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  • from: 21世紀さん

    2011年07月10日 00時29分50秒

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    :【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】

    日有師化儀抄 (日達上人略解)



    総本山大石寺には、山法山規という規則があって、われわれは、知らず知らず、その規範に律せられているのである。ところが、この山法山規は、不文律である。しかも、この山法山規は不文律でありながら、総本山には、今日まで、七百年来、厳然と行われているのだから、不思議である。

    この山法山規も、そのもとは、二祖日興上人の遺戒置文二十六箇条と、日有上人の化儀抄百二十一箇条にあるのである。

    遺戒置文には、
    一箇条に於ても犯す者は、日興が末流に有るべからず。

    化儀抄には、
    この上意の趣を守り、行住坐臥に拝見有るべく候。
    と、強く末弟を、誡められているのである。

    その末弟を誠められた事がらを、末弟がよく心肝に染めて、伝えたのである。それが、いつか、山法山規という名になって、今日に伝えられたのである。

    そして、この化儀抄は、日有上人が直接お書きになったものではなく、弟子の南条日住という人が常々お聞きしたことを書き留められたのを、日有上人の御入滅(文明十四年・1482年)の翌年、文明十五年これを浄書して、本山第十二代日鎮上人に御渡した書物である。

    本山九代日有上人は、北は奥州から、西は京都まで教化せられ、説法折伏に暇がなかったごとくである。それ故、御真筆のものは、御本尊以外は余りないようである。しかし、常に説法せられたから、弟子たちが、上人の説法、談義の聞書をものせられて、今日に伝えられているものが、多いのである。

    日有上人は、文明十四年九月二十九日、入滅の時は、七十四歳の高齢であったから第十代日乗上人と、第十一代日底上人は、すでに御遷化(文明四年・1472年)せられた後で、第十二代日鎮上人は、文明四年、十六歳で血脈相承をうけられているので、日有上人が御入滅の時は、ちょうど二十六歳であった。

    そこで南条日住も老年で、すでに自分の死の近きを知り、かねてからの日有上人かに聞きおいたことを、年若き日鎮上人に法主貫首としての教訓として、書きつかわされたのである。

     本書は南条日住の正筆そのまま、本山の宝蔵に所蔵している。

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コメント: 全42件

from: 21世紀さん

2011年08月12日 18時35分51秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【121】一、涅槃経の九に曰く、諸の衆生命終の後、阿鼻地獄の中に堕して方に三思有り、一には自ら思わく我が至る所何れの処ぞや、則ち自ら知りぬ是れ阿鼻地獄なり、二には自ら思わく何の処より而も此に来生する、則ち自ら知りぬ人界の中より来る、三には自ら思わく何れの業因に乗じて而も此に来生する、即ち自ら知りぬ大乗方等経典を誹謗するに依って而も此こに来生す。

[日達上人略解]

涅槃経の九に多くの人々は死んで阿鼻地獄に堕ちて初めて反省し、三思があります。

第一は、自分で今来たところはどこであるかと考え、これは阿鼻地獄であると思惟します。次に自分はどこから、この阿鼻地獄へ来たのであるかと考え、それは人間界より来たのであると思惟します。最後に、では自分はどういう因縁によって、この阿鼻地獄などへ来たのかと考え、それは大乗経典の法華経を誹謗した罪業によって堕墜したのであると思惟します。よって正法誹謗の罪の深きことを知るのであります。

(注、右二条は、特に引用して、われわれは生をこの世にうけて、仏法に遇いたてまつったならぱ、法華経の弘経に精進することをすすめ、謗法を固くいましめられたのであリます)

【本文・南条日住師】

「仰せに日く二人とは然るべからざる由に候、此の上意の趣を守り行住坐臥に拝見有るべき候、朝夕日有上人に対談と信力候わば冥慮爾るべく候なり」

時に文明十五年初秋三日書写せしめ了んぬ。

御訪に預るべき約束の間、嘲りを顧みず書き造らせ候なり、違変有るべからず候。筆者 南条日住

[日達上人略解]

日有上人の仰せによれば、一人(日鎮上人)にかぎリ申し伝えてよろしいとのことであります。前述の各条を日常に拝見して守っていただきたい。そうすれば、毎日、日有上人とお話しをしあっていると同じであります。そこに、はかり知れない仏様のお心持があると思います。文明十五年(一四八三年)七月三日書写しおわる。

私(日住)は老年で、あなた(日鎮上人)に葬式をしていただく約束でありますから笑われてもかまいませんから、この条々をあなたのために書きつかわします。この条目に決して違背してはいけません。筆者 南条日住

以上、百二十一箇条を略解して見ました。まったく、今日の総本山の山法山規の綱格をなしているのであります。日興上人の御遺誡置文二十六箇条と、この百二十一箇条は、正宗をして宗祖滅後六百七十八年(昭和三十四年)の今日まで、一豪の謗法すら、なからしめた指針であったのであります。

なお、この化儀抄は、数条の項目と、名称の死語等を取れば、全抄が今なお玉条として活用されているのであります。正宗の僧俗は、本抄を、もう一度、熟読玩味いたしましょう。

 (終)

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from: 21世紀さん

2011年08月11日 22時34分34秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【119】法華経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読、誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法の読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したもうなリ、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用い給うなり。文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは、受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。

[日達上人略解]

五つの様とは、五種の行、すなわち五種法師の修行で、法華経法師品、法師功徳品に説かれる。皆当作仏の一行とは、常不軽菩薩品に説かれる不軽菩薩が、一切衆生の作仏を信じて但行礼拝の一行を行ずること。

法華経の修行に五種法師の行があります。それは、受持、読、誦、解説、書写の五つであります。広く五種の行を、それぞれ修行することは、像法の後期、読誦多聞堅固の時代の修行の方法であります。今日末法の人々は、鈍根、劣機の愚人でありますから、信ずるが故に受け、念ずるが故に持つの受持の一行だけで、よろしいのであります。

その証拠として、過去の不軽菩薩は皆まさに作仏すべしとの信のもとに、但行礼拝の一行のみ行じたのであります。しかし、その不軽菩薩も、但行礼拝の一行を正行としましたが、助行として「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は如何、汝等、皆、菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし」の二十四字を、読誦修行したのであります。

宗祖日蓮大聖人は、唱題をもって正行としましたが、方便品と寿量品を助行として読誦せられました。以上のように、方便品、寿量品をもって読むのは読、暗誦して読むのは誦、塔婆に題目や経文を書くのは書写とそれぞれ、読誦書写の修行にあてはまりますが、その修行は受持正行の上にある五種の行で、どこまでも主体は久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経を受持するをもって、正行と考えなければなりません。


【日達上人・註】以下の二章は、日有上人の御仰せではなく、日住師が一乗要決と涅槃経から引用して加入して、正法精進を勧められたのであります。


【120】一、一乗要決に日く諸乗の権実は古来の諍いなり、倶に経論に拠り互に是非を執す、余、寛弘(丙午)の歳冬十月病中歎じて曰く、仏教に遇うと雖も仏意を了せず、若し空手に終ては後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義、賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ、或は自ら思択し、全く自宗他宗の偏党を捨て専ら権智、実智の深奥を擇ぴ終に一乗は真実の理、五乗は方便の説なるを得たる者なり、既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨を遺さんや文。

[日達上人略解]

一乗は真実の理、一仏乗すなわち法華経は仏の真実を説いた教理であるの意。

五乗は方便とは、五乗は人、天、声聞、縁覚、菩薩の五つ、人天併称して四乗ともする。さらに人天乗を後の三乗に入れて、三乗と総称するのが普通である。天台大師が、一乗真実、三乗方便と判ぜられたのに対し、法相宗の慈恩大師が一乗方便・四乗真実と主張した。伝教大師は、この慈恩の解釈の誤りを指摘して、一乗真実・三乗(五乗)方便を釈せられたのであります。

恵心僧都(九四二〜一〇一七)は、その著書一乗要決(寛弘三年〈一〇〇六〉の著)において、諸宗の権実は古来からあります。みな、それぞれ経論を根拠として、たがいに是非を論じあっております。が、私は(慧心僧都)寛弘三年(一〇〇六)十月に、ちょうど病中でありましたが、歎息して思いますのに、遇いがたい仏教に遇いたてまつっても、仏様の真意を了解できず、いたずらに一生を終ったならば、後悔してもおよぴません。

そこで、経文や論義および先師の章疏を、使いを中国につかわし、この時代の名僧四明智礼に問尋し、あるいは自分で思惟して、自他宗の偏執を捨てて、ただ仏の方便の説と、真実の説法とを分別取捨して、ついに一乗は真実の教理であり、五乗は方便の教であるという結論をえたのであります。これによって、自分の今生における迷いの目を開き得ましたので、すぐこのまま死んでも、少しも心のこりはありません。

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from: 21世紀さん

2011年08月10日 20時43分32秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【117】一、神座を立てざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書之れ有り、師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向う所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ即ち事行の妙法、事の即身成仏等云云。

[日達上人略解]

示し書とは神座を授与の時、法主の名判ありて、本人の法名を書き示さる、その中央は南無妙法蓮華経であります。法名は、僧俗あるいは弟子の別なく、神座もしくは、御未来御本尊授与の時、法主上人の書き判あって、法名を書き示されて授与になるのであります。授与の本尊に法主が書き判せられるから法主は主の方で仏界の方であります。

法主が書き示されるは弟子の方で、九界の方でありその師弟相対して中尊の南無妙法蓮華経に相向ふので、その所が当位即妙の即身成仏であります。他宗のごとく、紙や木で立派な位牌を作るのとは、異なるのであります。他宗のごとく、ただ、亡者の者だけ書くのは、師弟相対でなく、即身成仏の件もなき理の姿であります。本宗のごとく、師弟相対して中尊の南無妙法蓮華経に向うのは、事行の南無妙法蓮華経で、事の即身成仏であります。


【118】一、当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて存すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経の人師と訳する此の意なり、されば儒家には、孔子老子を本尊とし、歌道には人丸・天神を本尊とし、陰陽には晴明を本尊とするなり、仏教に於て小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は迦葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文殊を脇士とし、本門の釈迦は上行等云云。故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり。其の故は神力結要の付属とは受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終って脱する所を終りと云うなり、脱し終れば種にかえる故に迹に実体なきなり、妙楽大師、離脱在現、上の如し云云、是れより迹門無得道の法門は起こるなり云云。

[日達上人略解]

断惑証理とは、煩悩を断尽して涅槃を証すること。釈迦の因行とは久遠元初の本因妙の南無妙法蓮華経を指す。若遇余仏便得決了とは法華経方便品の句で声聞が今仏(釈迦仏)の化導に漏れたならば滅後に余の仏に遇い奉って成仏することが出来ると云うこと。その余仏とは、末法出現の宗祖日蓮大聖人のことであります。

脇士とは、仏の脇に侍して教化を助ける菩薩あるいは聖者。頭陀の応身とは、歴劫修行によって、ようやく得た劣応身の仏で、小乗の釈尊のこと。本宗にては、煩悩を断尽して証を得た釈尊在世中の正機である二乗に対しての仏でありますので、その釈尊を本尊としません。

末法は下種の南無妙法蓮華経が正宗で、在世および過去の仏法は、序分となります。本宗はいまだ煩悩を断尽しない凡夫で、六即の中では名字即の初心の者のための宗旨でありますから、別教の初地已上、円教の初住已上の聖者に対する仏である釈尊は名字初心の凡位の者の感覚には、とうてい、およばないのです。

そこで本宗は、久遠元初の本因妙の南無妙法蓮華経を本尊とするのであります。その仏は宗祖日蓮大聖人であります。本因妙抄に「本因妙の行者日蓮」と遊ばされてあるとおりであります。

また方便品に、もし今の釈尊にて得税ができなければ、滅後来世において他の仏によって成仏することができると、説かれてあります。妙楽大師は、この文を文句記において四依弘経の人師であると釈しております。末法における四依弘経の人師とは取りも直さず、宗祖日蓮大聖人であります。

中国の儒教においては孔子を、道教においては老子を、それぞれ本尊としております。わが国の歌道にては、柿本人麻呂、菅原道真を本尊とし、陰陽師(天文、暦数等をつかさどる)においては安部晴明を本尊とするのであります。すなわち、その道の覚者、指導者が、本尊とあがめられるのであります。

仏教においては、小乗教の仏(本尊)である釈尊は、修行を積んで貧者をはらった劣応身の仏であります。権大乗の仏である釈尊は、迦葉尊者、舎利弗尊者を脇士仏とし、実大乗教の仏である釈尊は普賢菩薩、文殊菩薩を脇士仏とし、法華経本門の仏である釈尊は、上行、無辺行、浄行、安立行の本化の四菩薩を、脇士仏とするのであります。

滅後末法は久遠元初の本因妙の南無妙法蓮華経を本尊として、「所謂る宝塔の内の釈尊、多宝、外の諸仏、並びに上行等の四菩薩を脇士」とするのであります。観心本尊抄に「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す」の通りであります。

この地涌千界は、神力品において四句の結裏付属を受けて、滅後末法に出現して「一間浮提第一の本尊を此の国に立つ」のであります。その神力結要とは四句の結要、名体宗用すなわち南無妙法蓮華経であって、それを末法に流布するのであり、凡位のわれわれは受持の一行によって得られるのであります。

われわれの位は名字初心でありますから、このような久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経を本尊とするのであります。このことを本門の修行といいます。それは下種を本位とするので、もし、その仏種を智慧解了によって行く迹門の始めを熟益とし、悟り終ったところを脱益とするのであります。脱し終れば種にかえるのでありますから、種を本とし、熟、脱は迹で、この迹は常に動進しているのでありますから、実体はないのであります。それゆえ、妙楽大師は「脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ」と申され、脱にて成仏はなく、種に返って成仏があると示されているのであリます。これゆえに、迹門無得道と申されるのであります。

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from: 21世紀さん

2011年08月09日 22時09分44秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【115】一、薄袈裟にうづら衣はスワウハカマに対するなり、イクワンの時は法服なり椎を重ねたる衣に長編の袈裟は直垂に対するなり云云。

[日達上人略解]

本宗の薄地の袈裟と粗末な衣を著けた時は、侍の素抱袴(侍の礼服)に匹敵します。侍の衣冠束帯の礼式の時は、正式の袈裟衣でなくてはなりません。一重の着物を重ねた衣で堅くごわごわした袈裟を着けた時は、侍の直垂の姿にあたります。


【116-01】一、釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、権実とは法華己前は仏の権智、法華経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法華以前に仏の権智を示めさるれば機も権智を受くるなり。さて法華経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約数と訳して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは、蔵通別の三教は権教なり、円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約すなり、仏身に於て因果の身在す、故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身自行の成道なれども既に成道と云う故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より巳来機を目にかけて世々番々の成道を唱え在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云うも迹の成道なり、故に今日、華厳、阿含、方等、般若、法華の五時の法輪、法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹共に迹なり、今日の寿量品と云うも迹中の寿量なり、されば経に約すれば是れ本門なりと雖も文 (この条は続く)

[日達上人略解]

修一円因、感一円果とは、修因感果の理を云うのであって、本因妙を修して本果妙に至るのを云う。釈尊一代五十年の説教は権実と本迹の二た通りに分つことが出来るのであります。権実というのは法華経已前の教は仏の方便の教であり、法華経は仏の真実であります。

つまり釈尊一代の説法を聴聞する人々について、法華経已前においては釈尊は仏の方便をもって説かれた教でありますから、それを受ける人々も方便を受けるのであって、ついで法華経を説いて仏の真実を説かれたのでありますから、人々も真実の教を受けたのであります。

ゆえに妙楽大師の解釈に権実約智約数と説いております。権実を云うことは、智と教について論ずることができます。智について論ずるとは、方便を説く妙智と真実を説く妙智であります。教について論ずるとは、蔵通別の三教を方便教として説き、円教を真実教として説いております。

よって法華経已前の人々は蔵通別の三方便教を受けているのであります。本迹については、身と位とについて論ずることが出来るのであります。身について論ずれば、仏身には因身と果身とがあります。よって本因妙の身は本とし、本果妙の身より余は迹とするのであります。(血脈抄に日蓮は本因妙を本と為し、余り九妙を迹と為すなり、とあり)そのわけは、釈尊は本因妙を修行して本果妙に至る。御自身の自行で成道したのでありますが、すでに熟脱が成道でありますから、断惑証理の覚の辺は迹とするのであります。

成道以後、人々を目がけて救済のため三世にわたって成道を説くのは、すべて垂迹の成道であります。すなわち迹の仏身であります。それ故に、華厳経の仏と云うも迹仏であります。今日釈尊の華厳、阿含、方等、般若、法華の五時の説法は、迹仏であり、法華経が文上に本門迹門と分けられるが、ともに迹仏の説法でありますから、本迹ともに迹となるのであります。今日釈尊の寿量品も、迹中の寿量品と云う事になります。(血脈抄に、本因妙を本とし今日寿量の脱益を迹とするなり、とあり)よって法華経について論ずれば、本門といっても迹門ということになります。すなわち文上の寿量品は迹門であるということになるのであります。


【116-02】さて本門は如何と云うに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以てそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熱の位分真究寛は脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかえるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐと訳して、脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是れなり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり、皆本門の益なり、仍って迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則ち法華経の本意減後末法の今の時なり。 (この条は続く)

[日達上人略解]

本門とは、ここでいう本門とは寿量品の文底下種の意であります。一文不通とは、文字も読むことのできない愚人のこと。少しも解了を用いないことであります。此の時とは、末法を指す。

地住己上とは、別教の初地、円教の初住已上の菩薩の階級。ともに凡位を除いて聖位に入る位であります。宗祖は「迹の本は本に非るなり」と血脈抄に釈せられておりますとおり、釈尊の寿量品は迹中の寿量であります。そこで本門寿量品の文底下種の心はどうかというと、五百塵点劫の当初の南無妙法蓮華経にあるのであります。それが下種の本種のことで、下種とは一文の解了(智を用ゆること)もない愚者の信を指し、ただ受持の一行にあるのであります。

それは南無妙法蓮華経を信ずるところが種となるので、われわれ凡夫の心田に始めて南無妙法蓮華経の種を下すのが本門というのであります。宗祖は「久遠下種の妙法は本」と釈せられております。この南無妙法蓮華経に智慧、解了を加える時にはすでに釈となるのであります。それゆえ、種、熟、肌の三益をそれぞれ天台の六即の位に当てはめる時は、名字即の位は種、観行即、相似即の位は熟、分真即、究寛即の位は脱(注、理即は、仏性を理としてだれでも具している、というだけであるから、これは除く。日有上人は「理即は但だ種子の本法にて指し置きたるなり」と釈せられております)

種から熟となり、そして脱(得税)すれば、名字初心の一文の解了もない凡位の信の種位に返るのであります。妙楽大師は「脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ」と釈して、すなわち成仏は別教の初地已上、円教の初住已上に許さるるけれども、結局は久遠下種にもどると説かれているのであります。

末法においては、釈尊一代の説法は寿量品文底の南無妙法蓮華経だけが利益があるので、その外の文上の寿量品ないし二十八品はことごとく迹であって利益なく、ただ文底下種の利益だけてあります。よって末法は迹門無得道の法門と云うことが出来るのであります。

日寛上人は「末法は順逆倶に下種益なり」と撰時抄文段に釈せられております。これで法華経の本意は滅後末法の今の時にあるということがわかります。観心本尊抄に「末法の始めを以て正が中の正と為す」と説かれるがごときであります。


【116-03】されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為なるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、嘱累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故は住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり、是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字なりと遊す是なり云云。

[日達上人略解]

地涌千界とは涌出品に説く、大地から涌き出でた、たくさんの菩薩をいう。住本顕本とは本門開顕の十重顕本の第五、日有上人は就仏本意の理と釈せられております。仏の本意につき本を顕わすことであります。

(注、本文はちょっと読むと、日有上人が八品に組しているかの様に曲解されやすいが、熟読すると八品との間に厳然たる一線があるのが知れるのであります)

されば、宗祖日蓮大聖人が御書に本門八品(注、在世の種は八品)と題目の五字(注、滅後末法の種は本因妙の題目)と同じく種とせられております。そのわけは、涌出品の時に大地より涌出したたくさんの菩薩は、上行を上首として神力品において南無妙法蓮華経の付属を受けて、末法の今の時、その題目を下種して、われわれを利益するためでありますから、地涌の菩薩がいる期間は、在世においても滅後を表わすことともなります。

それ故、涌出品、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品、法師功徳品、不軽品、神力品、嘱累品、の八品の間中、地涌の菩薩が出現しておりますから、この時は在世の本門正宗の寿量品(文上の寿量品)も、滅後の寿量品(文底の南無妙法蓮華経)と同じ形式となるのであります。本門八品は、仏の本意につき本を顕わすところの種の方となり、文上の本門の一品二半は脱の方となるのであります。

一品二半とは涌出品の半品と寿量品と分別功徳品の半品を合して、一品二半というのであります。すなわち、文上の迹中の本門正宗であって、この種、脱は、在世の人々のために必要であるのであります。滅後末法の人々のためには本因下種の南無妙法蓮華経であります。血脈抄に「応仏と天台とは正宗一品二半を本門と定む、報身と日蓮とは流通を本と定む」と、また「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、その教主は某なり」等の御文思い合わすべきであリます。観心本尊抄に「彼は脱、是れは種、彼は一品二半、此れは但題目の五字なり」と宗祖が御書判せられたとおりに、釈尊と宗祖とは種脱の異が明らかであります。

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from: 21世紀さん

2011年08月08日 10時13分36秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【112】一、世間病なんどの有る檀方の方へ御仏の御使に行きて帰りたる時は、水をあびて本堂へ参りて其の後上人の御前へ参りて後に小児などのそばへも行くなり。

[日達上人略解]

世間病なんどとは一般の流行病などの意。御仏の御使とは、法要に行くを指す。小児は、稚児あるいは小僧を指す。

流行病などに罹っている檀信徒の家に法要に行って、帰って来た時は、まず全身に水を浴び、不浄のものを流し(消毒の心もち)そして本堂へ参り礼拝して、住職(本山ならば法主上人)の所へ参って報告しその後に初めて小僧達のいる所へ行きなさい。

(注、医学の進歩してない、その昔に、自ずから病気を伝染せしめない心掛けを教えているので、小児等は病気に罹り易いから、病家から直接に小児の所に行かず、身体を水で消毒し、しかも相当の時間を経て、小児のそばに行くように誡められているのである)


【113】一、法華宗は人の死去円寂の所をばいまず、只今茶毘のにわより来る禁忌の人なれども一向に忌まざるなり、只産屋月水等をば堅く是れをいむなり云云。

[日達上人略解]

円寂とは、僧の死んだことを円寂という。死去も円寂も同義。本宗においては、人が死んだ所とて別にいみきらうことはしません。また、今火葬場から帰って来た喪に服すべき人々に対しても、決していみきらいません。(注、一般他宗の人々は、この場合、縁起が悪いなどと忌みます。また、特に神道ではやかましくいいます)ただし、産屋や月水等は、堅く忌みておるべきであります。


【114】一、法華宗の御堂なんどをぱ日本様に作るべし、唐様には作るべからず、坊なんども結構ならんは、中門寄なんどをもすべし云云。

[日達上人略解]

本宗の本堂などは、日本様式に建てなさい。中国式のごとく敷瓦をした形式(禅宗の本堂は此の式である)にしてはいけません。僧坊の方も立派に建てるならば中門を作り、あるいは車寄のような張り出した玄関を作ってもよろしい。

(注、日本式とは、一般世間に見られるあの本堂作りであります。しかし今日は西洋建築が盛んに取り入れられて来ているから、御本尊の尊厳を損せずみんな一様に参拝できるように建立すべきです)

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from: 21世紀さん

2011年08月07日 09時13分56秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【109】一、非情は有情に随う故に他宗他門の法華経をば正法の人には之を読ますべからず、謗法の経なる故に、但し稽古のため又は文字を見ん為などには之を読むべし子細あるべからず、現世後世の為に仏法の方にては之を読むべからず云々。

[日達上人略解]

非情とは、情けのない物体。すなわち国土木石等のこと。有情とは、情けをそなえた衆生。広く生物一般をいう。現世後世の為とは法華経の現世安穏後生善処の意。

物体は人に随う(物には所有する人の情が移る)のであるから、他宗の人の書写した法華経を、本宗の僧や信徒は読んではいけません。その法華経の本は謗法の経本でありますから。但しお経を暗記したり、文字が達筆だからそれを見る等のためならば、使用して差し支えありません。信心の上から、御本尊に向かって現世安穏後生善処を願う勤行に、これを使用して読んではいけません。


【110】一、袈裟衣等惣じて仏具道具等の事。一向他宗に借すべからず、又他宗の仏具道具等をも法華経の法会に借るべからず、既に非情は有情に随うが故に謗法の有情の道具は自ら謗法の道具なり、但し世事の志にて謗法の道具を正法の方へ取り切り乃至料足などにてかい切って正法の方に成しては子細あるべからず云々。


[日達上人略解]

仏具道具とは葬祭法要に使用する五具足曲勒等の類。料足は使用料、料金である。

袈裟、衣等その他一般の葬祭法要に使用する仏具や道具類については、決して他宗の葬祭法要に貸してはいけません。また、他宗の仏具道具類も、当字葬祭法要に借りてはいけません。前条に述べたごとく、物は所有する人の心が反映しておりますから。謗法の人の所有する道具は、正しく謗法の道具であります。但し交際上のことで謗法の道具であっても当方へ買い取るか、あるいは使用料を借り取って、一応、当方のものとして使用するのは差支えありません。


【111】一、仏聖人の御使に檀方門徒へ行きて仁義にても引出物を得、布施などをも得たる時は本寺の住持の前にて披露するなり、其のまま我が所には置くべからず云云。

[日達上人略解]

寺の公の御使として、檀信徒の家に行った時、世間普通の礼儀として品物を引出物として頂戴し、あるいは御供養を頂戴した時は、寺に帰って必ず住職(本山は法主上人)におみせして、その指揮に従うのであります。勝手に無断で着服してはいけません。

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from: 21世紀さん

2011年08月06日 07時50分04秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【106】一、謗法の人、子を法華宗に成して彼の子の供養と号して法華経を供養する事有り、子が能開と成る上は子細なく之れを納むべし云云。

[日達上人略解]

他宗謗法の人が、自分の子を本宗に帰依せしめてその子の名に於て本宗の御本尊様に御供養をすることがありますが、この場合は、その子が施主になるのですから差支えないので、受納してよろしい。


【107】一、所にて仏事作善を広大になす時、其の所の謗法の地頭などの方へ、酒の初ほを進らする事一向世事仁義なり、又其所などに他宗他門の仏事、法会を成す時、其所の然るべき法華宗なんどの所へ酒の初ほをつかわす事有り是は世事の仁義なり、受け取る人も世事仁義と心得、請取る可きなり云云。

[日達上人略解]

初ほは、初穂で、その年の始めて実った稲の穂のことで、神社仏閣、朝廷等総じて上へ奉るのが慣例である。それ故、すべてのもの、あるいは珍らしい物等を初穂と称したのである。ある所(場所)で、仏事法要を盛大に施行する時に、その土地の領主、あるいは知名の職の人、などに、お酒を初穂として贈ることは世間的の交際でありますから、差支えありません。また他宗の人が仏事法要をなす時、その土地の相当なる地位にある本宗の信者の所へ、お酒を初穂として届けることがありますが、これも世間的の交際だから、一般世間的の交際と心得て、受納して差支えないのであります。


【108】一、法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧ぐる事有り之れを制すべからず、既に順縁なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云云。

[日達上人略解]

散供とは米を散じ上げること。賽銭は後世のことで、古代は米を散じ上げた。この米は鳥や鼠等の食となる。花は古代は専ら樒である。本宗の本堂へ他宗の人々が参詣して、散供米や樒を上げることがありますが、それを拒否してはいけません。これがその人々に取って順縁となるのでありますから。

しかし供養物の多少にかかわらず、住職に向って御本尊様に供養して下さいと申し出たならば、決して受け次いではいけません。その施物は謗法の供養物ですから、もし受けると与同罪の人となります。

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from: 21世紀さん

2011年08月05日 13時09分20秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
103】一、師匠の法理の一分を分かちたる弟子が正法に帰する時は謗法の師匠の正法を信ずる姿なるが故に弟子の望に依って謗法の師匠を訪うべきなり云云。

[日達上人略解]

法理とは仏法教理のこと。他宗の師匠から仏法教理を伝授された弟子が、本宗に帰依する時は、謗法であったその師匠が本宗を信ずると同様でありますから、その謗法であった師匠を弔って上げるべきであります。


【104】一、親師匠は正法の人なれども、其の子、其の弟子謗法たらば彼の弟子、子に同じては訪うべからず、但し謗法の弟子、子はイロハずして正法の方へ任さば彼の亡者を訪うべし、但し孝子なくんぱ取骨までは其の家にて訪うべし、其の親の姿が残りたる故に、其の後は謗法の弟子、子の供養受くべからず云云。

[日達上人略解]

イロハずとは、いじらないこと、すなわち、関係しないこと。孝子とは、本宗の信心を継ぐ子のこと。たとえ親や師匠が本宗の人であっても、もし、その子や弟子が謗法の人であるならば、その謗法の子や弟子に同心して本宗であった親や師匠を弔ってはいけません。

但し、その謗法の子や弟子が関係しないで本宗の人々に任せきりならば、亡くなった親や師匠を弔いなさい。但し本宗の信心を相続する子がなければ、親が本宗を信心して余薫があるから葬式をなし、火葬したならば、骨上げまでは弔って上げなさい。それ以後は、謗法の子や弟子の意志が入るから、謗法の人の供養を受けてはいけません。


【105】一、師範の時、世間の義に依って所領等を知行あらば、其の跡を続く弟子縦い他人たりとも、真俗の跡を続くに子細有るべからず、謗法の所領を領するには成るべからず、其の地頭のそ子の分に当るなり云云。

[日達上人略解]

師匠が生前に一般世間の規定に従って所有しておったならば、その師匠が死んで、その跡を継ぐ弟子が、たとえ血縁関係のない他人であっても、師匠の領地を継いで領有して差支えありません。弟子が師匠の寺の法統を継ぎ、また、合せて世間的な師匠の領地を継いで、差支えないのであります。謗法領地を領有したということにはなりません。あたかも地頭が死んだ時、嫡子なく庶子(父が認知した子供)が跡を継ぐと同じ意味であります。

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from: 21世紀さん

2011年08月04日 22時31分40秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
100】一、他宗の仏事善根の座へ法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時点心を備うには食すべきなり、既に請せず。又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法華宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家の請せず、又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには、有りあえたる時、点心を備うるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。

[日達上人略解]

点心とは茶菓子、餅を供応すること、時には簡単なる辨当等を供するともいう。

ロサイは六斎念仏のなまった語らしく考えられます。ここでは法要の逮夜の念仏講あるいは題目講の意であります。他宗の人が、その家で法事を行なっている時、当宗の僧(信徒でも)が、それとは知らずに用事があって行った時、法事だからといってお茶や菓子等を出した場合には、特別に招待されたのでもなくまた念仏講などにも出席したわけでもないので、普通世間の客人として、茶菓子等を用意して、もてなすべき客人でありますから、それを出すので、食べてよいのです。

食べることは世間態のことであります。それ故、もし、その席に他宗の僧がおっても一緒にお経を読むわけでもなくまた、お布施を受けるわけでもありません。同様に、当家の人の法事の席へ禅宗や念仏宗等の僧が招待したわけでもなく、また題目講に出るためでもなく普通世間の用事で、ひょっと来たならば、有り合わせの茶菓子等を出すべきであります。このことは人を供養したことにはなりません。世間的の交際にすぎないのであります。


【101】一、法華宗の仏事作善に縁者親類の中に合力の子細之れ有り、是れは法華宗の人を能開とする故に世事を於いて他宗の合力有りとも世事は自他宗同時なり、法華宗能開と成れば所開の世事は自他同時なるが故に子細なきか云云。

[日達上人略解]

合力とは金品を出し合って援助すること。能開とは、よく開会する方、ここでは施主を指す。よって所開は開会された方、受ける方。

当家の人が法事をなし、その席で親戚や縁者の中に金品を必要の人があってこの法事を機会に、その人を助けるために、金品を出し合っても(世間の無尽のごときもこれに入る)これは当宗の信者が施主となるので、たとえ他宗の人がまざっておって金品を出しても、金品のやり取りは信仰に関係ない世間的の交際でありますからお互いのことでやり取りしても、差支えありません。
(注、但し、謗法の寺や神社へ参詣するための頼母子講などの援助は、大謗法であります。


【102】一、他宗の親を其の子法華経を持ち申すべく候、訪って給わる可き由申さば訪うべし、子とは親の姿の残りたる義の故に子が持つは親の法華経を持つ全躰なり云云。


[日達上人略解]

他宗であった親が亡くなってその子が本宗に帰依して南無妙法蓮華経を信心しますから、親を弔って下さいと申し出たならば弔って上げなさい。それは、子は親の分身でありますから、子が南無妙法蓮華経と信心することは親が信心すると同じ義になりますから。

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from: 21世紀さん

2011年08月03日 16時40分17秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【097】一、他宗の親、師匠の仏事を其の子、其の弟子、信者にて成さば子細有るべからず。

[日達上人略解]

親や師匠が他宗であっても、その子やその弟子が本宗の信徒であるならば追善法要をなしてやって差支えないのであります。


【098】一、末寺の事は我が建立なるが故に付弟を我と定めて此の由を本寺へ披露せらるる計りなり云云。

[日達上人略解]

末寺の内で、自分が建立した寺は、後住は自分で定めて、本山へ届け出れば、それでよろしいのであります。


【099】一、日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり、内には本尊を懸けらる。是れは本門寺の朽木書と云々、今の義にあらず、天下一同に法華経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云、大隅の八幡宮の石の文に昔は霊山に在りて法華経を説き、今は王宮の中に有りて大菩薩と現すと八幡の御自筆有り、釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云、所詮朽木書きとは手本と云う意なり。

[日達上人略解]

朽木書きとは絵画の下書のこと、手本の意。二祖日興上人の時に重須(北山)に八幡の社(垂迹堂、今はなし)を建て、その中に本尊を懸けられたのであります。これは将来本門寺を建立した時の手本という意で現在の意義をもっているのではありません。広宣流布の暁には当家の守護神は八幡であると云う意であります。

(第七十六条の意を一層明確にせられている)大隅国の八幡の石文に、「昔は霊山に在りて法華経を説き今は王宮の中に有て大菩薩と現ず」と八幡の御自筆があります。(注、宗祖の時代にはあったと御書に在り)そのわけは、八幡は釈迦仏の垂迹でありますからつまる所、朽木書きとは手本と云う意であります。

(注、本門寺とは将来広宣流布した時に、本門寺と命名するのであって現在の北山の本門寺は、その意味の寺名でなく日興上滅後になって公称したにすぎないのであります)

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from: 21世紀さん

2011年08月03日 09時17分41秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【094】一、法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持破をも云わず、又有智無智をも云わず、信志無二なる時は即身成仏なり、只し出家の本意なるが故に何にも持戒清浄ならん事は然るべし、但し破戒無智にして己上すべからず云云。

[日達上人略解]

己上すべからずとは、階級の上の位置にあってはいけないの意。本宗は大乗の宗旨であって宗祖所顕の御本尊に向って南無妙法蓮華経と余念なく信心して即身成仏するのでありますから、別に戒律を持っているとか持っておらないとか、或は智慧のあるとか無いとかは論じません。

身口意三業に南無妙法蓮華経と信ずる所に即身成仏があるのであります。但し出家修行の僧としては持戒清浄であることが本意でありますから、できるだけそうありたいものです。もし、破戒無智の身であるならば、上位に在ることは遠慮すべきであります。
(注、涅槃経に「戒に緩なるを緩となさず、乗に緩なるを緩となす」とあるが如く戒の持破は論ぜず、ただ信力によって成仏するのであります)


【095】一、法華宗は他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり、其の故はかたきの太刀、刀をばとぎて出すべきか、敵のようがいをこしらえて無用なるが如し、仍て他宗の仏事の合力を為すべからず云云。但し、公事なんどの義は別の子細なり云云。

[日達上人略解]

合力とは援助のこと。公事とは、政府が公に営む仕事に対しての割当のこと。本宗は他宗の法要には援助しない方が功徳があるのであります。なぜならば、敵に対して敵の刀を研いで渡すことはいらないし、敵軍の要害を作ってやる事などはすべきでありません。それ故、他宗の法要の援助をすべきではありません。ただし、公の仕事に対しての割当には応じなけれぱなリません。


【096】一、他宗の親兄弟の中に病災等に付いて祈祷を成すべき子細あらば我が信ずる正法の法華宗の出家を以って、我が所にて祈祷せば尤も仰せに随うべし、既に兄弟が正法の檀那なるが故に彼の仰せに子細なしと云云。

[日達上人略解]

本宗の信徒が、自分の親や兄弟が他宗であって病気や災難にかかリ祈祷してもらうことになって、自分の信ずる正法の本宗の僧を自分の家に招待して祈祷して頂きたいと申し出たならば、その望みに応じなさい。もともとその人は本宗の信徒でありますから、その人の申し出に応じて差支えがないのであります。

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from: 21世紀さん

2011年08月02日 22時02分21秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【091】一、本寺へ登山の諸国門徒僧衆は三日の間は仏の客人たる間賞翫之れ有り云云。

[日達上人略解]

賞翫とはここでは大切にもてなすこと。本山へ登山参拝の地方の信徒、並びに僧たちは、三日問は大聖人へお詣りの客として大切にもてなしなさい。
(注、今日では僧が本山の大坊へ在勤の時に限り、この習慣があるが、一般の参拝には、交通の便利になった現在は行われない。もっとも大正四、五年ごろまで、この習慣があった)


【092】一、釈迦の末法なる故に在世正像の摂受の行は爾るべからず、一向折伏の行なるべし、世、嶮なるが故なり云云。仍て刀杖を帯するなり、之れを難ずべからず云云。

[日達上人略解]

現在は釈尊仏法の末法でありますから釈尊在世や滅後の正法像法時代の法華経の摂受の行ではだめで、ただ一途に法華折伏の行でなければなりません。すなわち世の中は末世濁悪、謗法深重の時代であるからであります。剣を身に持っても差支えありません。

(注、日有上人の時代は足利時代で戦乱絶えず、身命の危険があったからで現在は刀剣等は持つことは出来ませんが、本山での大儀式における法主上人の出仕の列には太刀を太刀持ちに持たす慣例として遺っている)


【093】一、法華宗は折伏修行の時なる故に、断酒、定斎、夏に入るなんどといい、又断食なんどと、云う事有るべからず云云。

[日達上人略解]

定斎とは、日を定めて戒律を堅く守り精進すること、本宗においては現在は折伏修行の時でありますから、禁酒とか、精進日とか、安居に入って学問の期間だとか、断食するとかの消極的摂受の行ではだめで、どこまでも身体を健康に保って積極的折伏の行でなくてはなりません。

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from: 21世紀さん

2011年08月01日 07時39分50秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【088】一、縦い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主が無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろうぺし云云。

[日達上人略解]

孝子とは法統相続する子供をいう。取骨とは、火葬して骨上げのこと。本宗の信徒が死亡して、その後継ぎ、法統を相続する子供がなく、後の人が謗法なれば、葬儀をなし骨上げまでは本宗でしてその後は法要の依頼に応じてはいけません。後の人に謗法の執情があるから。


【089】一、法華宗の法師は他宗他門の人に交わる時は我が人体の分程と振舞ふべし、解怠すべからず、又卑劣すべからず、俗姓程になるべし、我が法華宗の中にては貴賎上下を云わず仏法の信者なるが故に卑劣すべからず云云。但し檀那に依り不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。

[日達上人略解]

懈怠は失礼の義、俗姓程なりとは出生の身分の程に行うの意。本宗の僧が何かの理由で、他宗の人と交際する時は、自分の身分相応に振舞うべきで、余り失礼になってもいけないし、また卑屈になってもいけません。

身分相応とは出生の身分の程に従えば良いのです。しかし、本宗内においては、同じく正宗の信者でありますから、貴賎上下を論じないので身分が低い出生でも、決して卑屈になってはいけません。そして下賎の出生であっても信徒の上座にいる場合もあります。

(注、日興上人の遺戒置文に「若輩たりといえども高位の檀那より末座に置くべからざる事」とあり、時代によって幾分緩和しておるものであります)


【090】一、本寺に於て小師を持ちたる僧をば小師に届けて仏の使なんどにも、檀方へも遣わし其の外の行体をも仰せ付けらるるなり云云。

[日達上人略解]

末寺の弟子が本山に在勤した場合、本山では、その師匠の方に届けて置いて、本山の公の使いとして檀方へ遣わしたり、その他、修行のための諸役にも任命されます。

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from: 21世紀さん

2011年08月01日 07時37分20秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【085】一、親類縁者一向に一人も無き他宗他門の僧俗近所に於て自然と死去の事有らば念比に訪ろうべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり、若し一人も縁者有って見次がば自ら其の所に謗法の執情を次ぐ故に然るべからず云云。

[日達上人略解]

念比とは懇の意。見次ぐとは亡き後を継ぐこと。親類も縁者もない独り者で、それが他宗で僧俗に関わらず近所に住んでおって、自然に(老衰などで)死亡したならばこちらから行って懇ろに弔い回向してやりなさい。死人には後に謗法の執情が残らないからであります。

しかし、もし一人でも縁者があって死人の後を継くならば、その縁者の謗法がありますから、行って回向してはいけません。


【086】一、他宗他門等の人死せば知人ならば訪ふべし、但し他宗他門の本尊神座に向って題目を唱へ経を読まず、死去の亡者に向って之を読むべし、惣じて法界の衆生の死去の由を、聞き受けて之れを訪ろうべし云云。

[日達上人略解]

他宗の人が死亡した時、もしその人が知人であるならば弔うべきであります。但し他宗謗法の本尊や位牌に向って、読経唱題してはいけません、直接に死んだ人に向って読経唱題するのであります。惣じて世の中の人々が死んだと聞いたならぱ一往は弔うべきであるとの慈悲の心構えは持つべきであります。


【087】継い禅、念仏の寺、道場の内なりとも法華宗の檀那施主等が之れ有らば仏事を受くべきなり云云。

[日達上人略解]

本宗の信徒が他宗の寺を借りて、葬儀、法要を行うことがあれば、行って葬儀や法要を執行すべきであります。ただしその場合は本宗の本尊を掛けて行うのであります。

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from: 21世紀さん

2011年07月31日 08時36分41秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【082】一、茶湯有るべからず、唐土の法なるが故に霊供の時も後に酒を供すべし云云、此の世界の風俗は酒を以て志を顕わす故に仏法の志をも酒を以て顕わすべしと云う意なり云云。

[日達上人略解]

茶湯とは抹茶煎茶のこと。この世界とは、ここでは日本のこと。仏様に抹茶や煎茶を供えてはいけません。中国の儀式でありますから。

(注、禅宗に於ては中国式そのままであるからお茶を仏前に供える)たとえば、御霊膳を備えた時も、御飯のお給仕の後に酒を献ずるのであります。日本の風俗習慣として、酒を出して喜怒哀楽の志を顕わしますので、我が宗に於ても、供養の志を以て顕わすのです。


【083】一、俗の亡者乃至出家たりとも余の常の出家の霊供の飯をば出家に与ふべからず、俗の亡者は位い出家に劣なるが故なり、高祖已来代々の御霊供を給わらん事は子細に能わず云云。

[日達上人略解]

余の常の出家とは世の普通の僧との義。普通信徒の亡者の霊膳に使用した御飯或は余の普通の僧の亡者の霊膳に使用した御飯を僧に食べさせてはいけません。信徒の亡者は僧の位よりも下ですから、しかし、大聖人より歴代の法主上人の御霊膳に使用したものは僧に食べさして差支えありません。


【084】一、門徒の僧俗の謗法を見隠し、聞き隠すべからず、与同罪遁れ難き故なり内々教訓して用いずんぱ師範に披露をすべきなり云云。

[日達上人略解]

本条は第五十七条と全く同義である。宗内の僧や信徒の内で同輩の謗法を見ながら、これを隠したり、また人から聞いても、これを隠しておくことは与同罪となるでありますから。そういう場合は本人に内々誠告し、もし聞き入れなければ本人の師匠に申し告げるべきであります。

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from: 21世紀さん

2011年07月30日 19時38分06秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【079】一、日蓮聖人の御書を披見申す事、他門徒などの御書をも書写しこい取りつつなどして見るべからず、本寺の免許を蒙るべし、其の故は当家は信の上の智解なるが故なり云云。

[日達上人略解]

宗祖大聖人の御書を拝見するに当って、当時は今日のように一般に出版されていないので、主として書写本であるから御書を拝見することは、なかなか困難であリました。それ故、他宗においては、その宗のために偽書などもあり、また書写の誤りもあったのであります。

そこで本宗の人が御書を拝見するに、他門徒の御書を書写したり、または買い取ってはいけないと、誡められたのであります。どうしても、それを見たく、また買い取り度い時は、本山の許可を得なさいと云うのであります。そのわけは、本宗は前の第三十六条にも有る通り信を根本として、その上の智解をもつ宗旨でありますから。
(注、宗祖大聖人の御書の最初の編纂者は、第二祖日興上人であることを忘れてはいけません)


【080】一、田舎より児(ちご)にて登山して本寺に出家するは、本寺のをいたちに同ずるなり、田舎にて児なれども田舎にて出家すれば爾るべからざるなり云云。

[日達上人略解]

児は稚児にて、本山において剃髪得度する以前に、当分、俗の童児のまま修学している時代をいう。(注、大聖人は十二歳にて得度、故に本宗では以前は十二歳でなければ得度できない規定であった。昭和十六年ごろより七歳にて得度を許可する規定としたが現在では十二歳にて得度することになっています)

をいたちとは生れ育つことであるがここでは稚児であったことをいう。地方の末寺で稚児であった者が、本山へ登山して法主上人の弟子として出家得度する時は、本山において稚児であって得度した者と同等に取り扱われます。末寺で稚児であって、そのまま、その寺で得度した者は、位階昇進その他の取り扱いにおいて幾分の違いがあるのであります。


【081】一、霊供を備うるには、仏供二つ、日蓮聖人より代々の御霊供を備えて今日の亡者の霊供に備うるなり、皆大儀なれば日蓮聖人の御台計り備え申して、余の代々をば御さんば計り備え申して、さて其の日の亡者の霊供を備うべし代々上人の御台をしたてぬは略義なり云云、又亡者俗人なんどならば其の霊供をば少し下く備うべし云云。

[日達上人略解]

仏供とは御本尊に備えるもので、ここでは黄銅器(常には金茶碗と呼ぶ)で御飯を備える。その黄銅器を二個供える故に仏供二つと云う。大儀とはここで骨折りとか煩雑の義。さんばとは、一つの金碗に御飯とお菜を一所に入れること。

大聖人並びに二祖三祖と御講の時、その他歴代の御命日や信徒の法要等にて御霊膳を献ずる時には、まず御本尊様に仏供を備え左に宗祖大聖人右に二祖日興上人、その次に日目上人の御霊膳を備え、続いて歴代の御霊膳を備え、そして回向すべき亡者の霊膳を備えるのでありますが、余り煩雑になりますから、大聖人よリ三祖までの御霊膳を備え、あとの歴代は散飯ばかり備え申し、そして当の亡者の霊膳を備えてよろしいのです。歴代の御霊膳を備えないのは略義であります。

(注、信徒の家においては、仏供と大聖人の御霊膳と当の亡者の霊膳だけでよろしい)また、亡者が俗人の場合ならば、その霊膳は一段下げて備うべきであります。

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from: 21世紀さん

2011年07月30日 00時58分31秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【076】一、謗法の人の所に勧請の神社に垂迹有るべからず、と云う義は爾なり、我が正法の人として正法に神社を修造せん事は如何と云云。是れは道理然かなれども、惣じて、此の国は国王将軍謗法の人にて在す故に、謗法の国には垂迹の義有るべからず、という法門の大綱なるが故に小社などを建立しては法門の大綱混乱する故に謗法ならん間は神社を必ず建立なきなり、此の国正法の国ともならば垂迹を勧請して法華宗参詣せんに子細有るべからず云云。

[日達上人略解]

謗法の人の建立した神社に神を勧請しても、善神は仏の垂迹として下天して来ることはありません、ということは、その通りであります。しかし私ども正法の人として正法の神社を建立して、善神を勧請した時は、如何でしょうか?。

そのことは仰せの通りでありますが、概して、我が国は為政者である国王も将軍(この時代は足利将軍)も謗法の人でありますから、その人によって治められる国は謗法の国であります。謗法の国には善神が天下に住せられると云うことはありません、ということが本宗の法門の建て前でありますから、本宗で、たとい小さな社でも建立するということは宗旨の大綱を乱すことになります。

よって、現今のように国土が謗法である間は、神社は建立いたしません。もし広宣流布して、我が国が天下万民一同に妙法蓮華経を唱える時となれば神社を建て勧請すれば、本仏の垂迹である善神来往する故に、初めてその社に参詣して、さしつかえありません。
(注、この神社参詣は広宣流布にことよせて許してあるが、どこまでも謗法厳誡の趣旨を徹底しなけれぱならないのであります)


【077】一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云々。

[日達上人略解]

本山を遠く離れた末寺においては、新しい弟子や信徒は、なかなかお守りの本尊を受けられないので、その末寺の住職がかりに守りを書写して渡してよろしい。しかし書き判はしてはいけません書き判は本山法主上人のなされるだけであります。
(注、当時は交通が不便であり、戦乱相次ぐ時代である故、日有上人が一時的に末寺住職に許されたことで、形木の意であります。書き判がないから決定的でないことを表わしている。現今は絶対に許されないことであります。)

【078】一、曼陀羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるる事も之有り、希なる義なリ云云。

[日達上人略解]

常住本尊も、かりに末寺住職が書写して自分の弟子や信徒に与えてよろしいが書き判は絶対になしてはいけません。常住本尊は本山の法主上人が、本宗の宗規に背かず信心強盛の僧や信徒にかぎり特に書き判をして授与しますが、やたらにはありません。
(注、現在は、常住本尊も守り本尊も信心強盛なる僧や、信徒に、法主上人より下附になるので一般は御形木本尊で信心修行するのであります)

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from: 21世紀さん

2011年07月29日 15時54分32秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【073】一、法華宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵、観音、弥陀、薬師等の諸仏菩薩を各拝する時は信があまたになりて法華経の信が取られざる故に諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて、妙法蓮華経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせらるるなり信を一法に取リ定る時は諸仏所師所以法也と訳して、妙法蓮華経は諸仏如来の師匠なる故に受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶うなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏必然と説けり云云。

[日達上人略解]

本宗は師も弟子も法も行者も、愚鈍の者を標準として建立している宗門でありますから、地蔵菩薩、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師仏等の菩薩方や仏様方を拝むと、信心が数多になって、正しく法華経を信ずることが出来ません。法華経の信心は、不受余径一偈でなければなりませんから、それ故に、他の諸仏菩薩を信ずる事を堅く禁止し、ただ即身成仏は妙法蓮華経の他にないから、この妙法蓮華経を一心に信心せしめるのであります。

信を純一無雑にして妙法蓮華経を信ずる時は、諸仏の師とする所はいわゆる法也と涅槃経に説かれていますが、これを解釈すれば、妙法蓮華経は、仏様方の師匠となりますので、妙法蓮華経を余念なく信愛する人は、自然と仏様方の心の内と一致するのであります。故に法華経の宝塔品第十一に、「此の経は持ち難し、若し暫くも持っ者は、我(釈迦仏)は即ち歓喜す、諸の仏も同様であります」と説かれてある通りであります。


【074】一、本寺直の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云う故に初従此仏菩薩結縁の道理爾らざる故なり云云。

[日達上人略解]

本山の直轄の寺において入信して、妙法蓮華経を受け持った僧や信徒は、その子孫になっても本山の直弟子、直檀となるのであって、その寺の本山法主上人の御代理人たる住職の自分の弟子や信徒ではありません。

その住職は初めから御代理といっているのですから、あたかも、天台大師の文句に訳せられる初此仏菩薩に従って結縁すの道理のごとく、最初本山の法主上人の結縁によって入信したのであるから、後々の子孫もまた、本山の法主によって導かれるのであります。


【075】一、他宗の神社に参詣し一礼もなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を、栖と思し召さん垂迹の、謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還って諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。

[日達上人略解]

他宗の神社とは、このころは寺と神社が一所に共立しておって、主として寺が神社を守護経営しておったが故に、このように申されたのであります。

勧請とは、神を分霊して祀ること。他宗謗法の神社に参詣して拝礼をなし、賽銭(散供とは当時は銭が僅少であったので米を散じて供えたので散供という)を献ずる時は、謗法の人の祀る行事に参与することになるから、謗法の人となります。

まして神は正直の頭を栖とすると八幡の御神託にあるごとく正しき垂迹の神は謗法の人の祀る神社に栖まれることはありません。謗法は神々の本意に背くから、天上に還られているのであります。但し、見物遊覧のため神社を見て廻っても、それを禁止する必要はありません。

(注、日興上人は、遺戒置文に「一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ずべけんや」と厳重に謗法の寺や、神社を見物することすら止められている。これは未だ宗派の草創時代であったから、他との異を明らかに一線をもって制したのであり、日有上人の時は、すでに一宗が確立したから、見物ぐらいで信徒の心がぐらつかなくなっているからであります)

しかし信心の心で詣って礼拝しては、謗法の人に同ずることになって与同罪をこうむるのであります。

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from: 21世紀さん

2011年07月28日 23時20分19秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【070】一、法華宗は何なる名筆たりとも、観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経なり、今の時の諸人は愚迷なるが故にあまた事を雙べては信心が取り難き故に只法華経計りに限りて本尊とするなり云云。

[日達上人略解]

十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊とは宗祖大聖人所顕十界互具正像末未曽有の大混茶羅のことであります。本宗の本尊については、すでに日興上人が門徒存知事において、本尊の事として、「聖人御立ての法門に於ては、絵像木像の仏菩薩を以て本尊となさず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊となすべし即ち自筆の本尊是なり」と明確に御示しになっております。

日有上人はこの意を弟子や信徒に再確認せしめておられるのであります。本宗においては、いかに有名な画家の書いた観音菩薩、妙音菩薩その他の種々の仏菩薩の絵図でも、決して本尊とはいたしません。只宗祖大聖人御所顕の十界互具の大曼陀羅を、本尊とするのであリます。

この御本尊は釈尊の法華経であります。今末法の人々は根性が愚迷でありますから、種々の仏菩薩をならべては、信が二つにも三つにもなって真の信が立たなくなります。故に釈尊の御心の法華経であり、末法には宗祖の御魂となる南無妙法蓮華経の大曼陀羅のみを本尊とするのであります。


【071】一、他宗初めて法華経を持つ時、御酒を持たせ酒直等を持参する時、未だ法華経を持たざる己前なるが故に世事にして仁義に用うるなり、仍って此の方よりも紙扇のさたあり云云。

[日達上人略解]

他宗の人が本宗へ入信する時、その記として、酒やあるいは酒肴料を持ってきた時は、その人はこれから信者になるので未だ信者でないから、その酒肴料は御供養にして受納するのではないので、世間的な義における速修(入門の時に修める礼物)のごとき贈物でありますから、当方からも半紙なり、あるいは扇子なりをお返しとすべきであります。


【072】一、他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木造並に神座其の外他宗の守なんどを法華堂に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事納まる姿なりり、総じて一生涯の間大小権実の仏法に於て成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云々。

[日達上人略解]

神座とは、位牌のこと。大小権実の仏法において成す所の所作とは、法華経に帰入する前に、爾前権教において積んだ善根のこと。他宗の人が本宗に帰入した時は、今まで礼拝所持しておった、他宗の絵像、木像、並びに位牌及守り、あるいはお札等は皆、本宗の寺に納めてしまいなさい。

その理由は、一切の諸法は法華経より出た(法華経を方便の為に分別して諸法を説いた教であります)のでありますから、また、本の妙法蓮華経の体内に諸仏が納まる有様を示しているのであります。又信者の面から申すと、これまで一生涯を通じて爾前の諸教に精進して積んで来た善根は、今、妙法蓮華経を信受することによって、皆妙法蓮華経の善根に開会されて初めて、真実の功徳となるのであります。妙法蓮華経に帰入せず爾前教だけの善根は、権の善根となって、何らの成仏の功徳とはなりません。

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from: 21世紀さん

2011年07月27日 12時58分30秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【067】一、事の即身成仏の法華宗を建立の時は信謗を堅く分ちて身口意の三業に少しも他宗に同ずべからず云云、身業謗法に同ぜざる姿は、法華宗の僧は、必ず十徳の上に五帖のけさをかくべきなり、是れ即ち誹謗法華の人に軈て法華宗と見えて結縁せしめん為なり、若し又十徳計りにて真俗の差異なき時は身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼の折伏を心中に油断すれば心業に同ずるなり云云。

本宗の即身成仏は、天台宗の理の即身成仏にたいして、名字聞法下種の事の即身成仏で、信を本とするのでありますから、僧にも、信徒にも、信を旨として謗法を厳誡しなくてはなりません。それ故、身口意の三業にわたって、少しでも他宗とまぎらわしいことがあってはなりません。

[日達上人略解]

身に謗法でない姿は、本宗の僧は必ず外出には十徳を着て、五条の袈裟を掛けるべきであります。このことは謗法の人々に、あれが富士門徒の僧かと気をつかしめて、やがて、それが、正宗への結縁とならしめるためであります。しかし、ただ十徳だけならば、他宗の僧のみならず俗人も着るから、信謗が明らかでないので、結局、謗法に同ずるということになります。

口に謗法でないことは、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と確乎と断言することで、少しでも油断すれば、口業が謗法に同ずるということになります。意に謗法でないことは、常に謗法を折伏する念慮を確乎と保つことで、もし心中に油断しておれば、意業が謗法に同ずるということになります。


【068】一、仏の行躰をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし本寺住持の前に於ては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振舞うなり、信は公物なるが故なり云云。

[日達上人略解]

我が取り立ての弟子とは、自分の子前からの、あるいは手塩にかけた弟子の意。公物とは、私有物でない公用の物の意。本仏の内証、南無妙法蓮華経を、身口意三業に相応する信を致す人には、たといその人の師匠であっても、その人を敬うべきであります。特に本山の法主上人の前では自分の弟子であっても、自分と同輩、同僚のような行動をすべきであります。それは信心の上からは、平等でありますから。


【069】一、法華宗の僧は天下の師範たるべき望み有るが故に、我が弟子門徒の中にて公家の振る舞いに身を持つなり、夫れとは盃を別にし、しきのさかなの躰にする事も有り、又はなげしの上下の如く敷居をへだてて座席を構うる事も有り、此くの如く振舞うは我が門徒にての心得なり、他宗他門に向って努努(ゆめゆめ)有るべからざる事なり云云。

[日達上人略解]

本宗の僧一時に法主を指す一は広宣流布の暁には、国主、宰相の師範となるので青ますから、自分の弟子や信徒
の中では公卿と同様な起居動作をなすのであります。
それには・例えば盃には隷を用い献酬せず、肴の配列も儀式の管にして、座席も敷居に長押をつけた一段と高
い座敷を造り、それに坐して弟子や信徒に面会することもあります。
一往・古い本宗の寺の本堂の左右のいずれかの側に、警長押を打つだ一段高い嚢が今でも見受けられます一
このような起居動作は・本宗内の僧俗の中にての心得事で膏ます。もし他宗他門の人が同席の時は、世間体の交
際にすぎないから、決してこのような儀式をしてはいけません。

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