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from: 改革フォーラムさん
2010年01月09日 23時30分55秒
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化儀改変破折
池田センセーは正座が大の若手。だから、「五座三座」の勤行が大嫌い。裁判所に提出した証拠書類にも「勤行0分」と記載されていたから、センセーが勤行をしょっちゅうサボっていたことは周知の事実(知らないのは学会批判記事を読まない末端会員くらいか)。だから今回、学会が「五座三座」を廃止し、1回だけの「方便品・自我偈の読誦」と唱題に変更したことに一番喜んでいるのは池田センセーに違いない。信心の基本であるはずの勤行を"怠行"に改変してしまった池田学会は、これからも日蓮正宗の化儀を無視し、池田センセーの都合のよい、つまりセンセーの怠惰な心に従った化儀へと改変していくことでしょう。
●学会の内部資料(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")によれば、池田は昭和45年当時より、五座三座の勤行もまともにしていなかったことが明らかです。
・「十四時二十五分 勤行 十四時三十五分 手紙二通書く」→勤行10分
・「十三時十五分 勤行 十三時二十分 食事 広間 原稿」→勤行5分
・「十一時〇〇分 勤行 十一時〇〇分 離れに行かれる」→勤行0分
・「十四時〇四分 勤行 十四時一〇分 終了 おそば」→勤行6分
(学会が「月刊ペン」裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")
池田の朝の勤行というのは、ほとんど、5・6分、あるいは0分(おそらく題目三唱のみ)といった、呆れ果てた体(てい)たらくなのです。
それ故(ゆえ)、かつて、池田大作が総本山大石寺の法要に参詣(さんけい)した折など、わずかな時間の正座で、すぐに足がしびれて立てなくなるのを、多くの僧俗(そうぞく)が目の当たりにしています。(『慧妙』H16.8.16)-
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コメント: 全3件
from: 改革フォーラムさん
2010年01月10日 10時59分16秒
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「Re:化儀改変破折」
<化法と化儀について>
―日蓮正宗の化儀は、即化法―
―化儀軽んずる学会は謗法団体―
(『慧妙』H20.5.1)
化法とは、仏が衆生を教化するための法、化儀とは、仏が衆生を教化するための儀式、形態という意味です。
これをわかりやすく説明するために、医者と病人と薬の譬(たと)えが用いられます。すなわち、医者とは仏、病人とは衆生、そして、病人に与える種々の薬が化法であり、またその薬をどのように調合し服用せしめるかという処方箋(しょほうせん)に当たるのが化儀、という関係です。
釈尊の仏法においては、衆生の素養に応じて、蔵教・通教・別教・円教という4つの法(化法の四教といいます)を、頓(とん)教・漸(ぜん)教・秘密教・不定(ふじょう)教という4通りの化儀(化儀の四教といいます)を用いて、一代50年間にわたって説法し、衆生を教化されました。
その一々を本項で説明することは、紙面の都合上省略させていただきますが、この釈尊の仏法における化法の四教と化儀の四教は、本已有善の衆生の機根を整えるために用いられた内容であります。
一方、日蓮大聖人の下種仏法においては、本未有善の衆生に対する教化であり、化法とは文底独一本門の法、化儀とは下種仏法の執行、表明を意味します。
第9世日有上人は、
「当宗は第一化儀なり」(『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富要集』第1巻198頁)
と仰せられ、第31世日因上人はこれを、
「第一化儀とは当宗化儀即仏法なるが故に」(同頁)
と釈されていますが、大聖人の仏法においては化儀即化法となります。
すなわち、日蓮正宗における儀式法要・修行等の一切の化儀は、ことごとくが化法であり、その表明でありますから、けっして軽んじるようなことがあってはいけません。
私達は、化儀の方式に信順するところに、おのずと大聖人の仏法に則(のっと)った信心を行じていくことができ、利益を頂戴(ちょうだい)することができるのであります。
池田創価学会では、日蓮正宗の信徒団体であった頃より、寺院で奉修される法要を軽視していました。事実、大聖人に対し奉る御報恩のために奉修されている御講も、また宗門で最重要の法要である御会式も、その意義もさることながら、そういう法要が奉修されていることすら知らない会員が、数多くいたのです。
このように化儀を軽んじていた在(あ)り方が、大聖人の甚深の化法を軽んじることになっており、そのなれの果てが今日の大謗法化である、ということを思えば、納得がいくというものであります(今では、朝夕の勤行式まで、自分達の懈怠〈けだい〉の心に任せて簡略化してしまっています)。
また、化法を、その時代に即した形で御指南されるのは、唯授一人の血脈を受けられた時の御法主上人であります。
たとえば、日興上人が『遺誡置文』に、
「若輩(じゃくはい)たりと雖(いえど)も高位の檀那より末座に居(お)くべからざる事」(御書1885頁)
と仰せられ、「たとえ若いお小僧さんやお所化さんであっても、高位の檀信徒より末座に座らせてはいけない」と示されていることや、また、日有上人が『化儀抄』の中で、
「貴賎道俗(きせんどうぞく)の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何
(いず)れも同等なり、然れども竹に上下の節(ふし)の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(聖典973頁)
と仰せられて、「信心に励む人は貴賎道俗の差別なく、平等に成仏できる。しかし、僧俗には立場の違い、上下関係があり、それを乱してはいけない」と定められているのも、その立場からの御指南です。
それを、池田創価学会では、
「信心している人は本質的に平等であることが示されている。これは化法に該当する」「(『竹に上下の節のあるがごとく……』の御文について)これは、化儀の上での区別を示したものである」「化儀の上での区別は化法の不変に比べて、第2次的なものであり」云云
と、自分達の都合に合わせて化法と化儀を切り離し、また「化儀は2次的なもの」と軽視する論を展開した上で、「あくまでも僧俗は平等である。差別があると説くのは、権威主義である」という暴論をもって日蓮正宗を誹謗(ひぼう)してきました。
しかし、先程から述べているように、日蓮正宗の化儀は、化法に裏打ちされたもの、化法を現実化したものであり、化法から独立した化儀というのはありえません。その化儀を軽んじること自体が、大聖人の仏法に対する誹謗となることを、よくよく肝(きも)に銘(めい)ずるべきであります。
私達は、大聖人の甚深の仏法を、700年来変わることなく、儀式法要の上に顕わし、またその時々において御法主上人が御指南くださっていることに、心から感謝申し上げ、日蓮正宗の化儀に則った正しい修行に精進していきたいものです。
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from: 改革フォーラムさん
2010年01月10日 10時52分01秒
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「Re:化儀改変破折」
化儀と血脈
【化儀即化法】
●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
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大聖人の下種仏法においては、化法とは下種独一本門の法体とそれに基づく教義・教学であり、化儀とは下種仏法の執行、表明を意味する。(『大日蓮』H3.4)
●宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由って口唱本果の究竟を得(『本因妙抄』全集870頁)
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「所作の究竟なり」とは、本尊受持の一行をいうのであるが、それはまさに化儀であり、化法の執行に当たる。この化儀によって、化法の究竟たる法体の本尊と冥合し、妙法の当体蓮華の実果を得るのである。すなわち、化儀によらなければ化法を執行、表明することはできないのである。(『大日蓮』H3.4)
●曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻112頁)
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大聖人様は、御自身が証得あそばされた御境涯を御本尊として御図顕されるとともに、御本仏の御修行を、初心の行者が同じように振る舞うことができるようにお示しくだされた。このことを、『化儀抄』第73条には、「法花宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立」(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻71頁)といわれている。したがって日蓮正宗の化儀は、単なる形式ではない。大聖人様の御法門を、日々の所作や振る舞いの中に具現させる「行体・布教の要」なのである。(『大白法』)
●当宗化儀即仏法なるが故に謗法宗の化儀の同ずべからざるなり、若し謗法に同ぜばよどうざいなるべし(第31世日因上人『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻198頁)
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これは、まさしく化儀即法体なることを御教示されたものである。すなわち、当宗における法要、修行、荘厳式などの一切の化儀は、即法体たる妙法蓮華経(化法)であり、その表明なのである。(『大日蓮』H3.4)
したがって日蓮正宗の化儀は、単なる形式ではない。大聖人様の御法門を、日々の所作や振る舞いの中に具現させる「行体・布教の要」なのである。
また、化儀の軽視は、信心や生活の乱れとなり、ついには法門軽視につながるゆえに、化儀を正しく学び行うことが大切なのである。(『大白法』)
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●仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(『一生成仏抄』全集383頁)
●七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじき(飲食)をととのへて母のく(苦)をはすくうべしと云云(中略)目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す(『盂蘭盆御書』全集1428頁)
●六念の事 念仏念法念僧念戒念施念天なり。 御義口伝に云はく、念仏とは唯我一人の導師なり(三座・大聖人)、念法とは滅後は題目の五字なり(二座)、念僧とは末法にては凡夫僧なり(三座・日興上人以下御歴代上人)、念戒とは是名持戒なり(四座)、念施とは一切衆生に題目を授与するなり(五座)、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意なり(初座)。末法当今の行者の上なり。之を思ふべきなり云云(カッコ内は筆者)(『御義口伝』御書1798頁、全集785頁〜)
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五座の意義の原点と拝すべき御指南(『慧妙』H14.6.16)。
●又某を恋しくおはせん時は日日に日を拝ませ給へ・某は日に一度・天の日に影をうつす者にて候、(『新池御書』全集1444頁)
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初座において東天を拝む化儀の根拠となる文証だそうである。
<化法と化儀について>参照
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from: 改革フォーラムさん
2010年01月12日 16時12分30秒
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「Re:化儀改変破折」
【信心の血脈】
●総じて日蓮が弟子檀那等・・・信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり(『生死一大事血脈抄』全集1337頁〜)
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「総じて」「信心の血脈」とあるように、『生死一大事血脈抄』は、総じての信心の血脈についての御指南である。
1●日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(『生死一大事血脈抄』全集1337頁)
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「弟子檀那等」とあるように、「弟子」である御僧侶と「檀那」である信徒が「異体同心」のところに、総じての信心の血脈が流れ通う。
●只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ(『生死一大事血脈抄』全集1338頁)
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「釈迦多宝上行菩薩血脈相承」とあるように、生死一大事の血脈は、釈尊から上行菩薩への別付嘱に由来する。そして、この別付嘱は末法においては唯授一人の血脈として、日興上人をはじめとする歴代上人に伝わっている。↓
2●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、(中略)血脈の次第 日蓮日興(『身延相承書』全集1600頁)
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、末法においては唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている(<血脈相伝の体>参照)。
「生死一大事の血脈」とは、釈尊→上行菩薩(大聖人)→日興上人→日目上人→と続く別付嘱に由来。だから別付嘱を受けられた方への同心によって流れ通う。
【師弟相対の信心】(<「大聖人直結」破折>参照)
師弟の道の大切な教えとして、師弟不二(師弟の心が一つになること)・師弟相対(弟子が師に随順して仏道を歩むこと)などの大切な筋道がある。この師弟の道を正して仏道修行することが成仏の直道である。逆に師弟の道からはずれることは、師敵対の振る舞いで堕獄の因となる。
●法華に云く「悪知識を捨て善友に親近せよ」文、止観に云く「師に値わざれば邪慧日に増し生死月に甚し稠林に曲木を曵くが如く出づる期有こと無けん」云云、凡そ世間の沙汰尚以て他人に談合す況んや出世の深理寧ろ輙く自己を本分とせんや(『蓮盛抄』全集153頁)
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「悪知識を捨て善友に親近せよ」とあるのだから、「師に値わざれば邪慧日に増し」の「師」とは「親近」すべき善知識である。ということは、現に生きておられる方である。
●日蓮・法華経の行者となつて善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや、日蓮は草木の如く師匠は大地の如し、(中略)日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず(『華果成就御書』全集900頁)
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「日蓮は草木の如く師匠は大地の如し」の「師匠」とは「道善房」のことである。だから一般論としての「師弟相違せばなに事も成べからず」という御指南の「師」とは、大聖人のことではなく、直接の師匠である。
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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大聖人滅後は、付法の弟子である日興上人が門下全体の師となる。現在の師を無視して"大聖人直結""大聖人の直弟子"などと言う者は「非法の衆」である。
●師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮花経(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻64頁)
●信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其の筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是れ三途の業因と文。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻64頁)
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「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事」この御文をもって学会は、信があれば血脈が流れると主張しています。しかし、これは切り文である。すなわち「出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり」とあるように、師匠である御法主上人の御指南のままに信じてこそ、「高祖已来の信心を違へざる」こととなり「我れ等が色心妙法蓮花経の色心」となるのである。唯授一人の血脈に対する信を根本とした師弟相対の信心の重要性については、『有師化儀抄』の各所に述べられているところである。
●手続の師匠の所は、三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。また我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是を即身成仏と云ふなり(第9世日有上人・化儀抄『富士宗学要集』1巻61頁)
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「手続の師匠」とは直接の師匠(一般僧侶にとっては御法主上人)のことである。「もぬける」とは、蛇などの脱皮のこと。日達上人は「師匠は三世諸仏や、大聖人已来、歴代の法主上人の御心がぬけられて、師匠のところに来ている」(『日興遺誡置文・日有師化儀抄略解』)と仰せである。
日有上人は「我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし」と仰せである。その理由は「手続の師匠」(時の御法主上人)は「三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故」だからである。「代々上人」とは唯授一人血脈相承を受けられた大石寺歴代上人であることは『産湯相承書』や『百六箇抄』などからも明らか。
●此の師弟の相対的の関係に於て、仏法を拝するといふのが仏法の極意であります(中略)若し此れ等のことを考へずに仏法を論ずるならば、最早仏法ではないと言ふべきであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1153頁)
<御法主上人→末寺住職→信徒という筋目>
信心の血脈は、「日蓮一期の弘法」(上記2●)を「付属」(同)された方(唯授一人血脈付法の方)を中心として「弟子檀那」(上記1●)が「異体同心」(1●)のところに流れ通う。しかし、弟子檀那すべてが直接、血脈付法の方に御仕えすることはできない。だから、一般信徒は、時の正師(血脈付法の方)より命を受けた末寺住職を解悟の智識と憑(たの)むことによて、血脈が流れ通うのである。
●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし(中略)此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし(『新池御書』全集1443頁〜)
●自今以後は、師をさだめて、講衆にも、一とうせられ候べし。この法門は、師・弟子をただして、仏になる法門にて候なり。師・弟子だにも、違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に落ち候也。うちこし・うちこし直の御弟子と申す族(やから)が、聖人の御時候しあひだ本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す族(やから)多く候、此等の人は謗法にて候也(第2祖日興上人『佐渡国法華講衆御返事』/聖教文庫『富士日興上人詳伝下』245、261頁、『歴代法主全書』第1巻182頁〜)
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大聖人が本弟子6人を定められたのは「その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずるため」と仰せになっている。そして「末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す」ことが「謗法」であると断言されている。これを彼の波木井実長の立場で言えば、波木梨は日興上人の弟子であって、大聖人の直弟子ではない、ということ。それを無視して「聖人の直の御弟子と申す」ことは「謗法」となるのである。大聖人の時代であっても大聖人→本弟子→末弟→信徒という師・弟子の筋目が守られていたことが分かる。
●日仙上人は、師の日華上人とともに修験より御開山門下に改衣せしが、また大聖人の弟子に進まれた。(中略)日郷上人は目師の弟子のままであり・・・(『富士日興上人詳伝(下)』143頁)
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日興上人に折伏された方は日興上人の弟子であり、大聖人の直弟子ではない。日目上人に折伏された方も日目上人の弟子であって、大聖人の直弟子ではない。このように、師弟関係には厳しい筋目が存在する。日仙上人が「大聖人の弟子に進まれた」というのも、師である日華上人の允可があったればこそ許されたことなのであろう。自分勝手に、師を変えることは、『佐渡国法華講衆御返事』において日興上人が厳戒されるところである。
●私ノ檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云フ義は有るべからざるなり (第9世日有上人『富士宗学要集』第1巻247頁)
●此ハ師檀の因縁を示す檀那ハ是俗ノ弟子なり、故ニ師弟血脈相続なくしては即身成仏に非す、況や我が師匠に違背せるの檀那ハ必定堕獄なり(第31世日因上人『富士宗学要集』第1巻247頁)
●手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く々取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻61頁)
●信者門徒より来る一切の酒をば当住持始めらるべし、只し月見二度花見等計り児の始めらるゝなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給ふ姿なり。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻62頁)
●弟子檀那の供養をば先づ其の所の住持の御目にかけて住持の義に依つて仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師々々は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たまふ所が諸仏聖者の見たまふ所なり。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻63頁)
●信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり(『生死一大事血脈抄』全集1338頁)
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信心の血脈が通わなければ、池田大作を師とし、如何に御書の通りに化儀を定め実践しても、無益なのである。しかして上記【信心の血脈】に明らかなように、信心の血脈は、唯授一人の血脈を根本としたところに成り立つものである。そうであれば、師弟相対の信心もまた、唯授一人の血脈を根本とする振る舞いでなければならない。
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