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from: 22世紀さん
2011年07月05日 19時56分46秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月 5日(火)19時54分43秒 通報 返信・引用
参謀部の設置と狸祭り
27年は日蓮の宗旨建立700年記念の年であった。
2月9日、男子部に参謀部が設置され、池田は主任参謀・石田次男のもとで竜年光とならんで参謀に抜擢され、男子部の作戦、行動に関する司令センターの一員となった。
そのため池田は竜部隊の班長を解かれて最前線から離脱したが、それは彼にとって幸いなことであった。彼の資質は対等の人間として一対一で渡りあうより、特定の立場を保持したうえで行動することになじむものがあった。彼は身をもってする折伏に決して得手ではなかった。
「『折伏をしろ』っていうから、私は自分の友達を10人ぐらい呼んだのです。信心してから間もなくのことですよ。一生懸命いいました。御本尊様の話を。一度なんかは、会長先生がわざわざ、私のおよびした会合に出て下さったこともありました。しかし誰も信心しないのですよ。一生懸命やってもね。みな友達がはなれっちゃうんだよ」(『聖教新聞』昭和34年2月6日、池田談)
一対一で行う折伏は、行うものの人間性がすぐれてあらわになる作業である。池田は一個の人間として未熟だったが、その資質は幹部として通用した。そういう池田に、追従と権威主義の混交を思わせる参謀業務はうってつけで、以後、彼は会長就任の一年前まで参謀畑を歩くことになる。
参謀に任命されたとき、池田はその所感を次のように述べた。
「仏法日本に渡って大聖人様出現迄702年、今大聖人様仏法を確立されてより700年、仏法に誤り無ければ必ずや後二年に何事かあらん。学会は仏意である。従って青年は広宣流布の大業を為せといはれて居る。之を行わなければ如何に恐ろしい事か。今後700年際に向い大闘争あらん」(『聖教新聞』昭和27年2月20日)
ここにはすでに、幼稚な数へのフェティシズム、「学会は仏意である」といいきって疑わない確信、壮士風の気概等が表れている。池田はこのように語ることによって、さらに自らの創価学会に対する情意を昴めていった。
参謀としての池田の、初の大仕事はほどなくやってきた。
4月28日、大石寺で宗旨建立700年記念慶祝大法会が挙行された。その前日から戸田は創価学会員約4,000名を引き連れ、大石寺に乗り込んでいた。彼は単に式典に参加するだけでなく、その場を創価学会の力を誇示し、日蓮正宗支配の橋頭堡にしようと計画し、「狸祭り」といわれる暴力事件を敢行した。
狸とは日蓮正宗の老僧・小笠原慈聞(おがさわらじぶん)をさした。
小笠原は戦時中、日蓮正宗の身延への合同を策し、神本仏迹論(神が本体で仏はその影)を唱えていた。戸田は創価教育学会弾圧の発端は彼が作ったとし、その責任を問う形で彼をデモンストレーションの犠牲に供した。
大法会に先立つ3月2日、戸田は青年部に小笠原糾弾を指示し、池田を含めて青年部幹部はその実行手筈を打ち合わせて行動部隊47人を選び、プラカード等を用意した。
27日夜、行動部隊は大石寺内の僧坊をまわって小笠原を探し歩き、彼を寂日坊に見つけて謝罪を要求した。が、小笠原は反論して埒があかず、竜部隊は業をにやして彼をかつぎあげ、「いよいよ外え出んとした時池田君の知らせで戸田」も寂日坊にかけつけた(『聖教新聞』昭和27年5月10日)
事件後、小笠原が発表した手記『創価学会戸田城聖己下団員暴行事件の顛末』によると、戸田は〝生意気いうな〟と小笠原の左耳の上と右横頭を強打し、行動部隊の多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の衣を脱がせてシャツ一枚にしたという。
その後行動部隊は小笠原をかつぎあげ、筆頭理事・和泉覚の指揮で喊声をあげつつ、寺内の牧口常三郎の墓まで彼を運びこんだ。ここで小笠原を再び責めたてたあげく、用意した案文通りの謝罪文を彼に書かせた。この間、地元の消防団や村民が騒ぎを聞きつけて詰めかけ、暗夜の墓地で乱闘が始まり、墓石が倒れ、けが人が出た。
戸田はその夜からただちに事件の収拾工作を行ったが、小笠原をまるめこむことは出来ず、小笠原は全国の日蓮正宗の末寺に創価学会を告発するパンフレットを送り、同会に牛耳られた総本山管長を告訴した。また警察も動き、戸田や和泉覚は勾留、取り調べを受けた。日蓮正宗側も事件を重視し、その宗会は、戸田の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議した。
戸田は早速、巻き返しに出、幹部に宗会議員を訪ねさせて各個撃破し、決議を事実上つぶした。池田も7月、文京区戸崎町の白蓮院を訪問し、全面取り消しを約束させている。戸田はまた本山には五重塔の修復を申し出て宗会決議の適用をまぬがれたうえ、宗務院の一部役員を小笠原抑え込みに動員した。さらに日蓮正宗信者で創価学会批判者の関戸了三の公表した文書によると、創価学会は総本山宗務院の役員を伊東温泉に招き、芸者をあげて接待したという。こうした戸田の根回しによる本山の圧力と30万円の慰謝料で、小笠原は否応なく手をうたされ、後には創価学会の資金援助で同会との争論を詫びる『日蓮正宗入門』を刊行するまでに懐柔された(「黒い〝鶴〟のタブー」、『赤旗』昭和45年5月1日、2日所載)。
戸田は狸祭り事件によって本山内の創価学会反対派を畏怖させ、日蓮正宗内に同会の正統性と優越性をあざやかな駆け引きで示し、法主の権威を創価学会会長と一体化する道を開いた。
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