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  • from: 22世紀 - 2さん

    2011年10月24日 09時31分38秒

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    池田大作「権力者」の構造

    終章 池田大作とその時代

     噴出した池田大作批判

     池田大作はあまりにも早く、若くして人生のスタートを切りすぎてしまった。彼は昭和54(1979)年4月24日、それまで
    19年間その職にあった創価学会第三代会長の座を降り、名誉会長へと退いたが、過去の功績によって名誉ある老いを
    楽しむことは彼に許されなかった。そのとき池田は51歳、壮年の盛期にあり、彼自身、老け込む年齢でも健康状態でも
    ないと考えたし、そうした心境にもなれなかった。
     だが、池田に名誉ある「晩年」をより強く許さなかったのは、池田に対する批判者たちだった。彼らは池田が創価学会
    の第一線を退き、閑職にあるとは頭から信じなかったし、それ以上に、彼に「名誉」があるとは信じなかった。逆に池田は、
    「〝人間革命〟して人間失格」し、告訴してかえって「恥部が見え」、国会喚問して不正を糾明しなければならない
    「狂気の二枚舌」(いずれも55年11月7日「創価学会の社会的不正を糾す会」の国会デモで掲げられたプラカード類から)
    なのであった。
     かつて、池田は日本最大最強の組織である創価学会のうえに君臨して「天皇にかわる時の最高権力者」と自らを規定し、
    あるいは池田組閣を夢見、また華々しい海外著名人との「民間外交」によって、ノーベル平和賞の受賞を真剣に望んだ
    人物である。
     どこかで池田の人生設計は狂ってしまった。過去の盛名は「恥を知」らなければならぬものとして泥土に踏みにじられた。
    彼の悪名は『ニューズウィーク』誌や『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙などで報じられ、その公私両面にわたる
    非行は海外にも知られるところとなった。
     池田が若すぎる悲劇だった。彼を批判する創価学会脱会者による檀徒も、日蓮正宗の全僧侶約600名のうち、正信会
    など約半数を占める批判派僧侶も、池田に求めることはおしなべて実質退陣だった。すなわち、池田は日蓮正宗法華講の
    名誉総講頭を辞退し、昭和56年10月の日蓮700遠忌での慶讃委員長を退き、創価学会への彼の影響力を断ちきるべき
    なのだった。
     いわば社会的な死を要求されていた。晩年でさえ迎えきれない池田が、死を呑めるわけはない。池田は日蓮正宗法主・
    阿部日顕と結んで、55年9月24日、批判派僧侶201人を処分するなど、必死に反撃し、危機を乗り切ろうとした。
     だが皮肉にも、池田の抵抗は池田の旧悪を暴くことにつながり、池田はその名誉ある名目的な引退期を、脂ぎった醜聞に
    まみれさせねばならなかった。彼は会長だった時期、彼の語る言葉のすべてを記録、保管させ、将来、池田語録や池田
    会長史を編ませるための体制を調えていたが、その語録や報告書類が54年9月、元教学部長・原島崇によって持ち出され、
    元顧問弁護士・山崎正友のもとに預けられた。
     この内部資料は修正前の、赤裸々な池田像を伝えて、虚像でなっていた池田を撃つことになった。池田は将来のために
    蓄えた過去によって現在を撃たれ、過去の栄光を引きむかれた。その挙げ句、彼には、①43年7月参院選をピークとする
    大量替玉投票、②共産党委員長・宮本顕治宅をはじめとする盗聴行為、③池田自身と創価学会の脱税の疑い、④国有地
    などの土地、不動産の不正取得、⑤公明党との政教分離の不履行、⑥元民音職員・松本勝弥などの裁判での偽証工作、
    ⑦その他の反社会的行為――の数々が突きつけられた。
     が、これらは池田と創価学会の不正のうち、社会性を帯びた問題に限られ、ほかにまだ池田の私的非行や日蓮正宗教義
    からの逸脱が問われた。教義違背については、彼は不十分ながら誤りを認めて会長を退いたわけだったが、その後も改善が
    徹底していないと追撃され、女性会員との関係を含む私的非行によって、彼の人格に泥をぬるはめになった。
     池田と創価学会は実際を知られることによって打撃を受け、実像を知らせるかたちでの批判を加えつつ゛けられた。
    池田が名誉会長にかわった後も、実質的な権力を創価学会にふるいつつ゛けたからである。
     池田が名誉会長を退き、創価学会インターナショナル会長の座からも降り、正確に創価学会から引退したのなら、批判は
    止んだかもしれない。だが池田は若かったし、なにより創価学会あっての池田だったから、実質退陣はできず、創価学会を
    道連れにして批判の矢面に立たせることをためらわなかった。
     彼は池田創価学会といわれるまでに、創価学会と一体だった。彼を纉仰する会員の熱気はまだ冷めていず、幹部たちは
    池田に引退を直言できるほどの力を持たなかった。彼らは表面上、池田に変わらぬ忠誠を誓って彼を守ることにつとめ、
    一人になったとき、しらけて時の流れに問題をゆだねてだけいた。
     池田は敗北の過程にあった。それは穏やかな風化とは遠い、がむしゃらに抗がいつつ迎える敗北だった。彼には、その
    権力のありように見合って、脂の抜けた清潔な後半生はおくれそうになかった。


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