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from: 22世紀さん
2011年09月06日 16時56分20秒
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人 投稿日:2011年 9月 6日(火)16時50分59秒 返信
一体不二、創価学会=公明党のジレンマ
公明党は多種多様なポストを備え、しかも各セクションごとに階級制度を確立して、その機構は完璧といって
いいほど整備されていたが、一面、その曖昧さも驚くばかりだった。
内藤国夫『公明党の素顔』によれば、公明党の最高決定機関は中央幹部会だったが、幹部会のメンバーを
当の中央幹部会員ばかりか、党副委員長・北条浩も知らず、また選挙が近つ゛くと、東京の各選挙区からの
立候補者のほぼ全員十名ほどに重みをつけるため、都連副幹事長の肩書をつけ、そのことを質すと、「少し
多すぎましたか」との答えが聞かれたほどだという。
この機構信仰は創価学会も同様で、昭和45年8月1日現在、戸田時代には5〜7名であった理事が1719名
驚異的に増え、そればかりか戸田時代にはなかった総務76名、副理事長186名、理事補262名まで任じられ
ていた。
これは池田の近代化政策と、組織の大きさを印象つ゛ける主要な方式であり、またポストを与えて会員の心を
つなぎ、多数を衆愚と化して池田の独裁を円滑に行う狙いをもつ愚民化政策であった。
なお暴露戦術にも政策の貧困の補填策の側面があった。公明党は、多数の組織された創価学会員が各
サービス業に耳と目を持つため情報に不足せず、また何より暴露はジャーナリズムを喜ばせて本格的な政策
論議以上に、公明党の宣伝に有効だったから、決算委員会政党といわれるまでにそれを頻発した。
公金の使途、官庁のミス、他党のスキャンダル、高級官僚の天下り、招待ゴルフなどのスッパ抜きが、一定の
社会清掃機能を持つことはいうまでもないが、その中には公明党議員の読み違いによる事実無根の暴露も
混在していた。答弁に立つ役人は、たとえ公明党議員の誤まった指摘と承知していても、彼らからの後難を
恐れ、陳謝するだけで反論しないケースがかなりあったという(内藤、前掲書参照)。
国立戒壇の建立を政治進出の大目的としたことは、また、公明党の機会主義、マキャべリズム、ヌエ的などと
評される、その政治行動の特徴を形成した。公明党にとっては、党勢の拡張と議席増だけが国立戒壇建立に
到達する最短路だったから、自党に有利とあれば、どのような陋劣な方策も辞さなかった。
同党は国会や各級地方議会で第三党のキャスティング・ボートを握ったうえで、彼らの議案に対する態度を
自民、社会両党に商った。創価学会=公明党は批判拒否体質といわれたが、批判拒否は外部のみならず、
内部においても池田からの批判を除けば同様だったため、その政治行動を下部からつき上げられる心配が
なく、気楽に行動を決定し、また変更した。
公明党は多く土壇場で自民党についたが、議案への賛否の理由は明確でなく、また明示もされなかった。
同党は、戸田の「政治は技術である」(戸田『巻頭言集』)という言葉を鵜呑みにして、そのジグザグ路線や権謀
術数を非難されても決して恥じず、むしろ国立戒壇という大目的の前に、それらを全面肯定し、聖化した。他党
からの批判、非難に対しては本質論的に応えず、インチキの混入した暴露戦術で牽制、反撃のかわりとした。
こうした政治行動は多くの有権者の不信をよび、浮動票を集められなかった。そのため、公明党は票集めに
良いとわかれば、革新のポーズをことさらに誇示した。が、彼らの態度を最後に決したのはポーズではなく、
いつも、反共という同党の本音だった。
公政連―公明党のマキャべリズム、ペテンの例は、昭和44年暮れの衆院選から言論抑圧問題を経て、45年
4月の京都府知事選に至る変転きわまりない無原則性を頂点に、38年の都知事選から55年12月の第18回
大会に至るまで、ほとんど枚挙に暇がないほどである。
だが、それでも公明党は創価学会の最高、最大の看板でありつつ゛けた。法的にも特別の待遇を保証される
国会議員を何十人と擁したことは、創価学会のイメージ・アップの材料として、これに優るものはなく、もっとも
有効な宣伝媒体にちがいなかった。
池田はそのような公明党を決して手放そうとはせず、ことあるごとに、両者の基本関係に言及して、自己の
支配下につなぎつつ゛けた。
「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である。ともに日蓮大聖人の教えを奉じ、王仏冥合をめざす
同体異名の団体である」
「創価学会を離れて公明党はありえない、もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既成
政党とはなんら変わることのない存在(であり)、創価学会と公明党は、永久に一体不二の関係(である)」
「私は公明党の創始者として、党の未来像を示し、かつ見守る責任がある」(いずれも『池田会長全集』 1)
池田は公明党に党籍を持たなかったが、党の人事や政治理念、基本路線を握って、いわば院政的に党幹部
の上に君臨した。とりわけ衆参両院の候補者の選考、党執行機関のメンバーの決定権の掌握は、党幹部の
死命を制する手網として、きわめて有効であった。
「『A、こんどは参議院に出るか、出てもいいよ。応援してやるから』
『ハイッ、ありがとうございます』
会長(池田)の大幹部への接し方はこうだ」(高瀬広居『池田大作』)
池田が国会議員をも自己の配下と考えたことは、その誕生以来のいきさつ上からも当然だったかもしれない。
池田は44年1月の幹部大会で、神奈川と埼玉の二、三の公明党員が思い上がった言動をしたと、大いに
立腹し、参加者の面前で罵倒した挙げ句、「前列に座していた大幹部である国会議員数十名(ほぼ同党の国会
議員全員ということになろう)に対し退場しろと怒号すると、議員達全員は退場するわけにもいかず、返す言葉
はむろんなく、ただオロオロと最後尾に退き立って」いた。その後も池田の勘気はとけず、池田が大石寺にいくと
議員達もゾロゾロとついて歩き、泣きながら池田にすがりついたという(藤原弘達『続・創価学会を斬る』)。
池田にとって重要なのは、議員たちの忠誠心だけであり、国民に責任を持つ彼らの時間の空費は問題とする
にも足りなかった。
だが、公明党は創価学会に利益ばかりをもたらさなかった。公明党が批判勢力にとどまらず、政治権力を求
めた以上、同党は会員外の票をも集めねばならず、また現実に対応する政治の論理に支配されねばならなか
った。そのことは創価学会の絶対性にはねかえり、創価学会の相対化への道を開いた。
公明党は39年の結成大会で、綱領の第三項に「言論、思想、信仰の自由」を掲げたが、信教の自由は創価
学会の折伏理論と相容れず、それは教義の相対化にほかならなかった。またその後も、国立戒壇を民衆立と
言い換えるなど、光輝ある公明党の議席増加を維持するため、創価学会は犠牲を払いつつ゛けた。
それは、看板である公明党が停滞すれば創価学会の威信を傷つけ、公明党の発展のためには創価学会の
教義を相対化しなければならないという堂々めぐりのジレンマであった。
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