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from: 改革フォーラムさん

2011年11月23日 17時46分10秒

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池田大作 日本経済乗っ取りの野望

池田大作日本経済乗っ取りの野望(4)-創価学会の財政のすべて-会員からしぼりとった金の力で、日本の全面支配へと乗り出す池田大作第1章創価学会の「独自・


池田大作 日本経済乗っ取りの野望(4)
-創価学会の財政のすべて-
会員からしぼりとった金の力で、日本の全面支配へと乗り出す池田大作
第1章
創価学会の「独自・永久路線」推進と、日蓮正宗との摩擦

昭和四十八年から同五十五年まで
絶頂期(昭和四十三年代)「広宣流布したとき首相になり国主になる」 と 公言した池田大作

昭和四十八年は、本来ならば、池田大作と創価学会にとっての輝かしい栄光の年の幕開けになるはずだった。  池田大作が、会長就任直前に打ち出した、“七つの鐘”構想によれば、昭和四十八年から昭和五十四年までを、“第七の鐘”が鳴り終る時期とし、それは正に“広宣流布・王仏冥合”の総仕上げの時期と想定されていた。  昭和四十七年十月に、日蓮大聖人御遺命の“事の戒壇”たるべき正本堂を完成させ、その後の七年間で、“折伏”により、日本国民の過半数を創価学会員とし、選挙で公明党が国会の過半数を占め、政権を奪取する。  その時、池田大作が総理大臣となり、国会の議決で正本堂を“国立戒壇”と定め、最高権力者として大石寺の開かずの門を開き、大御本尊に“広宣流布の報告”をする……。  これが、池田大作が学会員に示しつづけて来た、広宣流布のスケジュールであった。  池田大作が得意の絶頂にあった昭和四十年代の初め頃、ジャーナリストのインタビューに対して、  「(我々は)やろうと思えば、どんなこともできます」 と豪語し、“広宣流布達成”の暁には、自分が、日本において宗教・文化のみならず、政治においても至高の権力になる、と宣言した。  「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」(高瀬広居著「人間革命をめざす池田大作その思想と生き方」より)  「天皇なんか問題になるかよ!!」  今日、世界でただ一人残ったカリスマ的独裁者・北朝鮮の金正日も顔負けの、“絶対権力者宣言”である。  「広宣流布達成の暁には、池田先生が総理大臣になる。“国主”として天皇より上になる。  我々“学会人”は(会員は、自分達をこのように自称して、非会員と区別していた)世の中で、あらゆる所で上になる。  その時は、我々を貧乏人とさげすみ、見下していた連中を見返してやるのだ。  我々は、邪宗の連中を女中や下男として召しつかい、子供の通学の送り迎えもやらせるような身分になる……」  このような妄想を語り合いながら、創価学会員達は、池田大作の示す未来像に酔い、  「正本堂ができるまで!!」 「開かずの門が開くまで!!」 を合言葉に、歯をくいしばって過酷な選挙活動や折伏ノルマに立ち向かっていったのだった。 日常顔を合わせる近隣や会社の人達に、学会員だからと馬鹿にされたり嫌われたりしても卑屈な追従をしながら、腹の中で 「今に見ていろ!! お前達を見下してアゴで使ってやるからな」 と、思いつづけていたのである。  実際、池田大作は、もはや総理大臣気どりで、“閣僚名簿”をつくったりしていたのである。 だが、現実は、そうは問屋がおろさなかった。



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from: 改革フォーラムさん

2012年01月21日 20時25分33秒

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「Re:池田大作 日本経済乗っ取りの野望」
総代会の陰謀、日達上人の覚悟
 
池田大作は、更に、同年一月二十日、関西白浜研修所で総代会を開き、日蓮正宗寺院の総代を務める学会幹部を集めて、日蓮正宗寺院に対する対策を打ち出した。  当然ながら日達猊下は池田のこうした動き、とりわけ記念講演(仏教史観を語る)を重大視された。  「今朝の聖教新聞を読まれて承知していることと思うが、最近宗門と学会の間に冷たい隙間風が吹いてきた感じで困ったことである。宗門としては今後、向こうがどう出てくるかを静観していこうと思う。寺としては、参詣に来る人を大切にし、信仰をすすめ、法門を説いていってもらいたい。また、相手が何を言ってきても腹を立てないようにしてほしい。二、三人で議論するのは良いが、大勢集めて問題を起こさないでほしい。今のところ北陸方面ではだいぶ影響が出てきているようだが、大都会ではいまだそう影響は出ていない。〈中略〉昭和五十四年が学会の創立五十周年に当たる。これを契機にどういう展開になるか判らぬが、この三、四年静観していく。将来、学会と訣別することになるかもしれぬが、その時はその時で去るものは追わず、来る者は拒まぬつもりだ。そしてクルミのごとく堅くじっと古来の正宗の形を守っていこう。その時こそ我々は、自分のもつ力を最大に発揮し折伏して大きくしていこう」(昭和52年1月17日、妙修尼法事饗応=宗務院・学会記録文書)  なお、学会の一連の宗門対策の会合が、東京ではなく、関西で行われていることに注目されたい。  東京には、私をはじめ、短兵急な宗門攻撃に反対すると思われる幹部を残しておいて、攻撃部隊を関西に集めて旗あげをしたのである。  池田大作は、更に自らを超越的な指導者とすべく「創価学会“師”」などの名称を定めた会則案の起草を私達に命じている。宗教法人規則も、なしくずし的に日蓮正宗との関係をうすめ、独立に備えていったのである。


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