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from: 21世紀さん
2011年05月09日 00時49分19秒
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劉暁波氏ノーベル平和賞受賞と創価学会・池田大作
「中国の人権弾圧」に口をつぐむ「公明党=創価学会・池田大作」のお家事情
古川利明
ジャーナリスト
ダンマリを決め込んだ「同じ穴のムジナ」
2010年のノーベル平和賞には、中国の人権活動家、劉暁波が受賞し、12月10日、オスロで授賞式があった。しかし、劉本人は本国で獄中に収監されているため、出席できず、家族も自宅軟禁状態に置かれていることから、代理人すら出席できないという異例の展開だった。こうした受取人不在の授賞式は、1935年、ナチス治世下で獄中にあったドイツの平和運動家、オシエツキー(授賞式は36年)以来、74年ぶりのことだという。
ところが、である。このオスロでの授賞式からわずか5日後の12月15日、北京を訪問していた公明党代表の山口那津男は、中国の国家副主席で、「次期トップ」がほぼ確定している習近平と会談した。尖閣列島沖での中国漁船衝突事件以降、日本の主要政党の首脳が、この習と会談したのは初めてだったこともあり、公明党(=創価学会・池田大作)としては、かねてからの「中国とのパイプ」を誇示する、またとない機会となった。
その「習・山口会談」の内容については、翌日(16日)付の朝刊各紙が報じている。習が「中国は日本をライバルではなく、パートナーとみなしている。中国は覇権を求めていない」と述べたのに対し、山口が「日中の戦略的互恵関係は重要であり、尖閣の問題など政府間には波があるが、乗り越えていかなければならない」と語ったとされる。しかし、この会談を報じた新聞記事を穴が開くほど眺めてみても、直近にあった「劉暁波のノーベル平和賞授賞式欠席」という“大事件”について、山口が会談の中で触れた形跡は全く窺えないのである。
確かに、中国が今度の問題について「内政干渉だ」と反発を強めている手前、尖閣問題でヒビの入った日中両国の関係を改善に向かわせるにあたって、あからさまに、この「劉問題」に切り込むというのは、「大人の対応」と言いがたいかもしれない。
しかし、「言論の自由」、そして、「思想、信条、良心の自由」を求めている人間を問答無用に獄中で身柄拘束を続けているのは、この上ない「人権弾圧」に他ならない。とりわけ、山口那津男以下の公明党議員をコントロールしている創価学会、さらには、その双方の指揮権を完全に掌握している池田大作は、日頃から「人権の尊重」ということを、口が酸っぱくなるほど唱えている。
であるなら、山口が習と会談した際に、とりわけ、今度の「劉問題」については、せめて、「いつまで、こんなことをやっているのか」とたしなめるのが、スジだろう。だが、今回、訪中した山口が、この問題にダンマリを決め込んだのには、外交上の配慮という以上に、実は、もっと根深い背景があると思われる。要するに、ひとことで言えば、この「人権弾圧」に関しては、双方とも「同じ穴のムジナ」であり、さらに言うなら、「公明党=創価学会・池田大作」に、中国の人権弾圧を批判する資格など、どこにもないからである。
「人権弾圧の体質」を抱え持つ創価学会・公明党
「公明党=創価学会・池田大作」が、これまでに血道を上げてきた「人権弾圧」、すなわち、言論・出版・報道・表現の自由や、思想・信条・良心の自由に対する、数々の抑圧行動をつぶさに出したら、古くは、藤原弘達の『創価学会を斬る』(日新報道)に対する妨害事件をはじめとして、キリがなく、それだけで1冊の本がゆうに書ける。そうした「諸々の自由に対する抑圧」、すなわち、「人権弾圧の体質」を組織内部に抱え持っていたからこそ、「政権与党入り」したこの10年の自公体制において、名誉毀損訴訟の賠償金高額化や、「個人情報保護法」に名を借りた報道規制策などの足枷をはめることに、最大のエネルギーを費やしてきたのは、繰り返し指摘している通りである。
今回、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波は、中国共産党による一党独裁体制の見直しや、言論・宗教の自由を求めた「08憲章」を起草したことから、国家政権転覆扇動罪で懲役11年の実刑判決が、去年(10年)2月に確定し、獄中での生活を余儀なくされている。中国では、89年の天安門事件を機に、大勢の活動家が中国を離れる中、劉は、中国国内に留まり、民主化闘争を続ける選択をした。授賞式の様子を報じた朝日新聞(12月11日付朝刊)が、かつての民主化運動の同志で、アメリカに亡命した旧友に出した、劉の手紙の内容を紹介している。
「渡米してからあなたの文章には鋭さが失われた。中国で政治的圧力と身の危険を感じていれば、どんな不明瞭な文章も迫力あるものになる。自由な暮らしが、あなたの目標を虚構にしてしまった。もう揺るがない。あなたも中国に戻ってきたらどうか」
確かに、ノーベル平和賞には、そのときどきの国際政治状況を反映し、常に政治色が付きまとう。しかし、これまでの受賞者を見ると、アメリカの公民権運動の指導者、マルチン・ルーサー・キングをはじめとして、「人権弾圧」、すなわち、「国家権力からの不当な弾圧」に対して、体を張って挑んできた人物をも、まっとうに顕彰してきた。その意味では、今度の劉暁波が提起しているテーマは、決して、中国一国だけに留まるものではない。
程度の差こそあれ、似たような状況は日本国内においても、現に存在する。もっと言うなら、中国や日本だけでなく、こうした国境を越えた「草の根の連帯」によるネットワークの広がりが、国家権力からの不条理な人権弾圧を、いつか地上からなくしていく力になりえると、筆者は信じている。
多様な意見の存在認め、相互批判の自由持て
話を「公明党=創価学会・池田大作」の方へ戻す。
口先では、彼らが「人権尊重」と言いながら、「言ってること」と「やってること」との間に、整合性がまるでないのは、前述した通りである。
それはともかく、池田大作が、公の場に登場し、「自らの肉声」を使ってメッセージを発しなくなってから、半年以上が経つ。信濃町サイドも、公式には「池田の健康状態」について何もコメントを出していないが、「通常の決裁業務」からは、既に退いているとみるべきだろう。とはいえ、池田大作の側近たちは、常に「池田の意向」を忖度し、「もし、池田先生なら、こう判断されるだろう」というふうに言動することが、骨の髄まで身に染みているので、当面、従来の「池田路線」――それは「天下を取る」ということだが――から、大きく逸脱することはないと思われる。
しかし、いずれ、「Xデー」はやってくるし、その暁には「ポスト池田体制」へと移行することになる。そこで、筆者の「願望」というよりは、現時点では「はかない思い」に近いものだが、それに合わせて、「路線変更」に踏み切ってはどうだろうか、という思いがある。
それは、敢えて言うなら、「宗教団体としての、根本的な再生」に他ならない。ここで今、「宗教とは何か」とくだくだと論じる余裕はない。しかし、ひとつだけ言わせてもらえば、「宗教のあるべき姿」というより、本来は「その本質」であるはずのものだが、「寛容性」というものを持ってもらいたいと思うのだ。多様な意見の存在を認め、相互批判する自由を持つこと。それは、おそらく、「人権の尊重」のベースにあるもので、また、「宗教の本質」とも合致するはずだ。
ところが、「宗教団体」の看板を掲げ、公益法人としての宗教法人格を持っている創価学会は、その組織内部において、相互批判の自由は存在しないに等しい。とりわけ、「池田大作に対する批判」は、絶対的なタブーである。こうした「池田独裁」による上意下達のシステムが、組織を硬直化させ、寛容さを失わせている最大の要因なのである
創価学会が宗教団体として、根本的に再生する道程は、今の中国に「本格的な民主化」が到来するのと同じくらい、遠くて険しいものだろう。しかし、そういう方向になるよう見守る姿勢も必要ではないだろうか。そのような視点を持ちつつ、まずは、彼らの人権弾圧体質を明るみにしたうえで、批判を行うことである。(文中・敬称略)
古川利明(ふるかわ・としあき)
1965年生まれ。毎日新聞、東京新聞(中日新聞東京本社)記者を経て、フリージャーナリスト。著書に『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』『デジタル・ヘル サイバー化監視社会の闇』『日本の裏金(上、下)』(いずれも第三書館刊)など。
投稿日: 2011年1月25日 作成者: okkotu-
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