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from: 22世紀さん
2010年09月27日 23時40分00秒
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池田大作「権力者」の構造
信仰の呪術的段階
《家に帰っても三日間拝まずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校をでて蒲田に勤めて出張していたときのことです。
それからは、おがみはじめるとなんとな一日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信心は大事だなあと思ったのです》
ここに「高校」とは東洋商業、「蒲田」とは蒲田工業会を指す。同工業会に書記として勤めはじめてまもなくの入信であった。
雷に思わず題目を唱えたというのは、いうまでもなく彼への天啓ではなく、創価学会と彼自身の低俗性、呪術的な段階を示す。
藤田省三は、呪術と内面化された宗教との区別は、呪術が病気平癒など、この世の利益のために手段として「霊」を拝むのに対し、宗教性の高い宗教は無条件に神を信じて仕える点にあるとし、また本格的な思想の基底には必ずある、超越者の前に一人立ってひそかに内省するという契機――それこそが生産的な内面的緊張を生む――が、創価学会にはまったくないとしている(石田郁夫『創価学会』所収)。 池田の宗教は「安心感があって」と自らいうように、つねに現実生活上の便宜や利益をこえるものではなかった。
蒲田工業会に勤めていた、その時分の池田の印象は「お早うございます」という朝の挨拶にうかがわれる。
「詰め襟の服で、さっそうと出社、事務所の戸が開くと同時に、あの挨拶が部屋中にひびきましてね。雨の降る暗い朝でさえ、パッと、いっぺんに明るい雰囲気になる」(大田工業連合会専務理事・小田原政男談、『現代』昭和45年2月号)
池田は入信によって、「私も、内向的なので、入信前は気が弱くて意気地なしだと思っていた(笑い)。最近は、おっちょこちょいみたいに開放的になってしまった」(池田『指導集』)とあるように、それまでの性格を早くも変え、明朗闊達な挨拶ができるようになった。
声高の挨拶は、池田が意気地なしであることをやめ、生存競争の勝者への道を一歩踏み出したことの起点であったが、多くの人の好感を呼ぶその挨拶を発するために、彼が内面において切り捨てたものもあったはずである。
創価学会に入っての池田の易変性は、それまでの彼のなめた病気や貧苦があまりに強く彼を痛めつけていたせいであったろうし、また創価学会の教義に抵抗できるほどの学歴等とは別の知的な基盤を欠いていたせいでもあったろう。が、易信性のもたらした結果がまれにみる権勢であろうと、それは人間としての名誉ではなく、むしろ恥辱であろう。考え悩む努力を放棄し、ステレオタイプの確信に甘んじる者の変わることの意義は、世俗上の利得だけにしかないにちがいない。
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