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  • from: 22世紀さん

    2011/06/08 21:00:44

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月 8日(水)20時58分12秒   通報 返信・引用


      第一章 知られざる生い立ち

      池田大作の出生

     池田大作は昭和3(1928)年1月2日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のしがない海苔製造業者・池田子之吉、妻、一の五男として生まれた。
     その年、子之吉は前厄の数え四十一歳であり、池田が親の厄を一生、業に背負わぬよう彼を隣の蒲田町に捨てた。隣人がすぐ拾い届ける手筈だったが、手違いから事情を知らぬ別人が交番に届け出たため、子之吉は巡査にさんざん油を縛られねばならなかった(池田の三兄・小宮開造談、『現代』昭和45年2月号)。
     子之吉は婚姻届け出の19日後には長男をもうけるという、ごくこだわらぬ人柄であり、その庶民性はこうした縁起かつぎの面だけでなく、池田の命名にも十分うかがわれる。彼はただ池田が丈夫に育てばとの思いから、いたって無造作に太作と名つ゛けた(タサクでなく、タイサクと読むとの説もある。池田は昭和28年11月、自ら現在の大作に改名した)。
     池田の家は子之吉の祖父の代から大森で海苔製造に従事し、かなり煩冒した一時期もあった。また、祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えも残っているらしい(央忠邦『池田大作論』)。
     が、子之吉は池田五右衛門の三男であって家督相続者ではなく、ましてその五男である池田が、このように漠然とした、とるに足りない家系を誇りにし、家名再興を誓うとは考えようもなかった。彼が少年期に見せる勤勉を支えたものは、無自覚的な親孝行の域を出るものではない。また民法旧規定上の、子之吉の分家は彼が50歳の時、昭和13年3月であり、その前に実質的には本家から独立していたとしても、彼が家業や日常生活で本家を頼る一方、手伝いや下請けという形で本家を助け、労苦を強いられたことは想像に難くない。
     池田の貧窮は生まれおちて以来の、いわば骨がらみのものであり、それは密かな優越感を許される成り下がりでさえなかった。
     子之吉は、「近所、親類から強情さまといわれるほど、頑固一徹」(池田『母の慈愛』)で、かりに事業の才を発揮し得る分野を持っていたとしても(央の前掲書には、池田家は海苔業の傍ら、「北海道で300数十町歩といわれる広大な開拓事業をやっていた」とある)、その才腕は、災難を巧妙にかわすほどには豊かでなかった。大正12年の関東大震災が大森沖の地形を変え、彼には多くの海苔を恵まなくなった。そのため開拓の資金にも不足し、ついには失敗の憂き目を見たという。
     不入斗は大森海岸に面し、その近辺は隣接する糀谷、羽田とならんで海苔養殖の適地だったが、震災後、徐々に住宅地として開け、当時は、そこに長らく住んだことのある評論家の室伏高信によれば、「低地で、雨が降るとぬかるみ、風が吹くと塵が立ち、夏になると蚊の巣にまる」といった、居住に好適な土地柄とはいいかねる街に変わりつつあった。
     子之吉は池田が2歳のころ、不入斗から3キロほど離れた羽田町大字糀谷に移転し、海苔と畑の兼業を始めた。海苔養殖は9月下旬の篊立てに始まり、11、12月から篊に付着、生長した海苔を摘み取り、2月末ころまでに操業を終わる。その余りを遊んで暮らせるほどのうまみがあるわけでなく、表作と裏作の関係で、夏期は農業や漁業に出精することになろう。
     後年、池田も、創価学会=公明党幹部も、ことあるごとに池田が生っ粋の江戸っ子であることを称し、「ええ、もう。大森海岸のノリ取りのセガレで、完全な江戸っ子です。バカで、気前がよくって・・・・・」(朝日新聞社『新・人国記』9でのインタビュー)、「そんな(「文化活動」面での意見がくいちがう)とき会長は江戸っ子ですからね、『キミたちで結論だしてやってくれんか』なんていいますよ」(公明党書記長・矢野絢也談、『週刊現代』昭和45年(1970)4月2日号)など、皐月の鯉の吹き流し、口先ばかりではらわたはなし、といったふうの、腹黒さの否定に江戸っ子を常用していたが、池田の江戸っ子とは、彼もこの糀谷時代について、「たまに、田畑の向こうに巡査なんかが家を建てて、住みついたりしましたが、外国人みたいな気持ちで眺めたものでした」と回想したように、およそ花のお江戸とは縁遠い、東京府下の出生のことであった。
     糀谷は昭和7年(1932)、蒲田区の一部として東京市に編入されたが、その牧歌的ともいえる田園風景が貧しさに味つけされて、「小説家というより、わたしは詩人」(『週刊文春』昭和45年5月18日号)という池田の生半可な感傷を形つ゛くった一方、まがりなりにも東京という一事は、地方出身者の多い再発足時の創価学会信者間に、池田をして幅をきかせ、みじめな誇りとなって、彼を支えたかもしれない。
     糀谷では隣り合って子之吉の弟宅があり、そこは機械化による上昇期だったという。それに較べ、移転後の池田家の生業ははかばかしくなく、両家の対比が幼い池田にいっそうの困窮感を強いたことだろう。
     彼の兄の一人はすでに養子に行かされ、池田が5歳のころ、養母が訪ねてきたことがあった。金ブチの眼鏡をかけ、家の付近では見られない立派な着物を着て、みやげに見たこともないようなコーヒーを持ってきた。「違った階級の人だと思った」と、のちに池田は語っている(央、前掲書)。



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