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from: 22世紀さん
2011年06月28日 20時03分59秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)20時04分37秒 通報 返信・引用
信仰の証としての労苦――池田の前時代的性格
東京建設信用組合は、池田によれば、その年6月ころ戸田のもとに持ち込まれた東京建設信用購買利用組合を種目変更したものであり、専務理事を務める戸田に一切の経営責任があった。それは、「およそ事業の基礎というものは、最後には金融資本の掌握が必要となってくることを、痛感していた」(池田『人間革命』四)という資本家・戸田の経営学の実践であった以上に、敗北につく゛敗北のなかでの、それ以外にしょうことのない戸田の窮余の一策であった。ドッジ・ラインの進行によるデフレ不況は、つくつ゛く金繰りさえつけばとの思いを戸田に強いたことだったろう。
しかし、その場合、窮すれば通ずという格言は適用せず、同信用組合は正式発足後、一年ももたずに破産した。預金額が借り入れの申し込みに反し、思うようにのびなかったのだというが、戸田や日本正学館社員のにわか転用では、およそ能力に限りがあり、いきおい無理と知りつつ、あこぎな手口もとらざるを得なかったようだ。
が、その結果は昭和24年暮れから翌々26年にかけて戸田も池田も債鬼に追われて困窮と過労の度を深めるというものであった。降って湧いた朝鮮特需による世の好況をよそに、戸田はウラボロとあだ名されたように裏地がボロボロの背広を着通さなければならなかったし、それでなくとも数少ない社員は半年以上も出ない給与に愛想をつかして、次々と去った。
池田もまた50キロ以下にやせて頬がこけ、「お前の顔で、指にささったトゲが掘れる」と揶揄されたばかりか、24年秋、病弱を表むきの理由に、一年半通った大世学院を中退するはめになった。
「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、と言われたんです。“おれが教えてやるから十分だ”というのです」と、池田はのちに語っている(央忠邦『日本の潮流』)。
以後、池田は日曜日ごとに、後には毎朝一時間ずつ、矢田俊隆『世界史』、熊谷幸次郎『日本史――概説と問題点』、鵜飼信成『憲法』、鈴木安蔵『政治学』、高田保馬『経済学原理』、ガモフ全集などを教材に戸田の教えを受けたとされている(草柳大蔵「"手つ゛くり人間"池田大作」、『文藝春秋』昭和44年9月号)。
戸田が学校教材風のこれらすべてを実際に用いたかは疑問であり、また戸田の講義を受けたのは池田ばかりでなく、たとえば26年入信の秋谷城永(のちに、栄之助)も受講者の一人だった。「(秋谷は8:30から)9:00までの30分、かならず博学の戸田会長から雑談ふうの講義をきいた。池田現名誉会長も仲間であった」(『文芸朝日』昭和38年8月号)
彼らは貧弱の中で、いっそう身を寄せ合い、時に叱られながらも、猥雑なまでに密着した。
「『さあ、寝るか、伸(池田をさす)、ぼくの布団で一緒に寝ようよ』戸田は隣室の布団に入った」
「幾度か 戦の庭に 起てる身の 捨てず持つは 君が太刀ぞよ」(戸田から池田への返歌という、いずれも池田『人間革命』四)
池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。彼は、「この地を受けつぐだけでなく、天国をも受けつぐことを定められながら、今はおとなしい様子をしている王子である」(E・ホッファー『大衆運動』)と自分自身を考えていた。そういう池田にとっては、あと半年通えば卒業できた大世学院を断念させられようと、金銭的に恵まれなさ過ぎようと、戸田を見限るなどは論外であり、彼はひたすらマゾヒスティックな快感さえ覚えて、日々を試練として耐えつつ゛けた。一方、それは池田のいうとおり、使われるよりは仕える境地でもあり、彼の前時代的な作風が、自己犠牲をしのびやすくしたのも事実である。
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