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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: 沙羅さん

    2009/03/01 06:54:28

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    認識 とは何か?

    仏語

    語源

    connaître知る<コネートル >と naître生まれる <ネートル>

    類似性を比較し、ポール、クローデルは、認識する<知る>為には、
    共に<CUM>生まれなければならないと述べている。

    認識とは知る事そのものである。

    知識コネサンスconnaissanceを持っている=
    avoire<持つ> connainssance知識

    知り合いになる=faire<作る> connaissance<知識>

    気を失う=perdre <失う>connaissane<知識>

    正気にかえる=reprendre再び取る connaissance知識


    以上の表現の仕方でも分かるように、

    客観的な意味での、認識とか知識は、知られた意味をする。

    心や魂の問題を述べる時に、重要なのは、

    知識や認識で語られる分野の出来事を、知識として語る事がかならずしも、心や魂の運動を体験したり経験しているのとは違いますよね。?

    認識はあくまでも、認識であって、認識を積み重ねていった後に心や魂の運動を自覚したり感じたり出来る事とは違うと思うのです。


    知識を失うと表記して、気を失う、、、という訳になるんです。

    知識を再び取ると表記して、正気に戻るとう訳されるんです。


    この仏語の文は、日本語感覚からいうと、微妙に違うのが感じられると思うのです。

    つまり認識とか知識は、失なったり、再び取ったり、、と必ずしも、重要な価値を置いているのではないんですね。

    認識や知識以上に大事なものがあるんですね。



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コメント: 全12件

from: 沙羅さん

2010/09/20 23:08:14

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「Re:Re:Re:認識 とは何か?」
> >
> >   形而上学的な意味合いの認識するという事は少し離れ
> >
> >  実際の話です。
> >
> >  死後の世界が実際にあるのか?
> >  または、霊界は実際に存在するのか?
> >
> >  というごく普通の人が経験できない事を、
> >  どのような、有能な霊感脳者が、語っても又あるいは、デモンストレーションしても、他者の体験の実際の場を見せられても、感じないのですから、それは形而上学での認識とは言えず、
> > ただ「すごいな〜・・・江原さんの霊視は〜・・・知らない事が観えるんだな〜」な情動運動ですよね?
> >
> > 又反対に「なんだか、江原とかいう胡散臭い、霊能者がハバを効かせているけど、テレビ放送だし、どうせ、裏で辻褄合わせでも知れいるんじゃないか〜?」、、、これも情動ですよね?
> >
> > この次元は、ただの個人的な判断ですから、哲学でいう本との意味での、認識ではないですよね?
> >
> > 自己判断を自分の情動運動に任せ、自分の嗜好によって、ただ自分が体験できない事を、知らない他者が行ったから、自分でないので、異質扱いしているだけですよね?
> >
> > ここなんですよね。
> > 自分と違うところに気がつかされる事じたいが、他者扱いしているのですから、自分の中に他者は存在していないと思うのですね。
> >
> > ですから、他者の目が気になるというか、他者からいつも判断されてると思い、自分をよく見せようとしたりするのだと思うのです。
> >
> > 自分をよく見せようと思う事自体は、当たり前の感覚ですから、それはどうでのいいのですが、問題はその前なんですよね。
> >

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from: 沙羅さん

2010/09/16 06:07:36

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:認識 とは何か?」
去年の書き込みですが、も一度張りますね?

ここは、仏語が文字化けするんですね・・・特にアクセント・・アクセント、ほんとは、とっても大事なんですよね〜

マ、仕方ないです。」
でも、ホラね?認識ってほんとは大変難しいんです。
ほんとうの意味での認識するのは、、





Connaître; c'est ; s'éclter vers: s'arracher à la moite inti;ité gastrique pour filer là bas par delà soi vers ce qui n'est pas soi; pres de l'arbre et cependant hors de lui car il m'échappe et me repousse et je ne peut pas plus me perdre en lui qu'il ne peut se dilluer en moi; hors de lui; hors de moi
> °j.p Sartre Une idée fondamentale de la phénomenologie de Husserl L'intentionnalité Dans Situation I p32 °
>
>
> 認識するとは<・・・・に向って炸裂する>こと、
> 胃のジワジワした内部から脱して、自己を超え彼方へ、自分でないものの方へ、木の側に、それも木の外へと進むこと。
> 何故なら
> 木は私から逃れ去って、私を拒み、木が私のうちで薄まりえないと同様に、わたしも木の内に消え去ることが出来ないからだ。
> 即ち、木の外にあり、私の外にある。
>
> J,Pサルトル{フッサール現象学の根本概念ー志向性}<シチュアション>1

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from: 沙羅さん

2009/04/17 21:23:59

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「Re:Re:Re:認識 とは何か?」

> >
> >
> >
> > でも、あれですねぇ、、
> > 皆さん、不思議だと思いませんか?
> > 言語が違うと、考え方が全く違う
> > 民族によって、考え方が違ってくるという事はどういう事か?
> > という事を考えられた事ありませんか?
> >
> > この視点に気づかずして、
> > いくら、英語が共通語でも、頭の支配言語が母国語であれば、
> > やはり考え方や思考の組み立て、叙述、感じ方、観方、、全て微妙な違いがでてくると思うのです。
> >
> >
> > 日本語同士でも、どうして、そのような考え方になるのかな?
> > わからない思考の人沢山いますから、、外国にでるともっとわからないかな?
> > と、思っていると、
> > 反対に、なあんだ!この地点で考えるのね?
> > 以外に、解りやすい、シンプル、 イズ、 ベスト、、、
> > という異民族間の調和をとるのが、簡単だったりするのです。
> >
> > 返って、同属民族同士の方が、理解するのが難しい、、という事はどういう事なのかしら?
> > と考えたりするのです。
> >
> > 返って、同属だと、、
> > 自分と同じ考えであるに違いない、、とか、
> > 同じ日本人だから、自分と同じ次元に居て、当たり前だとか、、
> > 同じ日本語喋ってるから、日本人で当たり前、、とか、、
> > まあ、、そういう思い込みが、型枠、型はめ思考へと、誘導しちゃうんでしょうか?
> > と思うのですね。
> >
> > そういえば、、他所に書いてたら、
> > わたしが、流暢な日本語書くので、てっきり、日本に住んでる日本人だと思って、対話してました、、、
> > とびっくりされた、返事もらいましたけど、、
> >
> > それが、解る事によって、何か?変わるんでしょうか?
> >
> > という疑問があるんですよね?
> >
> > こちらが、日本人でもアメリカに住んでる日本人でも、、まあ、誰でも何処でも、良いと思って、気にしないで書き込みしてる訳なんですよね?
> >
> > 何処に住んでても、何語喋っても、どうでもいいと思っているんですが、、、
> >
> > 、将来その人と結婚する訳でもないのですから、
> > ただ書き込みする行為だけなんですよね?
> > 何故?
> > 何処の国に住んでて、何人なのか?という個人情報を、知らないといけないとならないのかしら?
> >
> > とわたしなど、全くその理由が分からない、、という地点にいるのですよね?
> >
> > 自分がたいした事じゃない事と思っている点を、知った相手は、大変驚いてるんですね。
> > その相手の態度を見て、今度はわたしが、驚いてる、、という現象学で言う両義性の立場に置き換えて、お互いの感情の差異が観えるという事なんでしょうか?
> >
> > こちらとしては、外国に住んでいるから、、どうかしたのか?
> > という疑問があるんですよね?
> > いくらでもいると思うからなんですよね?
> >
> > すると今度はですねえ、、
> > 微妙に、わたしへの扱いが変わるんですね?
> >
> > これ、ちょっと愚痴になりますが、面白い事に反応が一律しているという点で興味ふかいんですね・
> >
> >
> > 議論の途中にお互いの見解の違いが発生すると、
> > 「だから、外国に住んでるから、、とか
> > 外国<フランス>かぶれ、だからとか、、」とか自分と違う他者の観方、つまり偏見に帰属従って、誘引してしまうんですね。
> >
> > つまり、対話の流れを観てるとわかりますが、
> > わたくしが、外国住まいだという事が分からない時は、一時も一言も、フランスのフの字も外国の外の字も出てこないんですよね?
> >
> > ところが、ある程度、身元が分かってくると、今度は、自分と違う立場の他者になっての扱いになってしまうようなんです。
> >
> > 分析しながら、言説を進めていると、よく見えるんですね。他者と自分という位置関係が、他者の存在が、自分の世界の中に存在していないんですよね。
> > 前に、I さんが、入れない教会の扉の事について、
> > フランス人が咄嗟に応えた、
> > 貴女が入れないんじゃなくて、わたし達皆が入れないんですよ、、
> > と応えた、思考の世界に驚いた、、という事を書きましたけど、、
> > ココらへんなんですよね。
> > 無意識に他者が自分の中に存在している民族と、
> > 無意識に他者が自分と対峙しているのと、、
> > 世界の考え方や捉え方が違うんですね。
> >
> >
> > まあ、それは言いのですが、、
> >
> > 、
> > そういえば、
> > 似たような言論を、昔のMSNのコミュ、議論帝国でも受けましたけど、、
> > ハルなんとかさんとか仰るHNでした<笑>
> >
> > どうして、言説の発信元の、個人の情報がそんなに
> > 気になるんでしょう?
> >
> > 言説は言説なので、その人が、既婚であるとか?独身であるとか?
> > 男性であるとか女性であるとか<これは、日本語の場合、男言葉、女言葉があるので、分かる>、どの宗教を持っているか?とか、、
> >
> > 出会いサイト的な視点で判断したがりたくなるのは、、
> > どうしてなんでしょう?
> >
> > 何故か、右派系にそのような、プライベート知りたがり、、という気持ちが強い人が、多いんですよね?
> と、、記号に落とした地点でこれも偏見の一種になるのですが、
> そのような反応が多いというのは、わたくしみたいな、外国人や外国在住者と直接交流関係を持つと、観えてくる現象があるんですよね。日本国内にいては、わからない、、
> そのような立場の違いによって、経験出来る、体験する、という
> 事は、体験していない人にとっては、理解出来ない体感がない人にどう言葉で説明しても、わからないでしょう、、という事を述べたかった訳です。
> まあ
> > 不思議な現象ですですよね?
> >
> > 精神の独立
> > INDEPENDANTインデパンダント性に欠けるのか?
> > とか、、やはり性格とか、執着とか煩悩呼ばれるもんでしょうかね?
> >
> > まあ、それもいいんですけど、こちらが全く注意してなかった視点、気にしてない点に、気付かされる言動が多い人が多いんですよね、
> >
> >
> >
> > 終いに、なんだか、その人が好きとかあの人は嫌いとか、
> > 情動で、人を判断しているのかしら?としか思えないような精神は、何処にあるんですかいな?
> > と思うような、言動や言説を述べる方が、いらっしゃるのですねえ。
> > 本とは、
> > 次元を同じにしないと、コミュニケーションというのは、伝わらないんです。
> > 次元というのは、波動と表現してもよい、、と船井さんという霊脳者の方がおっしゃってましたけど、、
> >
> > 皆と一緒に仲良くやろうと思ったら、
> > 波動の高い人、次元の高い人というのは、どうしても、波動や次元を低くして、探しにいかないとならなくなるそうなんですね。
> >
> > 皆と仲よく出きるという綺麗事は、波動や次元の低い人は、
> > 高い人の慈悲や哀れみの心に、頼っている、乞いている、、
> > という現象なので、本人は気つかないで、いるかもしれないんですよね。
> >
> > 本当に、人格が優れ、高次の人というのは、何も喋らなくても、回りの人間の足が、無意識に、何かを求めるよに自然に向うはずなんです。
> >
> > 言説を放つ必要がないんだと思うのです。
> > 権威的な表現で放ちたがったり、いつも目上から何かを言わないと気がすまなかったり、、表現というのは人格が否応でもでてしまうと思うのです。
> > まあ、仕方ないですよね?、、煩悩と呼ばれるものらしいです。<笑>
> >
> >
> > そうそう、、何書きたかった飼って、、言語です。
> >
> > 日本語の起源を調べてて、、
> > 何故?
> > お隣の
> > 韓国語と、中国語とかと違うのか?
> >
> > 貼ったのは世界史上の語族です
> > 日本語は、未詳として括弧に入って記載されてるけど、
> >
> > モンゴル語が入っているアルタイ語に分類されてるんですよね。
> > 、シナ、チベット語族ではないんですよねえ、
> >
> > 不思議ですよね?
> > 日本人って赤ちゃんの時<生まれた時>に、蒙古はんありますよね?
> >
> > ひらがな音素というのも、中国や韓国にない音素ですし、、
> > 日ユ同祖論が発生するのも、なんとなくわかるんですよね。
> > 原因がないものは、何も生まれないはずですから、、、
> >
> > それより、日本の神社仏閣の起源に関係してくる
> > 秦氏<族>の発生地、弓族の君、、
> > キルギスタン辺りが、すごく気になるんですよねぇーー
> >
> > この分類図表でみると、ラテン語とサンスクリットの間には類似している点があるという現象はわかりますね。
> > もともと、インド=ヨーロッパ語族なんだと思うのですね。
> > セム系=ハム語族には、
> > ヘブライ語と古代アラビア語が同じセム系として分類されてるんですよね。
> > ここら辺、故なんでしょうかね?イスラエル、ユダヤ系の問題の原因というのは?
> >
> >
> >
> >

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from: 沙羅さん

2009/04/10 17:28:26

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「Re:認識 とは何か?」

フッサール、エドモンドという現象学では必ず語られる哲学者がいるのですが、
彼は、

われわれ、人間は「存在そのもの」を言い当てる事は出来ないが
しかし、存在の 意味 は、言い当てる事ができると考えたんですね。

あらゆる、わたし達を取り囲む現象には意味がある、、

この行為にも、この事件にも、
この恋にも、
この別れにも、
この作品にも、
この人生にも
そして、この世界にも、、、、

どんな物事にも、意味 があるはずだという確信のもとに生きている、、、

という現象学学者、フッサールの考えの基本です。


そのように解釈すると、

フッサールが思考するとしたら、日本語ではありえませんから<当然ですが、、>

意味がある、、、
という表現は、
日本語だと、
因果があるとか、
因果によって縁起が生じる、、とか

まあ、そのような意味あいなのでしょうという、
複数言語をフレキシブルに思考すると、
他の言語では、このように言い換える事ができるのではないかしら?
という推測がたつんですね。

この他の優しい言葉に言い換える、
他の国の言葉
に言い換える、、、という思考というのは、
知識によって得た言語能力というより、
むしろ、知識や認識による物理的、量的な普遍性を偏重しているのではなく、
使いこなす、、
自由自在に変換できる
という思考の傾向にあると思うのです。

知識や認識を詰め込むだけではなく、、

使いこなす、、
つまり、身につく、、
という事は、
言語の意味を自分なりの感性と、あわせてみて、
納得出きるまで、体験できるまで、あるいは他者との共感をえられるまで、とことん考える、、

という事だと思うのです。

言葉だけが、上滑りで、心が篭ってない、、とか意味をよくわかってなくてただたんに、人を支配したい、人を組み入れたい、、という支配力といった本能に、それこそ支配されてしまう方というのは、
大概が、書き込みにしても、掲示板にしても、または対話にしても
対峙世界での
2人称へ投げかけるという文体になっている事が非常に多いと思うのです。
2人称の文体がどうのこうの、、ではなく、、

言説というのは、
「わたし達は、、、これこれこうではないか?
」とか
「わたしは、これこれこう思う、、、

という投げかけ方、
放ち方もあると思うのですね。

現象学は、他者の存在する世界をなるたけ多く包括した世界
つまり、
他者が存在しない世界にいては、感じられない世界<宇宙>
だと思うのです。

I さんが、フランスに旅行した時に、

ある教会に入りたくて、扉が開かなかった、、

近くのフランス人に、
聞いたら

教会の開館時間を
日本人観光客に教えるのではなく、

「 貴女だけが、入れないのではありませんよ、私たち皆ですよ」、、

と言う答えが返ってきて、、

驚いた、、

という話は、

彼女が、フランス人の思考の癖が日本人の思考の傾向と大きな違いがある、、という事に驚いたんですね。

それはフランス語を勉強したての彼女でも充分感じられる事が出来る
感性による思考の柔軟さではないかしら?
と思いました。

貴女<二人称>だけが、入れないのではない。

わたし達<一人称複数>全員なんです、、、

咄嗟に応える、フランス人の思考の枠組みが、
いつも、わたし達の一人が、問題を抱えてる、、、という考え方になっているんですね。

問題を抱えてる貴方が、わたしに話しかける、、という対話の捉え方ではないんですね。

話しかけられた、人とわたしの関係、、存在の意味、、、

たまたま、一緒に隣席した人とわたしの関係、、

突然、現れる昔の旧友、、、

いきなり関係つけてくる、知らない人達と、わたしの関係

、一緒に家族として家庭を営む他者とわたしの関係、

たまたま寄った、美術館にある一枚の無名な画家の作品にフト引っ張られる、、、という関係、、  などなど、、

わたし達の意識に直接に与えられてる、、、
存在がわたし達にとって意味があるから、、そのような現象がおきるのではないか?
と思うのです。

そこで、フッサールは、わたし達の意識における存在の
意味 の記述を、哲学<現象学>の課題としたのだと思うのですね。

そして現象学的還元、と言う表現がされる時は
このように「存在そのもの」 を 括弧にいれて

<意味>を読みとる主体の意識に、直接に問うという方法をとったのだと思うのです。
そして、この <意味>を、読みとる主体というのは、超越論的自我を指しているのだと思うのですね。
この超越<TRANSCENDANCE>という言葉は、日本語の哲学書には解脱、という記号に置き換えられてるようです。

こうやって、他国の文化や民族の思考または自分たちと違う宗教の中で語られてる、同種の意味あいを探し求めて、なるたけ、最大限に普遍性をもつ公約数を、自分の中に少しずつ増やしていくという事が、開かれた意識を持つという事だと思うのです。



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from: 沙羅さん

2009/04/07 01:05:35

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「Re:Re:認識 とは何か?」

因果関係について他者と見解を述べているとき
コミュニケーションが出来ないというより、
皆には分かり辛い点というのが、だいたい観えてくる。

霊能者やヒーラーという方達の話を分析し、
わたし自身の考え方と思考の類似性があるというのが観えてくるんです。

一番顕著なのが、
観念的な自己分裂を前提に、話している場合が多いんですね。
 、

何事も、自己の客観化、、
一つの一面から観るのではなく、ありとあらゆる方面から、みて、
関係性や間柄を感じる事だと思うのです。

 例えば、先ほど書いた2年前の2007年の秋に起きたパリの出来事を綴りますね。

これも概念的な自己分裂をさせての行為なんです。

自分を客観的に2年前の自分を観るという意識なんですね。
その2年前に自分に起きた光景をイマジネーション<実際の出来事なんですけどね、、まあ、思い出すという行為です>している訳なですよね。

そこで起きた光景を浮かべるんです。
そしてあるとあらゆる関係性や間柄を、くまなく一通りグルート観てみる、、という行為の中に、

アレ?

そういえば、サッキ読んだ本のあらすじと同じ事が起きてる<おきていた>、、とか

昨日会った人の意味深な言葉の意味が一辺に理解出来る事が、2年前のこの経験にあったとか、、、

 この2重の構造が理解でき辛いらしいんですね。
前にも話しましたが、
 他のものに対する自己の関係を関係として把握する
という事が理解し辛いらしいんですね。

世界には、少なくとも2重の構造があり、

例えば、今ここで書いてるわたしが此処、、と言ったら此処ですし、
概念的な分裂を前提として話している時の此処とは違う場所【此処>なのですから、同じじゃないはずなんです。

ですから、話の途中で、そこで、、何々した、、何々あった、、と

話すと、どこの其処なのか、理解されない事があり、観念的な自己分裂の自分がいる場所、、、での話を、

ただの妄想と理解してしまうようなのです。

つまり共感がもてない世界をお互いがお互いつくりあげているので、
コミュニケーションは不在ですね。

又、時間、、時制の意識というのも
分かりにくいようなんですね。
「直ぐ」に行うとか
「さっき」見ました。
さっき会いました、、という「直ぐ」とか「さっき」、、という表現の時間は特定できない相対的な位置にあるんですね。時間の流れの前方や後方をアナログ的な数値における量にもとづいて眺めて観た表現なんですね。

むしろ、 
 何月何日、何時何分にあります、、という特定できる絶対的な時間表現の世界の中で生きてしまう方が考えやすいというか、イマジネーションを必要としないのかも知れません。

また、最近はコミュニケーションにおける共感の困難さが気になるんですね。

共感は得ないで、ただ読んで思った事を記号にしているので、
何が共感したのかしら?
という疑問が生じるほど、
関連性がない内容へ、引水するという現象、、しばしば観ます。

この観念的な自己分裂が出来ないと、
他者の位置に立てないわけですから、他者の話す感情を自分が経験したようにイマジネーションする事が困難なんですね。

共感能力による感情形成というのは、もちろん小さい時からはじまっていますし、自我の形成に大変関与してくると思うのです。

小さい時から、沢山の回りの人達との会話の中で生かされて、沢山の人間と接し情感能力を発達させないで自我を形成すると、
言葉のもつ意味が、回りに与える影響などには、全く無頓着になり、、他者の不愉快に思っている事を感じる事ができず、
他者が、不愉快に思ったり、、押し付けがましいと思ったり、横柄だと思ったら、言葉では適当につくろいますが、思うとか感じるというのは心ですから、自分から自発的に接近しようという情熱や恋慕や親しみや友情といった感情はわかないと思うのです。

無意識にしろ意識的にしろ孤立感というのは、結局 心の絆を失う事によって、感じる感情だと思うのです
因果関係の観方を話そうと思いましたがズレてしまいました。






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from: 沙羅さん

2009/04/06 18:29:06

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「Re:認識 とは何か?」


 文字言語 エクリチュール ECRITURE

 をトラース<TRACE>痕跡、、と言ったのは、デリダだったと思うのですが、、、

 読んだ時、この痕跡、TRACE トラース、という捕え方に本とに、目から
うろこという感じでありました。


 コミュニケーション、、心が通じる事事態にあって、

 何故?エクリチュールは痕跡など、追っているんでしょう?


  という懐疑心が、わくんです。

  時間を後ろから追いかけてて、、何がわかるのかしら?

  という疑問に気つかせる、、、

  それが、TRACE トラース、、という音素にあったのですね。

  日本語だと痕跡という哲学用語に翻訳されていましたけど、

  TRACEトラース、、、という音素がとても、その視点に気つかせるのに、ピッタシ、、、

       と思うのです。

 よく、スキー選手が、滑降する競技で、時間を追いますよね?
「 時間を追う」という表現は、外国語の表現ですが、
 どれだけ、短い時間で、同じ距離を滑るか?という競技ですよね? 時間を短縮すると言う表現は、前になんらかの結果<自己の記録>を目安にして、の結果において<現実>の表現態ですよね?

しかし、滑ってる時の選手の頭の中は、時間をなるたけ早く追いかける、、というイメージの中にある訳なんです。

 スキーの競技選手でもそうですが、時間を競う競技選手は、
 イメージトレーニングというのをやるのですが、、

 テレビで、もしオリンピックの競技でスキーの選手が、スタート地点に居る時の選手達の様子をよく観察すると、観えるとおもうのですが、、
目を瞑って、、、自分の描く<滑る>、トレースを描いています。
目を瞑っているという事は、実際これから未来に起きる、トレースを描こうと、何処をどのように体重を移動しながら、なるたけブレーキをかけず<雪煙が出るというのは、ブレーキをかけているから、時速に乗れないんですね。つまり、時速に乗れないと、転びますから、エッジを立ててブレーキをかけてコントロールして、結局時間が人より多くかかり、良い結果がでない、、、、という感じなんですね>

早く滑るという事は時速に乗る事なんですね。
なるたけ、重さが斜面をすべる、時速が生まれる、、転ばないように不安定が生じ、そして重さが転ばないようにコントロールする力を最低限にするという事が、
トレースを描く、、、という事なんですね。

転ばないように滑る=8=、、、というのは、トレースを描くという風に表現しないんです。、
 
転ばない、、という目的は、怪我しないように,,,と言う目的であって、時間を競う競技の第一目的ではないと思うのですね。

 
トレースを追うTRACE、、つまり痕跡という日本語で落とされていますが、
実際は、時間を追う選手達にとっては、頭のイメージ上のTRACEを追って、旗門と旗門の間、、どこをどのように、痕跡<TRACE>を残しながら、時間が進むより、早く進む<超越ですね>か?
という目的にFIX<繋がる>している訳でした、
他者と競っているのではなく、

時間を追いかける、、TRACE を追いかける、、という目的なんですね。


 それでです、、このエクリチュール文字言語を重視しがち、、という意識は、
エテュノサントリズムETHNOCENTRISME<自民族中心主義、自民族絶対普遍性思い込み主義>を引き起こすらしいんですね。

デリダが述べたのは、この文字言語、
エクリチュール ECRITURE の ECRIRE エクリールという動詞は
書く、、という動詞なので、
書き言葉、、でもいいのですが、、
つまり、落とされた、文字言語によって、コミュニケーッションを偏重すると、自民族中心主義、自民族絶対普遍性思い込み主義に向う、方向に意識が流れていますから、気をつけなさい、、、
という警告だと思うのですね。

反対に文字言語 エクリチュールに対して、パロール<音声言語>の重要性に近代哲学者や心理学者が述べだしたのはそういう事だと思うのですね。

エクリチュール文字を記載する
それを受信者<読者>は感受する。

そこにはデリダによれば、すでに空間における痕跡を刻むという暴力が存在する、、というような事を述べていたとおもうのですが、

このエクリチュールだけに頼るコミュニケーションばかりしてると、神経症や心の病が増えるんじゃないでしょうか?
とも思うんですね。



ETHNOCENTRISME自民族中心主義に落ちるということは
、TRACEを追うというよりTRACE痕跡を読むのですから、其処の時点において時間を介して生じた真理とされる曖昧性が、感じにくくなるんでしょうか?

TRACEは、他者として相対性の記号として眼の前に読む時点で現れていまうのでしょうか?


その点、パロール音声は、話した時点で消えるのですから、
話すと聞く、、という同一時間の間で取り交わされるコミュニケーションですものね、、


そうなると、コミュニケート、交通させるのは、
話し言葉という表現で、エクリチュールとして書かないと、相互間のコミュケートは通じないという事はそういう事だと思うのですね。

心理学者が、退行催眠や催眠をかけるのに、

患者さんに、心理学者の話す同じ言葉が書かれている、紙を読んでも退行催眠はかからないでしょう、、と思うのですね。

生きた人間の声<パロール>によってしか催眠はかからないと、思うのです。

結局話すように、目の前のその人と対話するように、書かないと雰囲気も感じないでしょうし、コミュや掲示板といった場の空気を読むという必要を感じないと、
なんだか、堅苦しい言説ばかし一人で放つという浮ついた存在化してしまうというか、

結局回りの人の心に届かない、あるいは届いても表現力の欠乏性によって、暴力的なトレース<TRACE>痕跡を残しているので、他者は対峙の相対者の存在を永遠に続けてしまう、、、という世界なんでしょうか?とも思うのです。

文化って、結局人と人の間に生じるコミュニケーションの形だとおもうので、芸術でも文学でもなんでもいいですけど、そのような人間の創造物にふれて、感じる事の出来る心を育てるというのは大事だと思うのです。



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from: 沙羅さん

2009/03/27 00:14:13

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「Re:Re:Re:Re:Re:認識 とは何か?」
Connaître; c'est ; s'éclter vers: s'arracher à la moite inti;ité gastrique pour filer là bas par delà soi vers ce qui n'est pas soi; pres de l'arbre et cependant hors de lui car il m'échappe et me repousse et je ne peut pas plus me perdre en lui qu'il ne peut se dilluer en moi; hors de lui; hors de moi
°j.p Sartre Une idée fondamentale de la phénomenologie de Husserl L'intentionnalité Dans Situation I p32 °


認識するとは<・・・・に向って炸裂する>こと、
胃のジワジワした内部から脱して、自己を超え彼方へ、自分でないものの方へ、木の側に、それも木の外へと進むこと。
何故なら
木は私から逃れ去って、私を拒み、木が私のうちで薄まりえないと同様に、わたしも木の内に消え去ることが出来ないからだ。
即ち、木の外にあり、私の外にある。

J,Pサルトル{フッサール現象学の根本概念ー志向性}<シチュアション>1

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from: 沙羅さん

2009/03/26 21:20:12

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「Re:Re:Re:Re:認識 とは何か?」

随分前に、書いた事なんですが、

再度あげてみます。


疑問が起きた
人に質問してみる

この行為についてなんですが、


 疑問を感じ質問をする時の疑問、質問が生じる視点がすでに
一面的な観方をして、関係づけてくる方が非常に多い感じがします


それと、人<心>と人<心>の接し方が多分間違っていると思われるのには・・

その人と接する意識はある、、というのと
その人の質問に応える・・というのとは、全く違う事だと思うのです・・


電話の世界の出来事を例に取り上げれば
電話のベルを、自分勝手に、誰かがいる空間に鳴らしてはいけないんですよね。
その人が存在している空間を、電話の音を介して暴力的に侵入しているのと同じなんですね。

そうすると、
「電話を置かなきゃいい・・・」というお決まりの、
時間をいつも後ろから追っていく問答をさせられるんですね。

そうじゃないですね?空を理解するというのは、そういう事ではないと思うのです

このような、感じないから侵入してもいいという暴力的な考え方が横行すると
外国の人達が、自分の家なのに、洗濯物を自分の庭にやベランダに干さない習慣があるのを聞いて、「何故?
自分の庭や自分の家のベランダなのに、自分の洗濯物を干せないんだ?」・・というような考え方しか出来なくなると思うのです。

電話のベルを鳴らしても許される人間関係の間の人達ならいいですけど、
そのような知己関係つくりがない、知らない人が勝手に、その人の存在している空間に、音で意識を引っ張っては本当は失礼だと思うのです。

むしろ、そのような人と人の間には、心が存在している、、という事に気つくには、

フランス人並みに、

電話を鳴らしても、相手は「モシモシ」とも、「〜です」ともいわず

いきなり

「J'ecoute!]ジェクーテュ「聞いてます!」

と、応える方が良好な手段かもしれません。

これで、かなりお仕着せ電話での押し売り攻撃との一瞬のワンクッションの空気がつくれる。
相手は、手練手管と言う風な不自然にも礼儀正しく装って関係つくりを迫るんですね・・・
こちらの機嫌をまず伺うという、心理手段に長けていますから〜・・・
電話を取って、
「聞いてます!」・・という フランス人の応対の仕方は、
相手に、
「ぐずぐず、してないで、言いたい事があるなら早くいいなさい!」風な雰囲気が漂うんでしょう・・と思うのです。

公機関の窓口もかなりこのような応対の仕方です。

公機関はともかく、自宅電話に関しては
実際、自分勝手にこちらの都合もかんがえず電話をかけて侵入した、、という行為の始まりは、電話をかけた方に帰属するのですから、
「じゃ〜なんで、電話を取り付けるんだ、」、という言いがかりは、自分勝手というモンでしょう、、我田引水なんですね。
すべてが、こちらの述べた後ろから、自分に都合がいいように引っ張っていってるだけなのですねえ〜・・

ちょっと、話がずれましたけど

こちらの言葉を放つ前に述べるという事も出来難いようなので、実に万人に平等に対応したいと思っても何かが、欠けてたり何かが違うのではないか?と思わされる事よくありますね。


それで、I さんが、フランスの何処かの観光をしてらした時、

彼女は、ある教会の中に入って見学したいと思い、扉を開けようとしたら開かないんですね〜
 
そして、近くにいたフランス人の女性にこのように聞いたんです。

「 教会に入りたいんだけど、扉は閉って、入れないんですよね〜」I さん

「 貴女だけが、入れないのではなく、私たち皆が、入れないのです」フランス人女性


質問の形を個の問題事として捉えないんですね。

教会に入れないのは、I さんだけでなく、皆が入れないのですから、あなた一人の問題ではありません・・・・

という全体的な捉え方になるんです。

普通は、個の問題として捉えれば、教会の開館時間を知りたいという問題に視点を向けるのでしょうが、
これはあくまでも対峙世界の物の捉え方ですから
教会も対象化しますし、そのフランス人と、Iさん、、、つまり、フランス人と、観光客という対峙の世界が出来上がった上での質問になるはずなんです。

現象学は、そのような言葉を発する前の世界に入り込む心理学だと思うのです。

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from: 沙羅さん

2009/03/20 18:13:24

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「Re:Re:Re:認識 とは何か?」
   

日本人の民族性とか、日本人といわれる起源とか、仏教の伝来に関係していると思うので、色々あちこち、興味深いサイトやブログを覗いています。

日本書紀に書かれている秦氏は、渡来人であり、朝鮮半島を渡ってきていそうだ、、という事はほぼ間違いないそうなんですね。

問題は朝鮮半島に来る前はどこから渡ってきているのか、何世紀もわたって、
民族移動中という歴史的観点は、生きてる当人達にはもちろん自覚がないはずなんですがぁーー
ここが、面白い点ですよねえー、、<つまり、今生きてるわたし達自身も、自分のしている事、価値観、善悪感に疑いを持たず生きているんですよねぇー、、でもそれが、民族が繁栄している方向の路線にあるのか?民族が滅んで行く方向性の路線を歩んでいるのか?あるいは、現行維持なのか?あるいは、何処かの属国とされてしまうのか?わからないでいるんですよね?これを感じたり、観えたりする方達は、直感とか霊感というものだと思うのですね。

話それますが、
感じない方というのは、時間と空間の存在している世界の出来事でしか、頼れないですから、預言、予言、既視体験というものを、聞かされると、困る訳なんですね、
たよるものは記号による
信憑性という点しか、判断できるエレメントしかないのだと思うのですね。
結局、聞き流すかそのままの状態か、自分に出来ないものは、全て非難したくなる<笑>というような状況なんですねー、、

まあ、それでいいんだと思うのですね。それもその人の人生で、そのような存在の仕方として、生まれてきているのですから、個の自由は保証されてていいなあ<笑>という事になると思うのです。
知らないはずの自分の今の現状や心の状態を霊能者に見透かされると、驚くのはわかりますが、その後に述べる時間軸でいう未来の展開についての、心の持ち方を彼ら<霊脳者>は述べるんですよねぇ。

未来の事を予言されたからと言っても、言われた事をその通り従うか従わないかは、すべてその人の自由意志であるので、たとえ予知能力が高い人から述べられたと言っても、
結局はそのような霊感脳者や、ある宗教者との個と個の関係つくりの質が最後には、力と化すのだと思うのですよねえ。
ま!これも色々聞くと面白い情報が沢山あるので、機会があったら書いてみます。

話がずれました。



民族移動の事でした。
ある土地に住み着いて、子孫繁栄続行中、
回りの民族に押しやられ、
移動民族が多人数化してきて土地不足が起こり、お隣さんを攻撃、力的関係によって奪ったり、、テリトワール確保の為に、あちこち住み安そうな土地が肥えてるところに民族が移動するんでしょうねえ、異宗教であったら当然諍いの原因になるはずですから、信仰もその勢いに加担してきたはずなんですね。
「真の信仰の意味を理解していなかった」、、と20世紀になって今頃言われても、信仰じゃなくてまず生きてる人間を理解しないと、人間が構造の中で生かされるとどうなるか?子孫繁栄、健康的で明るい社会生活を営む事の出来る社会をつくる土壌をつくるのは、信仰じゃなくて、生きてる人間の生きようとする心が関係するという分析が必要だと思うんですよね。
ますます人々は心を病み、益々新しい信仰が生まれてしまう
ますます、予言者やヒーラーや霊脳者が世の中の必要性と、共に生まれ、人々が前にもまして心に頼るものが必要になってきているんだと思うのです。

蛇足ですが、外国のHPと見くらべて、
日本というのは、予言、占い、性格、前世占い等々、、、
無料で占ってくれるサイトが沢山あり、よりどりみどりであるのに、驚かされますよねえー?


まあ、色々脱線しながら

そうやって、
21世紀に生きる
秦氏はキルギスタンの弓国から来ている、、
と書かれたサイトも結構あり、
イスラエルの10支族の一族<日ユ同祖論>あり、
インドから来ている、、と書かれたサイトあり、、、

聖徳太子そして、空海の育ての親であった大安寺の師匠も渡来人秦氏であると書かれた事、大安寺の創建にいたる全ての因果関係を生じる、、そのような歴史を作る大河の流れというのが底辺にあるはずなんですね、、、

それで、ですね?
今、うちには、キルギスタン人のマキシムという22歳の青年といっても、パパですが、、、

いらっしゃるので、、、
サイトで見つけた、
「キルギスタンのアカーエフ大統領の顔と、マキシムの顔が、全然ちがうじゃない?」とわたしは、マキシムの顔を触って、パソコンのアカーエフ大統領の顔を指して、なんとか述べたい意味を伝えようとするんですよね。

マキシムは、堀が深くて、目が青いんです。
髪の色は黒いんですけどね?
どうみても、同じアジア系とは言えないんですね。

何故なら、そのキルギスタンアカーエフ大統領の顔は、全くの日本人並みの普通の顔なんですよねー、、

マキシムは、
「NON,アカーエフ」、、と言うので、
多分、今の大統領ではない、、と言いたかったのでしょうが、
述べたい事はそのような事ではなく、マキシムの現象学的視差に興味があったんですね

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/16/etc_0422.html


キルギスタンという国の民族性が、ロシア系中国系が交じり合っているので、かなり民族の身体的な違いの幅があるのではないか?
それに慣らされると、差が観えない<認識できない>であろうという、メルローポンティーの、観えるものと、観えないもの、、、、
という視点を、マキシムを通して、確かめてみたかったんです。


結果は案の定、、マキシムは、アカーエフ元大統領<渥美清並み、、といっては、なんですが、、日本人からしてみれば本とに違和感の無い顔と、わたしの横にいる、ロシア系マキシムの顔の違いはわからず、何度も、アジア人、中国人、日本人に見えるでしょう?
と聞いても、いやー、同じに見えるしぐさを伝えようと、両肩をあげて、顔を斜め傾け、同じだ、、、と、何度も言うのですよねえーー、、、、

おもしろいなあ、、、現象学というのは、、、
差が観えなくなるんですよね?
あまりにも、慣れ親しんだ状況や環境で育つと、、
観えるものと、観えないもの、、

認識できるものと、認識できないもの、、、

うぅぅーん、面白い、、

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from: 沙羅さん

2009/03/10 00:10:11

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「Re:Re:認識 とは何か?」

ignoti, nulla cupido

ラテン語の諺に
「知らないものには、まったく欲望はおこらぬ」

というのがあるのです。

欲望を引き起こすのは認識であり、欲望は我われを認識へと向わせる主要な原動力であるそうなんですね。

「欲望は肉体から意欲へと昇って行き、意欲がまず欲望の針で刺激されなければ、意欲の有効性が弱まるようにするあの創造力の一種である 」           意志の哲学 P,リクール

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from: めるろ〜001さん

2009/03/02 10:48:15

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「Re:Re:認識 とは何か?」
沙羅ちゃん

> ポール、フルキエ
> の認識<哲学講義>、、から抜粋
>
>
> <<知る>>とは、また<<認識>>
>
> とは何を意味するのだろうか?
>
> 知る、とは基礎的所与の一つ、普遍的経験事実の一つであって、それらを定義づけようとするすべての企ては空しく無益のように思われる。
> 空しいというのは、それを定義しようとすれば、どうしても、他のそれ自身定義されるべき同じような用語によらなければならないからである。

これは仏教における、「空」と同じ地平を行きますね。

「空」はあるのだけれど、定まらない、否、定まった定義の下には
収まりきれない要素を含んでいる。

例えば、「そら」を区切ってみる。
「そら」は、どこで区切ってもどんな形で区切っても、
その区切りの外で、「そら」がある。
たとえば、地平線で区切ってみても、一度にこれは「そら」です。
と指すことは出来ない。

定義というのは、指すことが出来ないと、定義が定まらないのですね。
海も同様です。
どこ区切ると、海と呼べるのでしょうか?
現在の領土問題にしても、自然の中でどのように区切られているのでしょうか?
現在の地図では、どこかの地点を決めて、そこからの緯度や軽度によって区切られている。
(しかし、国家間には微妙な違いがありますが・・。)

だからといって、自然の中で、海は、ここが区切りであるというところは見当たらない。

地上であれば、一部に、国境が線引かれ、国境警備隊などが警備している。
朝鮮半島、ガザとイスラエル、万里の長城、が代表例でしょう。
あとは、山脈の峰で区切ったり、河川で区切ったりしている。
それとて、すべてが明確になっているわけではない。

「空(くう)」の代表例は、「そら」と「うみ」ですね。
「空海(くうかい)」という名づけは、仏教の中心思想であり、龍樹が論理的に明確に示そうとした「空(くう)」が一番表現されている自然の対象である。それで、空海と命名したのか?
と憶測するのですね。

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from: 沙羅さん

2009/03/02 02:57:33

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「Re:認識 とは何か?」
いやはや、、ぽりぽり

まいりましたねえ、

新しいブログだし、誰もまだ覗かないと
思うから、適当に手を抜きながら、、
とか、思っていました、、、

やぁーなんか書かないといけないかしらぁー?
うぅぅん、、

しょうがないから、2,3日前にメイルの内容でも又書こうかしら? 
ポール、フルキエ
の認識<哲学講義>、、から抜粋


<<知る>>とは、また<<認識>>

とは何を意味するのだろうか?

知る、とは基礎的所与の一つ、普遍的経験事実の一つであって、それらを定義づけようとするすべての企ては空しく無益のように思われる。
空しいというのは、それを定義しようとすれば、どうしても、他のそれ自身定義されるべき同じような用語によらなければならないからである。

この指摘はラランドの
『精神のまえに、真もしくは実在の思考の対象を現前させること』
と言う定義と相通じる。
この現前<プレザンスPRESENCE>は、授業への出席<プレザンスPRESENCE>とは、違い、認識形式上のものである。

<<<この箇所、ちょっと付属しますね。

教室で、先生が出席している生徒を確認する時、
出席簿の名前を上から普通呼びますよね?

「相田さん」先生、、、、ハイ{生徒}
 「秋田さん」先生、、、、ハイ:生徒}
  「天野さん」先生、、、、ハイ{生徒」

仏語の会話では、

この、生徒が応える
         「ハイ!」という応えが
          {PRESENTプレザン」という応え方なんですね。先生と生徒の応答の仕方が興味深いですよねえぇ

ただ  ハイ ではなく、

出席してます、、という意味あいなんでしょうが、

直訳すると、「現前」してます、、という応えに繋がるんですよねえ、、不思議だと思いませんか?
まあ、そういう日常会話がなされているから、哲学では、このような追記がされて説明されるのでしょう。

話、もとい
こうして、我々は、遅かれ早かれ、定義しようとしていた知識に至ることになるわけだ。
無益だというのは、我々はすべて、ある人物を知るとか、ラジオが伝えるニュースを知るとはどういうことか、ということをよく承知しているからである。


類比

認識の精神的な働きをある種の類推が成り立つ物質界の諸事実になぞらえることができる・
知る事のさまざまな形式を示すために用いられ語録を思い浮かべるといい。
それらは一般に、知る主体と、知られる対象との関係をあらわしている。

  <同化>この関係は所有関係[本来の意味では動詞の【知覚するpercevoir】としてとらえられる。しかしその所有とは、物質的な財貨の所有とは違った、内的なものである。
<不消化な知識>が十分な同化によって真の認識をなす知識と対比させられるのである。

  <表象>それと反対に、精神とは独立な客観的実在に向けられた精神の態度を指示する他の言葉である。
それが、表象<REPRESENTATION><再現>の場合である。認識はまず、【呈示】からいっそう正確には対象に向う行為からはじまる、ついでその対象を、<表象>する、つまりそれを再現前させる。
心のうちにではなく、心のまえにである。すなわち、表象とはみずから対象を現前させることである。もっとも、ここでも<現前>と<表象>とは本来の意味ではなく類比的な意味に解く。すなわち
対象への<現前>も、精神へのその<再現><表象>つまり認識も、非物質的秩序に属して、物質的的秩序に属するのではない。

疲れたから、次回にします。








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