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from: 22世紀 - 2さん
2011年10月30日 19時23分58秒
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池田大作「権力者」の構造
最初の敗北
池田の敗北は昭和45(1970)年、出版妨害に対する世論の糾弾に始まっていた。公明党=創価学会の言論抑圧
事件に触発、形成された同年上半期の世論は、その年を池田の前途におよぶ逓減的な敗北の年と決定した。それは
澎湃たる盛り上がりの過程で、すでに「鶴タブー」を打ち破り、批判拒否という池田が長期享受してきた特権を剥奪して
はいたが、より致命的な池田への痛打は、5月3日創価学会第33回本部総会での池田発言を引き出したことにあった。
その日、池田は言論出版問題に関して妨害の事実を直接認めはしなかったものの、「関係者をはじめ、国民の皆さんに
多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げる」「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したい」
(池田『池田会長講演集』 三)と陳謝しなければならなかった。
この謝辞そのものは、彼の無謬性という神話の破産と一定の良識性の表白と受け取られ、彼の権力にとっては正負
両面に働くにとどまった。彼の終わりの始まりを真に決したのは、これに前後する次の四点の誓約にあった。
①政界不出馬 「私自身は、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出るようなことは決してしない」
②国立戒壇の否定 「本門戒壇は国立である必要はない。・・・・・したがって政治進出は戒壇建立のための手段では
絶対にない」
③創価学会と公明党の分離 「創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原則
を、さらに貫いていきたい・・・・・今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方
であるならば、近代政党として、当然の道であります」
④強引な折伏活動の停止 「もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人一人の社会での成長が、最も望まれ
る時運となってきた」「無理な学会活動をして、社会に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります」
(池田前掲書)
これらの発言は、今では不徹底な、偽りの多いものであったことが明らかにされているが、いずれにしろ、彼がここに、
自らの上死点を定めたことを意味した。なぜなら彼は政界出馬という彼の野心と、その実現を保証する組織拡大策をこ
れにより、すべて撤回したことになったからである。
それまでの彼の野心は、公称会員755万世帯を擁する創価学会会長という現状に甘んじるものではなく、その組織を
基盤とした上での「日本の最高権力者」、あるいは自らを首班とする公明党単独内閣の樹立にあった。いわば彼の政治
的野心は、巨大な組織によって可能だったのであり、政治的野心を抱くこと自体が、彼の権力の一つのありようでもあった。
5月3日の発言前、池田は苦悶の日々をおくり、「自殺寸前の心境に到った」と語ったが、長年ひめやかに養ってきた
政治的な野望を自ら封殺するのであってみれば、あながち大仰な世迷い言ともいえなかった。
池田組閣の構想は半公然の事実であり、彼の衆議院出馬という意向の背後には、「(公明党)議席数百を突破しての、
連立による政権獲得構想があった。・・・・・この構想を持っていた頃の池田会長は、『私が教わったのは帝王学だ。私は
最高権力者になる。その時には創価学会を解散してもいい』と語っていた。池田政権によって、王仏冥合が達成されれば、
もはや創価学会の必要がなくなるということであろう」(戸川猪佐武、高瀬広居「公明党はまもなく大転換する」、『現代』
昭和45年7月号)とされていた。
池田政権は外部からの推測にとどまるものではない。たとえば、「池田先生が、日本の指導者として立っていただく」
(北条浩、『聖教新聞』 昭和40年7月26日)、「正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成
して」(秋谷城永、『大白蓮華』 昭和39年2月号) 等、創価学会幹部の言々句々にうかがわれるばかりでなく、池田自身、
39年の公明党結成時には党首脳たちに自らを「国父」と呼ばせ、また衆議院の公明党控室には、池田の写真と、その
自筆の和歌「妙法の宝を胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで」の色紙を飾らせた(村上重良『創価学会=公明党』)。
さらに池田は、40年7月、日大講堂での本部幹部会で、往古の天皇にかわる現代の最高権力者は池田だという
「方程式」を創価学会用語で謙虚に言明している。現代の「最高権力者」を内閣総理大臣、もしくはそれをも凌駕する
トルヒーヨばりの「国父」と解するのは自然であろう。
創価学会の究極の目的の一つである広宣流布の儀式が行われるとき、こう語った。
「不開門(総本山大石寺にある勅使門)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、天皇という意味もありますが、
再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、・・・・・時の法華講の総講頭(39年4月から池田就任)であり、
創価学会の会長(池田)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、
先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こん
どは皆さん方が不幸です。学会も不幸です」(『聖教新聞』 昭和40年7月26日)
自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかったのは、彼のすでに持つ権力の
強大さであった。実際、戦後池田以上に強大な権力を許されたものは、ただ一つ国家のほかになかったであろう。
意図した効果を作り出すために他人を支配する力が権力とすれば、支配の状態が確固としていればいるほど、また
支配する人員が多ければ多いほど、その権力は強大といえよう。
池田の権力の強大さは、創価学会公称世帯数755万という圧倒的に多数の会員と、「池田先生が死ねといわれるなら、
死にます。池田先生は絶対間違ったことをなさらない」(高瀬広居『第三文明の宗教』)という、池田によせる会員の盲目的
な信頼心、その二つに裏打ちされていた。
創価学会の世帯数とは、日蓮正宗の寺院から入信者に貸与された本尊(掛け軸)の累計であり、実数は明らかに公称を
下回るが、およそ宗教団体の信徒数は、その総計が総人口の二倍近いことからも明らかなように、水増しされたもので
あり、水増しされたなりに比較するほか手段はない。
創価学会の公称世帯数は、戦前、その規模の大きさと行動性で世の耳目を集めた大本教の最盛期の信者数30万名
を足下に見下ろし、出版妨害時、他の宗教団体と比べても、霊友会(約496万名)、立正佼成会(442万名)、生長の家
(218万名)、天理教(191万名)、東本願寺(671万名)、西本願寺(663万名)に大きく水をあけ(いずれも『朝日年鑑』
昭和46年版)、また宗教関係以外の諸組織には、比較すべき対象を持たないほどに巨大だった。
池田への信頼心、崇敬の念は活動的な末端の会員から最高幹部に至るまで、いわゆるカリスマ的とされる熱烈さに
貫かれていた。元毎日新聞記者・内藤国夫によれば、東京都議会の公明党議員(創価学会員であり、その幹部であった)
は池田について、口をそろえてこう自慢するのを常とした。
「『自民党や社会党の党首や委員長がこういうこと(煎餅や饅頭を買って議員控室に届ける)をしてくれますか。会長
先生はわれわれにも、たえず目をかけてくださるのです。都議会の審議が長引き、われわれが疲れたなと思うと、
きまって〝 しっかりやりなさい。ご苦労さん 〟と激励しながらお菓子を買って下さる。会長先生はなんでもお見通しなの
です。うれしいじゃありませんか』そして池田会長賛辞が競争するようにして続く。
『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』 『会長のご指示に従っていれば絶対にまちがいはない。 先生の
ご判断はいつも的確です・・・・・』」(内藤 『公明党の素顔』)
まさしく、池田からいわれたことをただ「そうか、そうか」ときいて動く団体だから「そうか学会」というとの揶揄がうなず
ける体の池田への忠誠心であり、それが会員数以上に、創価学会と他教団を隔てる要因となった創価学会の卓越した
活動性、資金力を支えていた。
たとえば創価学会の銀行預金高は三菱銀行220億円、三菱信託銀行50億円、富士銀行60億円など総額553億円
に上ると推定され(44年9月末現在、某有力銀行『宗教法人の預金調べ』、木谷八士『疑惑のなかの公明党』から引用)、
年利5.5%の定期預金としても約27億円の年間利息を生み出し、それだけでも45年の政治資金、社会党6億円、
民社党2.9億円に大きく差をつけ、ほぼ公明党の27.9億円に匹敵するほどだった(旧称ママ)。
組織の強大さは一応、組織員数と組織員の質(組織への忠誠心や行動性など)の積であらわされよう。
創価学会=公明党は、会員数も会員の質もずば抜けており、両者が相まって、その組織を、政府関係を除けば日本
最大最強のものに仕上げていた。
池田の権力が直接根ざしたものは決して彼の人間性ではなく、明らかに創価学会=公明党という巨大組織であった。
そしてそれらは池田による単一の支配だったから、池田の一身に組織の持つ力が体現されていた。組織が池田に遠大
な乗っ取りの白昼夢を夢見させ、それに迫力を加えたのだ。
したがって池田の権力が創価学会=公明党と盛衰をともにせざるを得ないことは自明である。彼は政界への野心を
自ら放棄したが、それにも増して彼の発言中の国立戒壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止は、
それぞれ組織という基盤をゆるがし、いや応なく彼の望蜀の一念を破砕せずにはおかないものであった。-
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