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from: 22世紀 - 2さん
2011年11月04日 17時13分57秒
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池田大作「権力者」の構造
野望の挫折
国立による戒壇は、その後の舎衛三億という遁辞にかかわりなく、創価学会員にあっては、千年王国到来の象徴として
機能していた。
「本門戒壇が建立されるということは、学会員たちにとって、大変な意義を持っている。その時には、天皇陛下も創価学会員
になっているはずだし、折伏の最終目標たる広宣流布も達成されている。さらに、王仏冥合も達成されて、公明党政権が
樹立され、各地方自治体の長も、あらゆる社会機構の長も、すべて学会代表によって占められていなければならない。
それだけではない。ありとあらゆる宗教団体は、すべて創価学会の傘下にはいって、その御神体、あるいは本尊に創価学会
のマンダラが掲げられることになっている。そうしたことのすべてが、正本堂建立の年に実現される」
(植村佐内『これが創価学会だ』)
本門(国立)戒壇をこのように捉えたのが一般会員であり、また事実、会末端では類似のことが教えられていたし、池田の
発言中にも、彼らのそうした理解を助長させる言説があった。
「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたとき、他の邪宗では、御本尊様をおあげすることができるか』と。また
『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日本第一の忠義な者である』という意味のことを申されておられた。先生の
申されたことが、ただひとつとして成就されえなかったことはない・・・・・。
また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の
宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ」
(池田『池田会長講演集』 四)
「広宣流布の時には参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆財布の中には少くとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃない
の着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね学会員で占めなかったら
広宣流布出来やしませんよ。一つ天下を取るまで諸君は大事な体だからうんと修行して行きなさいよ」
(池田「遺戒置文講義」、『聖教新聞』昭和32年9月6日)
本門戒壇を、天皇の帰依や創価学会の専権とする解釈が、一般会員の卓抜した活動性を支えていた。いわばそれは
馬の鼻先に吊るされたニンジンであった。だからこそ、47年10月に完成された正本堂が、「事実上の本門戒壇というべき
画期的な正本堂」(池田『巻頭言・講義集』 四)と意義つ゛けられたとき、会員は40年10月の四日間に、自らの生命保険や
銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴落させて、また殺人や自殺をひきおこして(新宗教新聞社
『創価学会犯罪白書』)当初の建立資金目標額30億円の約12倍、355億円を献金したのだ。
本門戒壇建立が創価学会員への全役職の大盤振る舞いと同義語であるための条件は、公明党の独裁――国会での
公明党議員の三分の二以上の議席、憲法改変、彼らの信奉する日蓮正宗の国教化――以外にない。そして、それらの
野望を秘匿する合言葉が国立戒壇、つまり国立による本門戒壇であった。
しかし、公明党は予想外に伸びなかった。その政権獲得に関する、伝えられる池田の当初のスケジュールを見れば、
三分の二以上の議席確保という前提が現実性を失っていたことは明らかであろう。
「40年中に35名を衆議院におくる・・・・・第二段階は44年の選挙に全区から一名ずつ立候補させ、118名を当選させる。
ここで公明党は第二党になる・・・・・44年から48年までに、150名から170名を進出させる。・・・・・第三段階は48年から
52年までで、衆議院に200名から230名を確保する。各地方首長(知事、市長)選に立候補し、連立政権の条件を明らかに
する。第四段階は昭和52年以降、公明党の単独内閣が実現する。党員500万名、学会員3,200万名」
(草柳大蔵 『現代王国論』、高瀬広居 『公明党』 にもほぼ同様の記述がある)
現在(56年)、公明党は衆議院33名、参議院26名、第三党にとどまり、池田構想の第一段階にも達してはいない。
こうした現実と目標のギャップを前に、池田は41年ころから、目標の格下げという方途を選んだ。そのためのリリーフと
して動員されたのが舎衛三億であった。全国民の三分の一が創価学会員(約750万世帯とされていた)、三分の一が
無信仰の理解者、つまり公明党支持者、残る三分の一が無関心、ないし敵対者という条件が整えば、国立戒壇に
象徴される広宣流布は達成されるというのである。
しかし、公称世帯数は目標に達しているものの、公明党支持者が全国民の三分の二以上という必要条件があるかぎり、
国立戒壇は馬の鼻先のニンジンであることをやめなかった。たぶん永遠にニンジンを食えない馬は、食えないことを思い
知るか、疲れ死ぬまで走りつつ゛けるはずであった。
池田発言は最終的に国立戒壇を否定して、鼻先のニンジンを取りはずした。正本堂の建立は広宣流布の終着点である
ことをやめ、その新たな出発点と変えられた。創価学会の大目標は失われないまでも、無限に拡散させられた。
「国家や世界を変えようとする人々は、不満を育てて指導することによって、意図された変化が、正当で望ましいもので
あると説いても、人々を新しい生活様式に強制することによっても成功するものではない。彼らは、とほうもない希望に
火をつけ、それを煽り立てる方法を知っていなければならない。その希望が、天国の望みであるか、地上の楽園であるか、
強奪品と無限の富であるか、濡れ手に粟の成功であるか、あるいは世界支配の望みであるかなどということは、重大な
ことではない」(E・ホッファー、高根正昭訳『大衆運動』)
正本堂建立という事実によって否定された国立戒壇は、将来、公明党の政権獲得時に国立に移行するとの含みはなお
残しながらも、55年、衆参同時選挙での公明党の大敗はその可能性の芽さえつみとることになった。国立戒壇の否定は、
会員における熱烈な希望の火を吹き消すことであり、それは創価学会の弱体化をもたらさざるにおかなかった。
政治進出と公明党は国立戒壇達成のための方便であった以上に、創価学会の胸に輝くバッジだった。彼らはそれにより、
岸が、佐藤が、と口にできる社会的な位置と自覚を獲得することができた。またそれは、彼らの努力を一目でわからせる壁に
貼られた成績表でもあった。彼らは公明党の急伸長によってどれほど自己と、自己の所属する集団との力を確信し、励まさ
れてきたか、はかり知れない。そればかりではなく、公明党は彼らの青雲の志もかなえてくれた。池田はしばしば、その著と
称する『人間革命』の中で、地方議員までに立身出世した会員を取り上げ、創価学会の御利益の例証とした。
公明党こそ創価学会の手形を日本国の通貨に変えるものであった。
池田の政教分離とは、いぜんとして「学会は、公明党の支持団体」であり、「具体的には、議員で、学会の役職を兼任して
いる場合、党の仕事に専念していただくために、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、
できれば、二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたい」(池田『池田会長講演集』 三)という
実効性を疑わせるものであり、その曖昧さという点では、公明党の70年度活動方針も、結党大会で政教分離の方向で
スタートを切ったなどとうたい、軌を一にしていた。
最後に、強引な折伏活動の停止こそ、池田が会内に引き入れた最大のトロイの木馬だった。創価学会員は他教団に
較べて出入りが多く、その歩留まりは4、5割と推定されており、現状維持のためだけにも、たえざる折伏が必要であった。
したがって折伏の停止はストレートに会員減をもたらすが、さらに折伏には会内の新陳代謝を保つ機能があり、新陳代謝
の停止による毒素は、国立戒壇の否定、政教分離とあいまって創価学会の停滞を決して単なる現状維持にとどめない。
ここで折伏とは「静かに説いて聞かせ、その上反対するならば、師子王の力をもって屈伏せしめなくてはならない」と
『折伏教典』にあったように、本来、創価学会にあっては強引さを不可避とするものであった。
折伏による創価学会員の増加は、増加自体で完結するものではなく、現に加入している会員に、日々、発展しつつある
会の一員であるという深い充足感を与えた。もちろん、折伏は、折伏した当人の会内での地位の向上をもたらしもした
だろう。が、それは現実的な利益以上の所属の喜び――急成長が創価学会の理念の正しさの実証であると信じられる
喜びであり、それこそ千年王国の到来を間近いと思わせる至福感の根源であった。
強引な折伏の停止は、会員の充足感の停止であり、創価学会の生命ともいうべき座談会をも腐朽させずにはおかない。
「新来者の多い座談会が充実するというのは共通した報告である。内容の濃い座談会にするためにも、座談会が目指し
て折伏する必要がある」(後藤弘『創価学会の経営学的分析』)
停滞が転倒であるという、自転車に似る組織原則は創価学会にも貫かれている。座談会の低調が招来するのは
創価学会の立ち腐れである。
「座談会がマンネリになり、学会員が座談会に意欲を示さなくなったとき、創価学会は衰退するであろう。たとえ外面的
に、その活動がどんなに華やかであったとしても、それは幻影に過ぎない」(同前)
こうして池田は彼が日本に君臨するという野放図な野心を不発に終わらせたばかりか、そのよって立つべき組織の角を
矯めなければならなかった。国立戒壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏の停止は、彼の自覚の上では一時
をしのぐ偽りの言葉であったが、実際には、彼が自ら行わざるを得なかった運動論、組織論の破産宣言であったにとどまらず、
より根底的な敗北の前提の受け入れであった。
組織に根拠を持つ池田の権力の構造は、同時に組織の弱体化がそのまま彼の権力の失墜の指標と化すという構造でも
あった。
池田は昭和45年の経験を、未練にも「法難」として捉えたが、彼にはすでに、法難という言葉の持つ正義も回復力も
なかった。
「私は、法難というものは、けっして偶然ではないと思うのです。いまさら私のことを言うのはおこがましいことですが、
日蓮大聖人が、小松原の法難を受けられたのが42歳でしょう。二祖日興上人が身延山を下山なされたのも42歳の時、
戸田先生が、入牢されたのもやはり42歳なのです。そして、私が、創価学会とともに、昨年、いろいろの誤解と批判に
会ったのも42歳でしたからね」(二反長半『若き池田大作』。なお戸田の入牢は昭和18年、43歳の出来事で、池田は
意図的に年齢を違えている)
法難という理解は、池田の人物の尊大さと無原則性、過ぎてしまえばこちらのものという卑しさを物語るが、それ以上に
池田が、社会から加えられた批判になに一つ学ばなかったことを意味した。逆に池田は糾弾キャンペーンの先頭に立った
共産党に報復するため、情報をとろうと宮本宅電話盗聴事件を引き起こすのである。
だが、その後の池田創価学会の命運を決めた基本は、裏の行動ではなく、表の、彼の口から吐かれた言葉だった。
彼は言論抑圧を問われた際、教義に殉ずるかわりに、教義を対世間にねじまげる策をさらに加重した。政治進出、公明党
結成以来の社会化が、日蓮正宗教義の持つ孤立性を守ることを許さなかったのである。
池田は、「化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに対して、政治などの分野においては
政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力をもって弾圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定
である。
・・・・・創価学会を妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、・・・・・無間地獄に堕ちることを免れないのである」
(池田『立正安国論講義』)という、独善的とはいえ、宗教者として当然な精神の原点を放棄し、なまなかに社会との協調を
選んだ。彼がひたすら組織の保守にしがみつき、自ら信仰の立脚点を否定したことは、会員の信仰に対する矜持と情熱、
張りを損ない、信仰生活の解体をも、もたらさずにはおかなかった。-
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