日恭上人が即座に手を打たれたことで事なきを得た”と。
    また、当時の宗門では、こうした神札問題による弾圧を避けるため、軍部に対しては「神札受け取り」と回答するも、宗門内部としては「神札無視」の態度で臨んでいたものと推察される。

    当時の資料として、『世界之日蓮』(昭和十六年十月号)には、
    「大麻奉安の件も決定したが未発布」とある。
    つまり、「決定」はしたが、意図的に宗内には徹底していなかった、ということである。

    これは、戦争がいよいよ激化し、さらに「神札奉安」が強制されるようになった昭和十八年当時でも同様で、同じく『世界之日蓮』には、

    「我日蓮正宗では、古来神社参拝禁止の宗門であるが、此に対して度々長老会議とか、参議会とかを召集して、対策を練った結果が、先月末の全国教師をに練成に名を寄せて応招、その心得方を指示したとの事で、 其(それ)は庫裏(くり)、または住宅に大麻奉る事は、 止むを得ない事と決定の由(よし)、併(しか)し、其等の欺瞞的では大不可、堂々と管長の名を以て、正々と全宗門に布達すべきである」(『世界之日連』昭和十八年九月号) と、

    これまた、「大麻奉安」を、決議しながら、宗門内に「布達」していなかったことを示している。

    ただし、ここで気を付けなければいけないことは、これは軍部と連係した某師の主宰による雑誌である故、その物の見方、立場も、軍部側に立つたものになっている、という点である。

    ゆえに、「大麻奉安の件も決定」とか「大麻奉る事も止むを得ない事と決定」との表現も、実際は、「決定」と呼べるほどのものではなかった、というべきである。

    六十六世日達上人は、この当時の模様を、
    「宗門としても、神札を祀(まつ)るなんてことはできないからね、一応受けるだけ受け取って、住職の部屋のすみでも置いておこうという語になったわけです」(『聖教新聞』昭和三十四年二月十三日付) と語られている。

    この日達上人のお言葉からもわかるように、「大麻奉安決定」などというものではなく、「部屋のすみにでも置いておく」といった程度の「決定」だったのである。

    実際、当時の法華講員から伺った話では、町内から「神札」が配布されてきた際には、面前での謗法払いは避けて裏庭でひそかに焼却した、とのことである。もちろん、自分白身としては、配布と同時にその場で焼却したかったが、こうした軽率な行動が総本山大石寺への後難が予想される故、やむなく裏庭での焼却となったという。

    このように、宗門・法華講が、共に苦慮(くりょ)しながら、本門成壇の大御本尊と唯授一人の血脈を護ろうとしていた時に、必要以上に突っ飛な折伏を展開し、総本山へも飛沫を浴びせてしまったのが、創価教育学会だったのである。

    当時の牧口氏ら学会最高幹部に、日蓮大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊と血脈の大事が、わずかでもわかっていたならば、あえて彼らを総本山に呼んで注意することもなかったろう。

    昭和十八年六月初句、宗門は、やむをえず、大石寺に牧口氏等を呼び、「大麻」取り扱いについて注意を与えたのであるが、頑迷(がんめい)な牧口氏は、ついにこれを理解しえず、逆に「わたしが嘆くのは、一宗が減びることではない。一国が眼前でみすみす減び去ることだ」とまで言い放ったのである。
    こうした経緯の中で「飛沫」どころか、学会白身が火種となって、自ら弾圧の口実を軍部に与えていった。
    途中、弾圧の危険が追つていることに気付き、「通諜」を出したが、牧口氏らの「応急策も已(すで)に遅し」、ついに牧口氏ら学会幹部の逮捕・投獄、創価教育学会の瓦解(がかい)という破局を迎えるのである。

    以上に見てきたように、池田のいう「弾圧の的が変転したことは、総本山を安泰にしたが、学会は一身に国家権力の圧迫をうけ、飛沫のすべてを浴びなければならなかった」とは全くのウソ。

    自ら「飛沫」を飛ばし散らして、総本山を危殆(きたい)に瀕(ひん)せしめたのが創価教育学会だったのである。
    他人に迷惑をかけておきながら被害者を装う学会の体質は、じっは、今に始まったことではなく、創価教育学会の始まりからあった。

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