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from: めるろ〜001さん
2009/10/26 06:03:00
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タカギさんようこそ。
タカギさんようこそ。ここは、自由闊達な文章の中から、真理への道を探る部屋になります。管理人のHNの「めるろ〜」は、1995年から使い続けているHNで、
タカギさんようこそ。
ここは、自由闊達な文章の中から、真理への道を探る部屋になります。
管理人のHNの「めるろ〜」は、1995年から使い続けている
HNで、フランスの哲学者、モーリス・メルロー・ポンティから
採っています。
ここでは、少々漢字が違おうが、仮名が違おうが気にしないところです。
問題は発言者の意味を知ることが大事だと思うからです。
文字が大事なのではなく、文字の先が大事なのです。
それが本質になるからですね。
文字は入り口に過ぎません。
堅いことも書きますが、結構自由に書いていただければ幸いです。
管理人:めるろ〜001より
PS:
「001」は、マイクロソフトジャパンが勝手につけた数字です。
「一番最初のめるろ〜」という意味になるでしょう。
偽者がいたということでしょうね。
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from: 沙羅さん
2009/10/28 21:11:38
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「Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんようこそ。」
タカギさん
拝読しました。
色々考えて〜・・・・
生きる欲望ってなんでしょう?
生きたい・・・と思わされる欲望ってなんでしょう?
とか思うのです。
それと、
ただ死なないから生きてる・・・
ただ、、普通に来たら、生きてるから生きてるってなんでしょう?・・・・・と、考えるんです。
生きたい
と
生きてる
というこの二つの言葉は、違う意味を含んでいるのじゃないか?
と色々考えるんです。
生きたいから生きてる
生きたくないけど生きてる
どうでもいいけど生きてる
この3種類の表現の違いは何処からくるのかしら?とかわたくし考えるんです。
そうすると、多分人間は、生きてるから生きてる・・・という
表現じゃなくて、生かされてるから生きてるというのも違って、生きたいから生きてるという、、、という感情を感じさせられる何か目的みたいなものが、ないとドンドン、時間を後ろから追いかけていくようになって、ドンドン現象を受動的に感受するだけになって、ドンドン自分の生まれた存在性が見えなくなって、
ドンドン、現実社会に生きる人々へ、執着しなくなって、
人間と話していても、仕方ないからと思うようになって、何か自分が一生懸命面白いと思えるものを探そう・・・と思って
AMAZONのブックの検索などしたりしますよね〜?
これも、一つの哲学している・・という行動のパターンではないか?と思うのです。
哲学という記号だけ理解すると、
哲学は、なんだか難しい言葉ですが・・・
知職や認識ではなく、
哲学は日本語ですから てつがく・・・という音で 哲学を想像して、あ〜〜むつかしそうだなあ〜・・と一般人は考えるみたいですが、
アルファベットは、フィロ+ソフィーという音素を聞いて
あ〜〜フィロ、ソフィー・・・ね・・と判断するんです。
フィロという音素は、ラテン語では 友 という意味を含む
PHILOSフィロ から来ているそうなんです。ソフィーという音素は、 SOPHIE,ソフィーで、ラテン語のサピエンティア(智慧や賢者)で、SAPIENTIA と記すようなんですが、
日本語でも通用する、ホモサピエンス という音素の
サピエンス(知恵、賢慮) と フィロソフィーのソフィーは、同類言語だそうです。
P の音素が、カタカナのパピプペポになるので、関係性が見えないのですが、P の音素は、ハ行の音素なので、アルファベットを母国語にしている民族は、それほど、哲学フィロソフィー(智慧の友だち)と聞いても、難しい認識・・という感じをもたないんです
むしろ、ソフィーという音素の名前の女の子はワンサ、、笑と
いますから、なんだか、「ソフィーちゃんのお友達」
という意味が 日本語では、哲学・・・@@ という音素によって、普遍化されるのですから、
一般性、大衆化の波に全然、追いつきません。
哲学というイメージが悪すぎるのだと思うのです。
哲は 鉄、徹・・・ですしね?
誰が、こんな堅苦しい名前を、最初考えたのでしょうね?
実際思考はすでに哲学思考しているのに、自分では哲学してないと、思っていたりするらしいんですよね。
智慧、叡智の友 という意味がフィロソフィーなのですから・・・
という事でして、なんだかややっこしい説明になったのですが、
中学生の学校の授業の科目にはないですけど、
何故?
人々は、あの人は美人だとか、あの人は、かっこ悪いとか
あの人は、堅実そうだとか、あの人は、意地悪そうだ・・とか、
あの人は横柄だとか、・・・・・
判断するのでしょうか?・・・・という疑問は中学生達を相手に話すと質問がでてくるようです。
本棚に、中学生達と、ある哲学教授の対話形式でおこなう哲学の授業の様子が記録として書かれている本があるのですが、
対象年齢は中学生です。
どのような議題が中学生という年齢の子供達の頭にあるのか、議題のテーマだけ少しひろってみます。
一人で生きる事はできるのか?
友だちって何?
何故?どんな理由があって、愛が必要なのか?
死は、本当に最後、全ての事の終わりを示す事なのか?
戦争って何?
わたし達は、ほんとに自由なの?
何が?真実なの?
何が?正義なの?
何が美で何が醜なのか?
何故?夢を見るの?
科学は、本当に、全てを説明できるの?
わたし達は、欲しいと思ったら、本当に何でも買えるの?
読むと、熟考するの違いは? ETC
何ですが〜・・・・学校授業の科目に哲学はないのですが、
実際、彼らの思考には上記のような疑問があるらしいんですね。
その疑問にたいして、子供達だけで、ダイアローグさせて、
先生は、方向性だけみて、あまり派生的にすすむ時だけ
説明を加えるのですが、あくまでも、主役は子供達なんです。
それで、こういう話を、友だち達との間でするのが、おもしろい・・・という反応が得られるんですね。
上から知職ばかりを勉強させられて、植えつけさせる他の科目授業より
自分で思っている事を話して、皆がそれなり応えてくるのが、面白いらしいんですね。先生はほとんど、聞いてるだけですし、
皆が、皆で思っている事、考えて入る事を、放って、それに自分なりに考えている事を放ってみる。そのようなやり取りの場が面白い・・・と子供達は感じるようなんです。
そういうコミュニケートの場つくりを提供したり、また参加するのも、知の友
フィロソフィーだと思いますし、そのように、他者達と自分の関係が観得て自分という人間の存在、、他者に関わっている自分は、
「何故?
こんなところで、パソコン叩いているねん?」笑
疑問を持つ事も、フィロソフィー、哲学していると言えると思えます。
フーコーという哲学教授がまだ高校教師のころ、
「ボクは、何も君達には教えないよ・・・哲学は知職じゃない・・・哲学は全てを問題とする、、反省の方法だ』・・・と言って、哲学授業は何も、先生は話さないそうですよ・・・・・・笑
まあ、そんな状態で、誰も何も教えてくれないので、自分で回りの友だちと、色々関係を結びながら、友情や喧嘩や、恋愛や別離、試練、苦悩などなど、、、成長過程で、出会う全てのことは、人間的成長の糧になると思うのです。多分それは何か?具体的な知職や敬虔をするという事ではなく、そのような行動によって、対象を広く、深く知る・・・・というあらゆる思考手段の応用や柔軟性を身につけるという事だと思うのです。
そうこうしている過程の上においては、あまり、死なないから生きている・・・と言う考えはあんまり浮かばないような気がするんですね。
でも、タカギさんの仰る内容の意味は分りますし、ある意味大多数のタカギさんのような年代の方が持っている考えに思えます。
まあ、哲学ではなく、「知恵ちゃんのお友達」・・・みたいな感覚だと
それほど、かしこまって、何かするという考えにはならない・・というのが、哲学を考えるとか哲学を身につける・・とかいう表現になるのだと思うのです。
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タカギ、