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from: 21世紀さん

2011年07月10日 00時29分50秒

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:【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】

日有師化儀抄(日達上人略解)緒総本山大石寺には、山法山規という規則があって、われわれは、知らず知らず、その規範に律せられているのである。ところが、この

日有師化儀抄 (日達上人略解)



総本山大石寺には、山法山規という規則があって、われわれは、知らず知らず、その規範に律せられているのである。ところが、この山法山規は、不文律である。しかも、この山法山規は不文律でありながら、総本山には、今日まで、七百年来、厳然と行われているのだから、不思議である。

この山法山規も、そのもとは、二祖日興上人の遺戒置文二十六箇条と、日有上人の化儀抄百二十一箇条にあるのである。

遺戒置文には、
一箇条に於ても犯す者は、日興が末流に有るべからず。

化儀抄には、
この上意の趣を守り、行住坐臥に拝見有るべく候。
と、強く末弟を、誡められているのである。

その末弟を誠められた事がらを、末弟がよく心肝に染めて、伝えたのである。それが、いつか、山法山規という名になって、今日に伝えられたのである。

そして、この化儀抄は、日有上人が直接お書きになったものではなく、弟子の南条日住という人が常々お聞きしたことを書き留められたのを、日有上人の御入滅(文明十四年・1482年)の翌年、文明十五年これを浄書して、本山第十二代日鎮上人に御渡した書物である。

本山九代日有上人は、北は奥州から、西は京都まで教化せられ、説法折伏に暇がなかったごとくである。それ故、御真筆のものは、御本尊以外は余りないようである。しかし、常に説法せられたから、弟子たちが、上人の説法、談義の聞書をものせられて、今日に伝えられているものが、多いのである。

日有上人は、文明十四年九月二十九日、入滅の時は、七十四歳の高齢であったから第十代日乗上人と、第十一代日底上人は、すでに御遷化(文明四年・1472年)せられた後で、第十二代日鎮上人は、文明四年、十六歳で血脈相承をうけられているので、日有上人が御入滅の時は、ちょうど二十六歳であった。

そこで南条日住も老年で、すでに自分の死の近きを知り、かねてからの日有上人かに聞きおいたことを、年若き日鎮上人に法主貫首としての教訓として、書きつかわされたのである。

 本書は南条日住の正筆そのまま、本山の宝蔵に所蔵している。

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from: 21世紀さん

2011年08月09日 22時09分44秒

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「Re::【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】」
【115】一、薄袈裟にうづら衣はスワウハカマに対するなり、イクワンの時は法服なり椎を重ねたる衣に長編の袈裟は直垂に対するなり云云。

[日達上人略解]

本宗の薄地の袈裟と粗末な衣を著けた時は、侍の素抱袴(侍の礼服)に匹敵します。侍の衣冠束帯の礼式の時は、正式の袈裟衣でなくてはなりません。一重の着物を重ねた衣で堅くごわごわした袈裟を着けた時は、侍の直垂の姿にあたります。


【116-01】一、釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、権実とは法華己前は仏の権智、法華経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法華以前に仏の権智を示めさるれば機も権智を受くるなり。さて法華経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約数と訳して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは、蔵通別の三教は権教なり、円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約すなり、仏身に於て因果の身在す、故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身自行の成道なれども既に成道と云う故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より巳来機を目にかけて世々番々の成道を唱え在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云うも迹の成道なり、故に今日、華厳、阿含、方等、般若、法華の五時の法輪、法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹共に迹なり、今日の寿量品と云うも迹中の寿量なり、されば経に約すれば是れ本門なりと雖も文 (この条は続く)

[日達上人略解]

修一円因、感一円果とは、修因感果の理を云うのであって、本因妙を修して本果妙に至るのを云う。釈尊一代五十年の説教は権実と本迹の二た通りに分つことが出来るのであります。権実というのは法華経已前の教は仏の方便の教であり、法華経は仏の真実であります。

つまり釈尊一代の説法を聴聞する人々について、法華経已前においては釈尊は仏の方便をもって説かれた教でありますから、それを受ける人々も方便を受けるのであって、ついで法華経を説いて仏の真実を説かれたのでありますから、人々も真実の教を受けたのであります。

ゆえに妙楽大師の解釈に権実約智約数と説いております。権実を云うことは、智と教について論ずることができます。智について論ずるとは、方便を説く妙智と真実を説く妙智であります。教について論ずるとは、蔵通別の三教を方便教として説き、円教を真実教として説いております。

よって法華経已前の人々は蔵通別の三方便教を受けているのであります。本迹については、身と位とについて論ずることが出来るのであります。身について論ずれば、仏身には因身と果身とがあります。よって本因妙の身は本とし、本果妙の身より余は迹とするのであります。(血脈抄に日蓮は本因妙を本と為し、余り九妙を迹と為すなり、とあり)そのわけは、釈尊は本因妙を修行して本果妙に至る。御自身の自行で成道したのでありますが、すでに熟脱が成道でありますから、断惑証理の覚の辺は迹とするのであります。

成道以後、人々を目がけて救済のため三世にわたって成道を説くのは、すべて垂迹の成道であります。すなわち迹の仏身であります。それ故に、華厳経の仏と云うも迹仏であります。今日釈尊の華厳、阿含、方等、般若、法華の五時の説法は、迹仏であり、法華経が文上に本門迹門と分けられるが、ともに迹仏の説法でありますから、本迹ともに迹となるのであります。今日釈尊の寿量品も、迹中の寿量品と云う事になります。(血脈抄に、本因妙を本とし今日寿量の脱益を迹とするなり、とあり)よって法華経について論ずれば、本門といっても迹門ということになります。すなわち文上の寿量品は迹門であるということになるのであります。


【116-02】さて本門は如何と云うに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以てそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熱の位分真究寛は脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかえるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐと訳して、脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是れなり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり、皆本門の益なり、仍って迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則ち法華経の本意減後末法の今の時なり。 (この条は続く)

[日達上人略解]

本門とは、ここでいう本門とは寿量品の文底下種の意であります。一文不通とは、文字も読むことのできない愚人のこと。少しも解了を用いないことであります。此の時とは、末法を指す。

地住己上とは、別教の初地、円教の初住已上の菩薩の階級。ともに凡位を除いて聖位に入る位であります。宗祖は「迹の本は本に非るなり」と血脈抄に釈せられておりますとおり、釈尊の寿量品は迹中の寿量であります。そこで本門寿量品の文底下種の心はどうかというと、五百塵点劫の当初の南無妙法蓮華経にあるのであります。それが下種の本種のことで、下種とは一文の解了(智を用ゆること)もない愚者の信を指し、ただ受持の一行にあるのであります。

それは南無妙法蓮華経を信ずるところが種となるので、われわれ凡夫の心田に始めて南無妙法蓮華経の種を下すのが本門というのであります。宗祖は「久遠下種の妙法は本」と釈せられております。この南無妙法蓮華経に智慧、解了を加える時にはすでに釈となるのであります。それゆえ、種、熟、肌の三益をそれぞれ天台の六即の位に当てはめる時は、名字即の位は種、観行即、相似即の位は熟、分真即、究寛即の位は脱(注、理即は、仏性を理としてだれでも具している、というだけであるから、これは除く。日有上人は「理即は但だ種子の本法にて指し置きたるなり」と釈せられております)

種から熟となり、そして脱(得税)すれば、名字初心の一文の解了もない凡位の信の種位に返るのであります。妙楽大師は「脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ」と釈して、すなわち成仏は別教の初地已上、円教の初住已上に許さるるけれども、結局は久遠下種にもどると説かれているのであります。

末法においては、釈尊一代の説法は寿量品文底の南無妙法蓮華経だけが利益があるので、その外の文上の寿量品ないし二十八品はことごとく迹であって利益なく、ただ文底下種の利益だけてあります。よって末法は迹門無得道の法門と云うことが出来るのであります。

日寛上人は「末法は順逆倶に下種益なり」と撰時抄文段に釈せられております。これで法華経の本意は滅後末法の今の時にあるということがわかります。観心本尊抄に「末法の始めを以て正が中の正と為す」と説かれるがごときであります。


【116-03】されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為なるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、嘱累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故は住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり、是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字なりと遊す是なり云云。

[日達上人略解]

地涌千界とは涌出品に説く、大地から涌き出でた、たくさんの菩薩をいう。住本顕本とは本門開顕の十重顕本の第五、日有上人は就仏本意の理と釈せられております。仏の本意につき本を顕わすことであります。

(注、本文はちょっと読むと、日有上人が八品に組しているかの様に曲解されやすいが、熟読すると八品との間に厳然たる一線があるのが知れるのであります)

されば、宗祖日蓮大聖人が御書に本門八品(注、在世の種は八品)と題目の五字(注、滅後末法の種は本因妙の題目)と同じく種とせられております。そのわけは、涌出品の時に大地より涌出したたくさんの菩薩は、上行を上首として神力品において南無妙法蓮華経の付属を受けて、末法の今の時、その題目を下種して、われわれを利益するためでありますから、地涌の菩薩がいる期間は、在世においても滅後を表わすことともなります。

それ故、涌出品、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品、法師功徳品、不軽品、神力品、嘱累品、の八品の間中、地涌の菩薩が出現しておりますから、この時は在世の本門正宗の寿量品(文上の寿量品)も、滅後の寿量品(文底の南無妙法蓮華経)と同じ形式となるのであります。本門八品は、仏の本意につき本を顕わすところの種の方となり、文上の本門の一品二半は脱の方となるのであります。

一品二半とは涌出品の半品と寿量品と分別功徳品の半品を合して、一品二半というのであります。すなわち、文上の迹中の本門正宗であって、この種、脱は、在世の人々のために必要であるのであります。滅後末法の人々のためには本因下種の南無妙法蓮華経であります。血脈抄に「応仏と天台とは正宗一品二半を本門と定む、報身と日蓮とは流通を本と定む」と、また「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、その教主は某なり」等の御文思い合わすべきであリます。観心本尊抄に「彼は脱、是れは種、彼は一品二半、此れは但題目の五字なり」と宗祖が御書判せられたとおりに、釈尊と宗祖とは種脱の異が明らかであります。

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