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from: yeshangさん
2011/04/09 03:25:08
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日本、私の地方の葬儀について(雑感)
私の地方は葬儀はほとんどが仏式で、私の街は高野山のふもとですので真言宗が大半です。
そこでお坊さんに唱えてもらうお経は、般若心経、理趣経、真言陀羅尼などです。
ところで、よく思うのですが、般若心経も理趣経もどうもあの世に行く人のお経でなくこの世の人のためのお経に思えてならないのです。
空の理を悟るのは死んだからできるものではないし、理趣の教えは現生を肯定する、煩悩と生臭さを見つめてその中に真実を見極めようとするような死んでからでは手遅れのようなお経。
これらは現実に生きている人間が聞いて思い、考え、実践する内容だと思っています。
死んだ人には、この世に未練を切って、御苦労さま、後は心配なく、あの世への道を間違いなく、仏様が迎えに来てくれるのでよろしくといったようなお経がないものかと思うことがあります。
ただ、信者が唱える和賛の唱和は平文で死者に対する内容なので納得できるものです。-
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コメント: 全1件
from: 沙羅さん
2011/04/09 05:51:12
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「Re:日本、私の地方の葬儀について(雑感)」
こんにちは yeshangさん
そこでお坊さんに唱えてもらうお経は、般若心経、理趣経、真言陀羅尼などです。 > ところで、よく思うのですが、般若心経も理趣経もどうもあの世に行く人のお経でなくこの世の人のためのお経に思えてならないのです。 > >
お経もそう思われるのですね、、興味深いです。
いえ!、音楽を奏でる立場というのは、どうしても心を篭めないと、伝わらないんですよね。
自分が、その曲なり歌詞なりを、理解し心を篭め、主体として、表現力を問われるという事なので、
いつも、ちぐはぐに思うのが、宗教曲の題名やタイトルの日本語訳なんです。
例えばですが、レクイエムと呼ばれる宗教音楽があるのですが
、レクイエムが、鎮魂歌であったり、死者の為のミサ曲と訳されるのが多いのです。
モーツアルトのレクイエムを、弾いたり、歌ったりすると、自分が死に逝く主体表現になっているんですね。
歌詞だけでなく、音律とか、、音調とか、そういったものからなんです。
鎮魂歌と表すと、誰かが、死者を慰める、、という客体の表現になっているので、死者の為のミサ曲、、などと訳されているのだと思うのです。
思うのですが、死 に逝く魂に自分の心を重ねるという、主体の叫びなんですね。
死は、他人ではなく、自分の事として、死の立場に立つ、という気持ちでないと、心が篭らないと思うのです。
芸術鑑賞という言葉があるので、どうしても、鑑賞するという受身側で、感受する事になれてしまうのでしょうか?
しかし、作曲する側は、その者になりきらないと、創作活動は出来ないはずですから、どうしても、主体の発信という立場に立つと思うのです。
死の魂を慰めるというのは、死者とは、他者扱いになってしまいますものね。死者がかわいそう、、と思うのも、他者だから思うのでしょう、、と思うのです。
死者の事を本当に思うという事は「、かわいそう」、、という感情は生まれないと思うのですね。
死を他人事として捉えてしまう、、、という事なのかもしれません。
死者だけでなく、何でも他人事と捉えるという気持ちで、生きてしまうと、その他者の心を理解したり、感じたり、他者の気持ちや感情を共にするという他者との関係性が薄くなるのかもしれません。
お経も多分、客観の立場に立って想起されたものではないのでしょうね。
その者自身になって、創られたものなんでしょうと思います。
意味はわからなくても、、同じお経読んでもらっても、人によって全然違う感情がわきますから、やはり、心作用が、音に介され、伝わってくるのだと思うのです。
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