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from: 22世紀さん
2010年12月23日 19時53分53秒
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池田大作「権力者」の構造
戸田城聖の選挙観
昭和34(1959)年1月16日、石田次男は文化部員に任命されたが、それは石田の、参議院議員選挙への出馬と、前線からの離脱――無力な名誉集団への繰り入れを意味した。彼は早くもこの時点で会長候補としての資格を失ったのである。
創価学会における選挙は、国立戒壇建立のための政治進出とは別に、国費による折伏活動をも目的としていた。戸田は参院選初進出を前にした31年3月に、組織と選挙との関係を次のように定式化している。
「学会で選挙をやるなどということは、まことに、りっぱなことだと、私は思っているのです。陰でこそこそやるなどということは、絶対にする必要はありませんよ。・・・・・
私は選挙運動が毎年あったらいいと思っているのですよ。ないから残念です。そのわけは、選挙をやるという一つの目的をたてると、みな応援する気になります。そこでしっかりと信心させなければならん。学会は、金で選挙に出させるのではないから、はじめから信心によるのですから、信心の指導をしっかりやらなければならん。そうすると、幹部が夢中になって、班長君でも地区部長君でも、信心の指導を真剣にやってくれると思うのです。
そうすると、いままでかせがない人が、広宣流布のために、これは立ってやらなければならん時がきたから、まあ皆、目の色変えてかせぐ。ふだんやらんことをやるから、支部がピーンとしまってくる。選挙は、支部や学会の信心をしめるために使える。まことに、これは、けっこうなことではないですか」(戸田『講演集』下)
組織引き締めの為の選挙という戸田の着眼は、悪利用との非難はまぬがれまいが、それなりに秀抜であった。現に池田が逮捕された32年の大阪参院補選を、当選の可能性がないにもかかわらず強行したのは、弱体化した大阪各支部へのテコ入れ策だったという見方もある。
創価学会がこの昭和34年に、会員を立候補させる統一地方選挙と参院選挙を二つながら迎えたことは同会の存続にとって願ってもない幸いであった。選挙への総力結集こそ、戸田死後の組織危機を乗り切る最大の鍵であったのだ。
しかし、組織引き締めの手段である参院選に、石田が起用されるいわれはなに一つなかった。彼の器は、参議院議員という一部門の手駒ではなく、それらすべてを掌握する第三代会長にふさわしいものであったはずである。
彼が参院選への立候補を受け入れたことは、会長就任への権利放棄にほかならなかった。
石田はあまりに戸田にかわいがられ、彼の下で出世しすぎていたのかもしれない。彼が29年に原島宏治や和泉覚、森田悌二、辻武寿等の先輩を飛び越えて理事に就任したことは、決して彼らの好感するところではなかっただろう。また彼の早すぎる出世は青年部からの断絶を彼にやむなくさせてもいた。戸田の死後、彼は彼を強力に擁護する同僚も、熱心に押し立てる部門をも失っていた。
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