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from: 21世紀さん

2010年12月09日 20時37分52秒

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第68世御法主日如上人猊下御指南

平成22年1月度広布唱題会の砌(於総本山客殿)「広布前進の年」の新春、あけましておめでとうございます。御隠尊日顕上人猊下には、御機嫌麗しく新年をお迎え

平成22年1月度 広布唱題会の砌

(於 総本山客殿)

 「広布前進の年」の新春、あけましておめでとうございます。
 御隠尊日顕上人猊下には、御機嫌麗しく新年をお迎えの御ことと慶賀に存じ上げます。 また、宗内僧俗御一同様には、すがすがしく「広布前進の年」を迎え、決意も新たに、いよいよの御奉公・御精進をお誓いのことと存じます。
 総本山におきましては、本年も恒例により、一月中、本日は元旦につき午前九時から行いましたが、原則的には午前八時より一時間の唱題行を執り行いますので、各位にはこぞって御参加くださるよう願います。
 特に、本年は「広布前進の年」であります。「広布前進の年」とは、言葉を換えて言えば「折伏前進の年」であります。広宣流布の達成は、折伏をもって初めて達成することができるからであります。
 その折伏を実践するために大切なことは唱題であります。唱題は仏道修行の根本をなすもので、成仏のための大切な行であります。
 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、
「白粉の力は漆を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(御書1483㌻)
と仰せられ、唱題によって過去遠々劫の悪業も転じて善業となると明かされ、さらに無始以来の宿業がそのまま成仏の因となることを説かれたのが、煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏の法門であると明かされておられます。
 また『法華題目抄』には、
「而るに今の代の世間の学者の云はく、只信心計りにて解心なく、南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて、争でか悪趣をまぬかるべき等云云。此の人々は経文の如くならば、阿鼻大城まぬかれがたし。さればさせる解はなくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば、悪道をまぬかるべし」(御書354㌻)
と仰せられ、世間の学者らが解を重んじて信心を軽んずる非を厳しく責め、仏法においては信心が根本であり、信心の実践なくしては、いかなる功徳も享受することができないことを示されているのであります。
 換言すれば、宗教・仏教から信心・信仰という行為を取ってしまえば、それは単なる理論であって、仏法でもなく宗教でもないのであります。
 単なる理論では、いかに立派であっても、いかなる功徳も受けることはできず、それによって成仏はできないのであります。
 そこに、仏教においては、
「夫仏道に入る根本は信をもて本とす」(御書353㌻)
あります。
 つまり、我ら末法の荒凡夫は自分の力だけでは正しく真理を証得し、絶対的な幸福境界を築くことは到底できませんが、『御義口伝』に、
「三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。信は智慧の因にして名字即なり。信の外に解無く、解の外に信無し。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり。信は智慧の種なり」(御書1737㌻)
と仰せのように、宇宙法界の根源の法を内薫自悟せられた御本仏大聖人の教えを信じて実践することによって、我らもまた、既に仏が証得せられたと同じ智慧を持ち、「無上宝聚不求自得の大宝珠」つまり、絶対的な幸福境界を得ることができるのであります。
 その信心の実践こそ唱題であり、唱題なくして仏法の広大無辺なる功徳を享受することはできないのであります。
 しかも、末法の題目は正像二時の自行の題目と異なり、自行化他にわたる題目であります。故に『三大秘法抄』には、
「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594㌻)
と仰せであります。
 すなわち、末法の題目は自行化他にわたるもので、自らも救い、他をも救わんとするものであります。
 つまり、自行の題目とは唱題行であり、化他の題目とは折伏行であります。唱題と折伏は一体のものであり、信心を根本とした唱題こそが折伏の源泉となるのであります。その故に日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段219㌻)
と、唱題行の功徳が満ちるところに、必ず折伏の実践が伴うことを御指南あそばされています。
 されば、くれぐれも大事なことは、唱題も折伏も一体であり、唱題行が、ただ唱題行だけに終わるのではなくして、その功徳と歓喜をもって折伏を行ずることが最も大事なのであります。唱題だけでは自行化他にわたる事の題目にならず、ややもすれば正法・像法の理の題目になずんでしまいかねないからであります。
 よって、本年「広布前進の年」は、一人ひとりがしっかりと唱題に励み、折伏を行じ、自行化他の信心に住し、もって本年の誓願を必ず達成するよう、仏祖三宝尊の御宝前に誓い、広布の大願を目指して勇猛精進していただきたいと思います。
 特に、現今の混沌とした国内外の世相を見るとき、我々大聖人様の弟子檀那は憂国の士となって、世のため、人のため、「身軽法重・死身弘法」の御聖訓を体し、我が身を呈して仏国土実現へ向けて尽力していくことが肝要であろうと存じます。
 「槿花一日の栄」に囚われて、今なすべきことをなさずにいることほど愚かなことはありません。
 どうぞ、各位には受け難き人界に生を受け、値い難き仏法に値い奉り、御本仏の弟子檀那となった深い因縁を心に刻み、この日本を救い、世界を救い、真の世界平和実現を目指して、いよいよ御精進くださることを心から念じ、本日の挨拶といたします。

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from: 21世紀さん

2011年04月24日 18時51分47秒

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「Re:第68世御法主日如上人猊下御指南」
平成22年11月度 広布唱題会の砌

(於 総本山客殿)

 皆さん、おはようございます。
 本日は、十一月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
 本年「広布前進の年」も、いよいよ十一月に入り、各支部ともに誓願達成へ向けて日夜、御精進のことと思います。
 本年度の戦いが、平成二十七年・三十三年の目標達成にとって極めて重要であることは、皆様方も重々御承知のことと思います。どうぞ、皆様には残り二月、全力を傾注して、全支部が本年度の誓願を必ず達成されますよう、なお一層の御精進を心からお祈りする次第であります。
 さて、法華経の提婆達多品を拝しますと、
「未来世の中に、若し善男子、善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して、疑惑を生ぜざらん者は、地獄、餓鬼、畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん」(法華経361頁)
と仰せであります。
 提婆達多品は、大きく分けると二段に分けられ、前半は提婆達多の成仏、すなわち悪人成仏が説かれ、後半は八歳の竜女の成仏、すなわち女人成仏が説かれております。
 このうち提婆達多については、『大智度論』には阿難の兄、釈尊のいとこに当たるとされ、幼いころから釈尊に敵対し、のちに出家して釈尊の弟子となりましたが、名聞名利の念が強く、高慢な性格から退転して、五逆罪を犯して地獄に堕ちたと言われております。普通、五逆罪と言いますと、『聖愚問答抄』にもお示しの如く、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身の血を出だし、和合僧を破す、の五つを指しますが、提婆達多が犯した五逆罪とは、まず初めに、釈尊に替わって教団を指揮しようとして、五百人の比丘を誘惑して和合僧を破ったこと。二番目に、大石を落として仏身より血を出したこと。三番目に、阿闍世王を唆して酔象を放ち、仏を踏み殺させようとしたこと。四番目に、蓮華比丘尼をこぶしをもって殺したこと。五番目に、毒を手の爪に塗って、仏足を礼するふりをして仏様を傷つけて殺そうとしたこと、この五つであります。この結果、提婆達多は、大地が裂け生きながら地獄に堕ちたと言われています。
 このように、提婆達多は極悪非道の罪を犯したのでありますが、釈尊が昔、国王と生まれ、大乗のために王位を捨て、大乗の法を求めて修行をしていた時、妙法を持つ阿私仙人に会い、千年の間、この仙人に身命を尽くして仕え、仏道修行に励み、ついに仏に成ることができたのであります。この時の仙人こそ、実は今の提婆達多であり、これによって提婆達多は天王如来として、未来成仏の記別を与えられたのであります。
 これは、ひとえに妙法の功力によるものであります。つまり、爾前諸経におきましては、十界互具一念三千が明かされないために、悪人は悪を滅して善を修し、善人となって成仏するか、あるいは一切の煩悩を断じなければ成仏できないとされてきたわけであります。
 しかし法華経では、十界互具一念三千が説かれ、九界の迷いの衆生の生命のなかに尊極無比の仏の生命が秘められており、地獄の衆生も仏に成りうるし、いかなる者でも成仏できる可能性を示されているわけであります。
 故に『一念三千法門』には、
「凡そ此の経は悪人・女人・ニ乗・闡提を簡ばず。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云ふ。善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。義を知らざる人なれども唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ。『我即歓喜諸仏亦然』云云」(御書110頁)
と仰せられているのであります。
 すなわち、妙法への信によって、提婆達多をはじめ悪人も女人も、一切衆生がすべて即身成仏できるとする至極の法門が説かれているのが法華経であり、その法華経とは、今時末法に約して申せば、すなわち本因下種の妙法蓮華経であります。この偉大なる妙法蓮華経の功徳によって、悪逆の提婆達多も未来成仏が保証され、一切衆生もことごとく成仏することができたのであります。
 ただし、ここで肝心なことは、経文に「浄心に信敬して、疑惑を生ぜざらん者」とあるように、「浄心」すなわち清浄な心で仏様を信じ敬い、「疑惑を生ぜざらん者」すなわち仏様に対して、疑いの心を持たずに信じきっていくことが、最も肝要なのであります。
 「無疑曰信」すなわち「疑い無きを信と曰う」という言葉がありますが、私どもの信心に約して言えば、大御本尊様に対し奉り絶対の信を取り、疑いを持たず信じていくことが成仏得道のためには最も大事なことなのであります。
 故に『御義口伝』のなかには、
「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は元品の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」(同1737頁)
と説かれております。
 すなわち、大御本尊様に対する絶対の信、疑いを持たない無疑曰信の信が成仏を決定する最大の要因であり、この信を貫いてこそ初めて、我々末法本未有善の荒凡夫は成仏することができるのであります。
 故に『四条金吾殿御返事』には、
「ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬ(濡)れたるほくち(火口)に火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給ふべし」(同1407頁)
と仰せられ、いかに大御本尊様の御威光が広大無辺であったとしても、行ずる者が御本尊様に疑いの心を持ち、不信のままに祈りを捧げても、広大なる御本尊様の功徳を享受することはできないのであります。つまり、御本尊様の仏力・法力がいかに絶大であろうとも、我らの信力・行力が欠けていたのでは四力成就に至らず、祈りはかなわないのであります。
 また、法華経の譬喩品には、智慧第一と言われた舎利弗すら、己れの智慧才覚によって成仏したわけではなく、「以信得入」すなわち信によって得道することができたことを挙げて、ただ信のみが成仏得道のための要諦であると説かれているのであります。
 したがって、我々も同様、大御本尊様への絶対の信によって成仏が決まるのでありますから、なお一層の強盛なる信心が肝要であります。
 もちろん、この信とは、自行だけの信心ではなくして、自行化他にわたる信心でなければなりません。大聖人様は『如説修行抄』に、
「末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり。敵有る時は刀杖弓箭を持つべし、敵無き時は弓箭兵杖なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎらはしくば実教より之を責むべし(中略)されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(同672頁)
と仰せであります。
 たとえ五逆罪を犯した悪逆の提婆達多でさえも、成仏できる妙法の偉大なる功徳を、自分一人だけのものとしないで、貪瞋癡の三毒に害せられ、苦悩にあえぐ、より多くの人達を正しい信心に導いていくことが、大聖人様の弟子檀那として今、最も肝要であり、これこそ御本仏大聖人のお心にかなう自行化他の信心であります
 所詮、世の中においては、一人だけの幸せは存在しません。『立正安国論』には、
「汝須く一身の安堵を思はゞ先づ四表の静謐を祈るべきものか」(同249頁)
と仰せであります。
 「四表」とは、東西南北の四方、転じて世の中、天下のことであります。「静謐」とは、世の中が平和で穏やかに治まっていることであります。すなわち、我々が平和で安穏なる生活を望むならば、まず世の中が平和で穏やかであるように祈らなければならないと、このように仰せられているのであります。
 この「世の中」とは、小さく言えば家庭とか、あるいは自分を取り巻く身近な環境を言うこともありますし、大きく言えば社会および国全体、世界全体を言うこともあります。 いずれにいたしましても、自分を取り巻く環境世界と我々との関係は極めて密接な関係にあり、例えば、戦争などが起これば個人の小さな幸せは立ち所に消えてしまいます。世の中が静謐でなければ、個々人の幸せは確立しないのであります。その世の中が静謐であるためには、大聖人が、
「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(同247頁)
と仰せの如く、不幸の根源である国中の謗法を断つことであります。
 なぜなら、世の中の不幸と苦悩と混乱の原因は、すべて謗法の害毒によるからであります。このことは、既に大聖人様が『立正安国論』において警鐘を鳴らし、明言しておられるとおりであります。
 その「謗法を断つ」とは、すなわち折伏を行ずることであります。己れ自身の幸せと世の中の幸せは深い関係にあることを知り、自他共に成仏していくところに真の幸せがあり、そのためには一人ひとりが折伏の大事と功徳と尊さを自覚して、妙法広布に挺身していくことが最も肝要なのであります。
 特に、昨今の世情を見ると、謗法の害毒によって人心が極度に荒乱し、混沌とした様相を呈しております。こうした現状を見るとき、我々は一人でも多くの人達が、不幸の根源である邪義邪宗の謗法を捨てて、本門戒壇の大御本尊様に帰依せられるよう、全魂を込めて折伏を行じていかなければならないと思います。一人ひとりの幸せはもとより、すべての人々の幸せと世界平和の実現は、我々が等しく願うところであります。
 されば『立正安国論』の原理に照らし、広布実現を目指して、今こそ「広布前進の年」にふさわしく、一人ひとりが真剣に折伏を行じていかなければなりません。
 どうぞ、皆様には本年「広布前進の年」、残り二月、誓願達成へ向けていよいよ御精進くださるようお願いいたしまして、本日の挨拶といたします。

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