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  • from: 22世紀さん

    2011年06月22日 20時04分13秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月22日(水)19時58分31秒   通報 返信・引用
    入信神話批判

     ここで池田の「入信神話」を検討する。彼の入信時の状況、心理は前述の通りだが、池田は後にこれを実に見事なまでに改竄する。入信神話こそ、池田の嘘の出発点、典型といって決して過言ではあるまい。次の引用は、池田が小説ではなく、事実として記した文章である。
    「私が、先生(戸田)に、はじめてお目にかかったのは、昭和22年、19歳の夏の暑い夜であった。・・・・・
     私には、・・・・・小学校時代からの友人で、時折り訪ねてくる仲間があった。そして、ある日、その友人の家で『生命の哲学について』の会があるからと、誘われたのである。この時、戸田城聖という名を、はじめて耳にしたのであった。
     私は、好奇心から誘われるままに、読者仲間(協友会)も連れて出かけたのである。
     やや嗄れた声で、屈託なく語っているのは、四十代の人であった。度の強い厚い眼鏡が光り、広い額は、すっきり禿でている。話の内容は、最初さっぱりわからなかったが、どうやら仏法の話らしい。そう思って聞いていると、身近な日常の生活や、現代の政治についての鋭い洞察も語られていく。そしてまた、急に難解な仏法用語が出てきて、私には実に不思議な未聞の哲学に思えたのである。
     いわゆる宗教の講話でもなく、伝統的な哲学の話でもなかった。話は、きわめて即物的で、観念を弄ぶようなところはなく、卑近な事実が、そのまま高度の真理を語っているようにさえ思われた。部屋には、中年の男や、家庭の主婦や、若い娘や、元気な青年たちが溢れている。服はいずれも貧しかったが、戸田先生にじっと注目して真剣そのものの姿である。善良な街の庶民の人々にまちがいない。そこには不思議な活気が燃えていた。
      戸田先生は、私がそれまでに会った、どのタイプにも属さない人であった。ぶっきらぼうのような口調でありながら、限りない温かささえ感じられた。私の先生をみつめる視線が、しばしば先生の視線にぶつかった。私は戸惑い、眼を伏せて、しばらくして顔をあげると、先生の視線はなおも私に注がれているようでならない。おかしなことだったが、いつか旧知の親しさという感情を覚えたのである。
     話が終わると、友人は私を先生に紹介した。先生は、ほう、といいながら、眼鏡の奥から眼を光らせて、一瞬、私の顔をまじまじと見てとった。そして、何かを知ったように、なんとも人懐こい微笑をうかべていったのである。
    『君、いくつになったかね』
     私の旧知の感情は、即座に答えた。
    『十九歳です』
    『十九歳か』と、先生はなにかに思いあたるようにいった。『十九歳といえば、僕が東京に出てきた時だ。北海道から、おのぼりさんで、はじめて東京に出てきたのだよ・・・・・』
     先生はその時、仁丹をかみながら、煙草をふかしていたと記憶する。私は、そのころ抱いていた、人生上の、また社会上のいくつかの疑問を自然に質問せざるを得なくなっていた。
     ――正しい人生とはどういう人生をいうのですか。真の愛国者とは? 天皇制について? 仏法の神髄とは?
     先生の解答は、はなはだ、直截で淀むところがなかった。苦もなく答えているように思われたが、それは正しく頭脳の回転の速さを示していた。衒いもなく、嘘もなく、確乎としたものの本体を語っているようであった。私は充分に満足し、真理がこれほど身近にあることに、生れてはじめて感動したことを覚えている。
     この夜から、十日後の8月24日、私は日蓮正宗に入信し、創価学会員となった」(池田「〝人生に負けてはいけない〟」、『私はこう思う』所収、なお池田『人間革命』二での記述も、より粉飾されているが、これと同様の骨子である)
     池田はここで、会場を本部から(蒲田の)友人宅に、折伏時の雰囲気、心理等を変更した。が、より重要なことは対者を、小平芳平から戸田にすり替えたことである。池田は『聖教新聞』(昭和32年10月18日)にも、会場が本部で、折伏者が32年時の教学部長・小平芳平だったことを明言している。
    「私が信仰したのは、丁度今から十年前の8月24日です。・・・・・折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。・・・・・そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんですよ」
     本部と蒲田との情況は、哲学のいい話があるが来ないかと、学校時代の友人に誘われたこと、池田の別の友人も同行したこと、その友人は入信しなかったこと(この場面を描いた池田『人間革命』二では、「二人の友は、決心がつかない――と、《入信手続きを》拒否した」とある)、人生が話題になったことなど、あまりに類似点が多いが、蒲田が前、本部がその後の出来事で、小平芳平(のちに、公明党参院議員)が池田の決をとった(入信を決意させる)としてもよい(なお戸田とともに戦時中、投獄された矢島周平は、「池田を折伏したのは私だ」と語っている。彼は矢島秀覚と名のり、埼玉県・大宮の正因寺で住職を子息に譲って隠居しているが、当時、座談会場に戸田はいなかったとしている。筆者は矢島説を裏つ゛ける客観資料を持たないから、ただ紹介だけしておく)。
     が、それでも戸田の講話、人格にうたれたにもかかわらず、五時間も締め上げられ、理論に負けてシャクにさわるという矛盾はまるで解消されない。
     池田が戸田の講話に感動したというのは明らかに捏造である。だが、さらに注目されるべきことは、池田がこれらの嘘を年齢の一致という嘘の伏線、下ごしらえとした点にある。すなわち、池田は、出会い時の池田19歳、戸田48歳という年齢を会長就任という自らの跡目相続の正統性の論拠とした。
      池田は『人間革命』二で、前の場面に続く戸田の帰路のこととして、次のように描く。
    「戸田は、19歳の春――北海道から上京した頃のことを、しきりと思い出していた。
     牧口常三郎と、初めて会ったのは、その年の8月のことである。その日から、彼の今日までの運命というものが、大きく、新しく滑り出したことを、珍しく思いめぐらしていた。
     ――その時、戸田城聖が19歳で牧口常三郎は48歳であった。
     いま、戸田は、その48歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田こと)は、19歳だといった。
     彼は19歳より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代は移り変わり、自分にも、真実の黎明の如き青年の弟子が現われることを、心ひそかに期待して居ったのであろうか――(中略)
     ――19歳の青年は、いくらでもいる。しかし、29年前の牧口と当時の戸田とを、まざまざと想い甦らせたのは、今日の一人の青年ではなかったか。・・・・・
     いま牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、48歳の彼の前に、出現したのである」
     池田がここでいいたいことは、牧口と戸田、戸田と池田、それぞれの出会い時の年齢の一致と、それによる呪術的ともいうべき池田自身への正統性、神性の付託である。この原始的な思惟に基つ゛く発想は、池田の会長就任時に早くも表れている。
    「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが19歳のおんとき。また、第三代会長・池田先生が戸田先生の門下生になられたときも19歳のおんときと聞く。まことに仏法の不思議!」(『聖教新聞』昭和35年5月13日)
      が、驚くべきことに、これらの年齢は池田の19歳を除いてすべてデタラメなのである。
     戸田が北海道から上京し、はじめて牧口を訪ねたのは大正9(1920)年8月のことで、そのとき戸田は明治33(1900)年2月出生の満20歳、数え21歳、牧口は明治4(1871)年6月出生の満49歳、数え50歳であった。
     また池田が創価学会員となった昭和22(1947)年8月には、昭和3(1923)年1月出生の池田は満19歳、数え20歳、戸田は満47歳、数え48歳であった(出生と出会いの年時は創価学会教学部長・原島崇著『創価学会』による)。
     満、数え年齢ともに、48歳――19歳に一致しない。池田の『人間革命』は虚偽を援用して、戸田と山本伸一の名で登場する池田自身の徹底的な粉飾をはかったものであるが、それでも牧口と戸田だけは実名で登場させている。池田は、「私の人生に、戸田城聖という恩師がなかったとしたら、今日の私は、無にひとしい存在であったにちがいない」(「〝人生に負けてはいけない〟」)といいきるまでに崇める戸田の年齢ばかりか、牧口のそれをも、自分の都合によって故意に改変する。『人間革命』はフィクションだとするなら、前掲の「〝人生に負けてはいけない〟」と『聖教新聞』の記事はどうなるのだろうか。
     創価学会が『人間革命』を「現代の御書」として会員に推奨していたのは広く知られた事実だが、同時に、小説と銘打ちながらノンフィクションとして扱っていた形跡がある。『聖教新聞』縮刷版の「主要日誌」(昭和44年11月14日)に「池田会長による小説『人間革命』第五巻がノンフィクション部門で連続3週間、ベストセラー第一位を示している」と記されている。
     ここで池田が故意に変えたというのは根拠のないことではない。彼は、45年に遺族の手で刊行された戸田『若き日の手記・獄中記』に序文を寄せているが、それには、「戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和22年8月であり、先生が47、8歳、私が19歳の時であった」と、戸田の年齢を曖昧にして逃げているからである。
     池田の無残なまでの嘘のうわ塗りは、彼が権力者だったために、「おべんちゃら本」によって、さらに一層卑劣さを増幅する。が、これらには、その厚顔さのゆえに、より露骨に池田の狙いを浮かび上がらせるという長所がある。次に引用するのは、前掲の蒲田の場面を描いたものであり、ほんの一例にすぎない(『 』内は池田の語り)。
    「そして、池田がさらに戸田の話を聞いているうちに、奇跡としかいいようのない神秘的な現象が、突然二人の間におこった。
    『それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない。私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感でした。それまで、そういう運命的な直感などむしろ軽蔑していた私が、どうしてああいう気持ちに襲われたのか、いまもって不思議ですね。
     しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかったんですが、私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、〝このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いまオレはついに後継者にめぐりあった〟――と、ひと目で直感されたというんですよ。
     はじめて会って30分もたたないうちですが、戸田先生と目が会ったとき、私はそのことを――先生がなにを感じられたかを――ハッキリ知りました。先生のほうも私の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知って下さったわけです』」(五島勉『現代の英雄』)
    『宗教と信仰の心理学』と、これとの懸隔はあまりにも大きい。池田の入信神話は、デマゴギーの発生と肥大に関する調査、研究に、貴重なデータを提供できるほどのものであろう。




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