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  • from: 22世紀さん

    2010年12月28日 21時58分58秒

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    池田大作「権力者」の構造

    戸田城聖と石田の母

     石田の家族はほぼ全員が創価学会の幹部だった。母親・つかは本部婦人部長、妻・栄子は青年部参謀、妹・明子は元女子部第三部隊長で秋谷城永の妻、弟・幸四郎は男子部第47部隊長(のちに、公明党委員長)である。だが、彼らは閥をつくるには非力で、単に有力な家系にとどまっていた。
     石田自身の権力はいうまでもなく強大で、また若くして、中島治雄と田島文枝、中村慶和と森本滋子の媒酌を行うなど、信望にも欠けていなかったが、彼は無欲で生真面目に過ぎたし、彼の信仰は強固で、外に対して戦闘的だったが、内部の権謀術数には一本調子で、よく耐えるものではなかった。
     このような石田の人柄のよって来る由縁は、彼の生まれと昇進のしかたに求められるかもしれない。
     石田の家は秋田県鹿角郡の旧家で、高額納税者だったが、戦後、どのような理由によるものか、一家は上京し、小岩にアパートを経営した。その一室に和泉覚夫妻もいた関係で、一家で最初に入信した母親・つかは、入信前から戸田のことを聞き知っていた。
     つかは戸田の一周忌法要で、入信当時の追憶談を語っている。聖教新聞にはまれな、味のある話と思われるので、やや長くなるが引用してみよう。
    「はじめて私が先生(戸田)にお話したのは、25年の秋ころと思います。先生が一時、理事長を辞されておられましたが、私は先生ほどの方がなぜ事業に失敗なさったか、どうして理事長を辞退されたのか、それをお聞きしたくてしようがありませんでした。
     ときどき先生がお酒を飲んでおられるのを見かけていましたので私は自分の常識で判断しまして、いくら先生でも、あんなにお酒を召し上がるから、頭の具合でも悪いんじゃないかと思ったのでございます。(笑)それで、ぜひ先生に大酒をよして頂き、もう一度理事長の席につかれ、学会の指揮をとって頂きたい、といつも思っていたのです。
     ある日、先生が私のアパートにいられた和泉先生の処へみえたので、絶好のチャンスと帰られるとき玄関で呼び止めまして『お酒を召し上がっていますか』とお聞きしました。先生はあっさり『ああ飲んでおりますよ』とおっしゃったのでがっかりしたんです(笑)。
    『もう酒どころじゃないよ』といって頂きたかったんです。そこで私は、お酒を飲んではいけませんよという意味のことを申し上げたんです。
     ところが先生はただお笑いになって、それにはなにも答えて下さいませんで『私もネ、いままで自分のことにかまっていましたけれども、これからは本当に困っている人の味方になっていくつもりですよ』と、こうしみじみおっしゃったのです。
     そうして『あなたも弱くては大変ですね』(つかは結核を病んでいた)といわれ、お数珠をもって、私の首から背中をさすって下さった。私はお話をするのもはじめてですので『もう先生結構でございます』(笑)とただ恐縮しておりました。あとで思いますと、先生は、ご祈念をして下さったのだなあと思いました。
     そのときは、まだなにかいいたりなかったように思いまして、こんどはお手紙をさしあげたんです。先生はお酒のことにはなにもふれず信心の面でお答え下さいました。(手紙の内容略)
     それからほど過ぎてから先生が『奥さん、あんたはまあ正直でいいよ、酒をのむななどといったのは、あなたばかりだ』とおっしゃって下さいました。『あんたもね、もういつまでも、オツにすましていないで、ぼくたちの仲間に入んなさいよ』と、こうおっしゃって下さったんです。
     このことがあって、私も先生のお側近くでいろいろとご指導うけるようになりました。焼鳥の味をおぼえたのもそれからでございます。(笑)女というものは、ああいう処へ入って食べるもんだと思っておりませんでしたが、先生が目黒駅の焼鳥屋によくお寄りになって、「まあ、奥さん食べなさいよ』とおっしゃって下さる。柏原(ヤス)先生など、よく召し上がっていらっしゃったようです。(笑)それに子供たちの結婚についても、いろいろとご心配をいただきました。
     大幹部の方々が、よく先生にしかられていらっしゃったのですが(笑)そこで私も、一度涙の出るほどしかられてみたいと思いました。先生は私なんか当にしていらっしゃらないんだなあと、ちょっと情なく思っていたのです。でもしかられる時期が来たのでございます。あの参院選のときでした。柏原先生を落したということで、まあ先生にしかられ通し。あのときほど会長室のドアーの重かったことはございません。(以下略)」(『聖教新聞』昭和34年4月10日) 


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