サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: ハムスターさん
2010年07月30日 21時49分02秒
icon
:「人間革命の正しい読み方」慧妙編集室編 連載十一回目
暑い日が続きますが、みなさんお元気でしょうか。
7月はバタバタしてお山へ行けませんでしたが、毎月登山しているときは思わないのですが、期間が空くとお山へ行きたくなります。
「牧口時代の学会は空転」という意味(第五巻「随喜」の章より)
『人問革命』第一巻に初代会長牧口常三郎氏の「価値論」批判が載っていることは有名だが、第五巻“随喜"の章にも、簡単だが、牧口会長率いる創価教育学会批判が描かれている。
「彼(※戸田城聖二代会長)は、会長就任と同時に、戦後にはじまる弱体組織を一擲(いってき)していつた。(中略)敗戦下の邪悪な、多くの新興宗団の急激な跋扈(ばっこ)を目にして、主軸たる彼の活動が、実は空転していたとさえ思えてならない。彼はまだよい。先師牧口にいたってはまったくの空転に終わったとさえ、時に思われた。彼の反省は深かった。」(第五巻“随喜”の章)
この、牧口会長の時代が「まったくの空転」であったとは意味深だが、その意味するところは何であろうか。
池田は、右の記述に続けて、
「彼はこれまでの学会に欠けていたものこそ、この御本尊にほかならぬと悟ったのである。創価学会に、金剛不壊(こんごうふえ)の大車軸としての御本尊のご安置がなくして、妙法の組織が生命の力をもつはずがない」
と、「空転」の原因を、創価学会常住の御本尊がなかったからだとしているが、それは皮相的にすぎよう。
たとえば、『人間革命』第一巻にある池田白身の牧口批判を挙げてみる。
「牧口の価値論から入った、大善生活を思う時、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。----ここに催尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが陰となって射(さ)して来るようだ。(中略) 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」
要するに、 牧口氏が価値論と仏法とを混同させていたことへの批判であるが、「催尊入卑」という厳しい言葉を使つていることから考えて、冒頭の戸田氏の「反省」が、単に、常住御本尊の有無のことだけであったとは思えない。
次に、戸田会長当時の青年部大幹部だった石田次男氏の牧口批判を挙げると、
「牧口先生は失敗会長であられて、わかっていないのに会長になればどうなるか、という見本が眼前に在る。
牧口先生は生命論も十界論も一度も説いていない。
牧口先生が正宗の信仰の会の会長として失敗会長であられたことは、石田が勝手に気づいたのではない。戸田先生に教えられて判ったことである。
先生は石田には『(牧口)先生の行き方---仏法へ価値論が入ってしまうこと。価値論での信仰生活指導を指す---でやれば、仏法ではなくなる。
ここに戦前の失敗があった。価値論は九重の劣だから捨てた。だから(戸田は)生命論と十界論から説くのだ』と明示しておられたし、幹部一般に対しては『戦前は一つには組織がないから潰(つぶ)れた。もう一つには教学が無くて潰れた』と表現して教えておられた。、弟子として露骨に師を失敗会長とは表現できないから、大勢に対してはこういう言い方で教えておられた」(石田次男著『内外一致の妙法』)と記している。
一読してわかるとおり、石田氏の方が、池田よりも踏み込んだ批判となっているが、それは、戸田氏から直接指名を受けた三代会長候補(※石田氏が三代会長候補であった事実については、後に詳述する)として、戸田氏の苦悩を一番深く理解していた証左と言えよう。
石田氏は、さらに創価教育学会が潰れた理由を、次のように説明する。
「仏法でないもの(社会科学)を信仰者の生活指導原理に持ち込んだこと・・・・・これが当時の学会の致命傷だったのであります。俗諦(ぞくたい)で信心の指導をすれば、必ず六道輪廻してしまう---だから創価教育学会は跡形も無く消え去っただけであります。このことが、入獄前からの戸田先生の密(ひそ)かなる悩みでありました。当時それを表立てて表明できない弟子の苦悩・・・・察すべきであります。」(既出『内外一致の妙法』)
こうした戸田氏の苦悩は、若くして次期会長の指名を受けた石田氏でなければ理解できなかったことかもしれない。
また、他にも、当時の戸田氏の肉声を伝えるものとして、牧口門下生で創価教育学会の理事を務めていた野島辰次氏の記述がある。
「((※野島氏)『ところで、先頃の学会の検挙のことを、あなた(※戸田氏)はいったいどういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長びき、その挙げ句に真木先生(牧口氏のこと)の獄死ということになったのでしょうか、これについて、あなたは反省してみたことがありますか。』(中略)
(※戸田氏)『それは二通りに考えられると思いますよ。 その一応は、学会が発迹顕本(ほしゃくけんぽん)の時になってぃたのだということ、それからもう一つ、二応としては、真木先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように軽く扱ったということ (後略)。』」
(野島辰次著『我が心の遍歴』)
これらの資料が示すとおり、戸田氏自身が牧口氏を「失敗会長」と見ており、また、創価教育学会崩壊の原因として、牧口氏の「価値論」を挙げていることが明らかである。
以上のことから、先の池田の記述「先師牧口にいたっては、まったくの空転に終わった」という、真実の原因は、やはり、牧口氏の「価値論」による失敗であったことが察せられる。
さて、この「価値論」は、創価教育学会が壊減してから、はじめて批判の対象になったのかというと、そうではない。
牧口氏は、昭和三年六月頃、常在寺の法華講員・三谷素啓氏の折伏によって日蓮正宗に入信し、同寺の法華講「大石講」に所属し、さらに、各寺院からの希望参加者を横に繋(つな)いだ組織「直達講」にも所属している。
牧口氏は、そこでも「価値論」を持論として展開し、直達講の講頭であった三谷氏からも注意を受けていた。
石田氏は、このことを次のように書いている。
「昭和五年暮れまでの時点では、牧口先生は三谷氏の指導の傘下(さんか)にいた。そして三谷氏から『価値論は宗祖の教えとは無関係だから信心の中へ持ち込むな』と諫(いさ)められていた最中である。そして、おそらく、このためであろうと思うが、先生は三谷氏と絶交するに至る。絶交の時は、おそらく三谷氏最晩年の昭和七年か、早くても昭和六年中かであろう。」(『内外一致の妙法』既出)
石田氏が、牧口氏と三谷氏が絶交に至った原因を、“価値論に対する批判”と見ているのは彼の推測の域を出ていないが、 あながち的外れでもあるまい。
ちなみに、第三文明社刊『牧口常三郎全集』第十巻は、その補注で、牧口氏と三谷氏との「絶交」について
「牧口も当初『仏教の奥義に対し、将(はたま)た東西の歴史に対して驚くべき篤学者(とくがくしゃ)』と評価していたが、牧口の信仰が深化する一方で、三谷の人格が熟知されるに及んで三谷とは決別し、創価教育学会を創立するのである。また、日蓮正宗の教義や信仰の実践については直接、堀米泰栄尊師(後の第六十五世日淳上人)に求めていった」と記している。
もちろん、「三谷氏の人格」云々というのは、学会側の勝手な言い分であって、まったく客観的な事実ではない。 むしろ、幾多の証言から見て、石田氏がぃうょうに、牧口氏の教義理解が及ばず「価値論」に固執してしまった結果が、講中からの孤立といった状況を招いてしまった、と解釈するのが妥当であろう。
このことは、「直達講」の副講頭であった竹尾清澄氏も牧口氏を評して、
「牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いようなところが見られた」(竹尾清登者『畑毛日記』)と書いていることからも、容易に推測できる。
まさに、創価教育学会の「空転」の始まりは、根本原因としては、牧口氏が「価値論」に固執したところにこそあった。
さらに、直達講を離れた後の牧口氏が、歓喜寮で日淳上人の指導を受けることになったものの、
「牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、
『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会はここで日蓮正宗と縁が切れ」(竹尾清澄著『畑毛日記』)
とあるように、宗門から離れて学会独自の路線を指向したところに、「空転」の極みがあったといえよう。
しかし、弾圧による組織の壊滅という辛酸(しんさん)を味わった戸田氏は、出獄後、日淳上人のもとを訪れ
「申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して自分の間違っていたことが、わかりました。(中略) これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(法照寺御住職・石井栄純尊師が六十五世日淳上人の奥様から伺ったお話)と、深く懺悔(ざんげ)の姿を示したという。
その後の戸田氏はこうした反省を踏まえ、信仰的に「空転」していた創価学会を日蓮正宗の信徒団体として軌道修正し、多くの学会員を成仏に導いていったのである。
しかるに今日、宗門から破門され、会員には「魂の独立」などと言葉を濁して、日蓮大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊と御法主上人から会員を遠ざける池田大作---これでは戸田氏の苦労も全て水の泡であり、池田が頻繁(ひんぱん)に口にする「師弟不二」も空々しく響くばかりではないか。
コメント: 全0件